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まち、商店街

今高齢化・人口減少の時代を迎え全国のまちや商店街は、特に地方都市の中心市街地や大都市でも近隣型、地域型と呼ばれる商店街は疲弊が激しい。かって都市の顔と呼ばれていたが見るもない中心市街地や商店街が増えてきた。それは、地域や都市そのモノが疲弊しているからに他ならない。それに追い討ちをかけるように郊外に大型店が出店している。全国の商店街やまちづくり団体は懸命にこれらに対処しようとしています。これらの取り組みを紹介してゆきたいと思います。


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京都・嵐山花灯路 2007 [2007年11月30日(Fri)]
京都・嵐山花灯路 2007  12月8日(土)〜12月17日(月)
日本情緒豊かな陰影のある「灯り」と「花」でつなぐ嵯峨・嵐山一帯の散策路は延長5
キロである。渡月橋周辺をはじめ、竹林の小径や周辺寺院などがライトアップされ、特別
拝観・開館や数々のイベントが予定されている。
1、嵯峨・嵐山地域の自然、水辺空間、竹林や歴史的文化遺産、景観などを生かし、日本情緒豊かな陰影のある露地行灯の「灯り」約2600基といけばな作品の「花」で演出する。
2、渡月橋と山裾、水辺など周辺一帯をライトアップし、雄大で美しい夜の自然景観を演出する。
3、野宮神社から大河内山荘に至る竹林の両側を幻想的にライトアップする。
京都・花灯路推進協議会では、京都の夜の魅力アップを図るため、灯りの催事を奨励する目的で行灯、スポットライト、配線ケーブル、分電盤などの照明器具及び電材を観光振興や地域振興に資する事業に貸し出している(行灯・スポットライトは有償)。詳しくは協議会事務局までお問い合わせください。
問合せ先:京都・花灯路推進協議会事務局TEL:075-212-8173


嵐山の竹林

川越菓子屋横丁2 [2007年11月29日(Thu)]
川越菓子屋横丁2
昭和10年代はじめ頃には、70人以上の職人が腕を競っていたというが、昭和12年の日中戦争の勃発から、戦争の影が徐々に菓子屋横丁にも迫ってきた。若い職人たちは徴用され、菓子の材料も手に入りづらくなっていった。戦時下においては、人手と材料の不足によって仕事ができない状態に追い込まれていった。
終戦を迎え、菓子屋横丁は早くも鮮やかな復活を遂げる。昭和27年頃には、41軒の菓子商がすでに営業を行っていたといいう。このことからも当時の職人たちの菓子作りに対する気概が強く感じられる。昭和も30年代に入ると、厳しい労働条件、手作りに対する評価が下がることなどで後継者不足が起こり、大量製造、大量販売という経済、流通の変化にも飲み込まれることになった。また、アメリカから入ってきたキャンディ、チョコレート、クッキーなどが好まれたことから、菓子屋横丁が生産していた手作りの素朴な駄菓子には、目が向けられなくなっていった。近年は、蔵の街川越が観光地として多くの人々に知られ、健康ブームなども手伝って、素朴な手作り品への憧れ、郷愁を求めて、多くの人々で賑わうようになった。店先では、大人、子供の区別なく目を輝かせて、ところ狭しと並ぶとりどりの駄菓子に心を奪われる。素朴で、懐かしくい、そんな駄菓子が待っている。しかし、有名になると現れるのがまがい物であるが排除することはできない。駄菓子と何かを消費者に知ってもらうことが重要である。






写真は観光客で賑わう菓子屋横丁
大大阪レトロ建築まちあるきツアー [2007年11月29日(Thu)]
大大阪レトロ建築まちあるきツアー
大正末から昭和初期にかけて「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた時代。大阪に
は日本一多くの人が住み、文化が花開き、今でも数多く残る近代建築がこの時代に
建設されました。「大大阪レトロ建築まちあるきツアー」では、レトロ建築の専門
家が大阪のビジネス街に数多く現存するレトロ建築をご案内します。また「自分で
見てまわりたい!」という方にお勧めなのが、iPodから流れる浜村淳さんの案内を
聞くまちあるきツアー。ツアー後にはオーナーの遊び心が楽しい「フジハラビル」
にて、関西が誇るオーケストラ楽団員によるコンサートをお楽しみいただきます。

◇日時:2007年12月7日(金)・8日(土)(いずれか1回)15:00〜19:00
◇場所:大阪・北船場〜フジハラビル
◇料金:3,000円(コンサート参加料。まちあるきツアーは無料)
◇問合先:大商地域振興部  ◇TEL :06-6944-6323

http://www.osaka.cci.or.jp/b/d_osaka/index.html

大商からの案内の転記です。


法善寺横丁
川越菓子屋横丁1 [2007年11月28日(Wed)]
川越菓子屋横丁1
菓子屋横丁は、明治のはじめに鈴木藤左衛門氏がこの地に住み、江戸子好みの気取らない駄菓子を製造し、販売したのが始まりとされている。藤左衛門氏は、菓子作りに専念するとともに、親方として弟子を育てることにも力を注いだと言われている。弟子たちは、藤左衛門氏からのれん分けをし、それぞれが独立して自らが親方となり、新たな弟子たちを育てた。明治35年頃には、当時の高沢町、石原町あたりに少なくとも10軒の菓子商が軒を連ね、大正に入っても増えつづけ地域も拡大していった。
大正12年の関東大震災では、菓子屋横丁は良い意味での影響を受けた。震災により東京の菓子商が壊滅的打撃を受け、菓子の生産が出来なくなったため、被害の少なかった菓子屋横丁には、東京からの買い付けが殺到した。注文に注文が重なり、捌ききれないほどの盛況だったといいう。また、東京の菓子職人がここ菓子屋横丁に来て働き、新しい製造技術を残していった。昭和5年頃には24軒、昭和9年頃には33軒の菓子商が営業していた。
弟子がのれん分けで店を出すときには、その費用を親方が出すことになっていて、その負担は大きいものだった。優秀な弟子を育てることが親方の器量を示すとされ、親方の苦労は大変なものだったと想像でるが、そのような菓子屋横丁の親方と弟子の関係は時として、親子兄弟以上の強い結びつきになり、また次の世代に引き継がれていくことが菓子屋横丁発展の原動力であった。
最盛期を迎えた菓子屋横丁は、一大菓子製造、卸売りの町へと発展し、伊勢や名古屋といった生産地と肩を並べるほどの生産量を誇っていた。当時作られていた菓子は、80種類あまりに及んだ。パン類などの「焼きもの」、胡麻ねじなどの「ねじもの」、落雁などの「打ちもの」、ようかんなどの「半生」、ハッカ白樺などの「有平糖もの」、ニッキ板などの「流しもの」、千歳アメなどの「引きもの」など、庶民の生活に欠かせない菓子を生産していた。






写真は菓子屋横丁の風景
深川資料館通り商店街「深川いっぷく」 [2007年11月27日(Tue)]
深川資料館通り商店街「深川いっぷく」
同商店街が運営する多目的文化スペース。空き店舗を活用したアートによる地域活性化の起爆剤となる事を目指し2006年10月にオープンした。同商店街は深川江戸資料館と東京都現代美術館を繋ぐ場所にあり、かつ、900メートルと長いため深川いっぷくは、「下町深川」と「アート」の要素が共存する休憩所を兼ねている。旧薬局を活用しており、和風みやげとアート・手作りグッズを展示販売している。旧調剤室を利用したミニギャラリー「ARTいっぷく」は1枚の壁ギャラリー。企画展示を主体として1週間単位で作品展示をしている。ミニライブ、寄席、ワークショップ、朗読会などのイベントが行われている。
平成19年11月の第3回 商店街グランプリではグランプリを獲得する。

住所:〒135-0021 江東区白河3-2-15
営業日:水曜日〜日曜日、祝日 11:00〜18:00 休業日:月曜日、火曜日、祝日の翌日 
連絡先:070-5460-4082 深川いっぷく(白濱)


深川「いっぷく」


東京グランプリの賞状とトロフィーと副賞(室内のため写りが悪い)
駄菓子屋「またあした」 [2007年11月26日(Mon)]
駄菓子屋「またあした」
新宿(しんしゅく)お休み処は平成7年度にオープンし、まちの情報センターの役割を持つ無料休憩所として多くの方が利用してきた。平成19年、この休憩スペースを新たに駄菓子屋リニューアル・オープンさた。地元の子どもたちが楽しく交流できる場となり、また旧東海道の散策などでまちを訪れる方が下町らしい風情とお買い物を楽しんでいる。駄菓子屋のおばさんとして店番をしているのが佐藤成子(しげこ)さんで、地元の商店街で長く商売をしてこられた方で、今ではお店を閉じられているので店番を引き受けている。「子どもは社会のあずかりもの。この駄菓子屋が子どもたちにとっていい社交場になればうれしいです」と、店に集まる子どもたちに温かい眼差しを向けている。
 旧東海道周辺まちづくり協議会が運営をしているが、人件費だけは店の売る上げから賄われている。
○お休み処 駄菓子屋「またあした」概要
・駄菓子の販売。・オリジナル「まち歩きマップ」の配布。
・しながわ観光協会オリジナルの品川キティをはじめ「しながわ名物」の販売。
・昔の品川宿の様子がわかるセピア色の写真の展示など。
住所:東京都品川区北品川2-2-10(旧東海道沿い、)
   京浜急行・北品川駅より徒歩約5分。JR品川駅・高輪口より徒歩約12分。
営業:10:00〜18:00 毎週月曜日はお休み
   閉店時間は日によって多少前後する場合があります。







黒門市場の基本戦略 [2007年11月23日(Fri)]
4、黒門市場のこだわり商品と地元密着が基本戦略
 黒門市場は魚商人の市から始まったため、鮮魚店が3割を占める。取り扱う鮮魚は専門が分かれていて、鮪、河豚、海老、川魚、塩鮭、鰻と多彩な店舗が並ぶ。お店によっては切り分け販売も行なう。力のある数軒の鮮魚店は、泉州、紀州の漁港から直接買い付け、それを他の鮮魚店に卸している。その他に大阪中央卸売市場から仕入を行なう。冬になると目に付くのが河豚で下関からの仕入が中心である。また、一品ごとの量は多くはないが泉州、尼崎、河内長野などから仕入れた地場野菜や大阪の味、浪速野菜もわずかだが揃う。漬物屋には伝統野菜の水茄子などが並ぶ。他に蒲鉾、てんぷら等の惣菜、餅等の専門店が並んでいる。黒門市場の顧客はミナミなど近隣の飲食店等が6割、一般客が4割である。卸売りと小売りを兼ねることが最大の特徴で、個人でも安く良いものが購入できる。
大型店やCSの特徴は、マス志向の品揃え、マニュアルによる販売、不特定多数の顧客を相手にするなど、市場とは相反する機能を有している。大型店やCSには必要な物はあるが欲しいものがない。規模や効率、広告量ではかなわないが「ほんまもん」にこだわり地元に密着することで、魅力ある環境や機能を育て弱みを強みに転化している。


黒門市場の親栄会の通り
黒門市場の事業 [2007年11月22日(Thu)]
3,黒門市場の事業
 黒門市場の青年部が地元の子供のために行なっているのが夜店で、7月の第一土曜日に1ブロックの範囲内で60店舗ほどが夜7時から行なう。平成元年から開始したのがフレッシュ・スタンプ、87店舗が参加、会員数は約3,300人が登録しているが個人情報の関係でスタンプの裏面に氏名・住所を記載しない未登録も多い。店によっては5が付く日は5倍のポイントを付けている。毎土曜日に開催しているのが「ほんまもん土曜市」、NHKの朝のドラマで紹介されたのがきっかけで始まった。毎土曜日は各店がほんまもんとして自信のある商品を販売している。お店や商品を紹介しているのが平成9年7月の開設HPである。HPの「黒門マップ」ブロックのページの個店をクリックすると、別ウインドが開く仕組みで、個店の負担はない。担当は丸山常務理事、更新は毎日行なわれ最新情報が提供されている。チラシは月1回黒門市場として発行している。西理事長の所属している親栄会では他に1回独自に発行している。販促はブロック単位でも行なう。それは、個店のやる気と力をつけるためであるという。


黒門市場の末広会の通り
黒門市場の運営 [2007年11月21日(Wed)]
黒門市場の運営
昭和40年代後半から大型店とライフスタイルの変化にともない、来街者数は停滞。長期的振興策として、平成元年10月からスタンプ事業を実施し販売促進と顧客の定着化を図っている。市場の活性化と環境改善のため、昭和60年に親栄会の大理石舗装の完成に続き、北門会・末広会・日二会・黒門会・南黒門会のアスファルト舗装をテラゾー舗装に改修、平成3年8月竣工。平成14年末広会、黒門会、南黒門会のアーケードリニューアル。平成17年親栄会のアーケードのリニューアル、防犯カメラの設置を行なが、従来から駐車・駐輪場、公衆便所等の設置が課題となっている。 
 黒門は街区全体を長楽会、北門会、親栄会、末広会、日二会、黒門会、南黒門会の七つのブロックに分けて運営、企業の事業部制に似ている。西理事長は「よく見るとそれぞれのアーケードは少し違う」という。各会がアーケードを建設、返済資金・維持費・電気代を組合賦課金とは別に独自で集めている。高度化資金の借入れやアーケードの減価償却などの処理は振興組合で行なう。各会が競い合う形になっていて、それぞれが異なることで個性が発揮されている。しかし、一つの会が資金的な関係でアーケードの維持・更新の遅延や販促がおろそかになった時、全体に悪い影響を及ぼす可能性がある。


黒門市場の北門会(?)の通り
黒門市場の歴史と由来 [2007年11月20日(Tue)]
黒門市場の歴史と由来
黒門市場は、正式には黒門市場商店街振興組合という。大阪の繁華街、難波・戎橋筋から東に10分ほど離れたオフィス街、千日前通りに北の入り口がある。南北に走る堺筋に沿って市場が広がり東西に市場通りを貫く3本の路が走る。市場の商店数は約150店舗、業種別では鮮魚等が45店舗(構成比30%)、青果、肉・卵店が22店舗、これら生鮮店の合計が67店舗(同45%)である。平日の来街者1日平均1万8千人、年末には1日平均15万人が訪れる。来街者は市場を中心に1km圏から訪れる方が70%、まさに大阪の食の台所である。
戦国時代頃まで“市庭”と書いて「いちば」と呼ばれていた。生活必需品の取引が庭のような場所で行なわれて、余分な生産物を売り、その代金で必要な物を購入する。市場には、販売機能もあるが、他に発見という要素があり、多くの人の足を運ばせる要素となる。
 明治末期まで堺筋に圓明寺という大寺があり、山門が黒いことから、黒門市場と呼ばれた。文政5年(1822年)頃、毎朝魚商人が集まり魚の売買したのが起源。明治35年、公認市場に認可。明治45年1月の難波の大火災で、圓明寺と黒門はともに消失。大正期には中央市場をも凌ぐ勢いで発展し、鮮魚の専門市場として「中央市場になくても黒門へ行けば」と云われた。昭和20年3月の空襲で、黒門市場は消失、戦後かつての黒門仲間達でいち早く市場を再建。昭和26年に配給制度が廃止され、黒門市場は再び活気を取り戻した。


北側の千日前通りのアーチ
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