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「水害にあったときに」〜浸水被害からの生活再建の手引き〜 (2021年7月15日更新) (07/09)
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「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  46 [2009年12月09日(Wed)]
 今から6000年前に能登町宇出津の間脇あたりで、イルカ漁が盛んであったという話をしました。海の幸、山の幸を食の中心とした暮らしが4000年も続いていたことが、遺跡から判明するのですが、実はイルカ漁は昭和のはじめまで続けられていたという記録もあるのです。その時の漁について語れる漁師さんがいらっしゃれば是非、一度話を聞いて見たいのですがなかなか出会うことができません。

そんなことを思いめぐらせていると、先日来神し神戸の大学生たちと交流を深めた七尾市能登中島の方が、七尾市中島町西岸の「西岸公民館」に保存してある「西岸地区の歴史」というのを見つけて下さいました。その中に「明治時代に七尾北湾にあった海豚網漁」についての記録があるのを教えて下さいました。今度、能登を尋ねたら直接公民館に行って聞いてみようと思います。
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Posted by RSY事務局 at 09:47 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  45 [2009年12月08日(Tue)]
 先日の2ヶ月のロングラン公演が終わった「マクベス」を上演した能登演劇堂にまつわる話で、地元の方からいい話を聞いたので紹介します。
元々俳優の仲代達矢さんとおつれあいで俳優・劇作家・演出家の故宮崎恭子さんが俳優養成の私塾として創立された「無名塾」は、1983年頃から中島とは交流があったことから、能登演劇堂の建設にも仲代さんが設計にもアドバイスをしていたこともあって、以後無名塾の全国公演はまず能登からスタートをされていました。

 能登演劇堂は無名塾をはじめプロのための会場という感覚があるかもしれませんが、地元の関係者によると、市民劇団や中島高校(今年で閉校)、七尾東雲高校の定期公演でも使われているようです。6日の日曜日も、地元の中島小学校の学習発表会(劇)があり、能登演劇堂で行われたとのこと。こうして、地元の方々が演劇を愛し、能登演劇堂を守っていくという活動はすばらしいと思いますね。特に、子どもの頃から演劇に触れる、しかも日本でもというか世界でもただ一つの劇場で演じることができるということは、かけがえのない体験だと思います。『マクベス』公演は能登復興を願っての企画だったことは知られていますが、このようにして地元と一体となって能登中島ならではの文化を築いていくことが、能登半島地震の復興バネに大きな力となることを願っています。
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Posted by RSY事務局 at 10:50 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  44 [2009年12月04日(Fri)]
ちょっと話題を変えて一休みです。大学生を中心に集まっている「中越・KOBE足湯隊」は能登半島地震発生後の5日目から避難所で足湯ボランティアをしてきました。災害発生後5日目に避難所で、しかも被災地外のボランティアが活動できるというのも画期的ではないか。さて、今回は(11月20日〜23日)これまでも一緒に活動してきた新潟県長岡市にある長岡技術科学大学のメンバーも加わっての活動です。久しぶりの能登での足湯ボランティアとなりました。8月以来、兵庫県西北部地域を襲った水害の被災地佐用町に足湯に出かけていたので、能登はご無沙汰していました。

 今回は、また足湯をさせて頂く場所としては、初めてでまた珍しいかも知れないところで行いました。2ヶ所のお寺です。1ヶ所は地震で全壊になりやっと再建を果たした門前町の「興禅寺」さんで、もう1ヶ所は大規模半壊となった黒島の「名願寺」さんです。
 どちらのお寺も写真集「いとしの能登 よみがえれ」でも紹介していますが、実はどちらもお寺の本堂で足湯をさせて頂くことになり、大変貴重な体験をさせて頂いたようです。 というのも、以前高野山足湯隊のリーダーTさんに教えて頂いたのですが、「その昔、東大寺大仏殿の建立中、光明皇后が”われみずから1千人の垢を去らん”いう誓願をたて、境内に浴室を建設し、さまざまな人を入浴させて、1千人の垢を落とそうと決意させられたそうです。ところが、1千人目に癩におかされた男があらわれ、少し躊躇したが、勇を鼓しその体を洗い膿をお吸いになった。すると男は大光明を放ち、自分はアシュク仏であると告げた」ということだそうです。そもそも、病気の人や困っている人に湯を施す「湯浴み」は、中世の大寺院が行っていた施行の一つとのこと。そう言った謂われのあるお寺で、しかも本堂で足湯を行うというのはほんとに「もったいない」ことです。

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Posted by RSY事務局 at 10:21 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  43 [2009年12月03日(Thu)]
今年8月に水害のあった兵庫県佐用町の復興フェスティバルに出席するため、前日に神戸入りされた能登中島の小牧地区壮年団から3名と神戸大学、神戸学院大学および当センターのスタッフを交えての交流会が持たれました。そもそもこれは今年、、毎年9月20日に開催される「お熊甲祭り」に、ある意味一つの”結”として応援に行かせて頂いたのが縁でできた交流会でした。小牧地区壮年団が持ってきて下さった今年の祭りのビデオを見ながら、参加者は懐かしく思いを窮していました。祭りに参加できなかったけど、でも能登が好きやねん!という人たちも参加して下さり、交流会は盛り上がりました。
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Posted by RSY事務局 at 13:47 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  42 [2009年11月30日(Mon)]
 昨日、兵庫県佐用郡佐用町で「佐用町復興フェスティバル」が開催されました。水害から4ヶ月を前にして、「ちょっとここらで一息つこうよ!」という主旨で開催されました。この日に合わせて、実は能登の穴水来迎寺に咲いていた珍しい「10月桜」の苗を購入し、佐用町の仮設住宅にお住まいの被災者が、いつもこの桜の前を歩いたら思い出して頂くようにということで仮設住宅の敷地に植樹をしました。

この植樹に合わせて、能登中島の小牧壮年団から3名、同じく能登の穴水の被災者Tさんはじめ新潟県中越地震および同県中越沖地震の被災者たち、そして関西圏のいろいろな大学からも大学生が応援に駆けつけ、また炭を持って鳥取県智頭町の森林組合の方も参加されました。
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Posted by RSY事務局 at 15:43 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  41 [2009年11月27日(Fri)]
 間脇遺跡とイルカとのことについて少し触れてきましたが、静岡県清水区では10数年前ではスーパーでイルカの肉が販売されていたそうだ。イルカはこの清水港沖でも生息していたのだろう?そう言えば和歌山県太地町にもイルカはいたし、この地の鯨は有名だ。従って清水港沖にイルカが生息していても不思議ではない。こういうことに詳しい新田時也さん(東海大学海洋学部講師)は、伊豆地方の漁港である安良里の方から聞いた話として「戦後の食糧難の時代、イルカの肉が私たちの『いのち』をつないで
くれる唯一の食べ物でした。イルカの油は、船のオイルに利用することで、生活の支えともなった。私たちはイルカに感謝し、供養塔を建ててまつています」と朝日新聞に紹介しておられる。同講師は、「食べることといのち、さらには「祈り」や「歴史」にまで、もう一度世界の人が考えて欲しい」と願っているようだ。
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Posted by RSY事務局 at 16:04 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  40 [2009年11月25日(Wed)]
(続:間脇遺跡について)
 間脇遺跡が約6000年前に発掘されたことはすでに書きましたが、第14次間脇遺跡発掘調査(1982年、83年)により、縄文時代前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)まで、約4000年間途切れることなく人々が住み続けていた集落遺跡と判明しているそうだ。

 さて、私たちが歴史を振り返るとき、今から何年前くらいのことなら、具体的なイメージを持ちつつ理解できるのだろうか?今から6000年前に始まり、約4000年間もの人の暮らしの足跡が遺跡から探ることができるというのは、想像しがたいことではないだろうか。

 でも人類は約600万年前に猿から進化してこの地球上に現れたと先日河合雅雄さん(県立人と自然の博物館名誉館長)が講演でおっしゃったが、少なくとも私たちの祖先であるモンゴロイドと同じルーツを持つ人たちが、12000年前にベーリング海峡を歩いてわたり、北米大陸を南下して、現在ネイティブアメリカンが居住している地に住み着いた。今もこの地にすむイロコイ族が存在しているということは、間脇と同じように途切れることなく住み続けてきたのかも知れない、12000年も。しかし、私はイロコイ族の住んでいるこの地に行ったことがないので、残念ながら実感を持って語ることができない。

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Posted by RSY事務局 at 17:24 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  39 [2009年11月25日(Wed)]
(続:間脇遺跡について)
前号no38で、クリの木について書いたところ、私の尊敬するI・kという教授が、「クリは食糧としても重宝されていたのですよ!」とご指摘がありました。実は、能登半島地震後能登に通い続けていましたが、ここの間脇遺跡の存在を知らなかったのです。ある時にI教授に「村井くん、能登を語るには間脇遺跡を見ておかな語られへんで!」教えられ、尋ねたのです。

間脇遺跡縄文館には、縄文土器も土器も発掘されていますが、クリなどは柔らかくして食べるために土器がつくられたようです。なんとこの頃からこうして生活の知恵があったことに驚きです。また、縄文土器などと一緒に発見されているのがイルカの骨なのです。この頃の縄文人には、貴重な海の幸としてイルカを食していたことが判るそうです。昭和の初期までこのイルカ漁をしていたという、この地域の漁師さんの証言があるそうです。
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Posted by RSY事務局 at 09:15 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  38 [2009年11月22日(Sun)]
 先日の”リクエスト・ーツアー”が終わった後、私は能登町宇出津にある「間脇遺跡縄文館」に行ってきました。今回で2回目です。丁度神戸を出発した12日の北国新聞を駅で買い、読んでいたらこの遺跡の関連記事が載っていたのですが、その催しが11月21日から23日にあることはその記事には書かれてなかったので詳細が理解できていませんでした。その催しというのは、縄文時代末期の遺跡として発見された「環状木柱列」を復元するために、6000年前と同じように「クリの木」を使って復元しようというものです。それで、21日〜23日はクリの木の皮むきをするそうです。クリの木は直径60p、長さ9mのもので、道具はクリの木の枝を使ってするそうです。おそらく可能なかぎり当時の作業と同じ工程をされるのでしょう。そういえば、いま8月に水害に見舞われた兵庫県佐用町で竹炭を焼いていますが、竹を伐採して枝を払うときに、ナタを使わなくても切った竹の細い部分を使って払えば、枝は綺麗に落ちるのです。
私も神戸のある物知りに教わり、何年かぶりにやってみましたが気持ちがいいほど枝が落ちていきます。きっとクリの皮むきも同じような作業だろうと想像します。
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Posted by RSY事務局 at 10:31 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  37 [2009年11月21日(Sat)]
先日のツアーで、写真集でも紹介している「大崎漆器店」にもお伺いしました。能登半島地震で大きな被害に遭いましたが、やっと「塗師屋 大崎庄右ェ門」が再建され、蘇りました。念願だったギャラリーも拭き漆による素晴らしく快適で美しい空間として完成されました。塗師屋の家は「住前職後」といい、前部が住まい、奧が仕事場となっています。くぐり戸の玄関から奧へと90bもの長さですが、わずかな塵や埃にも気を使う構造です。奧には、前、中央、後と三棟の土蔵があり、その中央の土蔵では黙々とした塗りの作業が行われています。もちろん土蔵は漆器にとって”いのち”であると言われており、大崎さんは壊れた土蔵を修復するために昔ながらの竹木舞を編んだ、厚さが20pもあるほどの土壁にしています。

大崎さんを訪ねますと、一部壁の姿がそのまま見えるようにしています(土蔵修復完成は、なんと2年3ヶ月後の2009年7月7日)。また、材料の漆は岩手県北部で真夏に採取されたもので、精製したあと、ワインセラーのように土蔵の中で十年以上寝かされ使用されるとのこと。「家の空気に充分馴染んだ漆は、まろやかな花塗り漆や朱合漆となり、静かに使われる時を待つのです。」とやさしく大崎さんは語ってくれました。まさに職住一体とはこういうことだと証明されています。
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Posted by RSY事務局 at 17:12 | 村井雑感 | この記事のURL | コメント(0)
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