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2010年03月01日

第四回  聖徳太子伝説

その2 世間虚仮 唯仏是真



前回は、聖徳太子像からよりよく生きる方法を
考えてみようと思いました。
そして、出会った言葉は、

世間虚仮(せけんこけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)
(世間は虚しい仮のもので、ただ仏のみが真実である)
   
今回は、この世間虚仮のことを考えてみたいと思います。





聖徳太子の時代、斑鳩(いかるが)の暮らしは
どのようなものだったのでしょう。
春になれば野原には美しい花が咲き、
木々の緑に風がそよぎ、
小川には小魚が、
秋になれば木の葉が美しく紅葉したことでしょう。
雨や嵐の日もあれば、
青い空から暖かい陽光のふりそそぐ穏やかな日もあり、
夜になると満天の星空が・・・・・。

それなのに、この世は仮の姿。
人の世の出来事は!
歴史の年表を開いて見ましょう。

587年、蘇我氏と物部氏との争い、物部氏滅ぶ。
592年、蘇我馬子が崇峻天皇を殺害。
     直接に手を下した東漢直駒も馬子によって殺害される。
593年、聖徳太子が20歳で摂政となる。
     権力争いは、その後も続きました。
643年、山背大兄王らが蘇我入鹿に攻められ斑鳩宮で自殺。
645年、中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を大極殿で殺害。
     入鹿の父蝦夷は自殺。
658年、阿部比羅夫が蝦夷を討つ。
     有間皇子が謀反の疑いで殺される。
672年、大海人皇子が大津京で大友皇子を滅ぼす(壬申の乱)。
673年、大海人皇子が即位して天武天皇となる。
     『日本書紀』が編纂されている時代にも。
686年、天武天皇没。
     大津皇子が謀反の疑いで捕らえられ絞殺。

『万葉集』には、大津皇子の哀しい歌が残されています。


大津皇子、死を被りし時に、
磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首


 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を
  今日のみ見てや雲隠りなむ


(磐余の池に鳴いている鴨を、今日を限りに見て、
自分は死んでいってしまうのだろうか)
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編より


7世紀は古代の天皇国家の完成期。
皇位継承を中心とする種々の政争が相次ぎました。
山背大兄皇子・古人大兄皇子・有馬皇子・大友皇子・大津皇子など政争のうちに若くして死んでいった皇子のいかに多かったことか。
およそ1世紀の間に起こった悲しい出来事です。

庶民の暮らしはどうだったのでしょう。



世の中の道


山上億良(660〜733年)の残した歌があります。
『万葉集』にある長歌です。
少し長いのですが、とても大切だと思いますので引用します。

「貧窮問答歌の歌一首 あはせて短歌」

風交じり 雨降る夜の 雨交じり 
雪降る夜は すべもなく 
寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ
糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて・・・・・中略


(風まじりの雨の降る夜の、さらに雨まじりの雪の降る夜は、
どうしようもなく寒いので、
固まった塩を少しずつ取りかいてはなめ、
糟湯酒をすすりながら・・・・・)

我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ
妻子どもは 乞ひて泣くらむ 
この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・中略


(自分よりも貧しい人の父や母は腹をすかせて
寒い思いをしていることであろう、
妻や子どもは食べ物を欲しがって泣いていることだろう。
このような時は、どのようにしておまえさんは
世の中を過ごしていくのか)

以下現代訳の歌意で、

天地は広いというけれど、
私に対しては、狭くなってしまったのだろう。
日月は、明るいというけれど、
私に対しては照ってはくださらないのでしょうか。
人々が皆そうなのであろうか、
あるいは、私だけのことなのでしょうか。
たまたま人間として幸運にも生まれてきたのに、
他人と同じに自分も労働しているのに、
それなのに、綿も入っていない布の袖なしの、
海草のようにぼろぼろに垂れ下がっている、
ぼろ衣ばかりを肩にかけて、
つぶれて曲がった小屋の中で、
土の上に藁を解き敷いて、父や母は枕の方に、
妻や子どもは足の方に寝かせ、
囲みあって悲しみ溜め息をつき、
かまどには煙も立たず、
米甑(こしき:米を蒸す道具)には蜘蛛が巣がかかって、
御飯の炊くこともすっかり忘れてしまって、
ぬえ鳥が細々とした声で鳴くように、
細いうめき声を立てているのに、
まるで「ただでも短い物の、さらにその端を切る」と
いうように、笞(むち)をもった里長(さとおさ)の声は、
寝屋処までやって来て呼び立てている。
――これほどまでどうしようもないものだろうか。
世の中の道というのは。


最後の嘆きは、胸を打ちます。

“かくばかり すべなきものか 世の中の道”

短歌が続きます。

 世の中を厭しとやさしと思へども
   飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


(世の中を辛いと思い、恥ずかしいと思うけれども、
飛び立って遠くへ行くことができないことよ、
鳥ではないから)
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編より


貧窮を克服できない世の中というものは恥ずかしい
億良は深く考えます。
「どうしょうもないもの」が世の中かと。
現実的に貧窮の救済方法を見出せなかったこの世の中と自分。
それをどうしても、“恥ずかしいと思う”。
億良はさぞやせつなく辛かったことでしょう。

ここにえがかれている農民の姿は、
特別な一部の人たちだけのものではなかったようです。
税を払えない人々は土地を捨て、逃げるしかありません。

この歌は、貧窮を救う立場の国司である億良が詠んだのです。
国司でも救済することのできないほどの貧しさ。
歌には億良のくやしい気持ちが現れています。
政治に深くかかわっていた仏教も、
儒教的政治理念を掲げていた政府も、
何ら庶民の貧窮の苦しみを救済することはできなかったのです。

考えてみれば、
聖徳太子は、
このような世の中を、
少しでもよくしようとする理想の人として
語り継がれてきたのかもしれません。
その聖徳太子が推古天皇に講じたとされる
仏教の教え『法華経』

その『法華経』を信じていた20世紀の詩人で童話作家の
宮沢賢治は次のように言いました。

世界がぜんたいに幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない。

                    (『農民芸術概論綱要』)
賢治がこのように考えたのは、
「この現世の人間世界は、どうしようもなく地獄である」
と認識していたことの裏返しだといわれています。



白蓮のごとく


『法華経』を仏教の梵文(ぼんぶん)原典から漢訳した
鳩摩羅什(くまらじゅう)は、
題名を「妙法蓮華(みようほうれんげ)」と訳しました。
「正しい教えの白蓮」、
「白蓮のごとき正しい教え」です。

春がめぐりくれば花が咲き、
秋になれば木の葉が紅葉する、
その自然のありようが
法(のり)のみすがた。


その教えは、一切のものの
ありのままの真実の相(すがた)を
あらわすものといわれます。

「蓮華」は、
梵語の意味では「白蓮」。
白蓮とは白い蓮の花のことです。
白いものはなによりも清らかさをあらわします。
“蓮の花は美しい、
しかし、“蓮の根は泥の中に埋もれている。
それでいて、泥に染まらぬあの美しい花を咲かせる”と。

人は、生まれてから死ぬまで、
迷いの多い日々の暮らしの中で、
ともすれば喜怒哀楽に振り回されがちです。
それだからこそ、
美しいもの、清らかなものにあこがれ、
美しく、清らかなものを生みだすことができるといわれます。

仏教の教えの中に、
「煩悩即菩提」という言葉があります。
煩悩があるからこそ悟りも生まれる、と。
その悟りとはどのような境地をいうのでしょう。


次回は、
仏教の経典を求め、自らの命をかけて、
天竺(インド)にでかけた唐の僧・玄奘(げんじょう:三蔵法師)
情熱に向き合いたいと思います。
孫悟空が登場する『西遊記』の世界です。




資料:
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編 笠間書院
『聖徳太子』田村圓澄著 中公新書
『仏教を歩く・聖徳太子』朝日新聞社
『スーパー日本史』益田宋・中野睦夫監修 古川清行著 講談社
『法華経を読む』鎌田茂雄著 講談社学術文庫
『日本美 縄文の系譜』宋左近著 新潮選書
posted by 事務局 at 13:29| Comment(0) | 聖徳太子

2010年02月15日

第三回  聖徳太子伝説

その1 和(やわらか)の心


古代より多くの日本人の想像力をかきたててきた聖徳太子。
今回は、「理想の人」といわれたその姿から、
“よりよく生きる道”を探ってみたいと思います。

想像してみてください。
6世紀初頭、
飛鳥から斑鳩(いかるが)への一本道を
愛馬・黒駒にまたがって颯爽と駆けていく人を。
その人の名は厩戸皇子(うまやとのみこ)。
道は太子道(筋違道:すじかいみち)。



『日本書紀』(720年編纂)の巻22には、次のように記されています。
推古天皇即位元年(593)のことです。

「夏四月十日、
厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて、
皇太子(ひつぎのみこ)とされ、国政をすべて任せられた。
太子は用命天皇の第2子で、
母は穴穂部間人姫皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)である」

(『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟著より)


聖徳太子という呼称は、没後に贈られる諡(おくりな)で、
生存中の名は、厩戸皇子といいます。

「尊厳ある理想の皇太子」として登場した聖徳太子。
それ以来、聖徳太子の存在は、
伝説ともなり、信仰の対象とまでなっていったのです。

以後、伝記だけでも、江戸時代以前に約100種。
明治以降、聖徳太子を主題とした著書が約300冊余り、
論文は1000篇に及びます。
(若林隆光編「聖徳太子関係文献目録」)

日本人は、聖徳太子像に何を託し、
何を見、何を求めてきたのでしょう。



太子の和

20歳で叔母・推古天皇の下、
国政の補佐役(摂政)となった太子。
22歳より、高句麗から来た慧慈(えじ) に仏教を習い、
博士覚(かくか)から儒教を学びます。
28歳、斑鳩に宮室(みや)を興し、
飛鳥に小墾田宮(おはりだのみや)を着工。
31歳、冠位十二階の授与式を行い、
憲法十七条を作ったとされます。

その憲法十七条の始まりには、

以和為貴
(和を以って貴しとなす)

仏教を習い、儒教を学んだとされる聖徳太子。
『論語』に、礼之用和為貴(礼の用は、和を貴しとす)とあり、
『礼記(らいき)』には、礼之以和為貴 (礼は和を以って貴しとなす)
という語句があります。
また、仏教の戒律では僧集団の「和」はとても大切なことなのです。
そのような儒教や仏教の精神を参考にした以和為貴の4文字。
その「和」は、
当時、官人貴族の心得としての「和を大切に」であり、
官吏が公務をおこなう時のキーワードとして打ちだされたものです。
しかし、しだいに日本人の心情にふれる言葉として、
多くの人々の心に宿るようになりました。

江戸時代、「和」は「やはらか」と読まれ、
この「和」なる人は、策におぼれる人ではなく、
策を弄することもない理想的な人格とみられていたのです。

現代の漢語辞典では「和」は、
どのような意味になっているでしょう。
辞典を開いてみると、
@「やわらぐ」「やわらぎ」とあり、
「おだやかになる」「なごやかになる」こと。
そして、「仲よくなる」「仲よくする」、気が合う。
つまりは、「平和」「親和」を生み出すと。
A「やわらげる」
B「のどか」「うららか」
C「ほどよい」「行き過ぎも不足もない」
また、「こたえる」「応ずる」「唱和」、
「ととのえる」「ととのう」とあります。
「和」の項目のラストには、
和而不同 ワしてドウぜず。 
人とやわらぎ楽しむが、よからぬことには同調しない。〔論語〕
以和為貴 ワをもってたっとしとなす。
和合の道を守ることが最も貴いことである。
〔礼記、儒行〕〔聖徳太子、十七条憲法〕と。
(『大修館漢語新辞典』蒲田正 米山寅太郎著より)
これらの4文字は、
私たちの文化が幾世代にわたって受け継いできたものですね。

そして、十七条憲法の第二条冒頭には、
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」とあり、
仏教の教えで国を治めようとした当時のことがわかります。
太子33歳の時には、推古天皇の要請により、
「勝鬘経(しょうまんぎょう)」「法華経(ほけきょう)」
講じたとされ、仏教興隆の役割を担った太子の姿が見えてきます。
また、小野妹子を隋に派遣し大陸文化を導入。
身分の上下ではなく、
才能にあふれた徳のある者を用いるため、
平等の精神を広め、
農業のための池を作り、道を整え、
子どもたちに伎楽の舞を習わせた太子。



太子の徳

613年、片岡(現奈良県北葛城郡香芝町今泉付近)での出来事です。
通りかかった太子の前に、飢えた旅人が倒れていました。
太子は飲物や食べ物を与え、自分の衣服を着せてあげたのです。
その時のことが、歌になっています。

しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる
その旅人(たひと)あはれ 親なしに 汝生(なれな)りけめや
さす竹の 君はや無き 飯に飢て
臥せる その旅人あはれ


(片岡山で、食べ物に飢えて横になっておいでになる、その旅人は
お気の毒なことだ。親がないままに生まれ育ってきたのか、
仕える主人はいないのか、そんなことはなかろうになあ。
食べ物に飢えて横になっておいでになる、
その旅人はお気の毒であることだ)
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編より


翌日心配になって見舞いの者をやると、
「もう亡くなってしまいました」と。
太子は大いに悲しみ、塚を造り埋葬したのです。
数日後、「亡くなった人は聖者にちがいない」といって、
見に行かせると、墓の中に死体はなく、
衣服がきちんと折りたたまれ置いてあったそうです。
その衣を以前のように身に着けた太子。
当時の人々は、この飢えた人は聖人で、
そのことを知っていた太子も、
また徳のある聖人だと感心したということです。

この出来事を伝える話と歌は、
政(まつりごと)を行う人は、徳が備わり、
慈悲にあふれていることを願う日本人の
心の現われではないでしょうか。



世間と仏

622年(推古天皇30年)2月21日、
斑鳩で夫人の膳大朗女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなりますと、翌22日、後を追うように太子も亡くなります。
49年の生涯でした。
死を悼む若き夫人の橘大朗女に、
太子が生前に語っていたとされる言葉があります。

世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)

(世間は虚しい仮のもので、ただ仏のみが真実である)

この言葉は私たちに何を伝えようとしたのでしょう。
幼い頃から体験したとされる数々の哀しい出来事。
「叔父たちの天皇位継承をめぐる悲劇や
豪族間の血で血を洗う争い」
そこには虚しい時間がながれるのみ。
真実の生はどこにあるのか、
よりよい世の中を実現するにはどうすればいいのかと、
「人生」に対する問いを持ち続けたであろう太子。
それは当時の人々の問いでもあったのでしょう。

求道者としての太子は悟っていたのではないでしょうか。
人の営みの根底には、
むさぼり・いかり・おろかさなど、さまざまな煩悩があるが、
仏の智慧の世界をもつことにより、救いの道が開けてくると。


人はこの世に生まれて、
何につけても満足だと感じることはすくないものです。
いつも苦しみの種を見出しては苦悩するのが、
哀しいかな人間の心。
そのような時、
悩みをやわらげる心の救済が必要となります。

次回は、そのことを考えてみたいと思います。




資料:
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編 笠間書院
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟著 講談社学術文庫
『聖徳太子』田村圓澄著 中公新書
『聖徳太子の本』学研
『仏教を歩く・聖徳太子』朝日新聞社
『聖徳太子はいなかった』谷沢永一著 新潮新書
『大修館漢語新辞典』蒲田正 米山寅太郎著 大修館書店
posted by 事務局 at 15:03| Comment(0) | 聖徳太子