沖縄慰霊の日=集団自決を語りつぐ証人[2009年06月24日(Wed)]
戦後64年目の夏が近づいてきた。広島・長崎の原爆投下より前に戦争の惨禍に見舞われた沖縄では、毎年6月23日に慰霊の式が執り行われている。
およそ3ヵ月の戦闘で、住民を含めて20万人が犠牲になった沖縄。中でも、那覇から南へ25キロの位置にある渡嘉敷島の集団自決の様相は、地獄の底と見まがうばかりの悲劇であった。
渡嘉敷島の南端へ圧倒的に優勢の米軍が上陸した翌日、その地に住んでいた島民は、軍の指令で島の北側にある日本軍の陣地へ向けて、大雨の降りしきる夜中を25キロの道を歩き通した。
翌日、陣地に辿り付いた住民たちは、それまで厳しく訓練されてきた最後の手段を選んだ。が、700人の住民全員に1個ずつ配られていた自決用の手榴弾の殆どは不発だった。
沖縄島民は週に一度軍事教練を受け、軍国主義教育で洗脳されていた。戦陣訓は「死して虜囚の辱めを受けず」と、自決による玉砕を強要していた。日本軍が配ったビラには、鬼畜の米獣が上陸すれば、必ず女は犯され男は虐殺される。その前に自決して名誉を守れと。それは、まさに暗黙の命令に等しかった。それを信じた女性たちは、早く殺して、と懇願したという。
渡嘉敷島の谷間に玉砕場が今も残っている。そこは家族同士が殺し合った集団自決の修羅場であり、346人が犠牲になった。小川は真っ赤に血で染まったという。
ずっと沈黙を守ってきた金城重栄さん(82歳)は、2年前からやっと思い口を開いて当時の実情を語りはじめた。金城さん自身、2つ年下の弟と共に、両親や幼い弟・妹の4人を手にかけて殺したのだ。鬼畜の如き米兵の手に掛かる恥辱を避けるためと、日本軍から信じさせられていた。
その後の人生は家族への償いの日々であった。位牌を拝まない日はなかった。当時、妹は4歳。実の兄が未来を奪ってしまったのだ。もしあの時、手を下していなかったら、弟や妹も幸せに暮らしているのに、と思うと、居たたまれない思いに苛まれる。
NHKテレビの沖縄慰霊の日特集で、画面に映った金城さんの表情は、この世で他に類例のない苦悩に耐え続けてきた人の思い詰めた顔であった。夜通し眠れない時もある、と口にした。
もう1人、重栄さんの2歳年下の弟・重明さん(80歳)も、やはり兄と共に自決の現場にいた。戦後は那覇に移住し、19歳でキリスト教の洗礼を受け、東京の大学を出て30歳で牧師になった。
沖縄を占領した米軍は決して鬼畜ではなく、捕虜になった島民を誰も虐待したりしなかった。国際法を無視し、天皇の名のもとに国民を死に追いやったのは日本軍のほうであった。
生き残った2人の兄弟は、互いに避けるかのように、殆ど音信不通の年月を送っていた。弟の重明さんは、早くから語り部として沖縄戦の悲劇を語りついできた。
兄の金城重栄さんは、今年2月、那覇の病院に入院した。認知症の症状もあり記憶も薄れてきた。それが何よりの救いであるかのように。
独りベッドの横に坐った重栄さんは、ジッと宙を見つめながら、一言一言絞り出すように、しかし、はっきりと発言した。
「国のため、と、いくら言っても、人間が死んで、何が国のためか……と、今さらその思いです……」
およそ3ヵ月の戦闘で、住民を含めて20万人が犠牲になった沖縄。中でも、那覇から南へ25キロの位置にある渡嘉敷島の集団自決の様相は、地獄の底と見まがうばかりの悲劇であった。
渡嘉敷島の南端へ圧倒的に優勢の米軍が上陸した翌日、その地に住んでいた島民は、軍の指令で島の北側にある日本軍の陣地へ向けて、大雨の降りしきる夜中を25キロの道を歩き通した。
翌日、陣地に辿り付いた住民たちは、それまで厳しく訓練されてきた最後の手段を選んだ。が、700人の住民全員に1個ずつ配られていた自決用の手榴弾の殆どは不発だった。
沖縄島民は週に一度軍事教練を受け、軍国主義教育で洗脳されていた。戦陣訓は「死して虜囚の辱めを受けず」と、自決による玉砕を強要していた。日本軍が配ったビラには、鬼畜の米獣が上陸すれば、必ず女は犯され男は虐殺される。その前に自決して名誉を守れと。それは、まさに暗黙の命令に等しかった。それを信じた女性たちは、早く殺して、と懇願したという。
渡嘉敷島の谷間に玉砕場が今も残っている。そこは家族同士が殺し合った集団自決の修羅場であり、346人が犠牲になった。小川は真っ赤に血で染まったという。
ずっと沈黙を守ってきた金城重栄さん(82歳)は、2年前からやっと思い口を開いて当時の実情を語りはじめた。金城さん自身、2つ年下の弟と共に、両親や幼い弟・妹の4人を手にかけて殺したのだ。鬼畜の如き米兵の手に掛かる恥辱を避けるためと、日本軍から信じさせられていた。
その後の人生は家族への償いの日々であった。位牌を拝まない日はなかった。当時、妹は4歳。実の兄が未来を奪ってしまったのだ。もしあの時、手を下していなかったら、弟や妹も幸せに暮らしているのに、と思うと、居たたまれない思いに苛まれる。
NHKテレビの沖縄慰霊の日特集で、画面に映った金城さんの表情は、この世で他に類例のない苦悩に耐え続けてきた人の思い詰めた顔であった。夜通し眠れない時もある、と口にした。
もう1人、重栄さんの2歳年下の弟・重明さん(80歳)も、やはり兄と共に自決の現場にいた。戦後は那覇に移住し、19歳でキリスト教の洗礼を受け、東京の大学を出て30歳で牧師になった。
沖縄を占領した米軍は決して鬼畜ではなく、捕虜になった島民を誰も虐待したりしなかった。国際法を無視し、天皇の名のもとに国民を死に追いやったのは日本軍のほうであった。
生き残った2人の兄弟は、互いに避けるかのように、殆ど音信不通の年月を送っていた。弟の重明さんは、早くから語り部として沖縄戦の悲劇を語りついできた。
兄の金城重栄さんは、今年2月、那覇の病院に入院した。認知症の症状もあり記憶も薄れてきた。それが何よりの救いであるかのように。
独りベッドの横に坐った重栄さんは、ジッと宙を見つめながら、一言一言絞り出すように、しかし、はっきりと発言した。
「国のため、と、いくら言っても、人間が死んで、何が国のためか……と、今さらその思いです……」