第十回 三鷹の文人たち[2009年06月15日(Mon)]

多くの文人が住んでいた三鷹、どんなところでしょう。
三鷹あたりは、江戸時代、徳川家などの鷹狩が行われていました。
明治になって、三鷹村になりました。
獲物を見つけるや、ものすごい速さで、
舞い降り、鋭い爪で襲いかかる。
そんな鷹の姿が浮かびます。
今は、みどり豊かで、のどかな町です。
JR中央線の三鷹駅に降りると、
やさしい陽光がふりそそいでいます。
南口に、真っすぐな中央通りが伸び、
たくさんのお店が並んでいます。
にぎやかなその通りに、
文人たちの碑がありました。
最初に出会った碑は、赤とんぼの詩です。

夕焼け小焼けの
赤とんぼ
負はれて見たのは
いつの日か・・・・・
よく耳にしますね。
女の子と幼子の像が飾られています。
作詞は、三木露風、抒情あふれる作風の象徴派詩人です。
彼は、昭和3年から39年まで、三鷹村牟礼に住んでいました。
この詩は、キリスト教を信仰していた露風が、
大正9年、講師として北海道トラピスト修道院にいたとき
作ったものです。
すぐ近くに、山本有三の碑。
この世に生きているものは、
なんらかの意味において、
太陽に向かって
手をのばしていないものは
ないと思います。
有三
生きとし生けるもの
―作者の言葉―
二人の少年の像が太陽を見つめています。
戦争中で本が手に入らなかったころ、
山本有三は、自宅にミタカ少国民文庫をつくり、
自分の蔵書を地域の子どもたちに読ませていました。
現在、その邸宅は三鷹市に寄贈され、山本有三記念館となっています。
方向が違うので、次回に立ち寄ってみましょう。
向かい側の歩道には、武者小路實篤の碑があります。
人間萬歳 實篤

と直筆が刻まれ、
地球を掲げたモニュメントが飾られています。
プレートには、『人間萬歳』(狂言)の
天使と隣りの神様の会話が刻まれています。
天使 私のおります世界に、こう云う人間
(小さい人形を見せ)
がおります。あなたの宇宙にはこう云う生きものは
おりませんか。
隣りの神様 一寸お見せ下さい。ええ、いたことがあります。
今は滅亡しましたが。
天使 ええ、滅亡した? あなたはそれをお救いにならなかっ
たのですか。
隣りの神様 彼等はよろこんで死んだのです。彼等は実に
不思議な生物でした。
略・・・・・
読んでいくと、プレートが磨り減ったのか、
誰かにいたずらされたのか、
傷がついて、後ろにいくにしたがって読めなくなっています。
これでは、悲しいですね。
人間萬歳とは言えなくなります。
武者小路實篤は、1940年(昭和15)55歳の時に、
三鷹村牟礼に家を買って引越してきています。
『牟礼随筆』(抄)・「真剣な仕事」の書き出しは、
この世に生きていることは楽ではない。
次に、太宰治の碑があります。
近代文学を代表する作家です。
1909年(明治42)6月19日、
青森県北津軽の裕福な新興地主の家に生まれました。
今年は、太宰の生誕100年!
碑には、小説『斜陽』の一節が刻まれています。

午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやわらかく
当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに
小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、
お庭の下には蜜柑畑がひろがり、それから村道があって、
略・・・・・
「柔らかな景色ねえ」
とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。
太宰の本名は、津島修治。
1939年(昭和14)30歳の時、結婚して、現在の三鷹市下連雀に住み始め、『惜別』『お伽草紙』などの作品を書きました。
その後、人間の信頼と友情を表現した『走れメロス』、
そして、キリストとユダをえがく『駆込み訴へ』など、
数々の秀作を生み出します。
太宰は、三鷹で見る夕陽を次のように書いています。
毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。
ぶるぶる煮えたぎって落ちている。
『東京八景』
その頃の暮らしぶりは、友人だった亀井勝一郎の文章で
知ることができます。
その話を要約すると、
初夏になると玉川上水には、ほたるが飛び、
夜は暗くて寂しい所だったようです。
太宰の住む家は、駅から遠く、
村や畑を通り抜けていかなければなりません。
平凡でめだたない貸家に、
ひっそりとつつましい暮らし。
部屋は八畳、四畳半、二畳が一間ずつに、台所。
八畳間が、書斎兼、客間兼、寝室です。
太平洋戦争がはじまっても、
太宰にはふしぎに「戦時気分」というものが
全然見られなかったようです。
空襲があっても、鉄かぶとをかぶることもなく、
相変わらずのジャンバー姿で下駄を履き、
夕方になると、三鷹から吉祥寺の酒場へとあらわれるのです。
仕事ぶりは実に規則的で、午前中に原稿五枚と決めれば五枚を必ず書き、
一日のノルマを終えて、夕方には酒をのむ。
終戦近くに疎開するまで、こうした規律ある生活の連続でした。
仕事が終った後の談笑は実に明るいのです。
といったような、三鷹での暮らしぶり。
反俗、反秩序の「無頼派」で知られる太宰とは
まったく違った面がみられますね。
戦後の混迷期においても、
次々と充実した作品を発表していきます。
しかし、戦後の人間や社会に対する太宰の絶望は深かった。
敗戦後も、人の世の悪は変わることなく続く、とうつったようです。
人間の悲しみ、苦しみを、自らの内部をえぐるようにして書く太宰。
1948年(昭和23)、人間存在の本質をえがこうとした、『人間失格』を発表しました。
それは「人間合格をねがう無垢の魂」の小説といわれています。
その後、6月13日、
玉川上水に、女性と共に身を投じました。
ちょうど梅雨時の長雨で、捜索が難しく、
ふたりの遺体が発見されたのは、6月19日の朝でした。
6月19日は、生きていれば、太宰治の満39歳の誕生日。
毎年その6月19日には、
太宰を偲ぶ「桜桃忌(おうとうき)」が行われています。
作品『桜桃』にちなんだものです。
死の1ヶ月前に発表されたこの小説には、
自殺寸前のせっぱつまった心境がえがかれています。
冒頭には、旧約聖書の詩篇の1節が書かれています。
われ、山にむかひて、目を挙(あ)ぐ。
聖書には、「わが救ひはいづこより来るや」
と続くのですが・・・・・、
太宰は意図的かどうか、書いてはいないのです。
そのときの太宰は、救いを求める声もあげられず、
ただ神をみつめるほかなかったのでしょう。
家では3人の子どもを抱え、子煩悩だった太宰。
でも、「桜桃」の父は、「子供よりも親が大切」と
心の中で虚勢みたいに呟くのです。
その父は、優しさゆえか、妻に声出して文句も言えず、
仕事どころではなく、気まずくなって家を出た後、
酒を飲む場所に行く、桜桃がでる。
「私の家では、子供たちに、ぜいたくなものは食べさせない。
子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。
食べさせたら、よろこぶだろう。
父が持って帰ったら、よろこぶだろう。
蔓を糸でつないで、首にかけると、
桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに
食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、
そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、
子供よりも親が大切。」
そして、6月13日、玉川上水に入水するとき、
子どもたちに残した、蟹の玩具・・・・・。
なんと切ない生だったのか・・・・・。
桜桃をしのんで
「桜桃忌」が近いので、お墓に参ってみましょう。
禅林寺は、生前の太宰がよく散歩で訪れたお寺です。
森鴎外の墓があるので心がひかれていたのでしょう。
中央通りから右に折れ住宅街に入っていくと、
幼稚園の前に出ました。
幼児たちの大きな声が聞こえています。
例によって、道がよく分かりません。
通りがかりの人に聞くことになってしまいます。
でもこれがいいですね。
その町の人と話ができて・・・・・。
禅林寺はすぐ近くにありました。
「森林太郎墓」と刻まれた森鴎外の墓の斜め向かいに
太宰の墓があります。
自署の「太宰治」の文字が刻まれています。
たむけられた芍薬や百合や紫陽花が、
やわらかな陽光の中で花を開かせていました。
紋白蝶がふわりと飛んで、
蟻が一匹、
大地に散った、黄色い木の葉の上を、
歩いています。
没後60年、太宰治は、今も多くの人々に読み継がれ、
「桜桃忌」には、たくさんのファンが訪れています。
毎年6月19日には、「三鷹市芸術文化センター」で
太宰治朗読会が開かれるようです。

資料:
『武者小路實篤集』 現代日本文学大系 筑摩書房
『斜陽』太宰治著 新潮文庫
『太宰治』細谷博著 岩波新書
『国語百科』大修館書店
『ヴィヨンの妻・桜桃 ほか九編』太宰治著 講談社文庫
『太宰治』奥野健男著 文春文庫



