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まち、商店街

今高齢化・人口減少の時代を迎え全国のまちや商店街は、特に地方都市の中心市街地や大都市でも近隣型、地域型と呼ばれる商店街は疲弊が激しい。かって都市の顔と呼ばれていたが見るもない中心市街地や商店街が増えてきた。それは、地域や都市そのモノが疲弊しているからに他ならない。それに追い討ちをかけるように郊外に大型店が出店している。全国の商店街やまちづくり団体は懸命にこれらに対処しようとしています。これらの取り組みを紹介してゆきたいと思います。


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たいとう歴史都市研究会  [2016年07月31日(Sun)]
たいとう歴史都市研究会  副理事長 椎原晶子氏 設立: 2003年
 昨日は、街なか研に参加、NPOたいとう歴史都市研究会の椎原さんに、そのコンセプトや運営についてお話を伺いし、上野桜木界隈をまち歩きをしてきた。
 たいとう歴史都市研究会は、上野・谷中・浅草界隈の歴史あるまちと建物、文化を生かした、まちづくりや歴史的建造物を活かす活動を行っている。
谷中墓地の南側、上野桜木の純木造民家3棟を、天然酵母のビアホール、手作りパン、塩とオリーブオイルのお店とヴィンテージのアパレルショップ、現代アートの事務所、建築家の住居などが集まる複合施設としてリノベーションした「上野桜木あたり」。純木造の空き家が、地域を活性化するおしゃれなスポットに変身。2015年のグッドデザイン賞も受賞した。また、たいとう歴史都市研究会では、市田邸や間間間(さんげんま)、カヤバ珈琲、平櫛田中邸など、谷中で様々な建物を建物保全活用しています。
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ナポリピッツァのお店 [2016年07月29日(Fri)]
ナポリピッツァのお店
ピザの一種で和製イタリア語。イタリア語では Pizza Napoletana で、日本語ではこれに由来する「ピッツァ・ナポレターナ」と呼ばれる。
文字通りナポリのピザと言う意味で、ナポリでは伝統的なピザの材料や製造方法が「真のナポリピッツァ協会(Associazione Vera Pizza Napoletana)」と「ナポリピッツァ職人協会(Associazione Pizzaiuoli Napoletani)」により定められていて、日本でもナポリピッツァの専門レストランなどがある。ナポリピッツァの特徴のひとつに、コルニチョーネがある。コルニチョーネはピザの縁の部分のことで、ナポリピッツァでは厚く、空気が熱で膨張して土手のように膨らんでいる。 
このナポリピッツアの専門店グランデバッボが、亀戸の天神様の近くにある。グランデバッボでは、本場ナポリを代表するピッツア窯メーカー「マリオ・アクント社」の薪窯を使っている。全て天然の薪を燃やす炎によって、炉の内部は常に400度〜500度に保たれている。ピッツアに使用している小麦粉はイタリアのピッツア専用小麦粉ポルセッリクラシカで小麦本来の味が楽しめる。焼き上がったピッツア生地は微かに薪の香りがし、表面はパリパリ、中はモッチリで、ボリュームがある。今回ランチ千円でお伺いして、マルゲリータ、大葉などをいただいてきた。

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佐竹商店街の歴史 2 [2016年07月27日(Wed)]
佐竹商店街の歴史 2
昭和十六年(1941年)太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗りつぶされ、消費生活は徐々に狭められ、統制経済が進み、物資は軍事優先に使われ主な生活必需品は配給制度となり、企業整備の名のもとに、小売業は不要とされ閉店を促し、事業主・従業員は軍需工場に徴用され、商店街は火の消えたようになった。
昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失した。終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で往事の賑やかさを取り戻しました。昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠が出演した。その頃、商店街には店員も多く、商店街内で野球チームが3から4チーム出来ていた。昭和三十五年(1960年)には協同組合を結成、さらに三十八年(1963年)には振興組合に改組した。昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え台東区台東と変わりったが、佐竹の名は町会名及び商店街として残った。 また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードが完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、都内屈指の商店街として完成した。
また、当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスは買い物客であふれ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われた。昭和五十一年(1976年)夏に「秋田まつり」のタイトルで夏祭りを実施し企画部員が竿灯を製作して、竿灯の演技も披露した。数年後の「秋田まつり」では、秋田市のご協力で本場の実物の竿灯を寄贈いただき、秋田市の職員による竿灯演技も行われた。

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佐竹商店街の歴史 1 [2016年07月27日(Wed)]
佐竹商店街の歴史 1
秋田藩の佐竹右京太夫の江戸屋敷は、上屋敷・中屋敷・下屋敷などがあり、上屋敷は当初内神田(現千代田区神田)にあった。しかし天和二年(1682年)八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失し、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転した。
 明治維新後の廃藩置県で秋田藩そのものが消失した。明治十七年(1884年)頃から民間に貸下げられ民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、佐竹の商店街の萌芽が形成された。年を経るごとに盛り場娯楽街として発展し、 かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のように店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになった。 近郷近在や遠方からも人々が集まり、夜更けまで殷賑を極めまた。
明治中期になり、日本の都市化、産業化の発展につれて、全国の主要都市では商店街の組織化が進んでいった。明治28年ごろに形成された金沢市片町をはじめ、31年には竹盛会(佐竹本通商店街)、36年には長崎市の浜市、37年には心勇会(心斎橋筋商店街)、38年には大分市の尚栄会、40年には東京の小川町連合会、京都の新京極連合会、横浜の馬車道商栄会が設立された。次いで明治42年には東京の人形町商誠会、横浜の伊勢佐木一丁目・二丁目会が、43年には心斎橋筋・戎橋筋連合会や栄商会(道頓堀商店街)、44年には三泉市場通商店街(大阪大正区)、45年には共栄会(渋谷道玄坂商店街)等が続々と設立されていった。大正初期には戸数3,813戸、人口1万2千名にまで膨張、下町佐竹は明治から大正時代にかけての黄金時代を築いた。
大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域は、一面の焼け野が原と化した。罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどになった。昭和十一年(1936年)東京市の調査では店舗は全部で116店、約半数の63店が衣料関係品店、食料品店14店、その他の店39店であった。

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東武 亀戸線リバイバルカラー車両 運転 [2016年07月26日(Tue)]
東武 亀戸線リバイバルカラー車両 運転
東武鉄道は、昭和30年代の「標準色」リバイバルカラー車両を2016年3月23日(水)から開始した。対象車両は、8000系2両編成1本(8577編成)、運転区間は、亀戸線(曳舟〜亀戸間)と大師線(西新井〜大師前間)での運転である。
リバイバルカラー車両運転記念として「亀戸線スタンプラリー」が行われている
○開催期間 平成28年年7月23日(土)〜10月31日(月)
○参加方法 スタンプ設置駅で配布しているスタンプ台紙を手にいれて参加。
○スタンプ設置場所 亀戸線の全5駅に設置 ・曳舟駅 ・小村井駅 ・東あずま駅
・亀戸水神駅 ・亀戸駅
スタンプ・台紙は亀戸線の駅係員や乗務員によるデザインで、台紙は各駅の改札付近の写真ととも に亀戸線を走る列車のイラストを配置して、全体的に懐かしさを感じるデザインとなっている。スタ ンプは亀戸線を走る列車とそれぞれの駅舎を表現している。
○プレゼント 5種類の全てのスタンプを集めた先着1,000名様に「オリジナル電車カード」2種をプレゼント
○プレゼント引換場所 ・東武グループツーリストプラザ(東京ソラマチレジスタードマークイーストヤード5F) 営業時間 10:00〜21:00(プレゼント引換は20:00まで) ※プレゼントの引換は、お一人様1回までで、なくなり次第終了。
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東向島駅前商店街サマーフェスタ [2016年07月24日(Sun)]
東向島駅前商店街サマーフェスタ
同商店街では寺島なす復活プロジェクト 〜東向島駅を降りたらそこは《寺島なすのふるさと》だったをテーマに、江戸伝統野菜「寺島なす」を復活させ、活用することを通して、商店街と街全体を盛り上げている。東向島駅周辺でのなすのプランター栽培や街歩きツアーといった取組の他、「寺島なすスイーツ甲子園」、「寺島なすサミット2014」などのイベントも実施した。マスコミへの露出も増加しており、地域全体の認知度の向上につながっている。この商店街の夏のイベントが行われた。寺島茄子のスムジーを飲んでみたが、なかなかおいしかった。

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旅館「澤の屋」3 [2016年07月24日(Sun)]
旅館「澤の屋」3
 澤の屋がある谷中・千駄木界隈は、震災や戦災を免れた古い町並みがそのまま残っている。そこには豆腐、せんべい、アイスクリーム、飴などの手作りの店、筆、千代紙、竹籠などなどの伝統工芸の店、それに居酒屋、そば屋、銭湯など、下町ならではの風情を感じる店がたくさんある。そして、生活に必要な郵便局、クリーニング店、病院、教会もある。 
食事も、和食、中華、洋食とすべて揃っている。澤の屋には大型ホテルにあるような立派な設備はないが、町ぐるみで外人客を受け入れれば、機能的には大型ホテルにも負けはしないと思った。澤の屋は宿泊だけに特化すれば良いと考えるようになった。
 そこで周辺のエリアマップを作り、協力を呼びかけることにした。近隣の飲食店に、玄関に「welcome to」の表示と、英文のメニューを置いて貰うようお願いした。その結果、外国人にとまどっていた町の人たちも、積極的に受け入れてくれるようになった。郵便局やクリーニング店では、英語の応対マニュアルも作ってくれた。
 日本人客だけを相手にしていた頃は、旅館も宿泊客も、町(地域)とはほとんど縁がなかったが、外人客を受け入れたことで、かえって町との繋がりができた。
訪日外人客1千万人を実現するためには、ある問題がネックになっているという。それは、ノー・ショー(無連絡での不泊)の問題である。
 澤の屋でも、最初の頃は頭の痛い問題だった。特に澤の屋は12室しかないため、1部屋だけでも影響は大きかった。予約した客が来なくても、旅館側から取消料を取り立てる術がなかった。そこで澤氏は、クレジットカードによるギャランティ・リザベーション制度に加入し、自らも普及に力を入れている。
 これは、予約時点で相手のクレジットカードの番号を聞いておき、ノー・ショーの際は1泊分の料金を口座から引き落とせるシステムである。これにより澤の屋では、ノー・ショーによるトラブルはなくなった。その代わり、カードを持たない人の予約は受け付けないことにした。
 海外では、この制度は既に常識となっているが、日本ではカード会社が、悪用を恐れて導入を控えている。しかし、海外では当たり前のようにカード番号を聞かれるのに、日本では全く聞かれないということが、かえって安易なノー・ショーを招いているとも考えられる。
 最後に観光は平和へのパスポートと話す澤氏、外国人観光客と町の人々のふれあうが増えていけば、行き行くは世界平和につながると思うとお話している。
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旅館「澤の屋」2 [2016年07月24日(Sun)]
旅館「澤の屋」2
 澤氏は「これなら自分にも出来るかも知れない」ここから、旅館「澤の屋」の外国人宿としての新たな挑戦が始まっていった。
  外人客の受入れを決意してからは、「矢島旅館」が中心となって設立したジャパニーズ・イン・グループに加入した。外人客の受入に積極的な旅館が並ぶパンフレットには、会員旅館への予約申込書が添付されている。そこから順調に予約が入るようになった。今では平均して、7カ国の人が毎日宿泊している。
 予約が入るようにはなったが、澤氏が懸念していた言葉と設備の問題が、完全に消えた訳ではなかった。やはり様々なトラブルに見舞われた。
言葉の面では、電話応対が最初の課題となった。「今夜」のつもりで聞いた「tonight?」に、「No、one night!」と返答されたり、相手の言っていることが理解できないなどトラブル続きであった。これには電話応対用のチャートを作り、こちらの質問に相手を答えさせるように会話の主導をこちら側が持つことで解決していった。
 設備面では、特に共同風呂の利用方法ではトラブル続きであった。最も困ったのは、風呂の栓を抜かれることだった。「自分が入浴済みの汚いお湯に、他人が入ることは考えられない」と言われ、栓を抜かれ続けた。最後に、栓に付いているチェーンを外してしまったが、そのため、掃除は非常にやりづらくなった。
 トイレの使い方にもトラブルが続いた。和式トイレの金隠しの上に用を足されたときには驚いた。なぜ後ろ向きなのかと疑問に思ったが、これも国によっては扉を背にすることが怖く、どうしても扉を正面に見て用を足すのだと聞いて納得した。現在はイラストを使って使用方法を解説しているが、トイレに関するトラブルは数え切れないほど起こった。
 風呂やトイレに限らず、騒音、食事の方法、洗濯の仕方、果ては接客時の笑顔に関することなど、生活習慣の違いによるトラブルは様々あった。
 しかしこれは、良い悪いの問題ではなく、違い≠ナしかないと澤氏は考えた。日本人でも海外に行けば習慣の違いでトラブルを起こすことがよくある。実際に澤氏も海外で、「日本人客に浴槽の外でシャワーを使われるビッグトラブルが何度もあったよ」と言われたそうだ。「文化・習慣の違いは、理解した上で乗り越えていくしかない」と澤氏は考えた。
フランスの芸術家を3ヶ月間受け入れた。最初はどこか不満そうだったが2日、3日もすると楽しそうに過ごしていた。どうしたのか聞いてみると、「町が気に入った」と言うことだった。
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旅館「澤の屋」1 [2016年07月24日(Sun)]
旅館「澤の屋」1
澤の屋は下町情緒漂う上野の谷中に、昭和24年に開業した。外国人を対象とした家族旅館として海外に広く知れ渡っている旅館となっている。以来、合計80カ国から、延べ10万人以上の外客を受け入れてきた。現在では宿泊者の9割が外国人で、年間稼働率も90%を超える。これまでの経緯について、診断士の仲間と同旅館を訪問して、館主の澤功氏よりお話をお伺いして来た。写真は澤氏の了解を得て取ったものである。
澤氏は金融機関勤めであったが、縁があり当旅館の1人娘と結婚して養子となり経営に携わるようになった。それは東京オリンピックが行われた昭和39年であり、旅館業が最盛期の時代であった。団塊の世代の生徒の修学旅行で旅館は賑わい、商用のお客や観光客に家族的待遇が喜ばれお客で溢れていた。
修学旅行生の受け入れで業績を伸ばしてきたが、昭和45年の大阪万博を境に、宿泊客は一気に減少した。そこで商用利用への転換を図ったが、都電の廃止でアクセスが悪くなると客足が遠のいてきた。客足が離れた本当の理由は、旅館の家族的な雰囲気が敬遠され、一人で気楽に泊れるビジネスホテルが台頭してきた。かつては東京にもたくさんあった家族旅館は、次々と姿を消していった。
昭和57年の7月、ついに宿泊者ゼロの日が3日間続いた。館主の澤功氏は、いよいよ廃業するか外人客を受け入れるかの瀬戸際に立たされた。最盛期には24室あった客室も12に減らし、弁当屋も手掛けるなど、手を尽くしてきたが、どれも解決策にはならなかった。
 経営が苦しくなってきたとき、既に外人客を受け入れていた旅館の主人に「外国人を泊めてみてはどうか」と助言された。しかし、英語も話せず、設備も外国人には不向きな旅館に、泊まってくれる人など本当にいるのだろうかと迷っていた。
 澤氏は意を決して、その人が経営する「矢島旅館」を見に行った。すると、小さな規模の旅館に、外国人が溢れかえっていた。しかも、話しているのは誰にでも分かる簡単な英語だけだった。
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神楽坂祭り [2016年07月13日(Wed)]
神楽坂まつり
場  所 神楽坂通り商店会 神楽坂6丁目商店街
開 催 日  ほおずき市 7月27日(水)・28(木)
時  間  PM4:00~PM9:00
開 催 日 阿波おどり 7月29日(金)・30(土)
時 間 (29日)PM7:00~  (30日)PM6:00~

神楽坂(かぐらざか)は、東京都新宿区にある早稲田通りにおける大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である。または東京都新宿区の行政地名である。神楽坂一丁目から六丁目がある。なお大久保通りとの交差点が「坂上」、外堀通りとの交差点が「坂下」となる。またこの地名は東京メトロ東西線神楽坂駅や都営大江戸線牛込神楽坂駅など駅名にも使われている。
 読売新聞朝刊に連載中の4コマ漫画「コボちゃん」の主人公「コボちゃん」の銅像設置を記念するイベントが平成27年8月16日、神楽坂のパークリュクス神楽坂前(新宿区神楽坂6)で行われた。同銅像の大きさは台座20センチで像は約80センチ。神楽坂商店街振興組合が都と新宿区の補助を受け彫刻家・山田朝彦さんが制作した。
 同漫画作者の植田まさし氏は神楽坂在住35年以上。東京メトロ神楽坂駅A1出口に設置されている町内マップにイラストを提供するなど、地元・神楽坂の活性化にも携わってきた。今回設置された銅像は、同マップに提供されたイラストを基にした。
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