CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

« 2018年10月 | Main | 2018年12月»
プロフィール

塩澤 英之さんの画像
塩澤 英之
プロフィール
ブログ
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリアーカイブ
<< 2018年11月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
RSS取得
http://blog.canpan.info/spinf_shio/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/spinf_shio/index2_0.xml
マーシャル大使館、ごめんなさい。 [2018年11月01日(Thu)]

今年の4月ごろでしたでしょうか、国内の一部外交筋の間で、口上書が回付され、マーシャル大使館が自主的に閉鎖されるという話が広まっていました。

一方で、5月の島サミットの際に、マーシャルのハイネ大統領や、古い友人のキチナー外務次官が、「そんな話は聞いていない」とこれを否定したということがありました。

そして今日、ようやく都合がつき、新しい(といっても移転して1年くらい?)マーシャル大使館を初めて訪問することができ、以前よりもアップグレードされた雰囲気で、「やっぱりマーシャル大使館はあったんだ!」と安心しました。

大使館の閉鎖とか撤退は、外交的には強い意味を持ってしまいます。個人的にも、気持ちの面ではクオーターマーシャリーズ(現地の友人には3分の1と言われていたが)なので、閉鎖が嘘でよかった。

大使館ではアンジャネット公使参事官と初めて話しました。「自分はヒデだ」と挨拶すると、ちょっと怪訝な顔をして、会議の後に、「実はかつてマーシャルにいて、マーシャル高校で教員していた」というと、「ああ、やっぱりあのヒデか!」と。何か顔を覚えていたと。

当時自分が指導していた勉強、音楽、スポーツで、中心的な生徒が20人ほどいたのですが、公使参事官は、特に一緒にCDを作ったティミーという生徒(日本でいう中3から高2まで教えていた)の親友で、当時やはり高校生だったと。優秀なアサンプション高校の。

それで14年も前の話なのに、唐突に、(自分が個人的に青少年活動支援の現地NGOであるYTYIHを支援し、ファンドレイズイベントを開催した際に、)(自作の)マーシャリーズ・ガールをRREのステージで歌っていたのを覚えていると言い出しました。恥ずかしい。

それよりも当時の生徒がこのように国のために活躍するようになったのだなあと、不思議な感じ。自分が将来どこにも居場所がなくなったり、時間が限られてるのがわかることがあれば、最後はマーシャルで若い世代のために燃焼しても良いのかもしれない、などと思ったり。


ときどきここにも書いちゃいましたが、5/19に島サミットが終了してからダイエットに取り組んでいます。当時75.8キロでしたが、今日はこんなところ。

B382F8FE-1776-4C57-B1F7-D3C1D4182250.jpeg

そう。ちょうど良かったのは、まさにこれは14年前の体重で、おそらく当時の面影はあったのでしょう。「太った?」って言われなくて良かった。ダイエットしてる甲斐がありました。
ニューカレドニア住民投票 [2018年11月06日(Tue)]

日曜にニューカレドニアで独立の是非を問う住民投票が実施されました。

もともと先住民カナクの人口が全体の4割程度であり、有権者数も同程度であったことを考えると、賛成が過半数を取ることは難しかったと思います。

中国云々の話は、真偽は別として、どちらかに有利に働いたのかもしれません。先進国側からみると、少なくとも独立という場合には、良くないイメージとなっていたように思います。

個人的には、投票率が8割を超えたこと、独立賛成が44%という点が大きな意味を持つように思います。

おそらくフランス政府も周辺諸国も賛成は良くて3割台だと想定していたと思われるところ、44%は非常に高い。

ニューカレドニアがフランスから離れれば収入がとか住民の生活がとか言われていますが、自分が周辺島嶼国の友人から耳にしていたのは、カナクの人々でその経済的利益を享受している割合は低く、一方で物価が先進国並みに高い、すなわちフランスから離れようが、カナクの人々にはニュースで言われるほどの影響がない。むしろフランス以外の先進国から開発が遅れている分野に開発援助が行われるようになるので、先住民にとっては独立の方がメリットになる可能性もあります。

今回の結果はNoだったので、今後2022年までにあと2回、住民投票が行われるそうです。

正直、あと3万人ほどカナクの人口が増えなければ過半数は取れないと思います。


しかし...。全体で独立賛成が4割台であっても、仮に先住民カナクだけの投票行動を見て、それが独立賛成8割超などとある場合、「脱植民地化」という視点から、独立反対と見て良いものかどうか…。

フランスとしては今後何十年という未来を考えた場合、先住民の人口割合が増大することは危険だとみなすのではないか、とも思います。
フィジー総選挙 [2018年11月09日(Fri)]

2014年9月17日、自分はフィジー総選挙の多国籍監視団に参加していました。
588DAA0F-20B6-4CCC-99EE-94687BB4FDFC.jpeg

朝から夜遅くまで、担当の投票所を回りましたが、大きな騒動もなく、人々は忍耐強く列を作ってならび、その顔は、ようやく選挙が実現し、正式な政府ができるということに対する期待が現れていました。

フィジーの人口は、先住民系5割強、インド系4割、残りががアジア・欧州系・ロトゥマ・ブラックバードとされた人々の子孫・ランビ島のキリバス系などになります。かつては議会には民族別の議席割り当てがあったそうです。

機微なことは書けませんが、大きく言えば、現在のフィジー・ファーストは経済的にも強いフィジーを作るための多民族・多文化民主国家への改革を進める政党で、先住民系の平民のうち心情的にも支持できる人々(先住民系の2割〜3割)や、インド系の7割、経済界、イスラム系インド人などが支持。

野党第一党のソデルパは先住民系の権利確保、特に先住民系エリートの地位確保が信条としてあり、先住民系の7割〜8割が支持。

第ニ党のNFPは、インド系・先住民系のインテリ層。

(この2党が議会野党を形成)

他には、インド系砂糖農業者などが基盤の労働党、トレード・ユニオンが支持母体のPDP(労働党から分裂)などがありました。


上記の背景を見れば、単純に計算して、インド系の大多数が投票を棄権しない限り、どう頑張ってもソデルパは過半数を取れません。ソデルパが勝つには、多数のインド系住民が投票しない、インド系住民の支持が得られる政党に変える、NFPなどと連携し、連立を組む、ということしかありません。


そしていよいよ今月14日に現憲法下で2度目の総選挙が行われます。全国区比例代表制の政党制で、過半数を占める政党があれば自動的にその政党の党首が首相になります。反対に言えば、党首にならないと首相の道がありません。いずれも過半数割れの場合、連立が組まれ、いずれかの党首が首相に選ばれます。

実は今回の選挙は無風というのが大方の見方でした。ランブカ元陸将・元首相(かつてインド系政権に対し2度クーデターに成功した。ここには詳細を書けませんが現首相の天敵。現首相は元海将)が、議席はないもののソデルパのリーダーになり、先ごろ司法の判断で今回の選挙に出馬できることになり、急速に緊張感が高まって来ています。

注意しなければならないのは、自分の経験上ですが、水面下で何かが動いていても、我々外部の人間からは穏やかな日常に見えていて、急に火がついたように何かが起こるという特性がフィジーにはあることです。

現政権は非常に戦略的に国家改革を進め、経済や外交などで大きな成果を上げてきました。しかしそれが支持者維持・増加につながっているからいなか。

現地では儀式にも嗜好にも重要なカヴァ(胡椒系の木のこと。根を粉末にし、水にエキスを絞り出して飲む。鎮静作用がある。収穫まで3年ほど必要。)の値段が高騰していることが批判されていますが、これは2016年サイクロン・ウィンストンでカヴァ農地が壊滅的被害を受けた影響だそうです。

選挙結果による、万が一の想定がいくつかありますが、ここには書けないので、この辺で。
バンガラ・ダンス・シアター [2018年11月09日(Fri)]

オーストラリア大使館の友人に誘われて、さいたま芸術劇場で開催された、オーストラリア先住民の5万年の歴史をベースにしたバンガラ・ダンス・シアターを観覧してきました。
BB760F90-F56E-486A-8BC6-CAB2ED222FE7.jpeg

マーシャルではちょっとしたダンサーでもあったので、血が騒ぎます。

現代アートというのかわかりませんが、何が感じ取れるのか。。。

途中、音楽の心地よさに意識が遠のいてしまい、白い体が光に、影が本体に見えたり、錯覚をしながらも、人の体の美しさとともに、現代社会に溶け込んでいく先住民の人々、しかしその心には自分たちの先住民族のアイデンティティが誇りとともにある、そのように感じました。

自分がフィジーを去ったのはちょうど3年前ほどですが、帰国直前に、南太平洋大学の芸術科(だったかな?)に招待されてみた、UKの芸術家の指導によるダンスアート・パフォーマンスを思い出しました。

あらゆるものがフュージョンしていく中で、それぞれの文化的アイデンティティは消えて行くのか、残るのか。1つの形態がダンスなのでしょう。
マーシャルで大統領不信任採決へ(1) [2018年11月11日(Sun)]

ニューカレドニア、フィジーに続き、マーシャルでも政治的動きが出ています。
先週月曜、2015年総選挙で当選した新しい議員を中心とした8議員が、ヒルダ・ハイネ大統領に対する不信任動議を国会に提出しました。

理由として、暗号通貨導入の話に伴うマーシャルの国際的評価の悪化、信託基金会計の管理不透明さ、内閣の不公平な対応、海外在住のマーシャル人の投票権の制限、国会を国民のために戻すなどが上げられていました。大統領就任後、1週間弱で不信任決議により地位を追われたキャステン・ネムラ議員が国会(二ティジャレ)で動議提出理由を読み上げました。

マーシャルでは1986年の独立後、1999年頃の当時のイマタ・カブア大統領(ラリック側大酋長でもある)に対するものを最初に、過去に8回ほど不信任動議が行われてきました。しかし、基本的に相手に恥をかかせてはならない(恥をかくのは避けたい)という文化を持つマーシャルでは、1回目ではカブア大統領が自ら身を引いたということになりました。

初めて、真剣に採決が行われたのは、2009年3月のトメイン大統領(ウォッジェの酋長)に対するものでした。その後、確か9月に再びトメイン大統領に対する不信任決議が行われ可決、トメイン大統領は歴史上初めて不信任決議により任期途中でその地位を追われた大統領となりました。

マーシャルの政治は、下記のような流れがあります。

1997年、初代アマタ・カブア大統領(マーシャル全体を対象とする最後の大酋長)の死去に伴い大統領に就任したいとこのイマタ・カブア大統領(クワジェリン基地の大地主でもある)を中心に、AKA(我が島)という政党を立ち上げ、酋長中心の政治を行った。

これにより金銭的腐敗が広がり、第1次米国コンパクトの財政支援が、米国の期待通りには使用されなくなった。平民は自由度がなく、生活が悪化したが、酋長には何も言えないため、ただ耐える状況であった。

1999年の選挙で、ケーサイ・ノート(酋長ではない)を中心とするUDP(統一民主党)が躍進、過半数を取り、歴史上初めて酋長ではない大統領の政権が誕生した。

2000年から2007年、ケーサイ・ノート大統領が2期務め、平民は自由を手に入れ、ノート政権はまた米国とのコンパクト改定交渉に成功した。この際、米国側は第1次コンパクトの財政支援の反省から、改定コンパクトでは管理を強化した。またクワジェリン基地の土地代(地主は野党AKA側のイマタ・カブア大酋長)交渉が難航した。


マーシャル諸島は東側の日の出列島(ラタック)と西側の日の入り列島(ラリック)があります。

また伝統的地位として、酋長(イロージ-男、レロージ-女、大酋長は後ろにラプラプがつく)、土地管理人(アラップ、複数存在)、大多数の平民(リジェレバル)がおり、権威は女系で相続されていきます。このヒエラルキーが各環礁・島もしくは島の中の村落単位で存在しますが、その血筋により、酋長の中に、複数の島に権威を有するイロージ・ラプラプがいます。

ラリックは伝統的権威・ヒエラルキーが硬いと言え、中心にはクワジェリンのイマタ・カブア大酋長がいます。大酋長が絶対です。

ラタックは自由度があり、仮に酋長が人々のためにならないと判断された場合、アラップが力を合わせて、酋長を追い落とすことができます。ラタックにはマジュロ、エボン、アルノ、ウォッジェ、ウトリックなどが含まれます。

簡略化すれば、2000年から2007年は、酋長中心の野党AKAと、平民中心の自由を享受する与党UDPの政治となっていました。

自分は2003年に現地に入り、2006年頃のから始まり現在まで続く、政治的変化の真っ只中、外側の傍観者ではなく、かなり深い位置にいました。

長いので、一度切ります。


マーシャルで大統領不信任採決へ(2) [2018年11月11日(Sun)]

平民が自由を享受した2000年から2007年のノート政権。腐敗が広がったAKA政権に対し、クリーンなUDP政権が順調に国を治めているように見えました。
しかし、これは自分がその中で感じていたものですが、特に2期目に入った2004年以降、本当にクリーンなのか、自ら自分の国のことを考えているのか(例えば、国際会議でも地域会議でも、ニコニコして発言せず、米国にも意見を言わない)、時間も何もかもルーズ、マーシャルのアイデンティティはなんなんだという疑問が芽生え始めました。

第2次コンパクトでは、2023年には米国の財政支援が終了する(実際には2013年頃から実質金額で言えば信託基金への積み立て分が増える一方で、直接の財政支援が減っていく、そして2024年以降は、信託基金運用益と米国連邦プログラムのみが米国からの収入となる。クワジェリン土地代の支払いは続くが全て地主に入る)ということ、2000年代後半に発生したリーマンショック(信託基金が元本割れ)、穀物価格高騰、原油価格高騰が、UDPに任せていて大丈夫なのか?という空気を生み出しました。

例えば、2007年頃のノート大統領主催の晩餐会が夜7時から開催されました。マーシャルでは+2時間で考える必要があると言われていましたが、我々外交団は時間通りに現地に入り、たったまま、何も食べずに大統領を待ちました。大統領が到着したのは夜の10時過ぎ、理由はテニスをしていたため。スピーチは外務大臣に任せた、ということがありました。正直、自分はこの大統領は本当に平民にとってのヒーローなのか?今は違うのではないか?と疑問を持つようになりました。

例えば、自分は日本のODA大型無償の案件形成や案のフォローを担当していましたが、ノート政権は、考え方が緩く、要請内容を十分な現地との調整なく変えてきたり、国民の税金を何だと思っているのだと、怒りにも似た感情を持ったことがあります。

自分は専門調査員でしたが、当時の大使館は館長の臨時代理大使と会計・領事担当書記官と自分しかおらず、館長がまとめる前のさまざまな調整・協議は自分が行っていました。その立場を見て、自分は何度かその大統領や複数の閣僚に耳元で脅されたことがありました。

ちなみにマーシャルでは専門調査員は外交官扱いではなく、ウィーン条約で守られません。ストレスと恐怖感があり、日本側も誰も守ってくれないという状況でしたが、自分には数百人のマーシャル人の友人がいるし、日本人をなめるなという気持ちがあり、最後まで妥協しませんでした。

そして、何故か政変が起こり、2008年1月、ノート大統領は3選を果たせませんでした(議員としては当選。ジャポットという小さな島で対抗馬がおらず、落ちることはない。)。

2007年11月の選挙では、UDPと無所属新人3名で過半数を占める結果となりました。

同12月、2008年1月の大統領選出選挙(33名の議員による投票で選出)で誰を候補にするかという協議が続けられました。

選挙の前後で、UDPからリトクワ・トメイン氏がノート大統領に反旗を翻し、3名の議員と共に、独立し、UPP(統一人民党)を結成、無所属新人2名が加わり5名の勢力となりました。トメインさんはウォッジェの酋長で歴史的繋がりで親日。UPPの性格はAKAよりもUDP側でした。UPPのアメンタ・マシューさん(後の保健大臣)は本当に優しい人でした。

トメインさんは自分がマーシャル高校の教員(ボランティアの時か、現地契約の時か)、お孫さんが自分の教え子にいたこともあり、自分が音楽や学校のバラエティショーなどで生徒と熱く取り組んでいるときに、フラットきて、偉ぶらず(当時、自分はその人がだれか知らなかったが)、「日本人なんだね。頑張って」とニコニコと声をかけてくれたことが何度かありました。

さて2007年12月以降、大統領候補を誰にするか議論が続けられていました。UPPはAKA政権は望まないが、ノート3選はより求めない立場(背景情報を知っていますがここには書けません)。

UPP側は、候補者がノート大統領でなければ(例えばアルビン・ジェクリック)であれば、UDP候補者に投票すると交渉を続けました。

UDP内の交渉は投票日2008年1月14日朝まで続けられ、どうしてもノート大統領が折れず、投票が行われました。

UDP13、UPP5、無所属2、AKA13ほどの勢力図だったと思います。過半数は17。一般市民はAKAの暗い時代に対する恐怖感があり(声にはできないが)、国会での選挙の様子をラジオで聴いていました。自分は臨時代理大使と共に、国会で傍聴。

国会議長選出。18対15(このくらいの僅差)でAKA候補(チューレラン・ゼトケア議員、次の次の大統領)がUDP候補(アルヴィン・ジャクリック)に勝利。副議長が17対16でUDPのアリック・アリックが勝利(これが最後のノート大統領への降りろ、本気だというサインだった)。

大統領選出では、トメイン氏がAKAとの統一候補となり、ノート大統領と一騎打ち氏、やはり僅差でトメイン氏が勝利、UPP・AKA連立政権が誕生しました。
マーシャルで大統領不信任採決へ(3) [2018年11月11日(Sun)]

2009年1月14日、トメイン大統領が選ばれたのち、皆が握手をしている間に、議員ではないイマタ・カブア大酋長が大統領の座席に座り、満足げだった瞬間の情景を思い出します。
トメイン大統領はイマタ・カブアの操り人形、故トニー・デブルム氏が外相に就任、イマタ・カブアの名代として政権復帰となりました。

政権成立後、トメイン大統領は操り人形を演じ、政策はクワジェリン中心、親中、米国にも面倒な態度をとる状況になりました。トメイン氏の裏にはツバル人の優秀な補佐官がいました。

大使館側の我々は、いち早く日本に大統領を招聘するよう本省に働きかけ、2008年4月に、訪日が決まりました。確か福田総理の時だったと思います。

それを種に、我々は3月に何度か大統領と補佐官と臨時代理大使と自分の4〜5人で、食事をとり、訪日準備と、大統領の日本への関心を高めるよう、たくさん、本当にたくさん話をしました。ODAについても、日本の立場を明確にし、ここから先は妥協できないなど交渉も行いました。(自分はその前後から大統領補佐官、外務次官、官房長官に毎日のように何度も何度も会いに行くようにし、翌年5月の自分の退任まで、1年以上、3者に個別に通い詰め、マーシャル政府の意思の統一を図りました)

2008年4月、大統領訪日。今上天皇皇后両陛下が御謁見され、そして自分が本省に要望した笹川会長とトメイン大統領の会談が実現しました。ちなみにこの会談がのちの海上保安事業のきっかけとなりました。

帰国後、我々は大統領とまた食事をしました。そこで大統領は興奮した様子で、天皇皇后両陛下が予定時間を大幅に超えて、マーシャルと日本の関わりについて話を聞いてくださったと何度も何度も話し、また笹川会長に歓待を受けたことも本当にありがたかったと話していました。口には出していませんでしたが、戦略的に親中という態度をとり、裏切り者のような態度をとった自分をここまで暖かく迎えてくれたと。

そして、はっきりと我々に「自分はマーシャルの国民のために政治を行う」と宣言しました。2008年4月の終わり頃だったでしょう。

大統領は陛下と話したことで、私を捨て公のために生きることが正しい道だと理解したと話していました。

訪日の前か、後か。台湾訪問の機会がありましたが、同行したデブルム外相がおそらく親中だったからでしょうが、台湾の総統に対して外交上無礼な態度をとり、(前だったかな、それで訪日には同行していなかった)、ここからAKAとトメイン大統領の間に、修復不可能な亀裂が生じました。

トメイン大統領は堂々とクワジェリン中心の政策から国全体の政策に舵を切りました。公式行事には、いつも10分前に現れ、閣僚たち(半数以上がAKA)に模範を示していました。


イマタ・カブア大酋長の名代であるデブルム外相はこれに我慢がならず、一度不信任案提出の動きを見せましたが、AKAが過半数を確保することが難しいため、断念していました。

一方、日本との関係は良くなり、ODA事業も必要情報を十分に得られる打てば響く関係となり、順調に進みました(一部の人に利益があるものではなく、課題と裨益者を明確にし、優先度をつけ、マーシャル政府内で統一見解を示し、閣議を通してレターを出して貰うなど)。

2008年当時はまだ無償案件がJICAに移っておらず、外務省側で案件形成を行っていました。

このような状況下、自分の任期は2008年3月から2009年3月に延長されていましたが、さらに後任の都合で、5月まで延びることとなりました。



(追記)
2008年8月にニウエで開かれた太平洋諸島フォーラム総会では、会議中、豪州、NZの提案に対し、島嶼国は発言せず、黙っていたところ、トメイン大統領が「日本はこれだけの支援をすると言っているが、豪州、NZは何ができるんだ」と発言したことをきっかけに、他の国々も発言をし始めたとその9月に大統領補佐官と食事をした際に満足げに話していました。その議論が翌年のケアンズコンパクトに繋がります。


これで思い出しましたが、2008年4月の訪日準備の頃、2008年3月に大統領や補佐官、外務次官、官房長官らと話していた時に、自分の方から「自分は温暖化(当時は気候変動よりも温暖化と言っていた)との関連はよくわからないが、なぜマーシャルは、キリバスやツバルと同じような高潮被害や沿岸部の浸食拡大があるのに、何も言わないのだ?キリバスやツバルは注目されて、支援もされている。」「マーシャルは何も言わないので、我々はマーシャルの人々は困っていないし、何も要望はないと判断している。地域機関でもそうだ。何を遠慮しているのだ?」「何か要望があるのであれば、国として優先度をつけて、正式なレターを出してくれ。日本は丁寧に要望を分析し、真に人々のためのもので検討可能なものは検討するし、できないものはできないと言う。」「ODAは先進国の役目でもあるし、遠慮することはない。要望を出して、それが採択されなくとも恥ずかしいことではない。これは日本だけでなく、国際社会でもそうだ。」「遠慮して黙っている必要はない。真剣に開発課題があり、人々が困難に直面し、マーシャル政府だけでは対応できないなら、はっきり伝えるべき。」などとよく話していました。
マーシャルで大統領不信任採決へ(4) [2018年11月11日(Sun)]

2009年3月、与党AKAがトメイン大統領不信任案を出しましたが否決。トメイン大統領含むUPP5名は、中立派2名、ノート前大統領を除いたUDPと手を組み、政権を維持しました。
結果的にUDP系の政権となり、ノート前大統領を外す事に成功しました。

それを見届け、マーシャルを去る前日の夜中までODA案件のプロポーザルを書いて、5月末、自分はマーシャルを去りました。

2009年8月財団に入団しましたが、同9月末だったか10月だったか、トメイン大統領一行が来日しました。一行に呼ばれ、大統領の部屋にご挨拶に伺いました。

しかし、マーシャルに大統領と外相が不在だったこの時に、絶対に手を組まないと言われお互いに罵り合う関係だった敵同士のデブルム元外相とノート前大統領が手を組み不信任案を提出され、ノート氏と2名ほどの親派とAKAが手を組み可決、帰国すると不名誉にもトメイン大統領は歴史上初めて任期途中で不信任によりその座を追われた大統領となってしまいました。

ノート前大統領は、当時、現地メディアから「なぜデブルム元外相と手を組んでまで今不信任を通す必要があったのか」との問いに対し「あいつは俺の背中を引っ掻いたからだ」と、個人的恨みで不信任を通したことが明らかとなりました。

不信任が可決されると、大統領が即日〜数日以内に選ばれます(この時は現地にいなかったため、実際の過程に不明瞭なところがあります)。

トメイン大統領は多数派工作を行い、AKAですがマジュロの大酋長で人望があり、平民のことも理解しているチューレラン・ゼトケアを引き抜き、大統領に据え、自身は裏方に回ることでUDP(ケーサイノート抜き)、UPP、チューレラン、中立派(無所属)の政権ができました。2009年11月のことです。

UDPのトメインに近いグループとチューレランはのちにKEAという政党(というかグループ)を名乗りました。

ここにいたり、マーシャルの国民の中では、AKAなのかUDPなのか、もう良く分からなくなったという声が上がっていましたが、少し引いてみると、要はイマタ・カブア大酋長を中心とする伝統的権威優先のラリック列島側(クワジェリン中心)と、平民のこともよく考えるラタック列島(マジュロなど)に分裂したように見えます。

チューレラン政権は、しかしながら不安定な政権運営を余儀なくされ、2011年総選挙では、ハイネ家の人々やイマタ・カブア政権時代の閣僚が当選(ジーベ・カブア元駐日大使ら)、2012年1月の大統領選ではAKAとAKA系の政権が誕生しました。大統領はクリストファー・ロヤック大酋長、親日で温厚な人柄の方でした。デブルム元外相が政権に戻り、クワジェリンを重視しつつも、全体を見る政権となったかと思います。ただし、中国との関係は度々噂されていました。2013年の太平諸島フォーラム総会(マジュロ)では、今年のナウルとは全く異なる、中国の意向を受けた反応(国内の台湾国旗を隠すとか)が現地外務省主導で行われました。 裏の話も耳にしましたが、ここにはかけません。

この政権が2015年まで続きました。


(次こそ最後です)
マーシャルで大統領不信任採決へ(5) [2018年11月12日(Mon)]

2007年の総選挙当時、まだ民間で青年支援をしていたケネス・ケリー氏(現国会議長)とよくマーシャルの将来のことを議論し、ケネスの世代が議会に増えないと、変えることは難しいし、混乱は続くだろうと話していました。
当時のキャステン・ネムラ官房長官にもそのような話をしていました。

2012年頃に、当時の駐日公使を辞めて財務次官になったアルフレッド・ジュニアにも、確か自分がフィジーにいた2013年にサイクロンの前日にスバであって、話して、皆さんの世代がリードするとマーシャルは変わる、と話していました。

皆が共通して言っていたのは、マーシャルでは角を立てる争いは避けなければならない。波が引いていくように、いずれその時が来るだろうということ。

2014年、スバの地域会合で、マーシャルのジュスティナ官房副長官に8年ぶりくらいに偶然会い(マーシャルの時は保健次官だった)、彼女が「キャステンが来年の選挙に出馬するらしいよ!」と、期待を持っている様子が伺えました。キャステンは力強い人物で、米国での暮らしを捨て、確か2007年3月に若くして官房長官になった人物。握力が強い。

正義感も強く、国民のことをよく考え、ボカラルと現地語で言われる弁がたつ人物。自分が帰国した後に実現したマーシャル環礁間を結ぶ貨客船2隻(後に1隻は揚陸船に変更)の最初のプロポーザルは、官房長官が離島の住民の生活と経済の安定を確保するためにと提案したものでした。

チューレラン元大統領は2015年に逝去し、引退する議員も出始めました。

そのような中、2015年11月に選挙が行われ、新しい流れの議員が10名近く誕生しました。アルフレッド・ジュニアとキャステンも含まれます。

新グループが団結し、反AKA政権でまとまりかけた時、若手グループからは代表をまとめられず、最終的に古いUDP議員のアルヴィン・ジャクリックを大統領候補としました。これは古いUDPへの回帰でもあります。(AKAもあれですが、2000年代のUDPも信頼が薄い)

それが理由だったのか、ノート元大統領の策略か、新グループからキャステンを大統領候補として引き抜き、ノート系UDP、AKAが手を組み、キャステンを大統領に選出しました。キャステンはノート元大統領を外相に据え、ノート氏は10年ぶりの政権復帰となりました。

しかし、新グループはこの裏切りに反発し、AKAからヒルダ・ハイネ大統領候補としてトーマス・ハイネ、元内務次官のウィルバー・ハイネ、デニスとデイジーのモモタロウ夫妻(いずれもAKAだが、知的な人たち。酋長系ではない)を引き抜くなど多数派工作を行い、不信任案可決、キャステン・ネムラ政権は出航することもなく、わずか2016年1月11日から28日までの18日間の短命政権となりました。キャステンは退任の際に、「船を作りマストを掲げたが、出航できなかった」と述べ、住民に人気のある彼が示した政策案は少なからず住民からは期待されていたようです。

この時、自分は豪州外貿省の友人に、「キャステンは自らを犠牲にして、マーシャルを一歩先に進めたんだ。彼がこの行動をとらなければ古いUDP議員のアルヴィン・ジャクリックが大統領になり、マーシャル政治は後退していただろう。結果、ヒルダ・ハイネという初めての女性大統領が誕生した。」と話しました。

本来、わかりやすくするなら、ヒルダ・ハイネ大統領のところにキャステンで、支持もAKA系ではなく、新グループ、KEA、UPPだったんだと思います。

現在の政権は、トメイン元大統領らUPPと反ノート系UDP(KEA)と新グループの7割程度がベースにあり、穏健なAKAが大統領としてリードしている非常に不安定でねじれまくっている状況です。当初はアルフレッド・ジュニアも閣僚になっていましたが、当時から内閣がバラバラで大統領が閣僚を統率できていないとも言われていました。

そして、今回、キャステン、アルフレッド・ジュニア、ノート大統領の兄弟のエルドン・ノートら8名が署名し、不信任案を提出しました。

現地の友人らは、また混乱かとがっかりしているようですが、結果はどうなるでしょうか。この10年の混乱は、ノート元大統領が招いたものとも言えます。天敵であったデブルムさんは昨年亡くなってしまいました。イマタ・カブア大酋長の名代は今は誰なのでしょうか。力のある人は見当たりません。

今回の結果がどうなろうと、来年11月には総選挙があります。したがって、来年3月には選挙キャンペーンが活発化するわけであり、今回の動きは、来年の総選挙を見据えた揺さぶりの1つとなるでしょう。

2015年選挙で新グループが3分の1を超えましたが、来年の総選挙ではおそらく過半数を超えるでしょう。その人たちがラリックもラタックも関係なく、酋長への忖度もなく、私利私欲に走らない勢力となった時、マーシャルは新しい時代に入ります。2020年には米国とのコンパクト改定交渉が始まり、誇りと自立を保ちつつ如何に米国と良い関係を維持できるか。その時の米国は?

マーシャルの人口ピラミッドは、15年前で25歳以下の人口が非常に多い「凸」のような形でした。そのため、今、40代以下の人口が非常に増えているので、来年の選挙は注目できます。

2007年の総選挙では、ウトリックという環礁で、20代以下の有権者の行動により、小さな革命的出来事がありました。来年は全国的に変化が現れるかもしれません。

偶然だと思いますが、マーシャルは世界の変化になぜか似た動きが現れることがあります。
何を求めて走るのか。 [2018年11月12日(Mon)]

日曜にトレーニングウェアとアップルウォッチを調達したので、昨夜10時過ぎに走りに出ました。


経路、距離、アップダウン、1キロごとのラップタイムが出るので、トレーニングの質がおそらく変わってきます。

半年前までは、例えばジムで走った場合、1キロ7分半で速く感じていました。30年前の高校現役時代は1キロなんて、本気出せば2分30秒を切るペースで10本とか、どんなにゆっくり走っても6分を超えられなかったのに、時は残酷です。

しかし、ダイエットで半年前より10キロ程度軽くなり、近所のお医者さんの助言で自重筋トレを増やしたところ、体の重心が腹から胸に移り、走りやすくなりました。

昨晩は目黒川沿いを中目〜目黒駅の近く〜中目、坂を登って代官山ユニット〜恵比寿駅〜リキッドルーム〜並木橋〜代官山〜自宅とアップダウンのあるところを走りましたが、全体7.5キロで、平均1キロ6分、最後の1キロは5分でした。

速ければ良いってものでもなく、じっくりと基礎体力をつけるには、キロ7分〜8分でゆっくり長く走るのが良いのですが、昨日は何十年かぶりに風を切っている感覚があり、犬みたいに嬉しくなって走ってしまいました。

でも何なんでしょうか。夜10時過ぎに走りに出ても、朝6時前に走りに出ても、必ず誰かが走っています。

いったいどこに向かっているのか。
| 次へ