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2011年04月08日

大宮駅東口の商業集積

大宮駅東口の商業集積
大宮駅東口の駅前通り(中央通り)から北に走る銀座通りと旧中山道の間の大門一丁目から宮町一丁目にすみれ小路、すずらん通り、さくら小路、ウエストサイドストリート、一番街通りがある。通りや小路の幅員は、一番街で4メートルほど、すみれ小路に至っては1メートル弱である。戦後の混乱期の闇市の後であり、区画整理はされていなく、通りや小路の名称の由来は一番街を除き不明である。ほとんどの店舗は、飲食店で構成されている。 
大宮は中山道の宿場町(大宮宿)や武藏一宮氷川神社の門前町として、江戸時代から発展してきた。明治18年(1885年)3月に、大宮駅が誕生し、中山道の宿場大宮宿が鉄道と製糸の町として生まれ変わった。戦前の大宮は鉄道と製糸の町と言われた。
 戦争の末期、昭和20年4月(1945年)に宮町一帯(大門の北)が空襲を受け、現在の銀座通りの北側および一番街周辺は焼け野原と化した。そのため、建物の強制疎開が始まって駅周辺の様相が一変した。 戦後、中央通り(駅前通り)の両側(大門・仲町)に、いわゆる「ヤミ市」ができ、昭和21年12月には「ストリート・ナンバーワン」の看板が宮町の両入口に掲げられ、のちの一番街商店街となった。現在のさくら小路やすずらん通りは、この時の闇市の通りの名残と思われる。昭和30年代に入ると好景気に町が賑わい、昭和39年の東京オリンピック以降の昭和40年代には大宮市の商圏は、大型店進出のラッシュを迎える。東口にも西武(現ロフト)や高島屋が進出する。
 現在の銀座通りは、昔川越新道と呼ばれていたが、通りの舗装と車歩道区分や銀座にちなみ柳の街路樹を植えたのをきっかけに銀座通りと名を変えた。後に駅東口から大栄橋までの300メートルのアーケードの大宮銀座通り商店街が誕生する。そのアーケードの現在ではない。


大宮1番街商店街


すみれ小路


すずらん通りのアーチ


すずらん通り、大宮アルジジィーヤの旗が


さくら通りのアーチ

2011年04月02日

中野駅北口の商業集積

中野駅北口の商業集積
中野の発展は1889 年の新宿と立川を結ぶ甲武鉄道開通に伴う中野駅の設置に始まり、1896 年には陸軍基地の創設に端を発している。ターミナル駅新宿に直結した利便性により住宅化が進み、さらに軍人とその家族などが中野の住民として増えたことにより繁華街が発達した。
戦後、旧日本陸軍の土地に米軍が駐屯し駅前は米軍の物資の横流しもあり闇市が発達、当時は中央線沿線で最も発展した闇市と称された。この闇市が現在のサンモールなど中野駅北口一帯に広がる繁華街を生み出した。
 JR中野駅北口を降りるとサンモール商店街のアーケードが250メートほど続き、その東側に駅寄りから、東西に一番街、二番街、三番街、五番街、狸小路、白線通が、南北に新仲見世、南仲見世の飲食店を中心とした繁華街が続いている。戦前からの繁華街であるが、大戦では焼け野原となり戦後闇市が発達した。中野駅北口周辺は戦後区画整理が行われていないため、闇市時代のままの路地が残っている。一番街から五番街や仲見世の通り名は戦前のものと思われるが、白線通りは、戦後の名称と思われる。1957年4月の売春防止法施行後、もぐりで売春をするものも多く、赤線のプロでない素人売春に、白一色の麻雀牌の「白板」をかけたことに由来とするともいわれている。
戦後、多くの商店街や市場が消失した中で、住民の生活安定策として東京23区に美観商店会の設置が決定された。1948 年に中野北口美観商店会を名乗りそのまま現在にいたっている。サンモールとは1975 年に2回目のアーケードを作った際に決めた通称で、正式名称は今でも中野北口美観商店街。1回目のアーケードは1958 に完成していたがブロードウェイの影響を受けて作ったのが2回目、現在のアーケードは1998 年に完成した3 回目のものである。


サンモール商店街のアーケード


5番街の通り


狸通り


白線通り


2番街の通り