1、洪福寺松原商店街[2007年11月15日(Thu)]
1、洪福寺松原商店街
洪福寺松原商店街の最寄駅は相鉄線の横浜駅から3つ目天王町駅である。駅から徒歩で5分ほど歩き国道16号線を渡ったところが商店街の入り口の一つで、アーチには“やすさ、来やすさ”と書かれている。
戦後、横浜は市中心部の多くが米軍に接収されたが、昭和25年頃この地に商店が出店し始め、現在の松原気質の原点「やすさ・来やすさ」をモットーに日夜商いに精を出し、仲間を募り昭和27年、18名で「松原安売り商店会」を設立している。
その後、区画整理等により現在の街区になり、東西248m、南北189m、道路幅8mの十字形の日用品販売を中心とする近隣商店街なった。現在の総店舗数89店で、業種別内訳は、生鮮三品18店、食料品店26店、衣料品店17店、身回り品、3店、住生活洋品店4店、文化品店5店、飲食店7店、サービス店9店である。
横浜市内で最高の繁盛商店街である。平日は近隣住民中心に1万人以上、休日は5km圏が商圏に入り来街者は2万人、年末には1日10万人が押し寄せる。
江戸時代の東海道五十三次、日本橋から品川・川崎・神奈川宿そして4番目の宿場として発達したのが保土ケ谷宿である。洪福寺松原商店街の位置は、保土ヶ谷宿の入り口にあたっていた。当時は海に近く松並木があったことから松原の地名が着いたと言われている。
国道16号から見た商店街
商店街のアーチ「やすい」「来やすい」と書かれている。
雑然とした商店街の通り
洪福寺松原商店街の最寄駅は相鉄線の横浜駅から3つ目天王町駅である。駅から徒歩で5分ほど歩き国道16号線を渡ったところが商店街の入り口の一つで、アーチには“やすさ、来やすさ”と書かれている。
戦後、横浜は市中心部の多くが米軍に接収されたが、昭和25年頃この地に商店が出店し始め、現在の松原気質の原点「やすさ・来やすさ」をモットーに日夜商いに精を出し、仲間を募り昭和27年、18名で「松原安売り商店会」を設立している。
その後、区画整理等により現在の街区になり、東西248m、南北189m、道路幅8mの十字形の日用品販売を中心とする近隣商店街なった。現在の総店舗数89店で、業種別内訳は、生鮮三品18店、食料品店26店、衣料品店17店、身回り品、3店、住生活洋品店4店、文化品店5店、飲食店7店、サービス店9店である。
横浜市内で最高の繁盛商店街である。平日は近隣住民中心に1万人以上、休日は5km圏が商圏に入り来街者は2万人、年末には1日10万人が押し寄せる。
江戸時代の東海道五十三次、日本橋から品川・川崎・神奈川宿そして4番目の宿場として発達したのが保土ケ谷宿である。洪福寺松原商店街の位置は、保土ヶ谷宿の入り口にあたっていた。当時は海に近く松並木があったことから松原の地名が着いたと言われている。
国道16号から見た商店街
商店街のアーチ「やすい」「来やすい」と書かれている。
雑然とした商店街の通り