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2016年08月01日

第5回 かき氷

暑い夏の美味しさといえば何といってもかき氷です。炎天下の日差しのもと汗いっぱいで一口!冷たーいおいしさが広がります。赤・緑・黄色のシロップや宇治金時、それにフルーツなどが添えられると豪華な美味しさが幸福感を一段と高めてくれます。

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 ところで、そんなかき氷の幸せを味わえた人たちの歴史とは、いつの時代までさかのぼれるのでしょうか。現在のような、鉋(かんな)状の刃をつけたかき氷機で作ったかき氷が売られるようになったのは、やはり戦後のことです。高度経済成長期(1955-73)に日本人の食生活は大きく変わりました。冷蔵と冷凍という技術が飛躍的に発展して、多くの人たちがその恩恵を受けられるようになりました。その昭和30年代に日本各地の子どもたちを喜ばせたのは、アイスキャンデー売りのおじさんでした。麦わら帽子をかぶって自転車にアイスキャンデーの旗をなびかせながら、村や町を廻っていました。それと同じころです、あの「氷旗」、白地に大きな赤い「氷」の文字に青い波をあしらった旗を掲げた店で、かき氷が人気を呼んでいました。ちょっと高価なアイスクリームが流行り始めていたのもやはり同じ、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていたころのことです。
 暑い夏にどうして冷たい氷を手に入れることができるのか、一つは、電気冷蔵庫と同じ原理を利用する冷凍技術の発達と製氷機の完成によってです。機械製氷が始まるのは明治期のことでした。明治16年(1887)東京製氷会社設立、明治40年(1907)に合併して日本製氷へ、とくに水産業の需要を主としてその発達と連動し、その後も吸収合併、戦時期の統制を経て、戦後にまた製氷事業が再開されました。そして現在の大手ニチレイへと展開していきます。

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 しかし、暑い夏の風物詩としての氷の利用の歴史は古く、機械製氷によるものだけではありません。冷たい氷を手に入れるもう一つが、天然氷の利用です。それは古代にまでさかのぼります。『日本書紀』仁徳天皇62年の大和国山辺郡都祁の「氷室」の記事が有名です。土を約3.5ⅿ位掘ってその上を厚く草で覆った室で、寒い冬季の氷を大量に貯蔵しておくものでした。夏季にその氷を取り出して利用したのです。平安時代に氷室から得られる天然氷の利用がみられたことは、『枕草子』の記事からもわかります。「あてなるもの、薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)、かりのこ、削り氷(ひ)に甘葛(あまづら)入れて新しき鋺(かなまり)に入れたる、水晶の数珠、藤の花、」(高貴なもの、薄紫色の上に表裏ともに白い襲(かさね)の汗衫を着ている童女の姿、鴨の卵、削り氷(ごおり)に甘味料の葛汁を入れて新しい金属製の碗に入れてあるもの、水晶の数珠、藤の花)と書かれています。冷たいかき氷の味を、あの清少納言も楽しんでいたのです。
天然氷の利用はその後も長く続き、明治時代には各地に天然氷の採氷池が開発され、五稜郭天然氷、日光天然氷、神奈川天然氷などが、機械氷とシェアを競ったほどでした。江戸時代から明治時代まで、夏季に氷の味を楽しんだという記事が散見されます。『浮世風呂』(1809‐13)には「氷水あがらんかい、冷やっこい、汲立てあがらんかい、冷やっこい」などとあり、『東京新繁昌記』には「涼味を炎天熱閙の間に売る者有り、氷や氷の声、清涼滴(したた)るが如く、歯牙為に寒し、堅氷を砕ひて冷水に和し、或は柑水と砂糖とを和す」とあります。明治のころは「氷水屋(こおりみずや)」とか「氷店」と呼ばれており、東京では「氷水屋は夏商(なつあきない)なれば、多く焼藷屋・汁粉屋・水菓子屋などの、一時これに転ずるも多く、氷水・雪の花・「アイスクリーム」より「ラムネ」などをも売る」(『東京風俗志』1901)とあります。大阪では「大阪の橋の名物たるや、固(もと)より喋々(ちょうちょう)するに及ばず。わけて夏になれば、橋上の氷店の盛なる、他に多く其此を見ず。」(『風俗画報』148号1897)と、たいへん賑わっていたことが記されています。

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 かき氷の魅力は、きれいな色彩や甘い味わいなどたくさんあります。主原料が氷ですから、ローカロリーでヘルシーなのでいろいろ楽しんでみませんか。かき氷は、夏の氷の芸術として、これからもますます進化していくにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年07月01日

第4回 鰻

鰻といえば土用の丑の日。この日に鰻を食べると夏病みしない、などと言います。そんな言い伝えや習慣はいつから始まったのでしょうか。

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現在もっとも流布しているのは、むかし江戸の町で商売がうまくいかない鰻屋が学者の平賀源内に相談し、「本日、土用丑の日」と書いて店先に貼るようにいわれ、そうしてみるとたちまち繁盛した、という話です。しかしこの話は古い記録にはみられません。意外と新しい、それも昭和も戦後になってからの作り話かもしれません。しかし、それなりに意味をもっています。だから否定も肯定もせず楽しく聞いておけばいいと思います。
それとは別に、土用の丑の日に鰻を食べる習慣は古く、『明和誌』(1822)には、「近き頃、寒中の日にべにをはき、土用に入り丑の日に鰻を食す。安永・天明の頃よりはじまる」とあります。安永・天明(1772−1789)の頃から、土用の丑の日に鰻を食べる習慣がみられたようですが、『江戸買物独案内』(1824)では、神田の春木屋善兵衛が元祖だと記しています。いずれにしても、江戸の町方で土用の丑の日に鰻を食べる習慣が生まれていたことは確かなようです。
鰻は、日本では古代からよく食べられていました。万葉集の巻16に収める大伴家持の次の歌二首がよく知られています。
石麿に われ物申す 夏痩せに
   良しといふ物そ 鰻取り食(め)せ
   
(石麿さんに申しますよ、夏痩せにいいということですから、鰻を取り寄せて、食べてください) 
痩す痩すも 生けらば あらむを はたやはた
   鰻を取ると 川に流るな
   
(痩せてはいながらも、生きていてこそですよ、鰻を取ろうとして、川で流されたりしないでくださいね) 

たしかに鰻は栄養価が高く、夏バテや食欲減退の予防に効果があります。古代から鰻は滋養に良いものとして食べられていたと考えられますが、何といっても鰻の食文化が磨き上げられたのは江戸時代でした。江戸初期の『料理物語』(1643)には、「なます、さしみ、すし、かばやき、こくせう、杉やき、山椒みそやき、此外いろいろ」とあり、さまざまな調理法で食べられていたことが知られます。かばやきというのは、江戸末期の『近世風俗志』(喜多川守貞『守貞漫稿』、1853)によれば、鰻を筒切りにして串に刺して焼いたので、その形が蒲穂に似ているから蒲焼といったのだと記しています。その後、醤油や味醂、調理法の発達で今日の身を開いて焼く方法が普及しても、名前だけは残ったのだというのです。なるほどと思わせる記事です。同書の巻5「鰻屋」の項では「京坂は背より裂きて中骨を去り、(中略)江戸は腹より裂きて中骨および首尾を去り」とあるのに、巻6「鰻蒲焼売り」の項では「京坂は鰻の腹を裂き、江戸は背を裂くなり」と、たがいに矛盾したことを平気で書いています。どうやら、腹裂きと背裂きとが京坂と江戸と、両方で併行していた時代があったらしいのです。

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現在では京阪は腹裂き→金串を打つ→素焼き→タレをつける→本焼き、東京では背裂き→竹串を打つ→素焼き→蒸す→タレをつる→本焼き、というのが通常です。
江戸では切腹を連想させるから腹は裂かない、と言い伝えています。近世文学研究者の延広真治氏によれば、江戸も元来は腹裂きで蒸しの工程はなかったが、文政年間のはじめ(1818)、下り鰻(秋の大雨による増水後や気温の低下で河川を下ってくる鰻、落ち鰻ともいう)を美味しく賞味できるよう蒸すようになり、蒸した後に串を打つ都合上、背裂きに変わったのだろうと述べておられます。平賀源内の話といい、武士の切腹の話といい、本当かどうかわからないままに、人びとの想像力が次々解説を生んでいくところがおもしろいですね。
 2014年に絶滅危惧種に指定されたニホンウナギ。その資源保護と持続可能な資源活用のため、国際的に政治・経済・学術の相互協力のもと対策が進められてきています。日本人にとって鰻は太古の昔から自然の恵みであり、日本の食文化の伝統を背負っています。資源保護への叡智が傾けられますようにと願わざるをえません。この夏も、遠慮しつつも大きな感謝の気持ちをこめて、鰻の蒲焼を味わってみてはいかがでしょうか。私はうな重が大好きです。土用の丑の日のピークをわざとはずして、先日ちょっとだけいただきました。小さなしあわせを感じました。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年06月01日

第3回 梅干し

六月は入梅の月、長雨の季節です。雨の中の通勤や通学で濡れた傘が電車の中でもに気になるし、じめじめと肌は汗ばみ、洗濯物も乾かない、いやな季節かもしれません。しかし、この梅雨の長雨は、東北地方から九州地方まで日本各地の農村では、稲の成育にとって欠かせない、まさに恵みの雨です。この初夏の長雨がなかったら、秋に稲の収穫ができません。おいしいごはんが食べられません。お寿司や日本酒や餅など、和食のごちそうも実はこの長雨のおかげなのです。 
そして、もう一つ、この季節の恵みが梅です。室町時代の連歌集『菟玖波集』(1356年)には、
 橘の 匂いになりぬ 梅の雨
と詠まれています。梅が日本でさかんに植樹されるようになったのは、奈良時代からのようです。色鮮やかで香りもよい梅の花が、新春を寿ぐ花として好まれました。『万葉集』には桜の花を詠った歌は43首しかありませんが、梅の花の歌は多く110首も収められています。その多くは恋の歌です。
 梅の花 咲きて散りなば 吾妹子(わぎもこ)を
   来むか来じかと 吾(あ)は松の木ぞ


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梅の花ではなく、梅の実が珍重されるようになったのは、平安時代になってからのようです。平安時代中期の医書『医心方』(984年)には、烏梅(うばい/むめぼし)を薬剤としたという記事があります。それは半熟の梅の実を干して煙でいぶして黒い薬剤としたもので、解毒作用の効能があったものと思われます。鎌倉時代の『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』にも烏梅(むめほし)とあるので、長く薬剤として用いられていたことがわかります。
一方、清少納言(966−1025年頃)の『枕草子』には、「にげなきもの(似つかわしくないもの・みっともないもの)」として、「歯もなき女の、梅食ひて酸(す)がりたる」とあります。歯のない老婆が梅を食べて酸っぱいと口をすぼめているさまが、みっともないというのです。ずいぶんとストレートな表現を清少納言という女性はするものですね。ただこれは、生の梅の実を庶民が季節の食材としていたことを知らせてくれる貴重な記事でもあります。しかし、それはまだ生の梅で、こんにちの梅干しのようなものではなかったでしょう。
梅干しという食材の登場は、おそらくは鎌倉時代の禅宗寺院での精進食あたりからだろうと思われます。室町時代の『庭訓往来』(1394−1428頃)にみえる「海月、熨斗鮑、梅干」という記事や、『蔭凉軒日録』明応元年(1492)12月22日の記事に、金柑や千餠や白芥子などとともに梅干しが供されたとある例からは、武家の饗応の膳に梅干しがあったことがわかります。
江戸時代になると、梅干しが各地でさかんに作られて士農工商あらゆる身分の人に広く賞味されるようになりました。大蔵永常(1768−1861)の『広益国産考』には、梅の木を植えて梅の実を収穫して農家の利益とするように勧めています。梅干しを詰めた酒樽が浪花から江戸へ、遠州相良から大坂へ、さかんに送られて利益をあげていたこと、また小田原名物の紫蘇巻き梅のことなどが書かれています。

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五月の連休に、私は世界に名だたる学者で粘菌研究や民俗学の先駆者として著名な南方熊楠の記念館のある紀伊田辺市に行ってきました。田辺市はみなべ町とともに名だたる紀州梅の産地で、和歌山県の超ブランド梅の南高梅の産地です。その絶品の味を現地で味わってきました。そこで梅干しのすばらしさが話題となりました。あの可愛らしい甲州小梅を一押しする人もいました。梅干しは、クエン酸やリンゴ酸などを含み、血液浄化、殺菌効果、老化防止、疲労回復などの効能があるまさに日本の歴史と文化が生んだ健康食品の第一です。それらをはじめ日本各地の梅干しや梅酒のすばらしさを発信するイベントが、地域の歴史を掘り起こしながら、これからますますさかんになるだろう、と語り合ったのでした。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年05月01日

第2回 粽と柏餅

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端午の節供のお菓子といえば、粽と柏餅ですね。
平安時代の『倭名類聚抄』に、「知萬木(ちまき)」は「菰葉を以て米をつつみ、灰汁を以て之を煮て爛熟させ、五月五日之を啖(くら)う」(原漢文)とあります。ずいぶん古い時代から五月の節供の食べ物だったことがわかります。現在の端午の節供は江戸幕府が定めた五節句から広まったものですが、そのもとは平安時代の宮中の年中行事の一つ端午の節会に由来します。旧暦五月のこの季節は、梅雨も近づきカビが生え、害虫や毒蛇が這いまわる季節であったため、平安京の貴族たちも、菖蒲や蓬草を屋根に刺したり、薬草類で作る薬玉を身に着けたり、菖蒲酒を飲み粽を食べて邪気をはらいました。粽に用いられる茅や笹には抗菌性があることがわかっていますが、むかしの人には経験的に知られていたようです。
 端午の節供の粽は、江戸時代になるとさかんに作られ賞味されていたことがわかります。元禄10年(1697)刊行の『本朝食鑑』は、粽には4種類あると記しています。
(1)蒸した糯米(もちごめ)を搗いて餅にし菰葉(まこものは)で包み乾した燈草(とうしんぐさ)で縛り、釜でよく煮てつくるもの。
(2)京都の川端道喜が考案した道喜粽と呼ばれるもので粳米(うるち)の米粉の細長いだんごをくま笹で包んで蒸したもの。禁裏にも納められて内裏粽とも呼ばれました。川端道喜は京都の和菓子の老舗で知られ、現在は米粉ではなく吉野の葛が用いられています。
(3)蒸した糯米(もちごめ)を搗いて餅にしたものを稲草(わら)で包んで蒸した黄白色の飴粽。
(4)駿州朝比奈の産で、朝比奈粽と呼ばれるもの。山茶花の樹根を焼いた灰汁に糯米を三昼夜浸してから蒸して搗いた餅を「藁のしべ」で包んで巻いた琥珀色のもの。
このように、すでに江戸時代にはさまざまな粽が作られ、その種類が話題となるほどでした。

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 その一方、柏餅については歴史上の記録が少なく、徳川譜代の内藤清内(1555−1608)の「天正日記」の天正18年(1590)7月23日の記事に「かしわもち」とあるのが古いと考えられています。しかし、その「天正日記」は偽書だという説もあり複雑です。江戸時代前期の仮名草子「酒餅論」には端午の節供の粽や柏餅のことが書かれていますので、おそらく寛文年間(1661⊸73)には柏餅があったといってよいでしょう。
 記録からだけだと、このように柏餅は新しいと思われますが、端午の節供と粽や柏餅の歴史を知らせてくれるのは文献記録だけではありません。日本各地で伝えられている五月節供の食べ物の民俗伝承の実際が参考になります。文化庁編『日本民俗地図』や(財)農山漁村文化協会『日本の食生活全集』全50巻などによると、東北地方から北陸地方へは笹の葉で糯米(もちごめ)を三角形に包んで煮るなどした笹巻や三角粽の例が多く、それは関東地方では柏餅、東海から近畿地方では柏餅と粽が多いことがわかります。中国地方から四国地方、そして九州地方では、粳米の上新粉を蒸して搗きこね、中に小豆餡をくるんだものが多いようです。名前は粽、柏餅、笹餅などですが、柏の葉がない地方なので、サンキライ(サルトリイバラ)の葉で両側から包む小豆餡入り餅で、地方によって「しば餅」とか「かからだご」などと、呼ばれています。
 端午の節供は、邪気をはらい健康を願う行事です。その節供の大切な食べ物が、笹巻、粽、柏餅なのですが、地方ごとにそれだけ多く伝えられているということは、記録にはなくともそれなりに長い歴史をもつ食べ物であることがわかります。むかしの人は笹や茅や柏葉の抗菌作用を経験的に知っており、その色彩と芳香を楽しむとともに厄除けの効験があるものとして大切にしていたと思われます。折口信夫は、三月や五月の節供などは、いずれも季節のめぐりの中で人びとの生命力が弱まり邪霊や悪霊に脅かされる一種の危機に生命力を強化するための行事として伝えられてきたのだといっています。正月の鏡餅や屠蘇、三月の菱餅や白酒、五月の粽や柏餅や菖蒲酒、いずれも米から作る季節にあわせた餅や酒で、生命力を強化するためのお節供だったのです。粽、柏餅は新たな生命力になるのだ、という健康への思いで味わってみるのもよいのではないでしょうか。

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文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年04月01日

第1回 花見弁当

お花見の季節です。日本では各地で桜の名所にはこと欠きません。なぜ、日本人はそんなに桜の花が好きなのでしょうか。

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一つの答えは昔の歌人、西行(1118−1190)の歌に隠されているようです。
「吉野山 こずえの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」
「あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき」

山桜の花を見ると、心(魂)が身から抜け出てしまう、というのです。そして、花が散ると、心はまたもとの身体へと帰り、ふつうの生活にもどる。つまり、多くの日本人にとって、心が身体から抜け出てしまい居ても立ってもいられないような気持ちにさせる花、それが桜花らしいのです。
 桜花の花見の始まりは、平安時代の宮中でした。『日本後紀』弘仁3年(812)2月辛丑12日条に「宮中花宴」の記事がみられます。嵯峨天皇の時代の、神泉苑での清らかな花見の宴でした。
室町時代、京の都人たちの花見の喧噪をよそに、夢幻の中の静かな花見の世界を描いたのが、世阿弥(1363−1443)の名作「西行桜」です。桜の美しい京都の西山に隠れ住む西行の草庵近くに、花見の人びとが次々に訪れるので、静寂を破られるのを嘆いた西行が、
「花見にと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがには有りける」と詠みます。すると、花見の人びとが去り静寂が戻った夜、どこからともなく老いた桜の木の精が現れ、草庵の静寂を妨げられたのを桜の咎というのは不当ではないか、と抗議します。しかしその後、西行とともに都の桜の名所の美しさを語り合い、興が募って謡い舞ううちに春の夜が白みはじめ桜の精は消えていきます。ふと気が付くと、あたり一面雪のように散り敷く花の中で、西行は我に帰る、という趣向の謡曲です。
 絢爛豪華な桃山時代の花見の代表は、豊臣秀吉の「醍醐の花見」でしょう。諸大名に女房衆を集めた大規模な花見で有名です。江戸時代になれば、庶民もにぎやかに花見を楽しむようになります。そして、それは現代にまで続きます。

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 花見といえばごちそうです。老舗の料理屋さんやデパートなどでは、現在でも花見弁当に100種類以上の品数が揃えられており、もはや年末のおせち料理に次ぐくらいになっています。
花見弁当の登場は江戸時代のことです。記事の早い例としては、織田信長が安土城で花見弁当を初めて見たという伝説があるのですが(『和訓栞』1862)、江戸時代になるととくに京都を先進地域として江戸や大坂などの都市部で広まったようです。17世紀半ばの俳諧には「弁当や花見の種をまくの内」などとあります。
花見弁当の献立を詳しく書いたのが、19世紀初頭の『料理早指南』(全四編1801-1804刊行)という本です。「花見の提重詰」に小割籠がセットになっており、上・中・下の三種類の献立が記されています。いま読んでみても驚くのは、四重と瓶子でたいへんなごちそうが揃えてあることです。

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初重は、詰め合わせで九種。かすてら玉子、わたかまぼこ、わか鮎(いろ付やき)、むつの子、はや竹の子(うま煮)、早わらび、うちぎんなん、長ひじき、春がすみ(よせもの)
二重は、引肴で、むしがれい(うすく切てほいろにかける)、さくら鯛(ほねぬきはやずし)、干大こん(五ぶつけむすびておびあかとうからし)、かんろばい(白さとう)
三重には、ひらめ(さし身)、さより(ほそつくり)、しらかうど、わかめ、赤すみそしき、そして割籠がつき、よめな、つくし、かや(小口ひたし物)、焼飯。
四重は、蒸し物で、小ぐらの(きんとん)、紅梅もち、椿もち、薄皮もち、かるかん、それに、お酒の瓶子で、すみ田川中くみ。
どこかの料亭でぜひ再現してみてほしいくらいのごちそうです。
 少し時間にゆとりのある方は、自前の花見弁当の重詰めを作って、家族や友だちといっしょに満開の桜花を愛でてみてはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年03月31日

平成28年度は「季節の食と文化」

平成28年度、4月からの新シリーズは、
「季節の食と文化」

世界で注目されている「和食」ですが、日本各地には風土で培われたさまざまな食材や、食文化があります。全国各地で親しまれる行事食、地方色豊かな旬の食材など、歴史や文化をひもときながらご紹介します。
執筆は前シリーズより引き続き、国立歴史民俗博物館名誉教授の新谷尚紀氏(日本文化藝術財団専門委員)です。
毎月1日に更新します。お楽しみに!

2016年03月01日

第12回 ひな祭り

 3月3日はひな祭りですね。桃の節供とも、上巳の節供ともいいます。女の子のいる家では、二月のうちからひな人形を飾り、なんとなく華やいだ感じがして春が来たことを実感させます。このひな祭りの由来については、意外と複雑です。

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その沿革としては、第1に奈良時代から平安時代にかけての貴族たちが行なっていた「曲水の宴」、第2に平安時代の貴族の少女たちの人形遊びの「ひいな遊び」、第3に祓え清めのための呪具、祓具としての「ひとがた」、という3つの流れがあります。そして、それに加えて、第4に一般の庶民のあいだで伝えられてきた「山遊び」や「磯遊び」の習俗があります。
 第1の、「曲水の宴」というのは、曲がりくねった流水のほとりに座って水に盃を浮かべ、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎぬうちに和歌を詠むという遊びです。『万葉集』にも、「漢人(からひと)も 筏(ふね)を浮かべて 遊ぶといふ 今日ぞわが背子 花蘰(はなかずら)せよ」という歌があります。これは、天平勝宝2年(750)の3月3日に大伴家持が詠んだ歌です。花蘰(はなかずら)の花は桃の花であった可能性もあります。
 第2の、「ひいな遊び」とは、平安時代の貴族の少女たちの人形遊びです。紫式部の『源氏物語』や清少納言の「枕草子」などにも描かれています。
 第3の、祓具としての「ひとがた」の記事は、『源氏物語』(須磨)にみられます。光源氏が須磨の海岸で3月の上巳の日に陰陽師を召して浜辺で祓えをさせ、人形を舟に乗せて流したという記事です。この3月の上巳の祓えは、人形を身体にこすりつけ息を吹きかけて自分の穢れを人形に託し、水辺に流し捨てるという行事でした。上巳というのはその月の最初の巳の日という意味です。
 3月3日の上巳の節供に人形を贈呈する習俗がみられるようになるのは、室町時代の京都の公家たちのあいだでのことでした。万里小路時房の日記『建内記』の永享12年(1440)の記事には、3月3日に上巳の祓えのための撫(な)で物(形代(かたしろ))として人形(にんぎょう)が贈られたということが書かれています。一方、ひな遊びが3月3日に行なわれるようになったことを示しているのは江戸時代初期の西洞院時慶の日記『時慶卿記』の寛永6年(1629)の記事です。
 こののち、江戸幕府によって公式の年中行事として五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が定められます。武家の公式行事となったことで、上巳の節供も盛んに祝われるようになり、寛永雛や享保雛、古今雛などと呼ばれるひな人形の美術工芸品も作られるようになりました。
 一般庶民のあいだで、ひな人形を飾るようになったことを示す記事は、江戸時代後期のもので、文政13年(1830)成立の随筆集『嬉遊笑覧』にみられます。

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 さて、冒頭であげた第4の、「山遊び」や「磯遊び」ですが、旧暦3月3日頃といえば、現在の新暦では4月初旬頃です。寒い冬が終わり暖かい春が訪れて、これから田植えの準備など農作業が忙しくなるこの時期、蓬を摘んで草餅を作り、ご馳走を弁当に詰めて、山野に咲き始める花々を眺めたり、水もぬるむ磯辺で魚介をとったりして一日遊ぶという行事でした。その行事には娯楽の意味もありましたが、山の神など自然の神々を招いてその年の五穀豊穣を祈るという意味も含まれていました。中部・東海地方などでは、女の子たちが河原に竈(かまど)を築いて煮炊きをし、ひな人形と遊び、最後に人形は川に流すという行事を近年まで伝えていた地域がたくさんありました。しかし、高度経済成長期を境として、それらの屋外の行事は急速にすたれていきました。現在では観光化された鳥取県下の流し雛などがよく知られるようになってきています。
 飾り雛は3月3日を過ぎないうちに早くしまわないといけない、とよくいいます。その言い伝えの背景には、女の子の災厄を人形に託して祓え清め、健康と成育を願うという伝統が生き続けているのです。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年02月01日

第11回 節分と豆まき

2月3日は節分、節分といえば豆まきですね。「鬼はぁ外、福はぁ内」の掛け声とともに、邪気や災厄を祓う行事です。

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 そもそも節分とは何か。立春、立夏、立秋、立冬の前日、季節の変わる節目の日のことです。4回の節分のうち、立春の前日の節分だけがなぜいまも残っているのか。それは、旧年から新年へという変わり目の正月と同じ季節だからです。旧暦では、月と太陽のリズムを併せ用いる太陰太陽暦でした。月の満ち欠けの一巡りでやってくる新年が正月で、太陽の一巡りでやってくる新年が立春です。一年の区切り目に正月と立春の二つがあったのです(新谷尚紀『日本人の春夏秋冬』小学館)。そして、それはほぼ同じ時季、新暦の2月初旬でした。
『古今和歌集』の冒頭につぎのようなおもしろい歌があります。
「年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ」
立春はふつう新年にやってくるものなのに、今年は正月よりも先に立春がきてしまった。いまは去年というべきか今年というべきか迷ってしまいますね、という意味の歌です。
 正月と立春の行事には一年の初めという意味で、共通する特徴が三つあります。一つは旧年に蓄積した災厄や汚れの祓え清め、二つめは清新な生命力を得る年取り、三つめは新年をよい年にという祈願と招福です。節分の豆まきは一つめの祓え清めです。玄関先に焼いた鰯の頭を柊(ひいらぎ)に刺しておくのも魔除けの意味です。それに対して、年齢の数より一つ多く豆を食べるのは二つめの年取りの意味です。恵方巻きは風習としては新しいものですが、その背景には三つめの招福の意味があります。だからそれなりに流行っているのです。

 では、節分の鬼と豆まきとは、いつの時代に始まったものなのでしょうか。比較的古い記録としては、室町時代の『看聞日記』が知られています。応永32年(1425)の節分の日の記事に「鬼大豆打」とあります。そこでは豆まき役の若い公家が、その役を決めつけられるのをとてもいやがっています。祓え清めの役はいやだというのです。室町時代後期の武家の作法書である『今川大双紙』では、「節分の夜の鬼の大豆をも、御年男きん(勤)ずる也」とあります。そのころから豆まきの役は厄年に当たる年男がつとめるものだとされていたことがわかります。豆まきが鬼を追い払う役であると同時に、自分の厄を祓うという考え方があったのです。江戸時代になると、庶民の間でも豆まきがさかんに行なわれるようになります。
 節分に鬼を追い払うという行事のルーツをたどっていくと、古代中国に起源をもち、奈良時代以来のこと、平安時代にも引き継がれた宮中での大晦日の晩の追儺(ついな)の行事があります。角の生えた熊皮をかぶり、黄金の四ツ目の仮面、黒い衣服に赤い裳を着し、戈(ほこ)と楯(たて)をもった方相氏(ほうそうし)と呼ばれる異様な扮装の役の者が中心となり、侲子(しんし)と呼ばれる者20人を率いて内裏の四門をめぐります。その方相氏が大声を発して戈で楯を撃つと、親王以下群臣が桃弓(もものゆみ)に葦矢(あしのや)そして桃杖(もものつえ)をもって、悪鬼、疫鬼を追い払うという行事でした。

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その追儺の行事が、平安時代の宮廷や大寺院で行なわれ伝えられていくうちに変化が起こりました。一つめの変化は、異様な風体の方相氏が逆に鬼と見なされるようになったことです。二つめは大寺院での修正会や修二会の鬼追いの祈禱行事へとなったことでした。さらに三つめは、大晦日と節分の時季の近さから、大晦日の追儺ではなく節分の行事として定着していったことです。
 節分の行事はこのように歴史の中でいろいろと大きな変化を重ねてきています。しかし、祓え清め、年取り、祈願と招福、という三つの意味があることには変わりありません。今年もぜひ、2月3日の節分の晩は、豆まきを楽しんでみてはいかがでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年01月01日

第10回 今年はサル年

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 今年の干支は丙(ひのえ)申(さる)、申年です。陰陽五行では丙(ひのえ)は火の兄(え)、申は金の陽で、熱く硬いイメージの年でもあり、草木が伸び果実が成熟しあらゆる物事が形を成していくような機運の年でもあります。
 さて、正月といえば初詣。サル年にちなむ神社といえば、やはり栃木県の日光東照宮でしょう。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹のサルが有名です。でもなぜ東照宮にサルの彫刻があるのでしょうか。
 第一に注目されるのは、その彫刻が神社の本殿ではなく、神馬の厩舎(きゅうしゃ)にあるということです。サルには馬の守り神としての信仰がふるくからありました。中世の『一遍聖絵』や『石山寺縁起絵巻』には厩舎につながれた猿が描かれています。

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農耕馬が川で泥を洗い落としたり水辺で草を食(は)んでいると、河童が馬の尻子玉を狙って尻尾にしがみつき水中に引き込もうとする「河童駒引き」という話があります。その河童から馬を守ると信じられたのがサルでした。河童ならぬサルの駒引きの絵馬を厩舎に掛けてお守りとしたり、厩舎の柱にサルの頭蓋骨やミイラ化した腕などを掛けていた例も多くありました。また正月にかつて多くみられたサルまわし芸は、中世の『吾妻鏡』などにも登場し、近世末期まで朝廷や将軍家でも年賀の行事に組み込まれていました。サルまわし芸の人たちは、頼めば厩舎で馬の安全を拝んでくれたりもしました。柳田國男はそのような猿まわし芸の人たちの情報を集め、彼らは単に見世物芸というだけでなく馬の医者をも兼ねていたと述べています。
 第二に注目されるのは、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿です。それはもともと中国の道教の三尸(さんし)の説から出た「庚申信仰」に由来します。61日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人間が眠ると体内にいる三尸の虫が体から抜け出て天帝にその人間の罪過を告げて早死にさせるので、その夜は徹夜をするという信仰と行事でした。古代中国で成立し、日本では平安時代の宮廷貴族の間に広まりました。その徹夜の行事は「守庚申(しゅこうしん)」や「庚申の御遊(ぎょゆう)」と呼ばれ、酒宴を催し詩歌、管弦、碁、双六などに興じる娯楽中心のものでした。それが青面金剛(しょうめんこんごう)を庚申様として信仰するものへと変換したのは室町時代のことで、推進したのは天台宗系の修験者たちでした(拙著『死と人生の民俗学』1995)。江戸時代にはその庚申信仰が庶民の間にも広く普及し、各地で石造の庚申塔が建てられました。初期の庚申塔に刻まれたのが、青面金剛と三匹のサルです。そのころには、天帝に罪過を告げる三尸の虫が、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿へと変換されてきていたのです。
 そして第三に注目されるのが、日光東照宮の創建に大きくかかわり、家康の知恵袋ともいわれた南光坊天海です。天海が学んだのは比叡山延暦寺の天台教学でした。比叡山の地主神は日吉山王権現です。豊臣秀吉=日吉丸がサルと呼ばれたように、日吉山王権現のお使いはサルでした。徹夜の遊宴だった庚申の信仰と行事を、青面金剛の信仰へと大きく変換させたのも天台宗系の修験者たちでした。
こうしてみてくると江戸の初期、日光東照宮の創建に信仰面で深くかかわった天海と、政治経済・技術で貢献した人たちの信仰世界と、その間には、@神馬を守る厩舎のサル、A庚申信仰の三尸から三猿へと変換したサル、B日吉山王権現の使いとしてのサル、という三つのサルのイメージが、無意識的に共有されていたのであろうと考えられるのです。

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この新春、初詣に出かける人もそうでない人も、サル年にちなみ機会をみて栃木県の日光東照宮や滋賀県の日吉神社を訪れてみてはいかがでしょうか。これらに限らず由緒の古い神社には、まだまだ多くの歴史と民俗のミステリーが隠されているにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年12月01日

第9回 冬至

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 12月といえば1年の締めくくりの月、慌ただしく師が走るくらい忙しい月だから「師走」という俗説は、平安時代末期の『色葉字類抄』にもあります。その12月といえば、やはり冬至です。今年は12月22日(火)です。1年でいちばん日照時間が短くなる日です。この日は太陽の力がもっとも弱くなり、人間をはじめ動植物も生命力が衰弱してある種の危機と感じられるような日ですが、しかし、同時にこの日をさかいに陽気が回復してきます。つまり、冬至には、これから生命力が再生復活していくという「一陽来復」の信仰が伝えられています。
 この冬至に食べるとよいといわれているのがカボチャです。カボチャを食べると病気にならず、元気に冬を越せる、幸運に恵まれる、などといわれています。カボチャはカンボジアに通じる名前で、16世紀にポルトガル船によって伝えられた食物です。南瓜(なんきん)とか唐茄子(とうなす)などとも呼ばれており、比較的新しい食材であるためか、江戸時代の記録類にはまだカボチャが冬至の縁起物の食物だという記事はみられません。

また、冬至には柚子湯に入るとその冬は風邪をひかないとか、ひびやあかぎれが治るなどといいます。江戸後期の『東都歳事記』には「今日銭湯風呂屋にて柚子を焚く」とあります。冬至に柚子やみかんや柑子などの柑橘類をもって祝うという風習は長い歴史をもっています。それを教えてくれるのが日本各地の鍛冶屋や鉄工所で冬至の日に行なわれている「ふいご祭り」の伝承です。
「ふいご」というのは鍛冶の炉の火力を強くするための送風器具です。金屋子神とか金山神とか稲荷神とか、鍛冶屋や鉄工所で祭られている神さまは各地でさまざまですが、共通しているお供えがみかんです。

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(写真提供:國學院大學)

最近の研究(黒田迪子「ふいご祭りの伝承とその重層性について」『國學院雑誌』第116巻第8号)によると、鉄に焼きを入れるもっとも大切な瞬間の熱せられた鉄の色がちょうどみかんの色に通じるもので、それは太陽の光の色にも通じます。「ふいご祭り」には太陽のもっとも弱くなる冬至に、陰陽五行の信仰を背景として「一陽来復」の信仰とともに、新たな一年の始まりを祝うという意味が込められているのです。

柑橘類の歴史をみれば、日本書紀には常世国に遣わされたタジマモリ(田道間守)という人が、不老長寿のトキジクノカグノコノミ(非時の香菓)を求め得てきたという記事があります。古事記は「これ今の橘なり」と記しています。
万葉集にも
橘は 実さへ花さへその葉さへ 枝に霜降れど 弥常葉の樹
と詠われています。柑橘類には古くから不老長寿の果実として、常緑葉の生命力のある果樹としての意味が与えられていたのです。
現在、京都の平安神宮の紫宸殿の前庭には「左近の桜 右近の橘」がありますが、もともと平安時代前期は、「左近の梅 右近の橘」でした(古事談)。それは、「天子南面」といわれる都城制の中で、冬から春への年越しの永続性を象徴的に示すものでした。「冬至の橘」から「新春の梅」へという、歴代天皇の御代(みよ)御代(みよ)の永遠更新への願いが込められていたのです。
 カボチャや柚子の黄色や小豆粥の赤色は、いずれも冬至が太陽と火の祭りであったという古い伝統をいまに伝えているものなのです。

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12月22日の冬至の日には、身体によいというカボチャや小豆粥を食べ、柚子湯でゆっくり温まり、この日から始まる太陽のめぐりの新しい1年を清々しい心身で迎えてみてはいかがでしょうか。