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2016年11月01日

第8回 蕎麦

 11月は、新そばの季節。秋の新そばは、味も香りも色合いもよく、秋新(あきしん)などと呼ばれ、むかしからそば通(つう)に好まれてきました。麺類が好きな人たちに、うどん派ですかそば派ですか、と尋ねます。すると、うどん派の人はそうでもないのですが、そば派の人はこだわりがなかなか強いようです。そばの味のよさや食べ方について、またそばの名店について、それぞれ自分が知っていることを自慢しあいます。

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 そばが現在のように美味しいごちそうになったのは、歴史的にみてそれほど古いことではありません。そばの歴史をふりかえってみると、むかしのそばは決してごちそうではありませんでした。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に、道明阿闍梨という平安時代中期の高僧にまつわる説話が紹介されています。修行の旅の途中で、山の住人にそばをふるまわれたときの話です。そこで次のような歌が詠まれています。
 ひたはへて 鳥だにすへぬ そまむぎに
   ししつきぬべき 心ちこそすれ

(一面に生えていて、鳥さえ食べないような「そまむぎ(蕎麦)」を食膳に供されて、肝を冷やすほどの心地がしました)
 平安京の都に住む上流階級の貴族や高僧にとって、そばは人間の食べ物とすら考えられていなかったようなのです。道明阿闍梨に供されたのは、蕎麦の粒をそのまま粥にしたものであった可能性があります。あるいはそば粉にして練った蕎麦掻(そばが)きか、そば粉を水で溶いて焼いた蕎麦(そば)焼(や)きだったかもしれません。

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 そばが人気の食べ物になるのは、麺状の蕎麦(そば)切(き)りになってからです。蕎麦切りの初見については多くの人が注目してきました。現在では、信濃国(現在の長野県)木曽郡大桑村須原の定勝寺の『定勝寺文書』の天正2年(1574)3月16日条の「振舞ソハキリ」だというのが定説になっています。定勝寺の修復工事の竣工祝いの品々とその寄進者の名前が記されており、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」などとあり、千村淡路守夫人が酒を徳利で1本とそば粉1袋、金永という人物が蕎麦切りを振る舞ったというのです。その他、蕎麦切りの発祥地については古くから諸説ありますが、やはり信州からだろうというのが定説です。それが江戸時代になって江戸や大坂などの近世都市で流行し、たくさんのそば屋が繁盛していったのでした。江戸時代前期の寛永20年(1643)版『料理物語』には、蕎麦切りの製法が詳しく記され、味付けにも大根の汁、花ガツオ、おろしアサツキの類、からし、わさびなどがよいと記されています。江戸時代中期の寛延4年(1751)脱稿の『蕎麦全書』には江戸におけるそば作りの技法やそば屋の名店とその店のそばの呼び名をたくさん紹介しています。日本のそばの一大発展期は、寛延年間(1748−1951)をはじめとする江戸中期だったのです。

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 現在の日本でそばが話題になるのはやはり年末の年越しそばでしょう。では、その起源はいつころのことでしょうか。現在わかっている範囲では、実はこれも江戸中期、寛延年間のことなのです。寛延3年(1750)の句集『玄峰集』に、「蕎麦打ちて 眉(まゆ)髭(ひげ)白し 年の暮(くれ)」という句があります。蕎麦を打ったので粉で眉や髭が白くなった、という内容です。正月の年取りに際しての縁起かつぎで、そばは長くてのびるから寿命が延びるという長寿の願いが込められているのです。
 私はうどん派かそば派かと問われれば、だんぜんそば派です。陸奥地方に行けばわんこそば、越後ではへぎそば、出雲ではもちろん割り子そばです。旅の楽しみの一つは、その土地の美味しいものを食べることです。日本各地にそばの美味しい店があります。そばは栄養バランスも抜群です。ぜひ秋の新そばを各地で味わってみてはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年10月01日

第7回 牡蠣

 10月は英語でOctober、仏語でOctobre、Rがつく月です。欧米ではRがつかない月の牡蠣は食べるなといいます。私は1991年からおよそ20年ばかりフランスのブルターニュ地方の伝統行事について調査に通っていました。(新谷・関沢『ブルターニュのパルドン祭り−日本民俗学のフランス調査―』2008、悠書館) 魚介類がたいへん美味しい地域です。でもやはり、Rのつかない月の牡蠣は食べるなといっていました。8月Aoûtの行事の調査だったので、いつも牡蠣を食べられないのが残念でした。

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しかし、2001年3月、追跡調査でRがつく3月Marsにブルターニュを訪れました。地元の人に勧められ、カンカルという小さな町のレストランで食べた牡蠣の美味しかったこと、いまでも忘れられません。白ワインのシャブリと、ブロンやプラトーと呼ばれる丸い形のヒラガキの味は絶妙でした。日本と同じマガキもありました。それはクルーズと呼ばれていました。
1960年代末から70年代初頭のことです。フランスの養殖牡蠣が、ウイルスの蔓延で全滅の危機に襲われました。そのときフランスの牡蠣養殖業を奇跡的に救ったのは、日本から輸入された宮城県産のマガキの稚貝でした。現在ではそのマガキの子孫であるクルーズの方がフランスでも生産量も多くよく食べられています。
 日本でもこれから寒い季節にかけて牡蠣のシーズンがやってきます。日本の牡蠣はマガキと呼ばれる種類です。あの長い形、フランスでいうクルーズです。牡蠣はその味も美味で絶妙ですが、「海のミルク」とも呼ばれ、栄養の面でも申し分のない食材です。好きな人はどんどん食べて健康増進をはかることをお勧めしたいと思います。

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 世界中で食べられている牡蠣ですが、日本ではいつごろから食べられていたのでしょうか。考古学の発掘成果によれば、日本各地の縄文時代の貝塚から出土する貝の中では、ハマグリに次いで多いのがカキです。奈良時代の仏教説話集『日本霊異記』には、漁獲としてあがったカキを食べずに放生して善報を得たという話が載せられています。平安時代の『延喜式』には、伊勢国からの貢納物に蠣、礒蠣があったことが記されています。古代から牡蠣の味は日本人にとても好まれていたようです。
 現在の牡蠣の生産はほとんどが養殖によるものとなっています。その養殖の技術が始まったのは、天文年間(1532−1555)に安芸国(現在の広島県)の漁村から、とか江戸時代延宝元年(1673)に安芸国の草津で小林五郎左衛門という人物がヒビ(竹や雑木を干潟に立てたもの)に牡蠣を付着させて育てる方法を用いてからだなどと伝えられています(『廣島牡蠣養殖場ニ関スル成跡書』)。最近まで、その広島県に次ぐ牡蠣の生産高を誇っていたのは宮城県でした。その宮城県に牡蠣の養殖を定着させたのは、アメリカで牡蠣の養殖技術を磨いて帰国し、石巻市で実用化に成功した沖縄出身の宮城新昌(1884−1967)と、三陸出身の伝説的な水産業者の水上助三郎(1864−1922)との出会いからでした。その宮城県の牡蠣は東京など首都圏で喜ばれ、一大ブランドに成長しました。しかし、2011年3月11日、東日本大震災が三陸地方を襲います。宮城県の牡蠣養殖業は壊滅的な打撃を受けてしまいました。そのときです。かつて、宮城県の牡蠣が救ったフランスの牡蠣養殖業から、救援の手が差し伸べられたのです。フランスから牡蠣の稚貝や養殖に必要な物資が届けられ、生産を再開することができました。そして、皮肉なことに大津波は沿岸の泥やごみをみんな沖の方へと運び、いま、そのきれいになった海岸で新鮮で美味しい牡蠣が育っています。

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 広島県の牡蠣も、宮城県の牡蠣も、また岡山県の牡蠣も日本の古くからの伝統ある食材です。栄養も満点。これから寒くなる季節、生ガキや牡蠣の土手鍋などぜひ楽しんでみましょう。ちなみに、フランスでは牡蠣は生食だけです。日本ではフランスとちがって、Rのつかない5月Maiからむしろ食べ始めるイワガキもあります。牡蠣の日仏文化の共通点と相違点とがまたおもしろいですね。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年09月01日

第6回 栗菓子

むかしからの秋の味覚といえば、やはり栗でしょう。昭和30年代まで、日本各地の農村では、里山から野生の山栗がたくさん採れました。大栗の木が植樹されていた家では、子供たちは朝はまだ薄暗い時刻に誰よりも早く起きて、熟れて地面に落ちているイガイガの大栗を拾うのが楽しみでした。栗の実を上手に取り出してそのまま焼いて食べたりゆでて食べたり、また栗ご飯に炊いてもらったりしました。「桃栗3年、柿8年」などといって、果樹の恵みは先祖のおかげだと言い聞かされたものでした。

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その後の高度経済成長は、身近な材料の手作り菓子よりも、洗練された美味しい商品としてのお菓子の流通の時代をもたらしました。現在では、秋の味覚として美味しい栗のお菓子がおおぜいのファンを集めています。栗ようかん、栗きんとん、マロングラッセなどなど、この季節でしか味わえない旬のお菓子がきれいにショウウインドウに並びます。たとえば、栗きんとん、これはお正月のおせち料理の定番としてよく知られている縁起のよい食べ物ですが、その旬の季節とはいま、秋の9月です。正月の栗きんとんと9月の旬の栗きんとんとは、味も形もずいぶんちがいますが、いずれも日本の伝統的な栗の菓子です。岐阜県、美濃国の南東部の恵那地方から加茂郡八百津町への一帯では、栗きんとんで知られる和菓子屋さんが軒を連ねています。季節限定で、首都圏、東海、関西のデパートでも販売されて人気を集めています。京都の和菓子屋さんでは茶巾と呼ばれて人気を集めています。また京都では、マロングラッセ風の栗きんとんも喜ばれています。

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 では、日本の文化と歴史の中で、栗とはいったいどんなものだったのでしょうか。実は、稲や米が日本人にとってもっとも大切な食糧となるまでの、縄文時代の人びとの生命と生活を支えてきたでんぷん質(炭水化物)の中心が、栗だったのです。青森県の三内丸山遺跡では、野生の栗と栽培された栗との両方があったことが発掘調査によってわかっています。
秋は収穫の季節です。稲作と米が第一ですが、稲は栽培がむずかしく気候の影響を受けやすいうえ、病虫害や害鳥などの被害も多く、決して安定した作物ではありませんでした。それと比べると、里芋などの芋類、大豆などの豆類は安定した作物でした。収穫祭の一つにお月見がありますが、八月一五夜を芋名月、九月十三夜を豆名月と呼んだのでした。そして、その九月十三夜は栗名月とも呼ばれています。また、九月九日は重陽の節供で菊の花や菊酒で祝う節供ですが、一方では栗の節供としても祝われてきました。芋や豆は野生のものはほとんどなく栽培される作物です。しかし、栗は栽培もされますが野生の栗もたいへん豊富です。栗はとても安定した収穫物であり、飢饉の心配や危険のない大切な食べ物だったのです。栄養価からみても、でんぷん質、たんぱく質、カリウムなどのミネラル類、ビタミンC、そして食物繊維も豊富で、まさに完璧な食材なのです。薬効も古くから知られており、疲労回復、足腰丈夫、大腸小腸にもよい、とされてきました。
そうした実際の栄養価と薬効が知られていたからこそ、縁起のよい食べ物ともされてきました。勝栗(搗栗)は打鮑や昆布とともに、縁起と栄養の両方がよい戦陣の食材でもあり、正月のめでたい上方の蓬莱(ほうらい)や、江戸の喰積(くいつみ)に干柿や昆布などと一緒に盛り付けられてきたのです。

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 瓜はめば 子ども思ほゆ 栗はめば 
   まして偲ばゆ いずくより 来たりしものぞ…

と山上憶良が歌っているように、栗は万葉の時代から、心の和む食べ物でもあったようです。平安時代の『延喜式』には、栗は諸国から朝廷に貢進されており、当時は丹波産の栗が有名でした。丹波栗という評価は現在でもよく聞かれます。 
 京都の貴族たちの間で、栗きんとんが食されるようになっていたのは室町時代のようです。三条西実隆という公家の日記『実隆公記』の大永7年(1527)8月1日条に「自徳大寺金飩一器被送之」とあります。徳大寺さんから金とんを1ケース送って来られた、というのです。旧暦の8月1日は、ちょうどいまの9月1日前後です。みなさんも、9月には秋の栗きんとんを味わってごらんになってはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年08月01日

第5回 かき氷

暑い夏の美味しさといえば何といってもかき氷です。炎天下の日差しのもと汗いっぱいで一口!冷たーいおいしさが広がります。赤・緑・黄色のシロップや宇治金時、それにフルーツなどが添えられると豪華な美味しさが幸福感を一段と高めてくれます。

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 ところで、そんなかき氷の幸せを味わえた人たちの歴史とは、いつの時代までさかのぼれるのでしょうか。現在のような、鉋(かんな)状の刃をつけたかき氷機で作ったかき氷が売られるようになったのは、やはり戦後のことです。高度経済成長期(1955-73)に日本人の食生活は大きく変わりました。冷蔵と冷凍という技術が飛躍的に発展して、多くの人たちがその恩恵を受けられるようになりました。その昭和30年代に日本各地の子どもたちを喜ばせたのは、アイスキャンデー売りのおじさんでした。麦わら帽子をかぶって自転車にアイスキャンデーの旗をなびかせながら、村や町を廻っていました。それと同じころです、あの「氷旗」、白地に大きな赤い「氷」の文字に青い波をあしらった旗を掲げた店で、かき氷が人気を呼んでいました。ちょっと高価なアイスクリームが流行り始めていたのもやはり同じ、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていたころのことです。
 暑い夏にどうして冷たい氷を手に入れることができるのか、一つは、電気冷蔵庫と同じ原理を利用する冷凍技術の発達と製氷機の完成によってです。機械製氷が始まるのは明治期のことでした。明治16年(1887)東京製氷会社設立、明治40年(1907)に合併して日本製氷へ、とくに水産業の需要を主としてその発達と連動し、その後も吸収合併、戦時期の統制を経て、戦後にまた製氷事業が再開されました。そして現在の大手ニチレイへと展開していきます。

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 しかし、暑い夏の風物詩としての氷の利用の歴史は古く、機械製氷によるものだけではありません。冷たい氷を手に入れるもう一つが、天然氷の利用です。それは古代にまでさかのぼります。『日本書紀』仁徳天皇62年の大和国山辺郡都祁の「氷室」の記事が有名です。土を約3.5ⅿ位掘ってその上を厚く草で覆った室で、寒い冬季の氷を大量に貯蔵しておくものでした。夏季にその氷を取り出して利用したのです。平安時代に氷室から得られる天然氷の利用がみられたことは、『枕草子』の記事からもわかります。「あてなるもの、薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)、かりのこ、削り氷(ひ)に甘葛(あまづら)入れて新しき鋺(かなまり)に入れたる、水晶の数珠、藤の花、」(高貴なもの、薄紫色の上に表裏ともに白い襲(かさね)の汗衫を着ている童女の姿、鴨の卵、削り氷(ごおり)に甘味料の葛汁を入れて新しい金属製の碗に入れてあるもの、水晶の数珠、藤の花)と書かれています。冷たいかき氷の味を、あの清少納言も楽しんでいたのです。
天然氷の利用はその後も長く続き、明治時代には各地に天然氷の採氷池が開発され、五稜郭天然氷、日光天然氷、神奈川天然氷などが、機械氷とシェアを競ったほどでした。江戸時代から明治時代まで、夏季に氷の味を楽しんだという記事が散見されます。『浮世風呂』(1809‐13)には「氷水あがらんかい、冷やっこい、汲立てあがらんかい、冷やっこい」などとあり、『東京新繁昌記』には「涼味を炎天熱閙の間に売る者有り、氷や氷の声、清涼滴(したた)るが如く、歯牙為に寒し、堅氷を砕ひて冷水に和し、或は柑水と砂糖とを和す」とあります。明治のころは「氷水屋(こおりみずや)」とか「氷店」と呼ばれており、東京では「氷水屋は夏商(なつあきない)なれば、多く焼藷屋・汁粉屋・水菓子屋などの、一時これに転ずるも多く、氷水・雪の花・「アイスクリーム」より「ラムネ」などをも売る」(『東京風俗志』1901)とあります。大阪では「大阪の橋の名物たるや、固(もと)より喋々(ちょうちょう)するに及ばず。わけて夏になれば、橋上の氷店の盛なる、他に多く其此を見ず。」(『風俗画報』148号1897)と、たいへん賑わっていたことが記されています。

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 かき氷の魅力は、きれいな色彩や甘い味わいなどたくさんあります。主原料が氷ですから、ローカロリーでヘルシーなのでいろいろ楽しんでみませんか。かき氷は、夏の氷の芸術として、これからもますます進化していくにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年07月01日

第4回 鰻

鰻といえば土用の丑の日。この日に鰻を食べると夏病みしない、などと言います。そんな言い伝えや習慣はいつから始まったのでしょうか。

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現在もっとも流布しているのは、むかし江戸の町で商売がうまくいかない鰻屋が学者の平賀源内に相談し、「本日、土用丑の日」と書いて店先に貼るようにいわれ、そうしてみるとたちまち繁盛した、という話です。しかしこの話は古い記録にはみられません。意外と新しい、それも昭和も戦後になってからの作り話かもしれません。しかし、それなりに意味をもっています。だから否定も肯定もせず楽しく聞いておけばいいと思います。
それとは別に、土用の丑の日に鰻を食べる習慣は古く、『明和誌』(1822)には、「近き頃、寒中の日にべにをはき、土用に入り丑の日に鰻を食す。安永・天明の頃よりはじまる」とあります。安永・天明(1772−1789)の頃から、土用の丑の日に鰻を食べる習慣がみられたようですが、『江戸買物独案内』(1824)では、神田の春木屋善兵衛が元祖だと記しています。いずれにしても、江戸の町方で土用の丑の日に鰻を食べる習慣が生まれていたことは確かなようです。
鰻は、日本では古代からよく食べられていました。万葉集の巻16に収める大伴家持の次の歌二首がよく知られています。
石麿に われ物申す 夏痩せに
   良しといふ物そ 鰻取り食(め)せ
   
(石麿さんに申しますよ、夏痩せにいいということですから、鰻を取り寄せて、食べてください) 
痩す痩すも 生けらば あらむを はたやはた
   鰻を取ると 川に流るな
   
(痩せてはいながらも、生きていてこそですよ、鰻を取ろうとして、川で流されたりしないでくださいね) 

たしかに鰻は栄養価が高く、夏バテや食欲減退の予防に効果があります。古代から鰻は滋養に良いものとして食べられていたと考えられますが、何といっても鰻の食文化が磨き上げられたのは江戸時代でした。江戸初期の『料理物語』(1643)には、「なます、さしみ、すし、かばやき、こくせう、杉やき、山椒みそやき、此外いろいろ」とあり、さまざまな調理法で食べられていたことが知られます。かばやきというのは、江戸末期の『近世風俗志』(喜多川守貞『守貞漫稿』、1853)によれば、鰻を筒切りにして串に刺して焼いたので、その形が蒲穂に似ているから蒲焼といったのだと記しています。その後、醤油や味醂、調理法の発達で今日の身を開いて焼く方法が普及しても、名前だけは残ったのだというのです。なるほどと思わせる記事です。同書の巻5「鰻屋」の項では「京坂は背より裂きて中骨を去り、(中略)江戸は腹より裂きて中骨および首尾を去り」とあるのに、巻6「鰻蒲焼売り」の項では「京坂は鰻の腹を裂き、江戸は背を裂くなり」と、たがいに矛盾したことを平気で書いています。どうやら、腹裂きと背裂きとが京坂と江戸と、両方で併行していた時代があったらしいのです。

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現在では京阪は腹裂き→金串を打つ→素焼き→タレをつける→本焼き、東京では背裂き→竹串を打つ→素焼き→蒸す→タレをつる→本焼き、というのが通常です。
江戸では切腹を連想させるから腹は裂かない、と言い伝えています。近世文学研究者の延広真治氏によれば、江戸も元来は腹裂きで蒸しの工程はなかったが、文政年間のはじめ(1818)、下り鰻(秋の大雨による増水後や気温の低下で河川を下ってくる鰻、落ち鰻ともいう)を美味しく賞味できるよう蒸すようになり、蒸した後に串を打つ都合上、背裂きに変わったのだろうと述べておられます。平賀源内の話といい、武士の切腹の話といい、本当かどうかわからないままに、人びとの想像力が次々解説を生んでいくところがおもしろいですね。
 2014年に絶滅危惧種に指定されたニホンウナギ。その資源保護と持続可能な資源活用のため、国際的に政治・経済・学術の相互協力のもと対策が進められてきています。日本人にとって鰻は太古の昔から自然の恵みであり、日本の食文化の伝統を背負っています。資源保護への叡智が傾けられますようにと願わざるをえません。この夏も、遠慮しつつも大きな感謝の気持ちをこめて、鰻の蒲焼を味わってみてはいかがでしょうか。私はうな重が大好きです。土用の丑の日のピークをわざとはずして、先日ちょっとだけいただきました。小さなしあわせを感じました。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年06月01日

第3回 梅干し

六月は入梅の月、長雨の季節です。雨の中の通勤や通学で濡れた傘が電車の中でもに気になるし、じめじめと肌は汗ばみ、洗濯物も乾かない、いやな季節かもしれません。しかし、この梅雨の長雨は、東北地方から九州地方まで日本各地の農村では、稲の成育にとって欠かせない、まさに恵みの雨です。この初夏の長雨がなかったら、秋に稲の収穫ができません。おいしいごはんが食べられません。お寿司や日本酒や餅など、和食のごちそうも実はこの長雨のおかげなのです。 
そして、もう一つ、この季節の恵みが梅です。室町時代の連歌集『菟玖波集』(1356年)には、
 橘の 匂いになりぬ 梅の雨
と詠まれています。梅が日本でさかんに植樹されるようになったのは、奈良時代からのようです。色鮮やかで香りもよい梅の花が、新春を寿ぐ花として好まれました。『万葉集』には桜の花を詠った歌は43首しかありませんが、梅の花の歌は多く110首も収められています。その多くは恋の歌です。
 梅の花 咲きて散りなば 吾妹子(わぎもこ)を
   来むか来じかと 吾(あ)は松の木ぞ


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梅の花ではなく、梅の実が珍重されるようになったのは、平安時代になってからのようです。平安時代中期の医書『医心方』(984年)には、烏梅(うばい/むめぼし)を薬剤としたという記事があります。それは半熟の梅の実を干して煙でいぶして黒い薬剤としたもので、解毒作用の効能があったものと思われます。鎌倉時代の『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』にも烏梅(むめほし)とあるので、長く薬剤として用いられていたことがわかります。
一方、清少納言(966−1025年頃)の『枕草子』には、「にげなきもの(似つかわしくないもの・みっともないもの)」として、「歯もなき女の、梅食ひて酸(す)がりたる」とあります。歯のない老婆が梅を食べて酸っぱいと口をすぼめているさまが、みっともないというのです。ずいぶんとストレートな表現を清少納言という女性はするものですね。ただこれは、生の梅の実を庶民が季節の食材としていたことを知らせてくれる貴重な記事でもあります。しかし、それはまだ生の梅で、こんにちの梅干しのようなものではなかったでしょう。
梅干しという食材の登場は、おそらくは鎌倉時代の禅宗寺院での精進食あたりからだろうと思われます。室町時代の『庭訓往来』(1394−1428頃)にみえる「海月、熨斗鮑、梅干」という記事や、『蔭凉軒日録』明応元年(1492)12月22日の記事に、金柑や千餠や白芥子などとともに梅干しが供されたとある例からは、武家の饗応の膳に梅干しがあったことがわかります。
江戸時代になると、梅干しが各地でさかんに作られて士農工商あらゆる身分の人に広く賞味されるようになりました。大蔵永常(1768−1861)の『広益国産考』には、梅の木を植えて梅の実を収穫して農家の利益とするように勧めています。梅干しを詰めた酒樽が浪花から江戸へ、遠州相良から大坂へ、さかんに送られて利益をあげていたこと、また小田原名物の紫蘇巻き梅のことなどが書かれています。

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五月の連休に、私は世界に名だたる学者で粘菌研究や民俗学の先駆者として著名な南方熊楠の記念館のある紀伊田辺市に行ってきました。田辺市はみなべ町とともに名だたる紀州梅の産地で、和歌山県の超ブランド梅の南高梅の産地です。その絶品の味を現地で味わってきました。そこで梅干しのすばらしさが話題となりました。あの可愛らしい甲州小梅を一押しする人もいました。梅干しは、クエン酸やリンゴ酸などを含み、血液浄化、殺菌効果、老化防止、疲労回復などの効能があるまさに日本の歴史と文化が生んだ健康食品の第一です。それらをはじめ日本各地の梅干しや梅酒のすばらしさを発信するイベントが、地域の歴史を掘り起こしながら、これからますますさかんになるだろう、と語り合ったのでした。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年05月01日

第2回 粽と柏餅

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端午の節供のお菓子といえば、粽と柏餅ですね。
平安時代の『倭名類聚抄』に、「知萬木(ちまき)」は「菰葉を以て米をつつみ、灰汁を以て之を煮て爛熟させ、五月五日之を啖(くら)う」(原漢文)とあります。ずいぶん古い時代から五月の節供の食べ物だったことがわかります。現在の端午の節供は江戸幕府が定めた五節句から広まったものですが、そのもとは平安時代の宮中の年中行事の一つ端午の節会に由来します。旧暦五月のこの季節は、梅雨も近づきカビが生え、害虫や毒蛇が這いまわる季節であったため、平安京の貴族たちも、菖蒲や蓬草を屋根に刺したり、薬草類で作る薬玉を身に着けたり、菖蒲酒を飲み粽を食べて邪気をはらいました。粽に用いられる茅や笹には抗菌性があることがわかっていますが、むかしの人には経験的に知られていたようです。
 端午の節供の粽は、江戸時代になるとさかんに作られ賞味されていたことがわかります。元禄10年(1697)刊行の『本朝食鑑』は、粽には4種類あると記しています。
(1)蒸した糯米(もちごめ)を搗いて餅にし菰葉(まこものは)で包み乾した燈草(とうしんぐさ)で縛り、釜でよく煮てつくるもの。
(2)京都の川端道喜が考案した道喜粽と呼ばれるもので粳米(うるち)の米粉の細長いだんごをくま笹で包んで蒸したもの。禁裏にも納められて内裏粽とも呼ばれました。川端道喜は京都の和菓子の老舗で知られ、現在は米粉ではなく吉野の葛が用いられています。
(3)蒸した糯米(もちごめ)を搗いて餅にしたものを稲草(わら)で包んで蒸した黄白色の飴粽。
(4)駿州朝比奈の産で、朝比奈粽と呼ばれるもの。山茶花の樹根を焼いた灰汁に糯米を三昼夜浸してから蒸して搗いた餅を「藁のしべ」で包んで巻いた琥珀色のもの。
このように、すでに江戸時代にはさまざまな粽が作られ、その種類が話題となるほどでした。

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 その一方、柏餅については歴史上の記録が少なく、徳川譜代の内藤清内(1555−1608)の「天正日記」の天正18年(1590)7月23日の記事に「かしわもち」とあるのが古いと考えられています。しかし、その「天正日記」は偽書だという説もあり複雑です。江戸時代前期の仮名草子「酒餅論」には端午の節供の粽や柏餅のことが書かれていますので、おそらく寛文年間(1661⊸73)には柏餅があったといってよいでしょう。
 記録からだけだと、このように柏餅は新しいと思われますが、端午の節供と粽や柏餅の歴史を知らせてくれるのは文献記録だけではありません。日本各地で伝えられている五月節供の食べ物の民俗伝承の実際が参考になります。文化庁編『日本民俗地図』や(財)農山漁村文化協会『日本の食生活全集』全50巻などによると、東北地方から北陸地方へは笹の葉で糯米(もちごめ)を三角形に包んで煮るなどした笹巻や三角粽の例が多く、それは関東地方では柏餅、東海から近畿地方では柏餅と粽が多いことがわかります。中国地方から四国地方、そして九州地方では、粳米の上新粉を蒸して搗きこね、中に小豆餡をくるんだものが多いようです。名前は粽、柏餅、笹餅などですが、柏の葉がない地方なので、サンキライ(サルトリイバラ)の葉で両側から包む小豆餡入り餅で、地方によって「しば餅」とか「かからだご」などと、呼ばれています。
 端午の節供は、邪気をはらい健康を願う行事です。その節供の大切な食べ物が、笹巻、粽、柏餅なのですが、地方ごとにそれだけ多く伝えられているということは、記録にはなくともそれなりに長い歴史をもつ食べ物であることがわかります。むかしの人は笹や茅や柏葉の抗菌作用を経験的に知っており、その色彩と芳香を楽しむとともに厄除けの効験があるものとして大切にしていたと思われます。折口信夫は、三月や五月の節供などは、いずれも季節のめぐりの中で人びとの生命力が弱まり邪霊や悪霊に脅かされる一種の危機に生命力を強化するための行事として伝えられてきたのだといっています。正月の鏡餅や屠蘇、三月の菱餅や白酒、五月の粽や柏餅や菖蒲酒、いずれも米から作る季節にあわせた餅や酒で、生命力を強化するためのお節供だったのです。粽、柏餅は新たな生命力になるのだ、という健康への思いで味わってみるのもよいのではないでしょうか。

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文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年04月01日

第1回 花見弁当

お花見の季節です。日本では各地で桜の名所にはこと欠きません。なぜ、日本人はそんなに桜の花が好きなのでしょうか。

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一つの答えは昔の歌人、西行(1118−1190)の歌に隠されているようです。
「吉野山 こずえの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」
「あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき」

山桜の花を見ると、心(魂)が身から抜け出てしまう、というのです。そして、花が散ると、心はまたもとの身体へと帰り、ふつうの生活にもどる。つまり、多くの日本人にとって、心が身体から抜け出てしまい居ても立ってもいられないような気持ちにさせる花、それが桜花らしいのです。
 桜花の花見の始まりは、平安時代の宮中でした。『日本後紀』弘仁3年(812)2月辛丑12日条に「宮中花宴」の記事がみられます。嵯峨天皇の時代の、神泉苑での清らかな花見の宴でした。
室町時代、京の都人たちの花見の喧噪をよそに、夢幻の中の静かな花見の世界を描いたのが、世阿弥(1363−1443)の名作「西行桜」です。桜の美しい京都の西山に隠れ住む西行の草庵近くに、花見の人びとが次々に訪れるので、静寂を破られるのを嘆いた西行が、
「花見にと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがには有りける」と詠みます。すると、花見の人びとが去り静寂が戻った夜、どこからともなく老いた桜の木の精が現れ、草庵の静寂を妨げられたのを桜の咎というのは不当ではないか、と抗議します。しかしその後、西行とともに都の桜の名所の美しさを語り合い、興が募って謡い舞ううちに春の夜が白みはじめ桜の精は消えていきます。ふと気が付くと、あたり一面雪のように散り敷く花の中で、西行は我に帰る、という趣向の謡曲です。
 絢爛豪華な桃山時代の花見の代表は、豊臣秀吉の「醍醐の花見」でしょう。諸大名に女房衆を集めた大規模な花見で有名です。江戸時代になれば、庶民もにぎやかに花見を楽しむようになります。そして、それは現代にまで続きます。

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 花見といえばごちそうです。老舗の料理屋さんやデパートなどでは、現在でも花見弁当に100種類以上の品数が揃えられており、もはや年末のおせち料理に次ぐくらいになっています。
花見弁当の登場は江戸時代のことです。記事の早い例としては、織田信長が安土城で花見弁当を初めて見たという伝説があるのですが(『和訓栞』1862)、江戸時代になるととくに京都を先進地域として江戸や大坂などの都市部で広まったようです。17世紀半ばの俳諧には「弁当や花見の種をまくの内」などとあります。
花見弁当の献立を詳しく書いたのが、19世紀初頭の『料理早指南』(全四編1801-1804刊行)という本です。「花見の提重詰」に小割籠がセットになっており、上・中・下の三種類の献立が記されています。いま読んでみても驚くのは、四重と瓶子でたいへんなごちそうが揃えてあることです。

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初重は、詰め合わせで九種。かすてら玉子、わたかまぼこ、わか鮎(いろ付やき)、むつの子、はや竹の子(うま煮)、早わらび、うちぎんなん、長ひじき、春がすみ(よせもの)
二重は、引肴で、むしがれい(うすく切てほいろにかける)、さくら鯛(ほねぬきはやずし)、干大こん(五ぶつけむすびておびあかとうからし)、かんろばい(白さとう)
三重には、ひらめ(さし身)、さより(ほそつくり)、しらかうど、わかめ、赤すみそしき、そして割籠がつき、よめな、つくし、かや(小口ひたし物)、焼飯。
四重は、蒸し物で、小ぐらの(きんとん)、紅梅もち、椿もち、薄皮もち、かるかん、それに、お酒の瓶子で、すみ田川中くみ。
どこかの料亭でぜひ再現してみてほしいくらいのごちそうです。
 少し時間にゆとりのある方は、自前の花見弁当の重詰めを作って、家族や友だちといっしょに満開の桜花を愛でてみてはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年03月31日

平成28年度は「季節の食と文化」

平成28年度、4月からの新シリーズは、
「季節の食と文化」

世界で注目されている「和食」ですが、日本各地には風土で培われたさまざまな食材や、食文化があります。全国各地で親しまれる行事食、地方色豊かな旬の食材など、歴史や文化をひもときながらご紹介します。
執筆は前シリーズより引き続き、国立歴史民俗博物館名誉教授の新谷尚紀氏(日本文化藝術財団専門委員)です。
毎月1日に更新します。お楽しみに!

2016年03月01日

第12回 ひな祭り

 3月3日はひな祭りですね。桃の節供とも、上巳の節供ともいいます。女の子のいる家では、二月のうちからひな人形を飾り、なんとなく華やいだ感じがして春が来たことを実感させます。このひな祭りの由来については、意外と複雑です。

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その沿革としては、第1に奈良時代から平安時代にかけての貴族たちが行なっていた「曲水の宴」、第2に平安時代の貴族の少女たちの人形遊びの「ひいな遊び」、第3に祓え清めのための呪具、祓具としての「ひとがた」、という3つの流れがあります。そして、それに加えて、第4に一般の庶民のあいだで伝えられてきた「山遊び」や「磯遊び」の習俗があります。
 第1の、「曲水の宴」というのは、曲がりくねった流水のほとりに座って水に盃を浮かべ、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎぬうちに和歌を詠むという遊びです。『万葉集』にも、「漢人(からひと)も 筏(ふね)を浮かべて 遊ぶといふ 今日ぞわが背子 花蘰(はなかずら)せよ」という歌があります。これは、天平勝宝2年(750)の3月3日に大伴家持が詠んだ歌です。花蘰(はなかずら)の花は桃の花であった可能性もあります。
 第2の、「ひいな遊び」とは、平安時代の貴族の少女たちの人形遊びです。紫式部の『源氏物語』や清少納言の「枕草子」などにも描かれています。
 第3の、祓具としての「ひとがた」の記事は、『源氏物語』(須磨)にみられます。光源氏が須磨の海岸で3月の上巳の日に陰陽師を召して浜辺で祓えをさせ、人形を舟に乗せて流したという記事です。この3月の上巳の祓えは、人形を身体にこすりつけ息を吹きかけて自分の穢れを人形に託し、水辺に流し捨てるという行事でした。上巳というのはその月の最初の巳の日という意味です。
 3月3日の上巳の節供に人形を贈呈する習俗がみられるようになるのは、室町時代の京都の公家たちのあいだでのことでした。万里小路時房の日記『建内記』の永享12年(1440)の記事には、3月3日に上巳の祓えのための撫(な)で物(形代(かたしろ))として人形(にんぎょう)が贈られたということが書かれています。一方、ひな遊びが3月3日に行なわれるようになったことを示しているのは江戸時代初期の西洞院時慶の日記『時慶卿記』の寛永6年(1629)の記事です。
 こののち、江戸幕府によって公式の年中行事として五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が定められます。武家の公式行事となったことで、上巳の節供も盛んに祝われるようになり、寛永雛や享保雛、古今雛などと呼ばれるひな人形の美術工芸品も作られるようになりました。
 一般庶民のあいだで、ひな人形を飾るようになったことを示す記事は、江戸時代後期のもので、文政13年(1830)成立の随筆集『嬉遊笑覧』にみられます。

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 さて、冒頭であげた第4の、「山遊び」や「磯遊び」ですが、旧暦3月3日頃といえば、現在の新暦では4月初旬頃です。寒い冬が終わり暖かい春が訪れて、これから田植えの準備など農作業が忙しくなるこの時期、蓬を摘んで草餅を作り、ご馳走を弁当に詰めて、山野に咲き始める花々を眺めたり、水もぬるむ磯辺で魚介をとったりして一日遊ぶという行事でした。その行事には娯楽の意味もありましたが、山の神など自然の神々を招いてその年の五穀豊穣を祈るという意味も含まれていました。中部・東海地方などでは、女の子たちが河原に竈(かまど)を築いて煮炊きをし、ひな人形と遊び、最後に人形は川に流すという行事を近年まで伝えていた地域がたくさんありました。しかし、高度経済成長期を境として、それらの屋外の行事は急速にすたれていきました。現在では観光化された鳥取県下の流し雛などがよく知られるようになってきています。
 飾り雛は3月3日を過ぎないうちに早くしまわないといけない、とよくいいます。その言い伝えの背景には、女の子の災厄を人形に託して祓え清め、健康と成育を願うという伝統が生き続けているのです。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)