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眼瞼けいれんの患者と話して感じたこと [2011年02月26日(Sat)]
眼瞼けいれん患者と話して感じたこと


最近、この会の発起人の坂本さんをはじめ、何人かの眼瞼けいれんやジストニア患者とお話しする機会が複数回あって、ある共通項があるように感じ始めています。
私は医学の素人で、この感じ方には医学的根拠があるわけではないのですが、彼らは、大変な頑張り屋さん、或いは完璧主義者で、それぞれの生きる道は違っても、いわゆる凝り性というか根を詰めるタイプだと感じます。

眼瞼けいれんはジスとニアの一病態だと言われています。ジスとニアには、他に書痙や斜頸などがありますが、書痙の場合はピアニスト、バイオリニストや絵描きなど、特定の職業の人に多発するようです。

そのような職業に就いている方達に書痙が多くおきる、それも利き手におきるということから考えると、特定部分を駆使することからおきるということなのだろうかと思いました。それを眼瞼けいれんに置き換えるなら、脳の特定部分に負担がかかったからおきたと考えることもできるのではないかとも思えます。

眼瞼けいれんの発症原因については、ある一線を越えたときに、脳のプログラミングに異常が起きて発症すると思われるという説を読んだことがあります。その話を家の主人にしたら、「いわゆるオーバーフロー現象だね」という返事が返ってきました。

更に、その話を会の仲間の眼瞼けいれんの患者の方達にしたところ、同じような意見が返ってきました。坂本さんはゴルフのパットの話をしてくださいました。ゴルフに関する私の表現力は乏しいので、この説明は坂本氏ご自身がコメントしてくださるでしょう。坂本さんは目だけでなく手も微かに震える症状があるそうです。ゴルフで「これぞ」というパフォーマンスをしようと意識することで、手の震えの症状が出てきたようです。他にも知人の方で同じような方がいると言われていました。

I氏のお話もとても興味がもてるものでした。ジストニアはこのような場合に起きるのではないかと、「患者として感じる」との注釈つきで、「マニュアル化された受動的な作業をしているときにはおきないような気がする。能動的に、何かを究めようとする、そういう根を詰めた作業を続けたようなときに起きるように感じる」というようなご意見でした。なんだかわかるような気がしてきます。

ピアノを弾けなくなったピアニスト、絵を描けなくなってしまったアーティストの話は実際に知っています。それは図面を引いたりする技術職の方や職人でもおこりうるのでしょうし、頭を使う学者でもありうるのでしょう。

医者自身が患者であることはほぼあり得ないので、患者自身にしかわからない生の声は貴重だと感じます。やはり病気の実感は体験したものにしかわからないですから。

具体的に脳のどこの部分が関係しているかは少しずつ解明され、ジストニア友の会などによると、研究は着々と進められているようです。今のところ、眼瞼けいれんの対症療法はあっても根本的な解決策はないことから、この脳のメカニズムに関する研究の進展に期待したいものだと思います。

それから何より嬉しく感じたことは、若いI氏が、前回お会いしたときより、ずっとお元気そうだったことです。頭脳明晰な若い方という印象だけが残りました。ボトックスを打ってから、かなり経っているようでしたが、ご本人も症状は軽減されてきているとのことでした。多分、あまりストレスのかからない生活をしているからでしょう、とのことでした。このように症状が少しずつよくなっていく例もあるということは、多くの若い方に希望を与えてくれることでしょう。

マイナー

眼瞼けいれん患者を支援するアメリカの財団BEBRF [2010年12月02日(Thu)]
眼瞼けいれん患者を支援するアメリカの財団BEBRF


眼瞼けいれん患者のための研究調査を目的としたBEBRFという研究財団がアメリカにあります。この財団はある眼瞼けいれん患者、マティー ルー コスターさんによって設立され、1981年に活動を始めました。
写真は京都の東福寺
財団の目的は、眼瞼けいれんやそれに関連した他の顔面筋肉疾患の原因と治療に関する研究調査を促進することです。この非営利団体の行う研究調査と情報提供などの活動は企業や個人からの寄付によって成り立っています。年に一度、医療関係者と患者の双方が出席する国際会議を開催しており、専門分野の医師や製薬会社等の研究者の研究発表が行われています。医療関係者と患者の双方が交流する場が設けられているということが素晴らしいと思います。それ以外に、隔月のニュースレター発行、パンフレットやビデオの提供も行っています。アメリカのほぼすべての州だけでなく、カナダにもサポートグループがあります。さすがに北米は人口も症例数も多いだけあって、研究開発の土壌も整っているのだと思います。

BEBRFのホームページの「よくある質問」の一部を読んでみました。

患者がよく気になる、眼瞼けいれんまたはメージュ症候群(顔の下の方の筋肉のけいれん)の症状の進み方に関しては、最初は瞬きの多さや瞼の開けづらい状態から始まり、目が閉じる、眉が下に向かって引っ張られるような症状に進み、さらにひどくなると目が実質的にほぼ盲目状態になる場合もあり、また症状が顔の下半部に及んだり、さらに呼吸に影響が出る場合も生じてくるようです。このようなことを読むと、すべての人の症状が同じように進んでいくのだろうかと不安になるかもしれません。しかし、ある別のページでは、眼瞼けいれんを発症した人のうち約半数で5年以内に顔の下部(口など)に症状の広がりが見られるという記述もありますので、症状が進行する場合と目だけにとどまっている場合とがあるのだと思われます。

眼瞼けいれんには遺伝が関係するかという質問もありました。しかし、この病気の遺伝子は発見されていないようで、患者の5%には顔面筋肉に何らかの異常のある親族がいるが95%にはいないということです。

別の質問で、眼瞼けいれんが治ることはあるのかという質問がありました。このことも気になるところです。答では、完全に回復したという報告は幾つかあるけれど、稀だということです。ただし、一時的な回復はあり得るという記述はあります。それ以上の具体的なことは書かれていません。

眼瞼けいれんは精神疾患かという質問もありました。日本でも、この病気の認知度の低さゆえに眼科から精神科や心療内科に回された患者も多いことと思います。答には、はっきりと「No! これは神経障害(疾患)です。時々、精神疾患と誤診されますが」とありました。ここで神経障害(疾患)と明記されていたことが印象に残りました。私たちの多くが眼瞼けいれんは目の疾患と考えていないでしょうか? ここでは神経障害としか書いていないところから、目の障害というより明らかな神経の疾患なのでしょう。

どの診療科を訪ねたらいいのかという質問に関しては、アメリカの場合ですが、第一に神経科、そして神経眼科とありました。ただ、眼瞼けいれんが専門でボトックス注射に熟達した医者を選ぶようにと書かれていました。

眼瞼けいれんの症状は他人が思うより大変で、仕事に支障が出て退職を余儀なくされる場合の多いのが現状です。しかし、現在のところ、この病気はまだ厚労省により難病として指定されておらず、また、患者に対する障害者認定の基準もありません。目の障害程度は視力や視野という基準で計られるので、眼瞼けいれん患者は瞼を吊り上げれば視力は一応あり問題がないように思われて、ほとんど障害者として認定されないと聞いています。この問題については、この病気が神経の障害によるものであるということをはっきりする必要があると思われます。

アメリカと日本では社会制度や薬事法などに違いがありますから、多くの質問と答えが日本にいる私達に完全にあてはまるわけではありません。最後に共通な関心事として、症状を和らげるために自分でできることはありますかという質問です。回答は以下の通りです。
● サングラス、できれば目をよく覆うタイプのものをかける。
● 野球帽のような帽子をかぶる。
● 窓を背にして座る。
● メガネは色つきのレンズを使用する。
● 目にアイスノンや温湿布をする。
● 好きな趣味に没頭する
● 喋る、歌う。
● こめかみを触る。

日本でも得られる情報がほとんどだったかもしれませんが、私達も、素人ながらこのwebサイトで少しでも情報を交換し、交流を深めていけたら良いと思います。
夫の感想 [2010年09月17日(Fri)]


夫の感想


「死んでもいいから手術を受けたい。」

昨年の12月、家内の突然の言葉にあわてました。血を見るとパニックを起こし、想像するだけでも怖がっていた家内です。5年ほど前に発症した片面顔面けいれんの症状が次第に酷くなり、最近ではボトックスの効果もあまり期待できなくなってきているのは知っていましたし、日常生活ではできるだけ負担がかからないように気遣い、私なりに何とか回復や、せめて症状の軽減の道はないかと悩んでいたところです。

「そんな言い方はないよ。不愉快だ。後に残される家族のことも考えてくれ。」
今から考えると何故こんな言い争いをしたのか不思議に思えるくらいですが、しばらく前から家内が私に読んでおいてほしいと言っていた手術に関する情報の中に、確かに死の可能性についても書かれていたことを憶えていました。
「もっとよく調べよう。調べてから慎重に、総合的に判断して決めよう。」
私の言いたかったことはこのことですが、
「石橋を叩いても渡るかどうかわからない」ということで、今では家内から「石橋」の姓を頂戴しています。
それはともかく、信頼のできる病院で手術の適合性について診察を受けることになりました。


調べてみて気づいたこと、最終的に手術に積極的に同意するに至った要点を書きます。

先ず第1は手術の危険性について。
日本脳神経外科学会他の公開しているインターネット情報では、2003年の論文に記載された米国におけるこの手術(神経減圧術)による死亡率は0.3パーセント、この手術を世界的に普及させた医師グループの論文では0.1パーセントとされています。1000人に1人とか3人の死の可能性。交通事故死の確率よりかなり高いのではないかと思われます。しかし、私には「この手術ではほとんど死ぬひとはいないのではないか。」とも思われました。

顔面けいれんとか三叉神経痛とか、この手術を必要とする病気はかなり稀ですし、全ての患者が手術を受けるわけではありません。その意味からすると総人口中の死亡率としてみると交通事故死の確率に比べてずっと低い数値ではないかと考えたのです。
たしかに、仮に「この手術を受けたが為に死に見舞われた。」と考えると心穏やかではありませんが、家内の心身にわたる苦痛を見ていると「一刻も早く受けさせてやりたい。」という気持になります。やはり患者自身の「色々考え合わせた上での強い意志」を尊重しなければと思いました。

さらに、専門外の見方ですが、手術の詳細な仕方を調べてみると脳の深いところですが細かい手術のようで、普通では何か直接死につながるような脳内の大きな損傷を引き起こすとも考えられません。2次的に脳梗塞や感染症を併発する可能性はあるようですが、これは術前の検査や術後の処置によって防げる性質のものだと思いました。
その他の合併症として特に家内が気にしていた点は、聴力の低下や喪失の可能性がありましたが、この頻度も1パーセント程度ですし、片面顔面けいれんの手術では片耳に起こるだけだろうと思いました。

実は、私自身は25年以上も前に突発性難聴のため右耳が全く聞こえなくなり、その後は片耳の聴力で何とか過ごしてきました。当時の家内の苦痛の様子から見ると、たとえ片耳が不自由になるとしても手術の方が優先すると思いました。


第2は手術を受ける医療機関の問題です。
この点については、私どもは本当に幸運だったと思います。
たまたま義母の知人から聞いた方も叔母の知人の方も、同じM病院で手術を受けたというお話しでした。調べてみると、都内でも有名な病院ですが、この手術に関しては週2日の手術日に複数の手術を行い、年間では200例ちかい症例を扱っているということでした。

家内が受けた診察には、参考の為に以前に他の機関で撮影したMRIの写真を持参したのですが、M病院のMRIでも以前のMRI写真でも明らかに血管と顔面神経との接触が認められるとの診断でした。

私の専門は植物の分野ですが、植物体を顕微鏡で見られる連続した切片にして、これを見て内部の構造を頭の中で立体的に再構成しながら研究する仕事をしたことがあります。MRIの断層写真を見ながら脳内の立体的な様子を診断するのは非常に難しく、熟練を要するはずです。家内から担当医師の所見を聴きながら、「このような先生方だったら安心できる。」と思いました。

また、これも全くの偶然でしたが、家内の手術予定日の半月ほど前に私の良かった方の左耳の聞こえ方が変調をきたしました。このような場合には1日も早く手当をする必要があると知っていましたので、家内の手術との調整の可能性も考慮して同じM病院に受診しました。翌日からの入院治療となったのですが、なんと脳神経外科とは同じ病棟、同じ看護スタッフの方達でした。11日間の治療期間の内にM病院の医療・看護の方針、施設やスタッフの実態に触れることができ、本当に安心しました。


今ではすっかり以前の症状が消えて晴れ晴れとした家内の表情を見ると、半年ほど前まで色々と思い悩んでいたことが夢のように思えます。私どもは色々な幸運に恵まれたこともありますが、家族で助け合い、親族や知人にも支えられてようやく今日の状態に辿り着けたと思います。
感謝の気持を、これからは同じような病に苦しむ方々の助けに少しでもなれるようにあらわしていければと考えています。
自分の考える自分のイメージ [2010年09月13日(Mon)]

自分の考える自分のイメージ   by minor



最近、眼瞼けいれん、顔面けいれんだけでなく、他の色々な病気に悩む方々とメール交換をしたり、実際にお会いしたりする機会が増えました。地域、年代、性別、職業(過去の職業)を超えた今までになかったお付き合いです。皆さん、それぞれの個性があり、優秀な方達ばかりで見習うことが多いです。こういう未知の領域が開けたのも、顔面けいれんと5年間付き合ってきたお蔭(?)だと感じます。

「自分が思う本来の自分のイメージ」=「自然体」でありたいという願いは誰でも根底にあるのだと思います。若い頃の私は特に悩みもなく、もっと美人に生まれていたらよかったとかないものねだりをしていました。でも、顔面けいれんになってわかったのは、美しいかどうかという問題以前に、機能面の不都合だけでなく、自分が思う自分のイメージのままでいられないことの辛さでした。

闘病中の5年近くは、人の目をまっすぐに見られませんでした。自然と伏し目がちになっていました。こういう時期は自分の心と顔(表情)が一致していない妙な不自然感がありました。その上、自分の意志で笑いたいときに自然に笑えず、人の目をまっすぐに見たいときにうまくできず、思い通りの表情をできないことが辛く感じられていました。男性であっても、営業職やサービス業の方達は同様に感じておられることでしょう。

こうした心と身体の不一致は鬱などのメンタルな病気の場合もあるのだということが最近理解できるようになりました。現代はストレス社会ですから、心(頭)に身体がついていかない、という声を身近にもよく聞きます。理想の自分と、そうでいられない自分とのギャップで悩むという点は共通しています。人生の生きづらさという点でも同じです。また病気の性質から、眼瞼けいれんや顔面けいれんと心の病を併発する方も多いと思います。

家の主人の突発性難聴による片耳の聴力の喪失ともう片耳の聴力の衰えにしても、同じような悩みです。聴力は早期に治療をすれば別ですが、一度失われると手術などで回復することがあまりないです。

顔面けいれんのように思い切って開頭手術をすることで治る病気もありますが、一方では僅かではあっても片耳の聴力を失うなどのリスクも伴います。いざという時のリスクも考えての決断が必要です。

私の場合は手術で顔面けいれんからは回復しましたが、それ以前にみつかった緑内障によるほぼ片目視状態とは今後とも付き合っていくことになります。新聞を読むことも、読書もほとんど諦めました。幸い、パソコンだけは今のところ、画面を拡大したり、太字にしたりして使えています。

多くの方が、病と色々な制約を抱え、それと共存しながら、それぞれの人生の中で、何を重要と考えて選択するか、何をやむを得ず諦めるかという取捨選択をしながら、試行錯誤で自分の心と身体との付き合い方のバランスを体得していくのではないでしょう。それが大人になっていく、歳を重ねていくということなのかもしれません。
顔面けいれん闘病記(前篇) by minor [2010年07月05日(Mon)]


顔面けいれん闘病記(前篇) by minor

顔面けいれん闘病記(その1)

「なぜ私だけ・・・」,
顔面痙攣や眼瞼痙攣になってしまった患者なら誰でもそう感じているのではないでしょうか。

最初は、その病気が何なのかもわからず、いくつかの病院、いくつかの診療科をまわった末、病名を知り、いくつかの内服薬を試され、効果を実感できず、ボトックス治療に行きつく・・・多くの方がそのような道を辿ってきたのではないでしょうか。

私の場合もそうでした。
最初の兆候があったのは2005年の5月で、症状としては片目のピクピク感でした。当時、私は50代前半で、その半年前にみつかった緑内障による疲れ目ではないかと自己判断していました。片方の目しかよく見えない状態(裸眼視力0.1と1.0)で毎日パソコン作業をしていたせいで効き目に過度な負担がかかるせいだと思っていました。緑内障のためにかかっていた大学病院の眼科の先生に相談したところ、あっさりと「それは神経内科」と言われてしまいました。

同じ年の6月、当時は主人の赴任先の関西に住んでいたのですが、関東の友達と名古屋で待ち合わせて、名物の鰻の「ひつまぶし」を食べに行くことになりました。食事中、なんとなく口元に違和感をおぼえましたが、それがなんなのか当時はよくわかりませんでした。うまく食べられなかったことと、妙な違和感だけを今も憶えています。

夏も近づく頃、それまでになかった症状が気になり始めた私は、総合病院の神経内科に行ってみました。そこでは「あー」、「いー」、「うー」というような母音を先生の口元を見ながら発音させられました。「まだ、たいしたことはないなー。とりあえず飲み薬を試してみましょう」ということで、リオレサール錠を処方されました。それだけで安心したのか、この薬をしばらく飲んでいると、目や口元の痙攣がほとんどといっていいほどなくなりました。「こういう状態でそのまま治まってしまう人が多い」という先生のお言葉に「私もたいしたことのない一人だったんだ」とホッとしました。

念のために、脳のMRI写真を撮りましたが、「腫瘍などの異常は何もありません」ということでした。これで より一層、安心しました。

ところが2005年の秋の深まりと共に、痙攣が再びでてきて、それも段々とひどくなってきたので、また神経内科を受診しました。前回効いたリオレサールを再び処方され、飲み始めましたが一向に効きません。それどころか悪化する一方でした。

次に神経内科から処方されたのはソラナックスという睡眠導入剤とリポトリールという「てんかん用」の薬でした。飲み始めてみましたが、リポトリールの方は効かないどころかクラクラと目眩がしますので止めました。睡眠導入剤の方は安眠できるので夜だけ飲んでいました。神経内科では片面顔面痙攣という病名を言われたかどうか、はっきろ憶えていませんが、インターネットで自分で調べてそうだと知るようになったような気がします。

友達から「そういう病気で手術を受けてすっかり回復した女優さんもいる」と言われましたが、血を見るのが恐ろしくて、血液検査だけでも怖くてたまらない私は手術は一生したくないと思っていましたので、手術のことはまったく調べませんでした。その上、インターネットで見た範囲では、聴力を失ったり、植物人間になってしまったり、場合によっては命のリスクもあると書いてあったので、それ以上は読もうともしませんでした。

2005年の年末になる頃には、いよいよ間欠的な左目の痙攣がひどく、同じ側の口元も醜く歪み、同時に頬から耳に向かって引っ張られるようになり、自分でも予測がつかない症状がでてきて不安でした。また、人と顔を合わせるのが苦に感じられるようになってきました。笑顔をつくろうとしても不自然にしか笑えません。できるだけ人の視線を避けるようになってきました。人と会っても、ひどい痙攣が出る前に、できるだけ早く会話を切り上げ、その場から去ることのみ考えていましたから、人との話を楽しむ余裕などありません。痙攣がひどい時は、一時的に顔をそむけたり、トイレに失礼したり、くしゃみをするふりをして下を向いたり、人にひどい痙攣を見せないように努力していましたので、しだいに人と会うととても疲れるようになってきました。

大学病院の眼科の方では相変わらず「あまり気にしないことよ」と言われ、緑内障だけ診てもらっていましたが、待合室で待っている間も数分間隔で痙攣が襲ってきます。待ち時間が長く暇なので、痙攣の間隔をみました。一定ではない上、いつ来るか予測がつきません。

大学病院は遠かったので、半年に一度、大きな検査だけを受け、普段は近くの眼科に通っていました。年配のいい先生で、片面顔面痙攣や眼瞼痙攣という病気についての知識があり、ご自分もボトックスの免許をおもちでした。ただ、症例を多く扱っているわけではないから、もしも受けるなら、症例が多い病院で熟達した医師に行ってもらうようにと言われました。この時はまだ「ボツリヌス菌」という恐ろしい名前を聞いて、できることなら、それなしで済ませたいと思っていました。

こうして、2006年は関西で日陰の日々を過ごしていました。10年近く前から在宅でしていた翻訳の仕事と愛犬と過ごす癒しの時間だけが支えとなっていました。

2007年の春に主人が定年退官したら、自宅のある神奈川県に戻る予定でした。症状はどんどんひどく、耐え難くなってきていたので、関東に帰ったらすぐボトックスを受けようという気持になっていました。一刻も早くこの煩わしい症状から解放されたい、一時であっても人と会えるような顔になりたい、と思うようになり、インターネットでボトックスをやっている東京の病院を探し始めました。

元々、美人ではなかったとはいえ、鏡に映る自分の歪んだ顔を見て、「どうして私だけこんな顔にならなければならないのか」と思いました。普通の顔というものを売っているのなら買いたいとさえ思いました。

ただ ひたすら関東へ帰る日のことだけを考えていたので、関西での残りの日々を楽しむ余裕などありませんでした。

顔面けいれん闘病記(その2)

2007年の3月末、主人の定年退職に伴い、神奈川の自宅に戻ってきました。

その1週間後、東京の眼科で初めてのボトックスを予約。この段階では、もうボツリヌスも怖いとは感じませんでした。この痙攣から解放されるなら、脳手術以外は、何であろうと試そうという気持でした。

眼科で受付を済ませ、注射の30分前に、看護婦さんが麻酔パッチを顔の数カ所に張ってくれます。痙攣から解放されたい思いが強かったためか、麻酔パッチが効いたのか、注射は痛まず、あっという間に終了。3万円弱の出費でした。

初回のボトックスは、数日すると効き始め、「こんなに効くなら、もっと早く受ければよかった。ボトックスでやっていけそう」という前向きな気持になりました。主人も、「こんなによくなるんだったら、もっと早くやればよかったね。表情が全然違うよ。」と喜んでくれました。注射後数日で、閉じがちだった方の目が、もう片方の目よりパッチリし、鏡に向かうのが楽しみになりました。毎朝、どの程度、よくなっていくのか、時間の経過が、起きるのが、楽しみです。一時的であっても、再びお洒落を楽しめる!この一年以上、行くのが辛かった美容院にも予約を入れました。

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顔面けいれん闘病記(中編) by minor [2010年07月04日(Sun)]

顔面けいれん闘病記(中編) by minor

2010年8月15日に(その4)を追加しました。
また別途記事で後編を発行します。


顔面けいれん闘病記(その3)

2008年の秋から冬にかけて、症状は急速に悪化していきました。今までになかった部分で痙攣が始まっていました。耳の症状が出て半年くらいで、今度は首の上部や喉に症状が出てきました。首の上部や喉が、ときどき締め付けられたようになるのです。時には息苦しくさえあり、食事に不都合が出てきました。汁物が口角から漏れてしまうこともあります。強く痙攣している間は、うまく食べられません。家族と食事をしていても気になる程、お行儀よく食べることができません。

また、夜も、痙攣側を下にして寝ると顔が動くのが分かり、気になって寝られませんので、寝る前に軽い精神安定剤を飲んでいました。

K先生は誠実に対応してくださいます。ただ、喉や首の症状がでてくると、そちらの方は眼科でのボトックス注射の範囲ではないので対応できないし、他でしたとしても首がガタンと落ちてしまう可能性がないわけではない、とのことでした。結局、首に打つのはこわいので、ボトックス注射は今までどおり目、頬、口元、顎に打っていただきました。この頃には最低2カ月に一度、13個所位に注射を受けていました。

ボトックス注射を受けに行くときは症状的には最悪の状態ですから、怪しく見えない程度に顔を覆う淡いサングラスとマスク姿です。

顔面痙攣の手術に関しては、K先生はとても慎重でしたし、そうあるべきだと私は今も思います。リスクもあるので患者の方からよほど希望しない限り、お勧めしないとのことでした。どうしても、患者本人の責任で手術を受けたい場合は、信頼できるM病院の脳神経外科のT先生に紹介状を書きます、と言ってくださいました。また、高齢になると動脈硬化などの問題も出てきやすく、受けられない場合も多いとのことでした。しかし、この時点でも、まだ手術は最後の手段と考えていました。

主人も理解はあり、生活面などよく協力はしてくれます。ただ、暗い話題はできるだけ避けたいのか、症状に関する愚痴っぽい話からは逃げたがります。男の人は現実から逃避したい傾向が強いのでしょうか。この病気について、できるだけ簡潔に書かれた説明を、プリントアウトして読んでほしいと見せましたが、あまり気が進まなさそうで、サッカー番組などに逃げてしまいます。わかってはいても現実を受け止めたくないのでしょうか。手術のことも万が一のことを思うのか、考えたくなさそうでした。

2008年の年末から2009年にかけて、会食へのお誘いもお断りすることが多くなりました。皆さん、気にしないでいいのよ、と言ってくださいますが、自分自身の症状がきつく、会食に参加するのはとても疲れます。特に辛かったのは、親類会や法事に出席できないこともあったことです。無理して出なくてもいいと言われても、行けない自分を責めてしまいます。遠出することも大変でした。片道3時間ほどの距離に住む、高齢な主人の母にもずっとご無沙汰をしていて申し訳なく感じていました。

外食も行くのは顔をあまり見られなくてすむカウンター式や暗いお店くらいです。それでも学校時代からの親友とだけは時々会っていました。会う時はカフェのカウンターに座って1時間だけのお喋りをします。彼女はよき理解者で、いつも痙攣側でない右側に座ってくれていました。週に何回もメールでお喋りをして、愚痴を聞いてもらってもいました。外で人とあまり会えなかった時期、こうしてメールでのお喋りをつきあってくれたので随分と救われました。誰でも愚痴を聞いてくれる人が必要ですから。

以前は、時々、車で主人を駅まで送ったり、主人が大好きなビールを飲んだ帰りには代行運転をしていたのですが、この頃から、運転が怖くなりました。目が急に閉じてしまうことと、緑内障による視野の狭さの両方があるからです。私が外出すときは駅まで送ってもらうことが多いので、申し訳なく思いました。

また、コンピュータ作業中も、自分の意志とは関係なく、利目の方の片目がときどき閉じてしまうので、視力0.1のもう片方の目だけではよく見えず作業が中断されてしまいます。おまけに画面がとても眩しいのです。

2009年の秋、81歳の母が興奮して電話をしてきました。「あなたと同じ病気よ!仲よしのNさんの義弟で、手術で完治した方のお話を聞いたのよ!」母が親しくしているN夫人は、亡くなったご主人がお医者様だったそうです。そのご主人の弟さんが、以前、M病院の脳外神経科で顔面痙攣の手術を受け、見違えるようによくなられたということでした。その方は海外赴任中に外国で受けた手術がうまくいかず、帰国後にもう一度手術して、完治されたそうです。その話を聞いた母は、私にも強く手術を勧めました。偶然ですが、その病院は、ボトックスを受けている眼科のK先生が「いざという時は紹介状を書きますよ」と言ってくださった同じM病院です。

同じ頃、叔母からも、親しくしている若い知人の方が、実は以前に私と同じ病で一年前にM病院のT先生に執刀していただき、今はすっかり完治しているということを聞きました。完治したKさんは女優さんのように美しいそうです。この時点で、私は、一か八かかける気持になりつつありました。こんな状態のまま、ただ消極的に20年以上生きていても意味がないのではないかと思い始めていました。

主人は石橋を叩いても橋を渡るかどうかわからないほど慎重な人です。その内に、叔母と母が主人に電話してきて、早く私に手術を受けさせるように言ってきました。このこともあってか主人も手術に向けて前向きに考えるようになってくれました。
続きを読む・・・
顔面けいれん闘病記(後編) [2010年07月03日(Sat)]

顔面けいれん闘病記(後編) by minor 


顔面けいれん闘病記(その4)
2010年3月15日の朝、退院間もない主人に付き添われてM病院に入院しました。病名は左顔面痙攣で、手術の正式名は神経血管減圧術です。

部屋に荷物を置き、主人と共に主治医のA先生からの入院説明を受けました。執刀医はT先生ですが、担当医はA先生です。画像写真を見ながら、手術の説明をして下さいました。考えていたよりずっと複雑で脳の奥深くを手術するようです。
「どうしますか。手術を受けられますか?中にはここまで来てやめて、スーツケースを持って帰られる方もいますが・・・」
ここまで来たのだから、もう引き返したくはない。
「宜しくお願いいたします。」と主人と同意書に署名しました。

主人が帰って昼食後、パジャマに着替え、改めて採血、検尿、身長、体重、血圧の測定をし、足首にはゴムのネームバンドを、手術側の手首にもバンドをつけられました。退院までこれをつけたままです。

その後、CTとレントゲン検査、手術する側の耳の後ろの剃髪、病室担当看護婦さんからの説明、手術担当看護師さんの訪問がありました。とても頼りがいがある元気印なお母さんで、「明日の手術室看護師は私ですから任しておいてください!」と言ってくださり、本当に安心しました。明日の全身麻酔での手術は朝8時半頃からとのことでした。この後、麻酔医、執刀医の訪問、回診があり、6時に夕食。病院のメニューは毎週献立表が配られ、毎食、二通りのメニューから選べるようになっています。

7時の検温を終え、入浴して、手術前最後の洗髪もしました。病院は一年前に建て替えられたというだけあって、ホテルのようにきれいです。デイルームにあるパソコンはしばらく使えなくなってしまうので、試しに使ってみました。9時を過ぎると、同室で元気に動き回っているのは私だけのようです。10時に消灯となり、その晩はぐっすり眠れました。

病院の朝は6時の検温から始まります。手術当日は朝食がないので、洗顔、歯磨きをして手術のお迎えを待つだけです。この病院は広い廊下の脇の各病室入口前のオープンスペースに広い洗面台があって、朝夕の洗面時の社交場になっています。脳手術を受けた患者は頭に包帯を巻いているのですぐ分かります。ここで、片面顔面痙攣の手術を終えて退院間近の40代風の女性と会い、「大丈夫よ。よくなるから」と励ましていただきました。やはり同病者からの励ましは何より嬉しいです。

病院の手術着に着替え、8時頃、点滴を開始。主人と娘が到着し、移送車に移り、ガタガタと廊下→エレベータ→手術室と運ばれていきます。いつもと違い、横になって見る院内は天井ばかりの世界です。手術室に着いたところで家族と一旦お別れです。まるでスターウォーズの宇宙世界のように、メタリックな青と銀の手術室と天井が見えます。昨日訪ねてくださった看護師の女性、麻酔医の先生、そして担当医のA先生のお顔が次々と現れ、「○さん、○ですよ」と微笑んでくださったところで記憶が飛んでしまいました。

次に記憶が戻ったのは、「○さん、手術が無事に終わりましたよー。これからお部屋に戻りますからね」という声でした。「えっ?もう?」またガタガタと移送車で病室に運ばれていきます。声を出そうとしても掠れて出てきません。38度台の熱があり、頭も痛いですが、「手術は順調だよ」と主人の声。時間は午後2時を過ぎているようです。これで、大変な部分は無事に終わったようだ・・・後は日に日に回復していくだけ・・・

手術日の夜は頻繁にナースコールのボタンを押し、何度も頓服の座薬をいただきました。物ひとつとることもできないし、その気さえおきません。何一つ自分ではできません。看護婦さん達は皆とても優しく天使のようです。最初の晩は片側を向いて寝なければならないのと、点滴、排尿管、足につけた血栓予防バンドがあって体が自由になりません。特に、間歇的に足を締め付ける機械からは一刻も早く逃れたいです。首や肩の痛みが酷く、あちこち湿布していただきました。

手術の翌朝から毎朝、検温(38度台)、抗生物質、ステロイド剤の点滴の後、医師の回診、消毒、包帯交換があります。痙攣は手術後から止まっています。午前中、看護婦さんが温タオルで身体を拭いてくださいました。その際に足を締め付けていた血栓予防の機械を取り外していただき、ようやく足が解放されました。喉が乾いていたので、水差しで初回水分を摂取。その後、看護婦さんに介助されながらよろよろとトイレまで初回歩行し、排尿管も外されました。

昼はお粥でしたが、食欲はありません。食事を半分以上食べないと点滴は外せないそうです。2時頃、車いすでCTとレントゲン検査室に連れて行っていただきました。身体を少し起こすだけで目眩がします。その後、主人が見舞いに来て、昨日よりはいいようだね、と言ってくれましたが、まだ頭、首、肩が痛く、あちこちに大きな湿布を貼っています。夕飯も殆ど食べられません。食べたいのはゼリー、ヨーグルト、アイスクリームと果物くらいです。夜、勤め帰りに寄ってくれた娘が差し入れてくれたヨーグルトは特別おいしく食べられました。

夜間は、まだ点滴がついているので頻繁にトイレに通い、トイレの合間に仮眠です。頭の包帯がきつく、ずらしてしまいたくなります。
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