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大江戸問屋祭り 横山馬喰町新道通り会[2008年07月07日(Mon)]
横山馬喰町新道通り会 大江戸問屋祭り
日本橋横山町・馬喰町の新道通りは、日本最大の現金問屋街である。
歴史の文献によると、1792年(寛政4年)統治に19軒の問屋の記録があり、問屋集積としての基盤ができた。1827年(文政10年)横山馬喰町に62軒の問屋登録記録があり、問屋街として集積が発展しつつあった。1851年(嘉永4年)問屋組合名簿に144名の名前があり、横山町馬喰町一帯が問屋集積として確立された。横山町は、江戸時代から問屋街でしたが、馬喰町は当時、旅宿の町であり、馬喰町に宿泊して横山町の問屋街で品物を選ぶという「街としての機能」を有しており、地方からの集客も進んだ。その後、交通網の発達により馬喰町にものびてきたが、大正3年の東京駅の開業によって、馬喰町の「問屋街」化が決定づけられた。関東大震災後復興した横山・馬喰町問屋街は、小間物を中心にした東京一の問屋街へと躍進していきた。新道通りは、横山町と馬喰町の境にある通りで、溝に板が張られて、その上を通行したので、「板新道」と呼ばれていた。その後、明治40年頃、出火から、板が燃え移ったこともあり、溝板に代えて、石や鉄で溝を蓋うことにし、「石新道」や「鉄新道」と呼ばれるようになった。
 東京大震災後は、区画整理の中で道幅も広がり舗装道路ができて、呼称も今の「新道通り」となり、横山町馬喰町一帯の問屋街としての発展に合わせて賑やかになった。昭和の大不況時には、掛け売り代金を期日に支払えない小売店の増加を受けて、「現金安売り問屋」を看板に掲げる問屋が多くなり、街の性格が大きく変化した。昭和41年には、新道通りの問屋街の発展に取り組む組織として、共同作業が必要であるという共同認識から、@新道通りの発展のための共同事業及び行事、A新道通りの宣伝、B町会、職域団体などの催しもの及び独自事業、C住みよい地区にするための事業、D各官庁との連絡、Eその他、本会の目的達成の為に必要な事業を行うことを目的に「横山馬喰町新道通り会」が発足し、現在の「新道通り会」にいたった。「新道通り会」の加盟店舗数は、新道通りに店を構える企業131社のうち、約117社である。横山馬喰町新道通り会が年に2回行うのが、大江戸問屋祭りである。今回は偶然、このイベントに遭遇したが、街の熱が感じられた。今年の2回目は、12月7日の予定である。







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