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2015年08月01日

第5回 盆踊り

8月といえば夏休みの真っ盛り。海水浴に行ったり、山間の行楽地に出かけたり、楽しい思い出作りの月です。そして、お盆の行事の月でもあります。お盆といえばお墓参り、14日と15日には実家に帰ってお墓参りをする人も多いようです。それは親戚どうしが集まり先祖と自分たちとの関係を懐かしむ機会でもあります。

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しかし、何といってもお盆といえば、盆踊りです。団地や町内会で催される盆踊り大会では、中央のやぐらを囲んで輪になって浴衣姿の男女がおおぜいで楽しく踊ります。東京音頭やアンパンマン音頭など、それぞれ地方ごと時代ごとの誰でも親しめる歌が大音響で流れて、見ていても楽しいのですが、思い切って踊りの輪の中に入って自分も踊ってみると、けっこう楽しい興奮を体験できます。

ところで盆踊りとはいったい何なのでしょうか。鎌倉時代の時宗の開祖の一遍上人が始めた踊り念仏に由来するという説もありますが、歴史の記録だけからの追跡ではよくわからない部分が多いようです。そこで参考になるのは、民間伝承として日本の各地に伝えられている盆踊りのいろいろです。
たとえば静岡県の遠州大念仏の類は新盆の家を廻って踊り、その年に新しく亡くなった死者の供養をするのですが、よく似た盆踊りが奥三河から南信州の山間地域にかけて広く伝えられています。それらはそもそも盆踊りとは、その年に亡くなった新しい死者の霊魂の鎮送と供養のための踊りだったということを伝えています。
また、秋田県雄勝郡羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊りは観光的にもよく知られていますが、踊り手が顔を黒い覆面で隠した不思議な魅力が印象的な盆踊りです。同じ秋田県鹿角市毛馬内の盆踊りも留め袖姿で着飾った美しい踊り手たちで知られていますが、みんな布の頬かむりで顔を隠して踊ります。覆面で顔を隠して踊る盆踊りの例は、他にも島根県津和野町などに伝えられています。それらの例が伝えている覆面というのは亡者の扮装であり、亡者(踊り手)たちがお盆の夜中のひととき、この世を訪れて舞い踊るという見立てです。そして、それこそが盆踊りのもともとの意味だったと考えられるのです。

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 熊本県の山鹿燈籠まつりの盆踊りは踊り手たちの綺麗な着物姿とともに頭上の灯籠が美しい盆踊りです。お盆の先祖供養や死者供養の行事に欠かせないのが燈籠です。お盆の行事では燈籠の明りとともに精霊を迎え、送ります。墓地にもたくさんの灯籠があげられます。その燈籠を頭上にしておおぜいの踊り手たちが舞い踊る光景は、精霊たちの訪れとその喜びとをみごとに表わしています。

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 観光行事として有名な徳島県の阿波踊りも盆踊りの一種です。それをよく表わしているのは両手をあげて踊る独特の所作でもありますが、何よりも菅笠です。遠州大念仏でも、秋田県の西馬音内や毛馬内の盆踊りでも、踊り手はその多くが菅笠をかぶって踊ります。菅笠は異郷からの来訪者を表わす意味を込められた衣装です。日本各地の盆踊りの観光化の程度はさまざまですが、古い伝統をよく伝える盆踊りの中には、もともと先祖や死者の供養のための踊りであったということを伝える要素がよく残っています。

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現在の団地や町内会で催される盆踊りではそのような要素はなくなっていますが、夏の夜の娯楽という意味はしっかりと残っています。若い男女の出会いの場というのも古くからの盆踊りの要素です。恥ずかしがらずに実際に参加して踊ってみてはいかがでしょうか。
「踊るあほうに見るあほう、同じあほなら踊らにゃ、そんそん」
踊っているうちに、ひとときでもあの世の先祖の霊と自分とがつながっているかのような、妙な興奮と感動を体験できるかも知れません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年07月01日

第4回 お中元

七月といえば、お中元の季節です。デパートではさまざまなアイデアを生かした商品を揃えて夏の商戦がヒートアップします。消費税アップの影響と、円安による輸入原料高から値上げが相次ぎ、売り上げに伸び悩むデパート業界にとっては、夏のお中元商戦は冬のお歳暮商戦とともに、その一年の業績を決定するほどの大切な機会となっています。消費者にとってもデパートにとっても、現代社会の一つの年中行事です。

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さて、誰に何をいつ贈るか、もう毎年のことなのでほとんど決まっている人も多いかと思いますが、結婚して新しい所帯をもった若い夫婦の場合など、いろいろと考え迷ってしまう人も多いことでしょう。そこでまず、誰に送るかですが、若い夫婦の両親やとくに親しい親戚同士というのがもっとも多く、会社など仕事場の上司や仕事上の付き合い先というのもかつてほどではないまでもやはり多いのが現状です。次に何を送るかですが、やはり飲食品が圧倒的に多いといってよいでしょう。そして、いつ送るかですが、これは関東と関西など、地方によって少しちがいがあります。7月上旬から発送して遅くても7月15日までには相手に届くようにするのが関東地方、7月中旬から発送して8月上旬に、遅くても8月15日までには相手に届くようにするのが関西地方というちがいです。お盆を月遅れで行なう関西地方ではその8月15日をめどにしているのです。
 このような、誰に何をいつ贈るのかというお中元の行事の傾向や特徴は、何に由来するのでしょうか。それは日本のお中元の歴史に由来します。お中元とはもともとは中国の道教の三元の信仰によるものです。1月・7月・10月のそれぞれ15日を、天官の上元・地官の中元・水官の下元として、その日には天官・地官・水官の三官がそれぞれ人間の行為を天神に報告しそれによって各人の運命が決定されるという信仰です。中国ではこの日に三官に罪を懺悔し供物を捧げて幸運を祈ったのです。日本にも伝えられたこの三元の信仰のうち、お盆の行事と同じ旧暦7月15日に当たっていたのが中元だったのです。
 日本のお盆の行事の中心は、もちろんお墓参りと先祖のみたまを各家へ迎えて供物でもてなすことです。しかし、もう一つ大切なのが盆(ぼん)供(く)と呼ばれる両親への贈り物でした。盆棚と呼ばれる新設の棚に、もしくはきれいに掃除した仏壇に、素麺(そうめん)やぼたもちやお茶などを朝晩供えて先祖のみたまと亡くなった両親のみたまをもてなすのです。ただしまだ両親が健在な場合には、いきみたま(生見玉)といって子どもたちが素麺(そうめん)や刺(さし)鯖(さば)を贈る風習が日本各地に伝えられていました。この風習の歴史は古く、たとえば鎌倉時代の藤原定家の日記『明月記』の天福元年(1233)7月14日条にも「俗習有父母者今日魚食云々」とあります。お盆に健在な父母には魚を食べてもらうというのです。
 この盆供といきみたま(生見玉)の習慣が、同じ7月15日ということで、江戸時代になると中元の供物と重なってきました。貝原益軒と甥の好古の編になる貞享期の『日本歳時記』(1687)には「十五日、今日を中元と云。国俗蓮(はすの)葉(は)飯(めし)を製して、来客に饗し、親戚にをくる」とあります。お盆の定番の料理である蓮(はすの)葉(は)飯(めし)を中元の日だから親戚に贈るというのです。天保期の『東都歳事記』(1838)には「中元御祝儀荷(はすのは)飯(めし)・刺鯖を時食とす」とあります。もともと盆供つまり盆の食べ物である荷(はすのは)飯(めし)・刺鯖を、中元の食べ物だと書いています。盆供の贈答が江戸時代に中元の贈答へと重なってきていたのです。お中元の贈答品に飲食物が多いのもこのような盆供といきみたま(生見玉)の伝統が生きているのです。

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 現在では古くからの盆供の習俗は影が薄くなってきています。しかし、お中元の行事はますます健在です。自分を産み育ててくれた両親への感謝の思い、日ごろお世話になっている仕事関係の人たちへの感謝の思いを伝えるお中元の習俗は、表面上のデパート商戦のヒートアップとは別に、その底流ではお盆とお中元の贈答習俗という人びとの感謝の伝統に支えられているのです。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年06月01日

第3回 花田植え

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広島県や岡山県など中国地方の中山間地農村には、はなやかな伝統行事「花田植(はなだうえ)」が伝えられています。
古くから「囃し田(はやしだ)」と呼ばれて、その起源は鎌倉、室町の中世にさかのぼると考えられています。
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その代表的なものが、平成23年(2011)11月にユネスコの世界無形文化遺産に登録された北広島町の「壬生の花田植」です。その記録が残っているのは江戸時代からで、近所の5戸から7戸くらいの農家で組をつくって、「ささら竹」を手にした「サンバイ」と呼ばれる男性の掛け声と歌謡に合わせて、大太鼓や小太鼓、手打ち鉦や笛でにぎやかに囃し、早乙女たちが美しい声で田植え唄を歌いながら田植えをしたことが旧家に所蔵される記録には書かれています。
 それらの中のとくに大規模なものが、田植えの季節の総仕上げとして行なわれていた大地主の家の田んぼで行なわれた「大田植え」でした。数十人の着飾った早乙女や大小の太鼓をはじめとする囃し方、綺麗に飾り立てた「飾り牛」も数十頭が出て、「サンバイ」の指揮のもと、いわば豪華な一大田園絵巻が繰り広げられていたのです。そして、田植えの後のごちそうやお酒の振る舞いで、その年のきびしかった田植えの労働の終了を祝い、楽しく一日を過ごしたのでした。

 この「壬生の花田植」は、壬生という町場の「囃し田」と川東という近くの農村部の「囃し田」とそれまで別々であった二つの団体が、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されるに際して合同して伝承するようになったものです。それは日本社会が昭和30年(1955)の神武景気からはじまり昭和48年(1948)の第1次オイルショックでいちおうの終息をみる高度経済成長期を経た直後のことでした。牛馬を使う昔ながらの農業から耕耘機やトラクターを使う農業へと変わっていました。農家が牛や馬を飼わなくなって日本各地の農村から牛も馬もいなくなっていきました。その高度経済成長期というのは、多くの若者たちが農村を離れて都市に集中していく時代でもありました。
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国の重要無形文化財への指定は、地元の人たちにとっては応援でもあり同時に負担でもありました。早乙女になる若い人も減り農耕用の牛がいなくなっても先祖から伝えられていた花田植は絶やすわけにはいかない伝統行事でした。
昭和58年(1983)の高速道路中国縦貫道の全線開通と千代田インターチェンジの利用拡大は地元にとって一つの力となりました。企業誘致でUターンする人たちもふえました。肉牛生産の牧場経営者の理解と協力を得て、十数頭の飾り牛を農業用に訓練してもらって水田に入れ、ふだんは企業に勤務する若い男性や女性が勤めを終えての時間を使って練習を重ね、サンバイ、囃し方、早乙女の役目を果たすように工夫が重ねられてきています。
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 2015年6月7日(日)、そんな関係者のたいへんな苦労をみじんも感じさせることなく、今年も初夏の青空の下、絢爛な花田植がおおぜいの観客の目と耳を楽しませてくれることでしょう。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年05月01日

第2回 女の家

五月五日は「こどもの日」。男の子のいる家では、鯉のぼりを揚げ、柏餅(かしわもち)や粽(ちまき)を食べて祝い、子どもたちの元気な成長を願います。青空に泳ぐ鯉のぼりは夏の近いことを知らせ、水田では植えられたばかりの稲苗の緑色がさわやかです。農業に根ざしていた古くからの季節行事の多くが廃れていった中で、三月三日のひな祭りや、五月五日の端午の節供など、子どもたちが喜ぶ行事は、今もさかんに行なわれています。ただし「こどもの日」というのは、戦後の昭和23年(1948)に「国民の祝日に関する法律」によって定められたもので、その歴史はまだ浅いのです。
端午の節供の歴史はもちろん古く、もと古代中国の行事で、六世紀頃の揚子江流域の行事を記した『荊楚(けいそ)歳時記(さいじき)』という本には、「五月は俗に悪月と称し、禁多し」とあり、雨季に入るこの時期、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)で門を飾ったり、菖蒲酒を飲んで邪気や疫病を祓い、また汨(べき)羅(ら)(湖南省北東部の湖)の淵に身を投じたという屈原(戦国時代の楚の政治家)の故事にならって、舟競争をしたり、薬草摘みをする風習があったことなどが記されています。
 古代の日本にもそれが伝わり、『万葉集』にはこの日にさかんに薬草狩りをした歌が収められています。平安時代中期の『枕草子』には、「節(せち)は、五月にしくはなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし」とあります。宮中では天皇から群臣にいたるまで、菖蒲や蓬の強い香りで邪気を祓う風習がありました。旧暦五月というのは現在では六月で、やがて梅雨入りとなり虫が出たりカビが生えたりして衛生に気をつけなければならない季節でした。だから平安貴族に限らず、広く農村社会でも近世以降、昭和の三十年代までは、日本の各地で家の屋根に菖蒲や蓬を挿したり、菖蒲の鉢巻をしたり菖蒲湯に入ったり菖蒲酒を飲んだりして、邪気を祓う風習がみられました。
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 そのような農村行事の中で、一風変わった風習がありました。それはこの五月五日を「女の家」といって、その日だけは女性たちが屋根に菖蒲や蓬を挿した家の中に籠り、お酒を飲むなどして自由気ままにふるまえるというものでした。男たちの介入できない一日であり、神奈川県津久井郡の山村、徳島県名西郡、香川県五郷村などの例が知られ、また、近松門左衛門の浄瑠璃『女殺油(おんなころしあぶらの)地獄(じごく)』(1721年初演)にも「五月五日の一夜さを、女の家といふぞかし」とあります。それはこれからはじまる田植えを前にした早乙女たちの心身を清める精進潔斎の意味のある五月五日の古くからの風習でした。
 現在では男の子の祝いの日である五月五日は、昔は若い早乙女の斎(いわ)いの日だったのです。
男の子の鯉のぼりの風習は、1800年代に江戸の町方で流行り始めたもので、下の安藤広重の「名所江戸百景」の水道橋駿河台の絵(1857年)が有名です。
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その遠景に吹き流しや鍾馗(しょうき)の絵柄の幟がみられるように、鯉のぼりの源流は戦国武者の旗指物や吹き流しにありました。乳幼児の死亡率の高かった江戸時代、武家社会では世継ぎの男子の健やかな成長を願う意味から、疫病除けの鍾馗絵が流行り、菖蒲が尚武にも通じるところから、家紋入りの幟を立てて男子の成長を祝う風習が起こり、それがやがて鯉の滝登りの龍門伝説へのあやかりによって鯉のぼりとなり、武家から町方へと広まっていったのです。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年04月01日

第1回 卯月八日

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四月といえば花見の季節です。
桜花とくに近年ではソメイヨシノが主役で、その薄ピンクの花咲き乱れる木の下で花見の宴が開かれています。会社では新入社員が、学校では新入生がそれぞれ胸はずませる季節ですね。
その四月の八日はまた古くから「花祭り」の日です。灌仏会(かんぶつえ)とか降誕会(ごうたんえ)といって各地の寺院では躑躅(つつじ)や卯の花など季節の花々で色鮮やかな花(はな)御堂(みどう)を飾り、釈迦如来の小型の誕生仏に甘茶をかけて祝います。『日本書紀』の推古天皇14年(606)の記事に、この年より寺ごとに四月八日と七月十五日に設齋(せつさい)つまり仏事を行なうとあり、この四月八日の灌仏会(かんぶつえ)と七月十五日の盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事の歴史が古いことが知られます。
 このような仏教寺院での行事とは別に、この「卯月八日」に行なわれる行事を日本各地で調べてみると、山から天道花(てんとうばな)などと呼ばれる躑躅(つつじ)やサツキの花々を採ってきて、竿の先に付けて庭先に立てたり、門口に挿しておくなどのさまざまな行事が伝えられていることがわかります。そのことに最初に注意したのは柳田國男や折口信夫で、その二人によると、人びとが山に遊んで花々を採ってくるのは、ちょうどこの苗代仕事の始まる季節に山から農作の神霊を里へと迎える意味があったのだろうと述べています。
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 仏教行事の四月八日の「花祭り」と民俗行事の「卯月八日」の天道(てんとう)花(ばな)と、その二つの行事に共通しているのは季節の花です。

しかし、民俗行事の卯月八日にはそれらとはまた別の習俗も伝えられています。それが虫害除けの呪い(まじない)です。蛆虫(うじむし)やムカデやマムシなどを避けるためといって、家屋や倉庫や便所などの建物の壁に
「千早振る卯月八日は吉日よ、噛み裂け虫を成敗ぞする」などの呪文を書いた紙札を貼るのです。この風習は最近まで東北地方から九州地方まで広く全国的にみられ、江戸時代の文化年間(1804−1818)に行なわれたアンケート調査の『諸国風俗問状答』にも、さまざまな虫害除けの呪いの紙札の風習が各地で行なわれていたことが記されています。
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 この卯月八日というのは旧暦の時代から伝えられていた行事で、現在の新暦では五月上旬から中旬です。季節感からいえば、童謡『茶摘み』の「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る」の八十八夜を過ぎ、また二十四節季の立夏を過ぎたころ。苗代仕事が始まり、さまざまな害虫もうごめき出す季節です。それはきれいに咲き乱れる花々を祭る季節であったと同時に、現在のように薬品の豊富でなかった時代には、何としても虫害除けの呪いが必要な季節だったのす。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年03月27日

平成27年度は「日本の祭りと行事」

昨年は「日本歌謡物語」と題し、古代からの日本の歌謡をご紹介してきました。
4月から始まる新シリーズは「日本の祭りと行事」。

全国各地の行事や祭事をご紹介し、日本という土地で培われた文化を季節にあわせてご紹介します。
地方によって違った風習を知っていただいたり、全国各地に広がった風習の源を探ったり。
これまで知らなかった日本の魅力をお届けします。

初回は4/1です。どうぞご期待ください!

2014年08月15日

第24回 大正から昭和の時代へ 流行歌

長野県中野市にある『中山晋平記念館』には、大正時代の女優松井須磨子の写真や資料があり、「カチューシャの唄」が紹介されています。作詞は島村抱月・相馬御風、作曲は中山晋平です。大正4年3月、トルストイ作『復活』が帝国劇場で上演された時、松井須磨子がこの歌を歌いました。

♪カチューシャ可愛いや、別れのつらさ、
せめて泡雪溶けぬ間と、神に願を 
ララ かけませうか。
♪カチューシャ可愛いや、別れのつらさ、
今宵一夜に降る雪の、明日は野山の 
ララ 道かくせ。
♪カチューシャ可愛や、別れのつらさ、
せめて又逢ふそれまでは、同じ姿で 
ララ 居てたもれ。(略)
(歌詞は『日本歌謡史』高野辰之著より)

後には大正デモクラシーといわれる時代です。文化の大衆化がおこり、西洋的な曲風のものが一般に歌われるようになりました。娯楽やスポーツも盛んになり、宝塚の少女歌劇団も誕生し、浅草オペラなどがもてはやされました。国産の蓄音機とレコードが1914年(大正3)にできました。そのころ「カチューシャの唄」のレコードが最もよく売れたそうです。

昭和になると、映画やカフェー、バー、ダンスホールの流行とともに歌謡曲も大はやりになりました。「紅屋の娘」「君恋し」「アラビアの歌」「東京行進曲」「愛して頂戴」など一般大衆に愛される歌謡がたくさんできてきました。とくに「神田小唄」は、当時の学生の様子を歌い、若い男女の心をとらえました。

♪肩で風切る学生さんは、
ジャズが音頭取る 神田神田神田、
家並家並に金文字かざり、
本にいはせる 神田神田神田。
♪ジャズは流れるレコードは廻る。
赤い灯影にボタンが光る。
白い蝶々かエプロンさんか、
下駄が音頭取る 神田神田神田。

世の中は非常に不景気で、ひどい就職難でした。「世界恐慌」が迫る中、若者たちの心はつらく行詰まっていました。にもかかわらず情緒たっぷり浮かれたように明るく歌うこの唄に、心を動かされるしかなかったようです。

時代は移り変わり、子どもたちは三味線ではなくピアノを習うようになってきました。歌謡も新たな時代へと常に変化していきます。これからも愛される歌謡にであっていきたいものです。
          
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今回で「にほん歌謡物語」も最終回とさせていただきます。長い間おつき合いいただき誠にありがとうございました。

資料:
新訂増補『日本歌謡史』高野辰之 著(五月書房)
『スーパー日本史』益田宗・中野睦夫 監修、古川清行 著(講談社)
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2014年08月01日

第23回 明治時代「流行歌」

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時代が江戸から明治に移り変わるとき全国に広まった歌は、『トコトンヤレ節』です。これは東征の戦いの際に、官軍鼓笛隊が歌ったもので、一度は聴いたことがあると思います。この歌の作詞は品川弥二郎で、作曲は大村益次郎とも芸妓ともいわれています。二人とも長州藩士で、官軍側がつくった歌ですが、全国的にはやりました。

♪宮さん宮さんお馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トコヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ トコヤレナ

軽快なリズムでわかりやすく誰もが口ずさみやすい歌は、新しい世の到来を告げるものでもあるかのように、人々に受け入れられました。

文明開化の世の中になると、生活が急激に西洋化され政治に目覚める人々もでてきました。政府は言論を拘束しはじめますが、それに反発した政論愛好家が自由思想を世に知らしめようとして歌った「壮士節」をご紹介しましょう。

♪民権論者の涙の雨で
みがき上げたる大和魂
国利民福増進して民力休養せ
若し成らなきやダイナマイトドン

♪四千余万の同胞(そなた)の為にや
赤い囚衣(しきせ)も苦にやならぬ
国利民福増進して民力休養せ
若し成らなきやダイナマイトドン

壮士とは自由民権論者のことで、自分たちの主張、意見を歌にして世に知らせようとしたのでしょう。

歌は世につれ歌につれといわれます。明治後期から昭和初期ころまで、世間では粋な「サノサ」と囃子がはいる「サノサ節」が盛んに唄われました。

♪主さんにとても添われぬ縁ならば
思ひ切りましょ忘れましょ
とはいふもののネエ心では添い遂げたいのが身の願 サノサ

古くより変わらぬ人情が登場するのは歌謡ならではですね。
明治になって交通の便も良くなり、徴兵などによって、地方との交流も盛んになり、日本中に情報が届くようになりました。歌もたちまち流行歌として広がっていったのです。

資料:
新訂増補『日本歌謡史』高野辰之 著(五月書房)
『スーパー日本史』益田宗・中野睦夫 監修、古川清行 著(講談社)
       
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2014年07月15日

第22回 江戸時代『山家鳥虫歌(さんかてうちゆうか)』

江戸時代の中期に全国から集められた民謡集『山家鳥虫歌』があります。68ヵ国、398首、祝唄を最初として、田植え、草取り、収穫などの労働歌、そして、恋歌が集められています。

その序文は、『古今和歌集』の仮名序に書かれた歌の心をとり入れています。
「〜(略)〜、事(こと)の繁(しげ)き中、見る事聞(きく)事に付(つけ)云ひ出(いだ)せる、〜(略)〜」
歌は心を楽しませるもの。どんなに生活が忙しくても、人々は何かにつけて歌をつくるものなのでしょうか。
最初は、山城国風(やましろくにぶり)の祝唄が紹介されています。

♪めでためでたの若松様よ 
枝も栄える葉も茂る

和泉の国に伝わる祝唄で全国的に歌われ、現代でも歌われているものがあります。

♪こなた百までわしや九十九まで
 髪に白髪の生(は)ゆるまで


恋の歌も生活に密着したものがほとんどです。

♪わしは小池の鯉鮒(こいふな)なれど
鯰男(なまずをとこ)はいやでそろ

「鯉」と「恋」を掛けています。鯰男とは「ぬらりぬらりと遊び暮らす男」のことです。うまく表現しています。

♪恋に焦(こ)がれて鳴く蝉よりも
鳴かぬ蛍が身を焦がす

蝉と蛍を恋の虫として比べています。鳴かずに恋に燃える蛍。忍ぶ恋心を蛍に託して歌っています。

♪五月雨(さつきあめ)ほど恋ひ忍ばれて
 今は秋田の落(おと)し水

昔は、人に恋い慕われたこの身ですが、今はもう飽きられてしまって、顧みられることはありません。なんだか、田植えの時に欲しがられた水のように、秋の刈り入れ時になるともう用のないと、田から落とされるのね、と女性の心を歌っています。「秋田」は「飽きた」の意を掛けたものなのです。

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恋歌はいつの時代にも人の心に生まれ歌われていくものです。「誰か作りし恋の路、いかなる人も踏み迷ふ」と隆達節にも歌われているように、どんな時代も、どんな人も恋には踏み迷うのかもしれません。

※解説文参考資料:『山家鳥虫歌』浅野健二校註

資料:
新訂増補『日本歌謡史』高野辰之著(五月書房)
『新日本古典文学大系 田植草紙 山家鳥虫歌 鄙廼一曲 琉歌百控』
友久武文/山内洋一/真鍋昌弘/森山弘毅/井出幸男/外間守善 校注(岩波書店) 
『山家鳥虫歌 近世諸国民謡集』浅野健二校註(岩波文庫)
『戦国時代の流行歌 高三隆達の世界』小野恭靖著(中公新書)

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2014年07月01日

第21回 戦国時代から江戸初期へ

戦国時代の末から江戸時代にむかって大流行したのは「隆達節(りゅうたつぶし)」という歌謡でした。大永7年(1527)、堺の町に生まれた高三隆達(たかざわりゅうたつ)が独特の節回しで歌い広めた流行歌です。

♪あら何ともなの、うき世やの
(ああ何ということなく、あっけなく過ぎ去ってしまう人生であることよ)

「隆達節」の中でも有名な歌で、無常観を短い言葉で言い表しています。戦国の世の定めは儚い命の哀しみ。この「あら何ともなの」は当時日常的に口にしていた表現だといわれます。

♪夢のうき世の露の命のわざくれ、なり次第よの、身はなり次第よの
(どうせ無常の世の無常の命だよ、なるがままに生きるしかないよ)

「わざくれ(どうせ)」もよくつかわれた言葉でした。なげやりな生き方にならざるを得ない哀しみが浮き彫りになります。

♪ただ遊べ、帰らぬ道は誰も同じ、柳は緑、花は紅(くれない)
(ただ夢中で遊ぶがよい。誰の人生も戻り道はない。それは柳が緑色で、花が紅色であるように、自明のことよ)

隆達は享楽的な人生観を歌う時も、人の世の儚さを背景にしていたのです。この歌も後戻りできない一回限りの人生を歌っています。また「柳は緑、花は紅」という言い回しもよく使われたようです。

♪、梅は匂ひ、花は紅、柳は緑、人は心
(梅は匂いが、桜の花は紅の色が、柳は緑が、そして人間は心こそが素晴らしい)

現代語訳:『戦国時代の流行歌 高三隆達の世界』小野恭靖著

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人生にとっては「心の豊かさ、深さ」が最も大切。それが人の色艶になると歌った「隆達節」。
その隆達の歌は、乱世に生を享けた多くの人々の心をとらえ、口ずさむ歌として大流行し、信長、秀吉、家康へと続いていく時代に欠かせない歌になりました。


資料:
新訂増補『日本歌謡史』高野辰之著(五月書房)
『戦国時代の流行歌 高三隆達の世界』小野恭靖著(中公新書)
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