2009年07月01日
第十一回 風の散歩道
木々の緑が映える道が
玉川上水に沿って伸びています。
「風の散歩道」です。
山本有三記念館
井の頭公園に向かうと、右側に山本有三記念館。
作家・山本有三が東京都に寄付したもので、
平成6年に三鷹市の指定文化財になりました。
前庭に、“路傍の石”として親しまれている石があります。
「路傍の石」は、有三の代表作の題名です。
入ると奥に洋風建築の建物。
大正末期に建てられ、海外の近代様式を取り入れた希少なもの。
レンガと白い壁、屋根の上に煙突。
中はまるで西欧の家にいるようです。
有三が住んでいた頃には、
暖炉で薪がパチパチと燃えていたことでしょう。
館内をめぐると、
有三の心を偲ぶことができます。
『赤い鳥』(赤い鳥社)の第1巻・第2号が展示されていました。
鈴木三重吉が、1918年(大正7)に、
子どものために創刊した童話雑誌です。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、『杜子春』も、
この「赤い鳥」に掲載されたものなのです。
山本有三は、1935年(昭和10)から2年間かけて
全16巻の『日本少国民文庫』(新潮社)を刊行。
戦争への道を歩んでいた当時、
有三の文庫編集の目標は、
「軍国主義的風潮から少年たちを守り」
「少年少女に本当に必要な教養を伝えたい」という願いでした。
三鷹の森ジブリ美術館
やさしい風が吹いてきました。
風にのって、声が聞こえてくるような気がします。
その者 青き衣をまといて
金色の野に降り立つべし
失われし大地との絆を結び
ついに人々を青き清浄の地に導かん
(宮崎駿「風の谷のナウシカ」風の谷の伝承より)
「風の谷のナウシカ」は1984年に公開。
火の7日間と呼ばれた世界大戦で崩壊した文明。
1000年後、大地は産業廃棄物の錆とセラミック片に被われ、
広大な腐海(ふかい)の森がひろがっていた。
腐海には有毒な瘴気(しょうき)。
人間が入ると肺が腐る。
そこには新しい生態系の生き物がうごめき、
王蟲(オーム)の群れが生息する。
瘴気をのがれ風の谷に住む人々。
族長の娘ナウシカは、風に乗るメーヴェを操り、空を自由に飛ぶ。
ナウシカは気がつきました
腐海の底には清浄な水があって
その水がいつか汚された地上を浄化することを・・・・・。
清浄な水と土で育つ木々は毒を出さない。
腐海の木々は、世界を浄化するために生まれてきたのです。
その森を守っているのは蟲(むし)たち。
人間たちの争いのなか、
傷ついた王蟲の子を助けたナウシカ。
怒って押し寄せる王蟲の大群。
画面いっぱいの王蟲の描写は圧巻!
命をかけて王蟲の怒りを静めようとするナウシカは、
空中高〜くはじき飛ばされる。
地面に倒れたナウシカ。
その時、奇跡が起こる。
たくさんの触毛が伸びてくる。
王蟲の触毛に支えられナウシカは・・・蘇生。
触毛は朝の光で金色に輝き、
その上に立つナウシカ、
「その者 青き衣をまといて金色の野に降りたつべし」
平和になった谷に、新しい井戸が掘られ、若木が植えられる。
生きとし生けるものの再生を予感させるように・・・・・。
思い起こしても新鮮なテーマをふくんだ傑作です。
宮崎駿は風が大好き。
「宮崎作品では、心が動くと空気が動く、風が吹く」
なぜなら、風が心を表現するから・・・・・。
それではジブリ美術館に入ってみましょう。
この美術館は、井の頭恩賜公園西園の文化施設のひとつです。
入り口はトトロのカラフルなステンドグラス。
天井は高い吹き抜けのガラスドーム、光が降るように入る。
飛行機の翼のような木製の羽根がグルグル。
廊下をつなぐ渡り橋を歩くとドキドキ。
思わず何度もいったり来たり、
五感が解放されて楽しい気分!
ネコバスルームは、キャキャ!
土星座では子どもたちが喜ぶ短編アニメが上映されている。
なんだか懐かしく、ぬくもりがあって、心が豊かになりそう。
「映画の生まれる場所(ところ)」はすばらしい!!
おじいちゃんからもらった少年の部屋には
机の上に、色鉛筆、ペン、筆、ハサミ。
描きかけの絵や透視台、
図鑑や百科事典などの資料がいっぱい。
模型飛行機やプテラノドンが天井からブラブラ、
ランプや絵などの色がとっても印象的。
おじいさんから受け継いだだけに、
昔風でジブリ作品のイメージがあふれた部屋です。
全館にアニメーションの作り方がわかりやすく展示されています。
童心に戻ってゆっくりと楽しみ、
森の緑の中で、ソフトクリームを食べ、
一日中いたいと思いながら外に出る。
井の頭恩賜公園
1917年(大正6)に、日本最初の郊外公園として開園。
武蔵野の面影を色濃く残す雑木林に囲まれています。
公園の中に、「竪穴式住居発掘記念碑」があります。
約1万年前の石器時代の遺跡です。
ここには大規模な遺跡群がひろがり、
「御殿山遺跡」と呼ばれています。
湧水「御茶ノ水」もあります。
狩りに来た徳川家康が、お茶をたてたと伝えられています。
詩人・野口雨情の碑が、井の頭池のそばに建っていました。
碑には、彼の作った「井の頭音頭」の一節が刻まれています。
鳴いて
さわいで
日の暮れごろは
葦に行々子(よしきり)
はなりゃせぬ
雨情
「赤い靴」、「七つの子」「青い目の人形」など、
多くの童謡や民謡を作った人です。
吉祥寺北町に住んでいた雨情は、
この公園によく訪れたそうです。
雨情の書斎「童心居」は、
井の頭自然文化園に移築されています。
公園に次のような掲示板がありました。
よみがえれ!! 井の頭池 !
公園のシンボルともいうべき井の頭池。
春になると周辺に500本の桜が咲き誇るほど大きい池です。
水辺には多種、多様な鳥がいます。
昭和30年代までは、水が澄んでいて、
池の底が透き通って見えたそうです。
今では、池の鯉は、水面に浮き上がってくるところを
見るしかありません。
かつては水質が良く、豊かな水量に恵まれていました。
江戸時代には神田上水をつくり、
市民に飲み水を供給していたのです。
戦後、市街化が進むにつれて地下水位が低下し、
湧き水が枯渇し、水質も次第に悪化。
現在は湧き水を増やすため、地域と協力して、
雨水浸透施設を設置したり、いろいろな努力をしているそうです。
えさやり防止キャンペーンにも取り組んでいます。
「生き物に必要なのは、人からのエサではなく、
自分で食べ物を採れる場所です」
「風の谷のナウシカ」の物語のように、
清らかな水と土は、自然環境を浄化する木々を育てるのです。
美しい水は、文化 ・・・・・
資料:
『三鷹市山本有三記念館館報』 三鷹市山本有三記念館
『宮崎駿の<世界>』切通理作著 ちくま文庫
『よみがえれ!! 井の頭池!』井の頭恩賜公園100年実行委員会
東京吉祥寺ライオンズクラブ
2009年06月15日
第十回 三鷹の文人たち
多くの文人が住んでいた三鷹、どんなところでしょう。
三鷹あたりは、江戸時代、徳川家などの鷹狩が行われていました。
明治になって、三鷹村になりました。
獲物を見つけるや、ものすごい速さで、
舞い降り、鋭い爪で襲いかかる。
そんな鷹の姿が浮かびます。
今は、みどり豊かで、のどかな町です。
JR中央線の三鷹駅に降りると、
やさしい陽光がふりそそいでいます。
南口に、真っすぐな中央通りが伸び、
たくさんのお店が並んでいます。
にぎやかなその通りに、
文人たちの碑がありました。
最初に出会った碑は、赤とんぼの詩です。
夕焼け小焼けの
赤とんぼ
負はれて見たのは
いつの日か・・・・・
よく耳にしますね。
女の子と幼子の像が飾られています。
作詞は、三木露風、抒情あふれる作風の象徴派詩人です。
彼は、昭和3年から39年まで、三鷹村牟礼に住んでいました。
この詩は、キリスト教を信仰していた露風が、
大正9年、講師として北海道トラピスト修道院にいたとき
作ったものです。
すぐ近くに、山本有三の碑。
この世に生きているものは、
なんらかの意味において、
太陽に向かって
手をのばしていないものは
ないと思います。
有三
生きとし生けるもの
―作者の言葉―
二人の少年の像が太陽を見つめています。
戦争中で本が手に入らなかったころ、
山本有三は、自宅にミタカ少国民文庫をつくり、
自分の蔵書を地域の子どもたちに読ませていました。
現在、その邸宅は三鷹市に寄贈され、山本有三記念館となっています。
方向が違うので、次回に立ち寄ってみましょう。
向かい側の歩道には、武者小路實篤の碑があります。
人間萬歳 實篤
と直筆が刻まれ、
地球を掲げたモニュメントが飾られています。
プレートには、『人間萬歳』(狂言)の
天使と隣りの神様の会話が刻まれています。
天使 私のおります世界に、こう云う人間
(小さい人形を見せ)
がおります。あなたの宇宙にはこう云う生きものは
おりませんか。
隣りの神様 一寸お見せ下さい。ええ、いたことがあります。
今は滅亡しましたが。
天使 ええ、滅亡した? あなたはそれをお救いにならなかっ
たのですか。
隣りの神様 彼等はよろこんで死んだのです。彼等は実に
不思議な生物でした。
略・・・・・
読んでいくと、プレートが磨り減ったのか、
誰かにいたずらされたのか、
傷がついて、後ろにいくにしたがって読めなくなっています。
これでは、悲しいですね。
人間萬歳とは言えなくなります。
武者小路實篤は、1940年(昭和15)55歳の時に、
三鷹村牟礼に家を買って引越してきています。
『牟礼随筆』(抄)・「真剣な仕事」の書き出しは、
この世に生きていることは楽ではない。
次に、太宰治の碑があります。
近代文学を代表する作家です。
1909年(明治42)6月19日、
青森県北津軽の裕福な新興地主の家に生まれました。
今年は、太宰の生誕100年!
碑には、小説『斜陽』の一節が刻まれています。
午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやわらかく
当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに
小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、
お庭の下には蜜柑畑がひろがり、それから村道があって、
略・・・・・
「柔らかな景色ねえ」
とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。
太宰の本名は、津島修治。
1939年(昭和14)30歳の時、結婚して、現在の三鷹市下連雀に住み始め、『惜別』『お伽草紙』などの作品を書きました。
その後、人間の信頼と友情を表現した『走れメロス』、
そして、キリストとユダをえがく『駆込み訴へ』など、
数々の秀作を生み出します。
太宰は、三鷹で見る夕陽を次のように書いています。
毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。
ぶるぶる煮えたぎって落ちている。
『東京八景』
その頃の暮らしぶりは、友人だった亀井勝一郎の文章で
知ることができます。
その話を要約すると、
初夏になると玉川上水には、ほたるが飛び、
夜は暗くて寂しい所だったようです。
太宰の住む家は、駅から遠く、
村や畑を通り抜けていかなければなりません。
平凡でめだたない貸家に、
ひっそりとつつましい暮らし。
部屋は八畳、四畳半、二畳が一間ずつに、台所。
八畳間が、書斎兼、客間兼、寝室です。
太平洋戦争がはじまっても、
太宰にはふしぎに「戦時気分」というものが
全然見られなかったようです。
空襲があっても、鉄かぶとをかぶることもなく、
相変わらずのジャンバー姿で下駄を履き、
夕方になると、三鷹から吉祥寺の酒場へとあらわれるのです。
仕事ぶりは実に規則的で、午前中に原稿五枚と決めれば五枚を必ず書き、
一日のノルマを終えて、夕方には酒をのむ。
終戦近くに疎開するまで、こうした規律ある生活の連続でした。
仕事が終った後の談笑は実に明るいのです。
といったような、三鷹での暮らしぶり。
反俗、反秩序の「無頼派」で知られる太宰とは
まったく違った面がみられますね。
戦後の混迷期においても、
次々と充実した作品を発表していきます。
しかし、戦後の人間や社会に対する太宰の絶望は深かった。
敗戦後も、人の世の悪は変わることなく続く、とうつったようです。
人間の悲しみ、苦しみを、自らの内部をえぐるようにして書く太宰。
1948年(昭和23)、人間存在の本質をえがこうとした、『人間失格』を発表しました。
それは「人間合格をねがう無垢の魂」の小説といわれています。
その後、6月13日、
玉川上水に、女性と共に身を投じました。
ちょうど梅雨時の長雨で、捜索が難しく、
ふたりの遺体が発見されたのは、6月19日の朝でした。
6月19日は、生きていれば、太宰治の満39歳の誕生日。
毎年その6月19日には、
太宰を偲ぶ「桜桃忌(おうとうき)」が行われています。
作品『桜桃』にちなんだものです。
死の1ヶ月前に発表されたこの小説には、
自殺寸前のせっぱつまった心境がえがかれています。
冒頭には、旧約聖書の詩篇の1節が書かれています。
われ、山にむかひて、目を挙(あ)ぐ。
聖書には、「わが救ひはいづこより来るや」
と続くのですが・・・・・、
太宰は意図的かどうか、書いてはいないのです。
そのときの太宰は、救いを求める声もあげられず、
ただ神をみつめるほかなかったのでしょう。
家では3人の子どもを抱え、子煩悩だった太宰。
でも、「桜桃」の父は、「子供よりも親が大切」と
心の中で虚勢みたいに呟くのです。
その父は、優しさゆえか、妻に声出して文句も言えず、
仕事どころではなく、気まずくなって家を出た後、
酒を飲む場所に行く、桜桃がでる。
「私の家では、子供たちに、ぜいたくなものは食べさせない。
子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。
食べさせたら、よろこぶだろう。
父が持って帰ったら、よろこぶだろう。
蔓を糸でつないで、首にかけると、
桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに
食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、
そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、
子供よりも親が大切。」
そして、6月13日、玉川上水に入水するとき、
子どもたちに残した、蟹の玩具・・・・・。
なんと切ない生だったのか・・・・・。
桜桃をしのんで
「桜桃忌」が近いので、お墓に参ってみましょう。
禅林寺は、生前の太宰がよく散歩で訪れたお寺です。
森鴎外の墓があるので心がひかれていたのでしょう。
中央通りから右に折れ住宅街に入っていくと、
幼稚園の前に出ました。
幼児たちの大きな声が聞こえています。
例によって、道がよく分かりません。
通りがかりの人に聞くことになってしまいます。
でもこれがいいですね。
その町の人と話ができて・・・・・。
禅林寺はすぐ近くにありました。
「森林太郎墓」と刻まれた森鴎外の墓の斜め向かいに
太宰の墓があります。
自署の「太宰治」の文字が刻まれています。
たむけられた芍薬や百合や紫陽花が、
やわらかな陽光の中で花を開かせていました。
紋白蝶がふわりと飛んで、
蟻が一匹、
大地に散った、黄色い木の葉の上を、
歩いています。
没後60年、太宰治は、今も多くの人々に読み継がれ、
「桜桃忌」には、たくさんのファンが訪れています。
毎年6月19日には、「三鷹市芸術文化センター」で
太宰治朗読会が開かれるようです。
資料:
『武者小路實篤集』 現代日本文学大系 筑摩書房
『斜陽』太宰治著 新潮文庫
『太宰治』細谷博著 岩波新書
『国語百科』大修館書店
『ヴィヨンの妻・桜桃 ほか九編』太宰治著 講談社文庫
『太宰治』奥野健男著 文春文庫
2009年06月01日
第九回 深川(その4) 江戸から明治へ
深川には、江戸の記憶だけではなく、
明治の記憶も多く残っています。
東京最初の鉄橋
富岡八幡宮の近くで、東京最初の鉄橋を見つけました。
明治11年(1878)、工部省赤羽製作所で造られた国産第1号の
鉄橋で、国指定重要文化財です。
旧弾正橋(きゅうだんじょうばし)、
現在は、八幡橋(はちまんばし)と名称も変わり、
八幡堀遊歩道に架かっています。
長さ15.2メートル、幅2メートル。
造られた当時は、さぞモダンだったのでしょう。
アーチ型で、今でもとても趣が感じられます。
もとは京橋区楓川(いまの中央区宝町3丁目付近)に架かっていました。
関東大震災後に現在のところに移設されました。
近くに島田弾正屋敷があったので、弾正橋と呼ばれていたそうです。
この橋は、馬場先門から本所深川とを結ぶ主要街路の一つで、
文明開化のシンボルとして架けられたそうです。
ということは、こんな歌が流行っていたころでしょうか。
半髪頭(はんぱつあたま)をたたいてみれば、因循姑息な音がする
総髪頭(そうはつあたま)をたたいてみれば、王政復古の音がする
ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする
(ちょんまげ頭(半髪頭)の者を見てごらん。
あれは「わたしは古いものにしがみついていて、
いつまでも昔からの考えを変えられないのです」
という気持ちをよくあらわしているものなんだよ。
総髪頭は、ちょんまげよりも少しはいいけれど、
しかし、王政復古のころの考えでとまっている人だね。
それにくらべてざんぎり頭の人は、文明開化の波に乗って
いちばん先に進んでいる人だ)
『スーパー日本史』より
ほとんどの人がざんぎり頭になったのは、
明治22年(1889)頃だそうです。
ざんぎり頭とは、現在の一般的な髪型に近いものです。
明治維新になってから20年もかかったのですね。
ヘアースタイル改革が・・・・・。
それは、心の問題でもあったのでしょう。
橋を渡ってみようと遊歩道を通り抜け、
ぐるりとまわって橋に出ました。
辺りの風景は、懐かしい想いを抱かせる家が並んでいました。
この橋を見ていると
江戸と深川地域を結んだ永代橋に行きたくなりました。
もときた永代通りをぶらりとお散歩です。
福島橋を渡ると、案内板がたっていました。
佐久間象山砲術塾跡
この場所は、信濃国(しなののくに:長野県)の
松代藩(まつしろはん)下屋敷があったところだそうです。
この深川小松町(現在の永代1丁目)で、佐久間象山(松代藩士)
は、西洋砲術を教えたと書かれています。
象山は、幕末の兵学者・思想家として活躍した人です。
勝海舟も学びにきたそうです。
象山の門下生には、吉田松陰や坂本竜馬もいました。
幕末を動かした人物たち、
ここ深川で出会うとは!
日本に開国を求め、
アメリカから軍艦を率いてペリーがきた頃、
日本は鎖国中。
― 外国の圧力をはね返すために、海外の事情を調べ、
進んだ文明を取り入れることが必要。
しかし、いまだ鎖国令を守る幕府には何の策もない。
こうなれば禁令を破っても渡航するよりほかに方法はない。
そうしなければ、日本は外国に侵略される ―
そう考えたのは吉田松蔭です。
そうして下田港にアメリカの艦船が入ったのを機に、
密航を企てた松蔭。
が、失敗に終わります。
下田の番所から江戸の北町奉行所へ護送される途中、
高輪泉岳寺の前で、次のように歌を詠みました。
かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂
(このようにしたら、その結果はこのように身に災いが及んで
くることはわかっていながら、
私の抱いている大和魂“日本人としての真心”が
私を突き進ませるのだ)
『松陰先生に学ぶ』より
赤穂義士の魂を、また自分自身の魂を思ってでしょうか。
このような歌を詠ったのは・・・・・。
この事件で、
佐久間象山も松代に蟄居(ちっきょ)となっています。
時代は、江戸から明治へと移っていきました。
たちかえる わが古里の 墨田川
昔忘れぬ 花の色かな
『氷川清話』
勝海舟が、徳川家が移った静岡へ引き払う時の歌です。
江戸城無血開場を果たし、百万の江戸市民を救った勝海舟。
交渉相手は、そのとき大総督府参謀であった西郷隆盛でした。
その後、勝海舟は西郷の礼儀正しさ、肝の大きさを幾度も述べ、
西郷亡き後、
今の世に西郷が生きていたら、話し相手もあるに―
南州の 後家と話すや 夢のあと
と詠っています。
勝海舟を尊敬していた坂本龍馬の歌も残っています。
世の人は われをなにとも ゆはゞいへ
わがなすことは われのみぞしる
世の中を新しくしょうと願った人々は、
動乱の幕末から明治へと駆け抜けていったのです。
吉田松陰は、1859年(安政6)30歳の若さで獄死。
佐久間象山は、1864年(元治元年)、
京都で攘夷派の浪士に暗殺されました。享年54才。
坂本龍馬は1867年(慶応3)、京都近江屋の2階で
中岡慎太郎と共に刺客に暗殺されました。
33歳でした。
46歳で明治をむかえた勝海舟は、その後も活躍し、
1899年(明治32)に77歳で亡くなりました。
この地にたたずんでいると、
幕末の世を動かした多くの人々の声が聞こえてくるようです。
永代橋
橋の上を大きなトラックやタクシーがひっきりなしに
行きかっています。
巨大アーチの下部に鉄条網が張られていました。
よじ登る人がいるのでしょうか。
アーチは、近くから見ると大きな鯨の胸骨か
巨大恐竜の背骨のようにも見えます。
子どもの頃、こういった傾斜をよじのぼりたいと思ったことは
ありませんか。
でも永代橋は大きすぎ!
登ろうとしてはいけません。
危険すぎます。
現在の永代橋は、大正15年(1926)に竣工したものです。
ドイツのライン川に架かるレマーゲン鉄道橋がモデル。
橋の近くに赤穂義士休息の地といわれる場所があります。
吉良邸討ち入りの日は、元禄15年12月14日のこと。
碑によれば、
赤穂四十七士の一人大高源吾子葉は俳人で、
この場所にあった「ちくま味噌」の
初代竹口作兵衛木浄とは俳界の友でした。
二人は、俳諧師・基角の門下生。
討入本懐を遂げた義士たちが永代橋へ差し掛ると、
作兵衛は一同を店に招き入れて、
甘酒粥をふるまい労をねぎらった、
と書かれています。
江戸時代の永代橋は、元禄11年(1698)に架けられ、
現在の場所から100メートル上流にありました。
義士たちはその橋を渡って泉岳寺に向かったのでしょうか。
当時、この界隈は全国の物資が集まる倉庫街。
富岡八幡宮の造営などで発展し、開発が進められていたのです。
しかし、悲劇は思わぬときにやってきました。
文化4年(1807) 8月19日、八幡祭の大祭が行われた日、
祭礼見物の多くの人を乗せた橋が崩落。
死者、行方不明あわせて1400人以上という大惨事が起こりました。
その悲しみを乗り越え、
江戸市中との架け橋となり、
深川発展の象徴となった永代橋なのです。
資料:
『ゆこうあるこう・こうとう文化財マップ』 江東区発行
『氷川清話』 勝海舟 勝部真長編 角川文庫
『松陰先生に学ぶ』 山口県教育会
『スーパー日本史』 田宗・中野睦夫監修 古川清行著 講談社
『お江戸の歩き方』 監修=竹内誠 学研
2009年05月15日
第八回 深川(その3) 江戸が残る町
清澄通りを海辺橋の方に歩いていくと、
平野一丁目になります。
滝沢馬琴(ばきん)誕生の地
沢山の本を積み上げた碑があります。
これは「南総里見八犬伝」の読本をかたどったものです。
馬琴は本名・滝沢興邦(おきくに)。
明和4年(1776) 旗本松平家の用人の五男に生まれました。
九歳で父を亡くしたので、
童小姓(わらべこしょう)として仕え、一家を支えました。
14歳の時、耐えきれずに主家を逃げ出してしまいます。
24歳になると、文筆で身を立てようと、
当時、人気者の戯作者 山東京伝に入門。
京伝の世話で有名な版元・蔦谷重三郎とも出会い、
黄表紙 (当時の風俗を言葉と絵とで表現したもの) を書き始めました。
寛政3年(1791)、京伝門人大栄山人の名で処女作、
黄表紙「尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん」を発表。
以後、勧善懲悪、因果応報を内容とした読本を数多く著し、
読本作家の第一人者となっていきます。
生涯の代表作「南総里見八犬伝」は、
長編で全98巻、106冊。
積み重ねると大人の背丈ほどになります。
文化11年(1814)から、天保13年(1842)の28年間に
21回にわたって刊行され続けたものです。
48歳のときに書き始め、
書き終わったのは、76歳でした。
作品は爆発的なベストセラーになりましたが、
その最中、最愛の長男を亡くします。
馬琴も眼を患い視力が衰えて、とうとう失明してしまいます。
その絶望を支えたのが長男の嫁・お路でした。
お路に字を教えながら、口述筆記で書き続けたのです。
必死の努力は、作品の完成によって報いられました。
いま、この作品を読めるのもお路さんのお陰ですね。
馬琴が亡くなったのは『南総里見八犬伝』完成の6年後、
嘉永元年(1848)、82歳でした。
残した著作は、読本、黄表紙から随筆にいたるまで約470種。
仙台堀川に架かっている海辺橋を渡りました。
「消火器」と大きな看板を掲げたお店があります。
消火器専門店というのを初めて見ました。
地球儀の形をした消火器がウインドウに飾られています。
並びには、珍しいその名も高級らんま美術のお店があります。
欄間(らんま)に飾る透かし彫りの飾りが並んでいます。
門前仲町の交差点を過ぎ、
大横川に架かる黒船橋を渡ると、牡丹一丁目。
粋な町名ですね。
江戸時代から粋(イキ)と張り(ハリ)を売り物にしたのが深川気質です。
このあたりには、牡丹の花が咲いていたのでしょう。
明治時代の開明東京名勝「深川富ケ岡の牡丹」を見ると
美しい牡丹が描かれ浮世絵風の女性と女の子が見入っています。
四世・鶴屋南北
牡丹一丁目の住宅街の中で、黒船稲荷神社を見つけました。
この地で四世・鶴屋南北が亡くなっているのです。
あの『東海道四谷怪談』の作者です。
子どもの頃、怖くて怖くて、
そう、今でも怖いのですが・・・・・
宝暦5年(1755)、日本橋で紺屋の型付け職人の子として
生まれました。
幼いときの名前は源蔵といい、
家の近くには歌舞伎の中村座や市村座がありました。
そのせいか、芝居好きになり、
21歳のとき、家業を捨て芝居の世界にとびこむのです。
長い下積み生活の末、
50歳近くになって、ようやく立作者(主任作者)となることが
できました。
文化元年(1804)、河原崎座上演の
「天竺徳兵衛韓話(てんじくとくべえいこくばなし)」を書き下ろし、
大当たりをとります。
以降、多くの傑作を書きました。
文化8年(1825)には、四世・鶴屋南北を襲名し、
当代随一の名作者といわれるようになったのです。
『東海道四谷怪談』は、71歳の時の作品です。
南北の作品は、怪奇で残酷、また卑猥で滑稽といわれますが、
文化文政時代の世相を的確につかみとり、大胆に表現したのです。
そして、75歳で亡くなるまで戯作を書き続けたエネルギーも
すばらしいものです。
永代通りに戻り富岡天満宮に参詣です。
伊能忠敬(ただたか)
永代通りは天満宮への参詣道。
深川仲町通り商店街を進むと
左に大きな鳥居が見えてきます。
横には、近代日本地図の始祖・伊能忠敬の銅像が建っています。
江戸時代に、日本全国を測量し、
はじめて実測で日本地図を完成させた人です。
忠敬は、延享2年(1745)、現在の千葉県で生まれました。
17歳で伊能家の婿養子となります。
家業をこなし、名主としても活躍しました。
50歳の時、家督を長男に譲り、
江戸に出て前から興味のあった天文学を
本格的に学びました。
江戸深川の黒江町(現在の門前仲町1)に住み、
天文学の第一人者・高橋至時(よしとき)のもとで、
昼夜を分かたず猛勉強。
天体観測に熱中していた忠敬は、
日本人で初めて、
白昼、金星の南中(真南にくること)を観測したのです。
18世紀頃の日本では、あらゆる人々が暦学や天文学に
心惹かれていたようです。
八代将軍吉宗をはじめ
武士、商人、船頭、医者、通辞(通訳)、酒屋、質屋、
経世家(経済政策立案者)、思想家、和算家、等々。
いろいろな職業の人々がこぞって興味を持っていたのですね。
天文学を学んでいると、地球のことを知る必要があります。
月と地球との距離を測ろうとすれば、
地球の大きさをもとにしなければなりません
至時と忠敬の師弟は、地球の大きさについての
正確な数値を得たいと考えていました。
そのことが緯度差と南北距離を測る旅につながっていきます。
思わず銅像の足元を見つめてしまいました。
50歳半ばから70歳代まで、
日本中を歩いたのは、およそ4千万歩。
約33,720キロメートル。
もう少しで地球を一周するほどの距離です。
その情熱、努力、そして健脚ぶりに驚きです。
測量に出かけるときには、内弟子と従者をつれ、
必ず富岡天満宮に無事を祈念して、歩き出したということです。
寛政12年(1800)閏4月19日の日記には、
閏四月十九日、五つ前深川出立。上下六人。
この日朝より小雨。昼後にやむ。
深川八幡宮参詣。
それより両国通り。
浅草司天台へ立ち寄り、高橋先生宅にてお酒給う。
荷物は深川より直ちに千住の宿に積み込む。
享年は、数え年で74歳でした。
富岡天満宮
寛永元年(1624)、長盛(ちょうせい)法印の創建といわれます。
多くの人に参詣され、江戸最大の八幡さまといわれました。
入り口近くに立派な神輿(みこし)が収められています。
3年に一度の本祭りは、江戸三大祭のひとつ「水掛け祭り」。
相撲に関しても由緒あるところです。
江戸時代には寺社修復などを目的とする
勧進相撲(かんじんすもう)が幕府公認で
催されるようになりました。
その江戸勧進相撲の発祥がこの境内なのです。
立派な横綱力士碑があります。
横にある陣幕(じんまく)・不知火(しらぬい)顕彰碑には、
二人の力士の力強い像が刻まれています。
その上に見えるのは、日と月が彫られた日月(じつげつ)石寄附碑。
大関力士手形之碑もあります。
その手形の大きさにはびっくりしました。
今回は、江戸の記憶がいっぱい詰まっている町のさんぽでした。
それにしても、滝沢馬琴、四世・鶴屋南北、伊能忠敬の三人は、
そろって、その時代にしては、非常に長命!
目的をもつと、ひとは高齢になればなるほど
人生を最高に楽しむことができるのですね。
見習いたいものです。
命尽きるまで現役、というのはいいですね。
資料:
『南総里見八犬伝』安西篤子著 集英社文庫
『日本の古典18巻:東海道四谷怪談ほか』世界文化社
『伊能忠敬』今野武雄著 新日本新書
『こうとう文化財まっぷ』江東区教育委員会
『富ヶ岡No.54』富岡八幡宮社報
『お江戸の歩き方』監修・竹内誠 学習研究社
2009年05月01日
第七回 深川と芭蕉
芭蕉記念館の向こうに流れる隅田川には、
水上バスが行き交っています。
東京新百景の一つ、直線的なデザインの新大橋が
陽光にひときわ映えていました。
芭蕉は、このあたりを散歩していたのでしょうか。
隅田川沿いの道を、芭蕉庵史跡展望庭園に向かいます。
壁に「つりえさ」と書かれた家に、猫が日向ぼっこ。
こちらも、陽を浴びながらゆっくりとさんぽです。
芭蕉庵史跡展望庭園
入り口の階段には、投句箱が備え付けられていました。
階段を上がったところには、芭蕉像。
隅田川を見つめているようです。
何を考えているのでしょう。
九年の春秋、市中に住み侘びて、
居を深川のほとりに移す。
「長安は古来名利の地、
空手にして金なきものには行路難し」
と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、
この身の乏しきゆゑにや。
(江戸市中に住んで9年。今深川に住みかえた。
中国の長安の都は、名誉と利欲を追う町で、
お金のない人には、住みにくいそうだが、
貧しい者にとっては、江戸の町も同じようなものだ。)
芭蕉は深川に転居後、
人生と俳諧の求道者として、生きていったようです。
芭蕉稲荷神社
すぐ前に、芭蕉稲荷神社。
史跡・芭蕉庵跡という碑があります。
大正6年(1917)大津波があり、
出土したのが、「芭蕉遺愛の石の蛙」。
その時、地元の人々によって祀られた神社です。
大正10年、東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。
なぜか神社の木に、良寛が鍋の蓋(ふた)に書いた
「心月輪」の複製が架かっています。
心が月のように澄むことを願って
かけられているのでしょうか。
脇で、「箱庭」を造っているおじさんがいました。
苔むした岩肌に木が生え、鳥がとまり、小さな花が咲いています。
まさに四季おりおりの小さな箱です。
「写真をとってもいいですか」
「いいよ」
「完成するのに幾日くらいかかりますか」
「う〜ん・・・・・」
「そうだ、完成なんてないのですよね。自然には!」
土をいじる指先に愛情があふれています。
静かな人です。
もう一度会いたくなる人でした。
臨川寺(りんせんじ)−松尾芭蕉参禅の寺
清洲橋通りを右に少し行ったところに、
臨川寺があります。
芭蕉は、ここで運命的出会いをします。
臨済宗の仏頂(ぶっちょう)和尚です。
37歳の芭蕉は、ここで禅の修行をはじめました。
和尚のもとで新しい人生観を持ち、
生き方まで変わりました。
俳諧も詩禅一致の作風へと移っていくのです。
芭蕉は草庵で坐禅しながら
自らの心を見つめ、
いよいよ行脚の修行に入ります。
貞享元年(1684) 41歳になった芭蕉は、
『野ざらし紀行』の旅に出ました。
その旅で、理屈を離れたありのままの俳諧が生まれていくのです。
馬上の吟
道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食われけり
(道ばたに咲いていた木槿の花は、
私の乗っている馬にパクリと食われてしまった。
何事が起こったというわけではないが、
ついさっきまで咲いていた花は、
もう影も形も無い。
唐突のようでもあり、
当然のような気がして、
なんだか瞬間に幻をみたような思いである)
『芭蕉文集』新潮日本古典集成より
この句の境地は、
その後、芭蕉の俳諧の方向を決定していったのです。
月はやし
貞享4年(1687)、44歳の時、
鹿島に仏頂和尚をたずねました。
あいにくの雨、月も見えません。
夜明け頃、少し晴れてきたので、
和尚は芭蕉を起こして歌をなげかけます。
をりをりに かはらぬ空の 月かげも
千々(ちぢ)のながめは 雲のまにまに
和尚から芭蕉に対する問いかけです。
(天空の月はいつも同じ光を放ち、
澄みきっている。
それなのに、月にかかる雲の激しい流れによって、
さまざまに変わって眺められるのは何故だ、
いかに!)
という禅の公案のようです。
私たちがさまざまに悩むのは、
本来は変わらないはずの月の光を
迷いの雲がかかって、見えにくくなるのと同じ
という意味を託した歌です。
芭蕉は、いきなり「月はやし」と答えます。
月はやし 梢は雨を 持ちながら
(月は雲の中を突っ切るように
猛スピードで走っている。
雨が降っていたので、
雲はいまだに激しく動いている。
疾走する月から、千々にくだける月光。
その下では、木々の梢が雨をたっぷりと含んで、
きらめき、しずくをしたたらせている)
普通には、
月が走っているわけがない、
雲が速く動いているのではないか、
と思われます。
それを超えた境地、
見たまま感じたままの自然の姿を、
詠って返答しました。
力味も理屈もきれいに抜けた句。
和尚の真意をしっかりとさとっています。
臨川寺を後にして少し歩くと、
道ばたに花が咲いている清楚な小道がありました。
小道を抜けると清澄庭園の前に出ました。
このあたりは、お寺や大名屋敷が多かったようです。
清澄庭園は豪商紀伊国屋文左衛門の邸宅だったとのこと。
芭蕉記念館で購入した『ゆこうあるこう・こうとう文化財マップ』には、
広重や北斎などの名所図会がたくさん載っています。
それだけ名所が多い深川です。
ゆっくり歩いてみましょう。
資料:
『芭蕉の誘惑』嵐山光三郎著 JTB
『芭蕉文集』新潮日本古典集成 (株)新潮社
『ゆこうあるこう・こうとう文化財マップ』江東区発行
『芭蕉伝記新考』高橋庄次著 春秋社
『芭蕉 二つの顔』田中善信著 講談社選書メチエ
2009年04月15日
第六回 深川
隅田川河口の左岸地域一帯は
400年ほど前、葦が生い茂った三角州でした。
その頃、開発の先頭に立っていたのが、攝津国出身の深川八郎右衛門。
まもなく徳川家康が関東に入国、急速に発展し、
深川村と名付けられました。
芭蕉のこと
都営新宿線森下駅のA1出口に、
春の陽光がまぶしく射しています。
町は桜が満開。
芭蕉記念館に向かいながら、想うのは芭蕉のこと。
芭蕉は、寛永21年(1644)三重県伊賀に生まれ、
13歳の時、父を亡くし、
10代の後半、藤堂新七郎家の嫡子良忠に仕えます。
その時は、忠右衛門宗房と名乗っていました。
藤堂家は俳諧好みでした。
良忠の寵愛を受け、ともに季吟に師事して
俳諧に研鑽を積みます。
ところが芭蕉23歳の時、若くして良忠が亡くなってしまいます。
しばらくは、藤堂家に仕えていたようです。
29歳の1月には、発句合『貝おほひ』を執筆し、
伊賀上野の天満宮に奉納しました。
これを持って、
いよいよ俳諧師になろうと江戸をめざします。
芭蕉は江戸に来て以来、
生活のため、名主の業務の代行をしたり、
神田上水の水道工事を請け負ったりしていました。
手助けに、故郷から、16歳の甥・桃印も呼びました。
仕事の信頼も厚く、人を使う才覚もあったようです。
35歳頃には、俳諧宗匠・桃青として認められるようになりました。
37歳の時に、『桃青門弟 独吟廿歌仙』を刊行し、
門弟の杉風(さんぷう)、卜尺(ぼくせき)、基角、嵐雪たちに囲まれる
そうそうたる俳諧宗匠になっていました。
それなのに、どうしたことか日本橋小田原町の暮らしを捨て、
突然深川に移ってしまいます。
何かあったと察せられます。
深川と芭蕉
そよ風の中、少し歩くと、「江東区芭蕉記念館」。
大きな芭蕉の株があります。
その実はバナナ。
当時は新奇な植物だった芭蕉。
門人から贈られ、生い茂ったので
いつのまにか芭蕉庵(ばしょうあん)と呼ばれるようになりました。
玄関先に竹があり、
芭蕉の句がつけられていました。
芭蕉野分けして 盥(たらい)に雨を 聞く夜かな
(暴風が吹き荒れて、庭の芭蕉の葉に吹き当たる風雨の音が激しい。
雨漏りがする草庵の中では、盥にしたたる水音が絶えることがない。
これが侘しいわが住まいなのだ)
芭蕉は、その時の心情を、
芭蕉野分けして、と字余りにして、強調しています。
当時、次のような句も詠んでいます。
櫓(ろ)の声 波ヲうって腸(はらわた)氷ル 夜や涙
(夜は寒風がきびしく、舟の櫓をこぐぎいぎいときしる音だけが、
波の上を伝わってくる。
草庵でひとりその音を聞いていると、はらわたが凍る思いがする。
寂しくて思わず涙を落としとまらない。苦い涙が・・・)
よほど孤独を噛み締めていたのでしょう。
深川では、すべてのものを失うことをも覚悟していました。
記念館の中庭では
池を配した日本庭園には、芭蕉の句に詠まれた草木が
植えられていました。
「つわぶき」「あじさい」「まんりょう」「かや」「てんだいうやく」
「ねずみもち」「たらよう」「ねむのき」「にしきぎ」「やまもも」
「かくれみの」「けやき」に「たけ」等。
「さくら」は満開。
春風に吹かれた桜の花びらが、水のせせらぎで舞っています。
築山に芭蕉庵の形をしたほこらがあります。
中に芭蕉像が安置され、
筍(たけのこ)が供えられていました。
芭蕉庵『蛙合(かわずあわせ)』で詠った有名な句の碑があります。
ふるいけや 蛙飛びこむ 水の音
合(あわせ)とは句を詠みあい、
2句ずつを比べてどちらが優れているかを競ったもの。
その時、江戸蕉門の精鋭40人が集まったそうです。
館内の企画展は、「近世の名数俳人―三神・五傑・十哲など―」。
俳諧の先人・宗鑑、荒木田守竹、松永貞徳などの書幅、書簡が
展示されています。
芭蕉の「おくのほそ道」コピー版がありました。
開かれた頁の2箇所に紙が張られ、
その上に新たに手直しの文字を書いたこともわかります。
芭蕉の息づかいが伝わってくるようでした。
月日は 百代の過客
「おくのほそ道」の冒頭はあまりにも有名です。
旅のテーマが語られます。
月日は 百代の過客にして
行きかふ年も また旅人なり
(月日は永遠の旅人であり、行く年来る年もまた旅人である。
すべては移り変わっていくものだ)
弥生も末の七日、
明けぼのの空朧々として、
月は在明にて光おさまれるものから、
不二の峰幽かに見えて、
上野・谷中の花の梢、
またいつかはと心ぼそし。
芭蕉は、桜に思いを残しつつ旅立ちました。
桜については、こういう話があります。
「おくのほそ道」が完成する前年の元禄6年春のことです。
自ら江戸に連れてきたのに、一時絶縁状態にあった甥の桃印は、
長く肺結核を患っていました。
芭蕉は、病んだ桃印を芭蕉庵に引き取り、献身的な看護をしますが、
3月7日ごろには病状は絶望的になります。
弟子の許六が、桜を持って見舞いに来ました。
その枕辺の桜を見ながら、桃印は息を引き取ったそうです。
この不敏はかなきことども、
思ひ捨てがたく、
胸をいたましめ罷りあり候。
見事な花、御意に懸けられ、
病人にも花の名残りと存知見せ申し候ふ間、
悦び申し候。
許六宛書簡
桃印が亡くなった直後、宮崎荊口(けいこう)宛書簡では、
拙者、当春、猶子桃印と申すもの、
三十まで苦労に致し候ひて、
病死致し、この病中、神魂をなやませ、
死後断腸の思ひ止みがたく候ひて、
清情草臥(くたびれ)、
花の盛り、春の行方も夢のやうにて暮らす、
句も申し出でず候。
そこには、自ら看病にあたり、心身ともにぼろぼろになりながらも、
桃印をいとおしむ芭蕉がいます。
芭蕉の心には、もっと早く救うこともできず、
病によって死なせてしまったことへの
激しい自責の念があったようです。
この桃印とのことが、芭蕉の深川隠棲の謎と
関係しているようなのです。
芭蕉は、桃印の新盆が過ぎてから、
芭蕉庵をしばらく閉ざし、面会をいっさい断りました。
その間、「おくのほそ道」の完成に向けて書き綴っていたといわれます。
芭蕉の書くという行為は、自らの魂の救済だったのかもしれません。
庭の奥にも一本の桜。
風に舞う花を眼で追い、外に出るとそこは隅田川。
資料:
『お江戸の歩き方』監修=竹内誠 学研
『芭蕉 二つの顔』田中善信著 講談社選書メチエ
『芭蕉の誘惑』嵐山光三郎著 JTB
『芭蕉紀行』嵐山光三郎著 新潮社
『芭蕉文集』新潮日本古典集成 新潮社
『芭蕉記念館パンフレット』江東区芭蕉記念館発行
『森下:下町ぶらりMAP』制作・深川発祥 後援・江東区
『芭蕉伝記新考』高橋庄次著 春秋社
2009年04月01日
第五回 東大と文豪の町・本郷
赤門
菊坂から本郷通りにもどり、東大赤門前に向かいました。
東京大学本郷キャンパスは、加賀百万石として知られた
前田家の上屋敷でした。
案内板には
「赤門は文政10年(1827)加賀藩主前田齊泰にとついだ
11代将軍の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています」と書かれています。
門をくぐると、銀杏並木。
正面の医学部建物を左に折れ、
こんもりとした森の木々の中、
石段を下ると、池があります。
三四郎池
「三四郎が疑(じっ)として池の面を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、
其又底に青い空が見える」
夏目漱石『三四郎』
池の正式名称は、「育徳園心字池」
今では、三四郎池の名で親しまれています。
「現代の青年に理想なし。過去に理想なく。現在に理想なし。
家庭にあっては父母を理想とする能はず。
学校に在っては教師を理想とする能はず。
社会にあっては紳士を理想とする能はず。
事実上彼らは理想なきなり。
父母を軽蔑し、教師を軽蔑し先輩を軽蔑し、紳士を軽蔑す。
此等を軽蔑するは立派な事なり。
但し軽蔑しえる者には自己に自己の理想なかるべからず。
自己に何等の理想なくして此等を軽蔑するは、堕落なり。
現代の青年は滔々として日に堕落しつ、あるなり」
明治39年に書かれたもの。
理想なくしては、いかなる行動も堕落していくのみ。
こう考えていた漱石。
その思いが数々の作品を書かせる動機だったそうです。
ぐるっと池をまわると、高低もあって深さもあります。
漱石もここを歩いたに違いありません。
池の急な石段を上がり、安田講堂へ。
時計台を見つめていると、思い出します。
あの学園闘争を・・・・・
1968年1月29日、
「登録医師制度」の法改正案に反対した
東大医学部の学生たちの無期限ストライキ。
紆余曲折のすえ、
約1年後に安田講堂落城で終わる事件です。
当時の大学は改革すべき多くの問題を抱えていました。
学生運動が全国に広がっていた時代です。
事態が長引くにつれ、イデオロギー闘争となっていき、
校舎に陣をとり、閉じこもることになってしまった学生たち。
東大自体も問題を解決することができなくなってしまいました。
1969年1月18日、機動隊8,500人が東大本郷に出動。
翌19日、夕闇迫る安田講堂から時計台放送が響きます。
それは学生たちの最後の声でした。
「我々が無防備に近い肉体によってなぜ闘いを止めないか。
みなさんに真剣に考えていただきたい」
あの日から40年。
今年1月には、テレビ番組にもなり、放送されました。
学徒出陣戦没者の碑
正門を出て、本郷通りの信号を渡ると、
「天上大風」 の文字が刻まれた石碑がありました。
「東京大学戦没同窓生之碑」とあります。
満州事変、日支戦争、太平洋戦争の15年間での
東大の学徒出陣戦没者は、2,500人に達すると推定されています。
「避けがたい状況下、愛する人々のために一命を捧げた」若者たち。
「その痛ましくも悲しい事実を歴史に刻む碑」です。
「その深い思いを天上大風という良寛の言葉に託した」とのこと。
平成12年、医学部戦没同窓生の同志たちが建立した碑です。
惜しくも散った多くの若い命。
良寛は、「凧をつくるから」と子どもに頼まれて、
「天上大風」と書いたといわれています。
風をはらんで、天上を悠々と舞うさまが目に見えるようです。
「生はいずこより来たり、いずこへゆくのか」と人生をみつめ、
「騰々(とうとう)、天真に任す」
(自然に任せ、あるがままに悠然と生きる)と詠った良寛。
出家して、修行のはてに行き着いた“慈愛”。
当時の人々は、良寛と出会うことで、
その“慈”に触れ、癒され、和んだそうです。
生死を脱却して生きようとした良寛さんと、戦没同窓生の人々。
その心と心を、堂々としてすがすがしい「天上大風」が結んでいるようです。
『宵待草』に出会う
通りに、竹久夢二の絵葉書が、ずらりと並んだお店があります。
おもわず口ずさむ
まてどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよひは月も出ぬそうな。
夢二の三行詩『宵待草』です。
大正2年(1913)11月発行の『どんたく』で
発表されました。
多忠亮(おおのただすけ)という19歳の学生が
この詩に大変感動し、曲をつけたのです。
当時、東京音楽学校(現、東京芸術大学)のバイオリン科に在学中。
それが、『宵待草』として、多くの人に愛される歌になりました。
それにしても、想う人を待つ心とは、
やるせないものなのですね。
夢二の描く女性の絵も、切なく、はかなさを感じさせます。
そういえば、
良寛にも待つ心の切なさを詠った歌があります。
君やわする 道やかくるる このごろは
待てど暮らせど おとづれのなき
(君が草庵への道を忘れてしまったのでしょうか。
それとも道が隠れてしまったのでしょうか、
このごろは君のことを思ってばかりいるのに、
いくら待っても君の姿は見えないのです)
文政10年(1827)、良寛70歳のとき
30歳の貞心尼に贈った歌です。
最晩年のはなやぎを帯びた日々のことでした。
待てど暮らせどは、良寛さんも夢二も同じ言葉を使っています。
時代は変っても、二人は同じ想いを抱いたのですね。
本郷で、《月光》の曲
店の中には、いろいろな葉書や封筒などが並んでいました。
見とれてしまう素敵な版画も。
ヨーロッパの古い家、ベートーヴェンの生家と書かれています。
絵の中に描かれた楽譜は、「ピアノソナタ第14番《月光》」
愛する人ジュリエッタ・グィッチャルデイ伯爵令嬢に捧げられたもの。
感情を揺さぶる素晴らしい曲です。
思わず調べが頭の中に響きました。
「幻想風ソナタ」が、この本郷で全身をつつんでくれるなんて
想像もしていませんでした。
文学の町
こうして本郷通りを歩いていると、さまざまなことが思いうかびます。
石川啄木24歳の時、朝日新聞の校正係りとして入社し、
家族とともに住んだのは、本郷弓町の床屋の二階でした。
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
詩集『一握の砂』
1916年4月30日に
本郷三丁目望月写真館で撮影された写真があります。
そこには成瀬正一、芥川龍之介、松岡譲、久米正雄が写っています。
芥川龍之介は、詰襟の学生服に角帽です。
そのころ『新思潮』の打ち合わせで
足しげく赤門と本郷三丁目の間を往復し、
本郷五丁目の松岡譲の下宿に集まったそうです。
雑誌には、成瀬正一の「骨晒し」、芥川龍之介の「鼻」、
久米正雄の「父の死」、菊池寛の戯曲「暴徒の子」、
松岡譲の「罪の彼方へ」が掲載されました。
「禅智内供の鼻といえば・・・」にはじまり、
「―こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁いた。
長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」で終わる小説『鼻』。
この小説をいち早く認めたのは、恩師の夏目漱石でした。
本郷は文学を愛し、かかわる人々の町。
まさに文豪の町「本郷」です。
桜の季節となりました
資料:
『お江戸の歩き方』監修=竹内誠 学研
『日本近代文学大系27 夏目漱石集W』 解説 高田瑞穂
『復刻版 夏目漱石選集』渇社春陽堂書店 企画販売ユーキャン
『60年代「燃える東京」を歩く』 JTB
『夢二郷土美術館』楢原雄一著 松田 基 監修 岡山文庫
『風の良寛』中野孝次著 集英社
『狂と遊に生きる』久保田展弘著 中央公論新社
『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木 新潮文庫
『芥川龍之介』関口安義著 岩波新書
2009年03月15日
第四回 本郷へ
湯島天神から春日通りを本郷三丁目へ。
「江戸あられ・竹仙」というお店があり、
おもわず足を止めました。
ウインドウに陳列された商品の名前がとても楽しいのです。
「白梅」「基角」「元禄」「雁金」「東男」「笹舟」「品川春」「歌舞伎好み」「紫小町」「羽衣」「玉屋」「清元」「江戸錦」「海老霰」「若葉」「満月」「小菊」など。
いかにも江戸好みで、美味しそう。
湯島天神の白梅を愛で、「白梅」というあられに出会う、うれしい限り。
「基角」というあられは、
俳諧師・芭蕉の高弟「基角」を連想させます。
基角は、貞享元年(1684)に、旅にでました。
それも西行の命日2月15日に出発し、
西行の 死出路を旅の はじめ哉
と詠み、旅立ちの句としました。
当時、江戸の芭蕉の門人たちの間では、
西行はとても崇拝されていました。
だれもが西行の『山家集』読み、
彼のように諸国を放浪してみたいと思っていたのです。
基角の旅は、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅に出かける数ヶ月前のこと
でした。
嵐山光三郎著『芭蕉の誘惑』によれば、
「こういった生意気な句には、師匠の芭蕉も色めきたった。
(ふん、味な真似するものだ)と思った、かどうか。
(若造がかっこうをつけやがって・・・・・)と眉をしかめたに違いないと私はにらんでいる」
芭蕉も人間くさい男だったのでしょう。
本郷へ向かいながら想いは江戸の町並みへ・・・・・。
江戸では、享保15年(1730)に大火がおきました。
そのため、江戸町奉行・大岡越前守は、
耐火のために、江戸城から本郷3丁目までの町屋を、
土倉塗屋造、蛎殻(かきがら)葺きにしなければならないと決めました。
(蛎殻葺きとは、蛎殻で屋根を覆い、板で貝留めをつけたもの)
そして、それより北は従来どおりの茅葺でいいとしたそうです。
ということは、当時は本郷のこの辺りまでが、
江戸市中の範囲になっていたようです。
当時、乳香散(歯磨粉)を売っていたお店「かねやす」は、
町の境目にあって、目立っていたので、
次のような川柳が生まれました。
本郷も かねやすまでは 江戸の内
店の看板は、赤穂浪士の堀部安兵衛が書いたといわれ、
多くの人々が看板を見るためだけに、集まってきたということです。
本郷薬師
本郷三丁目の交差点に立つと、本郷薬師の額がかかった門が見えます。
門の上には、沢山の提灯が2列に並んでいます。
道を入ると、奥に小さな薬師堂(寛文10年・1670建立)があります。
もとは、真光寺の境内の一部でした。
戦災後、世田谷に移転したので、薬師堂のみが残ったとのこと。
薬師如来は、人間の病苦を癒し、苦悩を除く仏。
人は、常に病苦に悩まされ、苦悩が絶えない存在。
薬師如来は、そのような私たちの心を癒すのですね。
坐像の十一面観世音菩薩に出会いました。
中心のお顔は慈悲をたたえておられますが、
人を救うために、時に応じ、場に従い、多数の顔をあらわすのです。
樋口一葉と井戸
本郷通りに戻り、少し歩くと菊坂。
樋口一葉が住んだ家がすぐそこにあります。
『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』などの名作を遺し、
24歳で結核のため亡くなった小説家です。
明治23年(1890)9月末、
本郷菊坂町七十番地(現在の本郷4−32−3)に家を借り、
母と妹と3人で住みました。
18歳のときです。
前年に父を亡くし、大変貧しい暮らしでした。
針仕事や洗い張りで生計を立て、
歌も習い、勉強しながら小説を書き始めました。
案内板に次のような歌が書かれていました。
寝ざめせしよは枕に音たてて
なみだもよほす初時雨かな
樋口夏子(一葉)
母と妹を抱え、若い戸主として、けなげに生きる一葉。
思わず目頭が熱くなりました。
切ないです。
明治25年2月18日、
「寒風おもてを切るが如し」の日、知人に借金をするため
菊坂の家を母と共に家を出た一葉。
梅がゝ(香)聞ながら藪下より参らんとて
根津神社をぬけてかへる。
風寒けれど春ははる也。
鶯の初音折々にして思はずあしとゞむる垣根もあり。
紅梅の色をかしきに目をうばはるゝも少なからず。
八円借りることのできた一葉。
ほっとしたその心に紅梅が、香りが、鶯の鳴き声が
響いてくるのです。
想いに胸詰まらせながら、
なかなか一葉の家にたどりつけません。
以前も尋ねたことがあるのですが、
小さな路地で、入るところがわからないのです。
近くの精肉屋さんによると
「わかりにくいんだよね。
あまり多くの人が尋ねてきて、がやがや騒ぎ、
隣近所の人に迷惑がかかるので、
近くの案内板は取り外したと聞いているよ」とのこと。
やっと探し当てた路地を入ると、
ひっそりと一葉たちが使った掘抜井戸がありました。
古い家が静かにたたずんでいます。
まるで一葉が、其処にいるかのようです。
しばし想いにふけり、立っていました
一葉が亡くなったのは、明治29年(1892)。
その年に生まれたのが、宮沢賢治です。
菊坂町と宮沢賢治
菊坂辺りは江戸以前より菊畑のあったところです。
菊坂台地と呼ばれる坂上には、
振袖火事・明暦の大火(1652)の火元となった本妙寺がありました。
“遠山の金さん”(遠山景元)の墓があったそうですが、
明治43年に巣鴨に移転してしまいました。
市街化と共に、菊造りも巣鴨辺りに移っていったそうです。
ここにも、もうひとつ案内板があります。
「宮沢賢治旧居跡 文京区本郷4-35-4」です。
今は建て替えられていました。
宮沢賢治〔明治29年(1921)―昭和8年(1933)〕は詩人・童話作家。
岩手県から大正10年(1921)1月に上京し、
同年8月まで本郷菊坂町の稲垣方二階に間借りしていました。
東大赤門前の交信社(現代大学堂メガネ店)で
筆耕や校正などをして自活。
昼休みには、街頭で日蓮宗の布教活動をしていたようです。
そのかたわら、童話や詩歌の創作に専念。
1日300枚の割合で原稿を書いたそうです。
童話集『注文の多い料理店』のなかの「かしわばやしの夜」、
「どんぐりと山猫」などは、間借りの部屋で書いたとのこと。
主な作品が、たった約半年の間に生まれたとは!
8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰る時
トランクがいっぱいになる程、原稿が入っていたそうです。
本郷の路上で、一気に賢治の理想郷・“イーハトーブ”へと
想いは飛んで行きます。
わたしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
『春と修羅』の序
そして、妹想いの賢治は、
ああきょうのうちにとおくへさろうとするいもうとよ
ほんとうにおまえはひとりでいこうとするのか
わたしにいっしょに行けとたのんでくれ
泣いてわたしにそういってくれ
(「松の針」)
と詠ったのです。
『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』
幾度も読み返したものです。
『春と修羅』『永訣の朝』『雨ニモマケズ』の詩は、
詩集で読み、朗読のCDで聴きました。
日本人の心に刻み込まれた賢治の想い
世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない。
(『農民芸術概論綱要』)
忘れられない言葉です。
「ほんとうの幸せとはなんだろう」
農村にたたずむ賢治の姿を思い浮かべながら
本郷通りへと歩きました。
さんぽ道には沈丁花の香りが満ちています
資料:
『芭蕉の誘惑』嵐山光三郎著 JTB
『お江戸の歩き方』監修・竹内誠 滑w習研究社
『一葉の四季』森まゆみ著 岩波新書
『樋口一葉』澤田章子著 新日本新書
『イーハトーブ幻想』河北新報社
『日本美 縄文の系譜』宗 左近著
「本郷薬師」「十一面観世音菩薩と真光寺」
「宮沢賢治旧居跡」「菊坂」以上は、
郷土愛をはぐくむ文化財・文京区教育委員会 案内プレート
2009年02月27日
第三回 梅満開の湯島から本郷へ:その1
「冴え返る春の寒さに降る雪も、
暮れていつしか雪となり、
上野の鐘の音も氷る細き流れの幾曲、
すえは田川に入谷村、」
とはじまるのは、泉鏡花の戯曲「湯島の境内」。
「切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。
・・・・私にゃ死ねと云って下さい。
蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。」
出かける前から、こんなせりふが頭に浮かぶ今回の「さんぽ道」は、
湯島天神への道です。
これから行く所を想像して、想いでいっぱいになるのは、
よくあることのようです。
『奥の細道』を書いた芭蕉もそうです。
旅に出発する前から、西行や中国の詩人・杜甫や李白たちの詩、
『源氏物語』などの古典や風土記の内容で、
頭の中をいっぱいにして、
出かけて行っては確かめていたそうです。
湯島天神梅まつり(2月8日から3月8日)
湯島天神は、“梅まつり”の真っ最中。
東京メトロ千代田線・湯島駅3番出口から
道に出ると案内地図がありました。
右に行くと男坂、左に行くと女坂。
女坂から行こうと春日通りを左に折れ、歩きはじめると、
おいしそうなラーメン屋さん、すし屋さんが並んでいます。
ちょうどお昼時で、お店には人がいっぱい。
ほんの少し歩いていると、右に梅の花が咲く石階段、
これが女坂と思いきや、違うよう。
正しくは夫婦坂。
女坂への通り道を通り過ごしてしまったようです。
引き返すよりはと、石階段を上ってみます。
上がると、そこが湯島天神の境内。
まず拝殿に行ってお参りです。
今まで生かされていることの感謝。
手を合わせて、「ありがとうございます」。
心が落ち着いてゆっくりと周りを見渡すと、
梅と牛の美しく彩色された彫刻が目に入りました。
天神様のシンボルですね。
本殿裏の広場に向かうと本そば打ち名人会の暖簾がかかっています。
手打ち蕎麦に蕎麦ぜんざい。
食べ物に目が行くのはお腹が減っているからに違いない。
さっそく行列に並んで蕎麦の注文です。
「蕎麦が茹で上がったよ」
威勢のいい掛け声が境内の人を掻き分け蕎麦が到着。
ネギとワサビをつけ、隣の人と肩を並べて立ち食い。
しこしことコシがあって美味しいのです。
蕎麦湯もかけて大満足。
振り返るとそこには絵馬の山。
合格祈願 合格祈願 絶対合格!!・・・・・
さすが学問の神様・菅原道真公を御祭神とする湯島天満宮。
創建は458年、雄略天皇の勅命によるもので、
御祭神天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀ったのが
はじまりと伝えられています。
おじさんが話しています。
「若い人は受験や学業成就のため絵馬を買うので、
お賽銭までお金がまわらない。
だから、ここではお賽銭は少ないよ。まあ、10円ってとこかな。
うん、あまりお年寄りは来ないからね。ここには・・・・・」
そうなんですか。
広場には舞台があります。
今日は、『第52回湯島天神梅まつり』
奉納演芸のどじょうすくい踊りが演じられていました。
交通整理が必要なほどの盛況ぶり。
多くのおじいさん・おばあさんが、楽しんでいるではありませんか。
隣では、東京大学まんがくらぶのチャリティー『似顔絵コーナー』
学生漫画家の前に座り、神妙な面持ちのお父さん。
傍にある梅の花も微笑んでいるように咲いています。
梅園の前ではお猿さんの芸で、人々の楽しい笑い声。
猿回しのお兄さんとの掛け合いが抜群に面白い。
感動の薩摩琵琶
梅園では、またまた大勢の人だかり。
昨年秋、第四十五回日本琵琶楽コンクール第一位
文部科学大臣奨励賞・NHK会長賞に輝いた櫻井亜木子さんの
薩摩琵琶の演奏が始まります。
「今日は梅まつりです。
皆さん楽しくおやりになっていますので、
私も楽しい曲目を演奏できたらと思いますが、
あいにく琵琶の曲目では、そのようなものがございません。
そこで思い切って、とても怖くて、とても暗い曲を・・・・・」
と観客を笑わせ、
哀切極まりない撥さばきではじまったのが、
『平家物語、那須与一・扇の的の段』
平家物語といえば次のような話があります。
戦国時代、佐野天徳寺(さのてんとくじ)という勇将が琵琶法師を呼び、
「あはれな話が聞きたい」と注文を出したそうです。
琵琶法師が『那須与一の扇の的の段』を語りだすと、
はらはらと涙を流して聞いていたそうです。
後日、側仕えの者が
「勇壮な手柄話なのに、なぜ涙を流しておられたのですか」と尋ねると、
「大勢の中から選び出されてただ一騎、
衆人環視の中を海中に馬を乗り入れて的に向かう。
もし射損じたら味方の名折れ、
馬上で腹かき切って海に入ろうと思い定めたしたその志を察してもみよ。
弓矢をとる武士の道ほどあはれなことはない」
与一の悲壮な心情を察して、感極まって涙を流した佐野天徳寺。
お互いに武士の身、与一の悲壮な心中を語るこの場面に感銘したのです。
「これをあはれと感じないということは、お前たちの勇気というものは真実のものではない、そんなことでは頼もしくない」
と嘆いたといわれます。
与一が鏑矢(かぶらや)で扇の的を射たのは元暦元年(1184)、
頃は2月18日の酉の刻(今でいうと3月末の午後6時ころ)。
緊迫した語りの聞かせどころが、
琵琶の音とともに梅園の中を切々と流れ、
燦燦(さんさん)と輝く夕陽のなか、真紅の扇が舞い飛ぶ光景が
白梅の花に重なっていきます。
語り終わって万雷の拍手。
その拍手にこたえて、菅原道真の有名な歌が
歌語りされました。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて 春な忘れそ
大鏡
(春の東風が吹いたならば、梅の花よ、風に託してその香りを
大宰府へ送っておくれ。おまえの主人がいないからといって、
春を忘れてくれるなよ)
この歌には、春を忘るなと春な忘れそと2首伝わっていますが、
琵琶の方は春な忘れそと歌われていました。
春を忘るなは『拾遺集』に書かれているものです。
この歌を琵琶の音で聴けるとは・・・・・。
道真が、こよなく梅を愛したのは有名な話ですね。
語り継がれる多くの記念
時代時代の記憶をとどめたいろいろな碑や塚があります。
菅公一千年祭碑、菅家遺戒碑、
小唄顕彰碑、
新派碑、
文具至宝碑、
講談講座碑、
ホームラン王・王貞治選手の努力を讃えた努力碑。
泉鏡花の筆塚など。
天神石坂(男坂と女坂)
江戸時代には参拝のための坂であった天神石坂。
男坂と女坂は左右に分かれてあります。
三十八段の石段坂は男坂。
少し急です。
それに対して、女坂はゆるやか。
石段を下りおわったところに地蔵尊があります。
緑色のコートを着た女性がじっと手を合わせています。
あまり長時間手を合わせていらっしゃるので、不思議でした。
地蔵尊は、関東大震災(1923年・大正12年)で亡くなった人々の
ご冥福を祈り、また災害の早期復興を願って建立されたものでした。
坂下には、湯島聖天・天台宗 心城院があります。
その中にとても大事な井戸を見つけることが出来ました。
江戸名水・厄除 柳の井といわれ
関東大震災の時、境内に避難した人々の唯一の飲み水となって
多くの命を救ったそうです。
坂下から上って再び境内に入り、
もう一度、梅に心を託しました。
赤い布を張った屋台の上に見える梅の花。
梅を愛した道真公を想像しながら見つめると、
平安の昔、一千百年以前という歳月も飛び越えられそうですね。
名残惜しいですが、唐門を出て、
本郷三丁目の方に向かうことにしました。
メジロも遊びに来ていました
資料:『東京下町おもかげ散歩』坂崎重盛著 グラフ社
『芭蕉の誘惑』嵐山光三郎著 JTB
『平家物語』梶原正昭著 岩波セミナーブックス
『天台宗 柳井堂 心城院(湯島聖天)縁起』案内資料
青空文庫 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
2009年02月13日
第二回 日本橋から東京駅へ:その2
お江戸日本橋 七ッ立ち 初のぼり
行列そろえて あれわいのさ
民謡“お江戸日本橋”の歌いだしです。
“七ッ立ち”とは朝の7時のこと。
旅立ちの人は、その時刻に日本橋から各地に出発したのですね。
日本橋は、家康が幕府を開いた時にできました。
この日本橋を起点として、
東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道をつくり、江戸を中心とし、
全国の国々の城下町と結んでいったのです。
日本橋魚市場発祥の地
日本橋の北詰め、「乙姫広場」に
「日本橋魚市場発祥の地」の碑が建っています。
江戸は、海に面した湿地帯や台地が連なる広い原野でした。
川が江戸湊に流れ込み、沼や入り江も多くありました。
昔から魚もたくさん獲れたでしょう。
江戸時代には、
新鮮な魚を積んだ船が沢山集まり、
日本橋川から荷揚げさた魚が
武士や庶民の食卓にのぼりました。
海産物を売り買いする江戸っ子たちの威勢の良い声が聞こえ、
てんびん棒をかついだ魚屋さんたちの姿も目に浮かびます。
きっぷがよく、イナセな若衆たちは、
江戸で最も騒がしい場所であることを誇っていたそうです。
取引は一日に千両もあったといわれます。驚きですね。
朝は、魚河岸で千両、
昼は、芝居で千両、
夜は、吉原で千両と、
「一日に三千両のおちどころ」と川柳にうたわれたほど。
日本橋の魚河岸は江戸の景気を左右するほどだったと
いわれています。
“江戸の賑わい”に想いをはせつつ、
顔をあげると、その目に飛び込んできたのは、
巨大な高速道路が橋に覆いかぶさり、主役がどちらか・・・・・。
そこへどこからともなくお経を唱える声が・・・
橋のたもとに若い僧が一人
諸行無常でしょうか・・・
魚河岸が築地に移されたのは、
関東大地震の後のことです。
このあたり一帯は焼け野原になったからです。
二連アーチの日本橋
現在の日本橋は明治44年に完成しました。
国指定重要文化財です。
ルネッサンス様式のアーチ型石橋。
麒麟(きりん)と獅子の照明灯装飾柱があり、
神聖な麒麟と魔よけの獅子に守られた橋なのです。
日本橋さくら通りで見た「東京名所・日本橋繁華之光景」では、
懐かしい風情の洋館の建ち並ぶ街に、二重アーチの日本橋。
今と同じような装飾柱も印象的に描かれています。
行きかうたくさんの人々。
子供の手を引いたモダンな洋装のお父さん。
紺色の半被を着て、てんびん棒をかついだ魚屋さんが急ぎ足。
桶の中には魚がいっぱい、
追っかけるように駆ける犬。
橋の上には、カラフルな路面電車。
運転手付のオープン・カーに乗る洋装の紳士・淑女。
のんびりと車輪がまわる自転車が2台。
青い空には飛行機。
ライト兄弟が乗っていたようなプロペラ機。
遠くには富士山も見えます。
ずっと道に沿って伸びていく建物の先には夕焼けに染まる赤い空。
川面には、5隻の船。
船頭さんが巧みにさおを操っています。
文明開化へのあこがれが、そのまま絵に描かれているようです。
橋脇には日本国道路元標があり、
里程標(りていひょう)もありました。
横浜市37粁(キロメートル)、甲府市131粁、名古屋市370粁、
京都市503粁、大阪市550粁、下関市1,076、鹿児島市1,469粁、
千葉市37粁、宇都宮市107粁、水戸市118粁、新潟市344粁、
仙台市350粁、青森市736粁、札幌市1,156粁。
丸善界隈
私は半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。
私は自分に関係深い部門の書籍棚の前に立って、
隅から隅まで一冊ずつ点検していった。
大正3年(1914)に書かれた、夏目漱石の小説『こころ』の一節。
大学生である「私」という青年が、夏休みに帰郷する前、
必要な書物を購入するために丸善に行った場面です。
丸善は1869年創業で、
近代日本における西欧の文化・学術の紹介に貢献した書店です。
多くの文人や学者・文化人がどれほど通ったことでしょう。
『天地人』、
『書斎のゴルフ』、
『英語の「へぇ〜!?」がいっぱい?』
『いまをどう生きるか』
ウィンドウに貼られた本のポスターです。
世の中の関心事がわかります。
角を右に折れると東京駅です。
東京駅
見たいものがあります。
最近すっかり様変わりしているのでよくわかりません。
派出所で尋ねることにしました。
「あの、奉行所は・・・」
「あゝ、あれは分かりにくいなあ」
でも奉行所と言っただけで分かるなんて・・・。
見たかったのは、
江戸時代の北町奉行・遠山の金さんのいた奉行所跡。
「じゃ一緒に行きましょう。そちらの方に行きますから」
ということで、警察官二人に護衛されての北町奉行所跡へ・・・。
これも、さんぽ道の楽しみの一つ!
「お教えしても、結局わからないと戻ってこられるんですよ」
護送されながらの会話です。
ほんの1分ほどの場所にそれがありました。
本当にわかりにくい。
大丸デパートと東京駅にはさまれた1メートルに満たない幅の出口通路。
その壁に北町奉行所跡のプレートは取り付けられていたのです。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門景元(遠山金四郎)は天保11年(1840)3月から3年の間、北町奉行の職にあった。
とあります。
時代劇のなかでは
「この桜吹雪に見覚えねぇとは言わせねえぜ!」と
片肌脱ぐ、ご存知遠山の金さん。
実際には、けして人前で肌を見せたりしなかったそうですが、
庶民の味方は人気者、話はどんどんふくらみ、どれが本当の話か
わかりません。
それが楽しいのですね。
東京駅は、大正3年に東海道の起点として開業しました。
丸の内側の赤レンガで八角形ドームをつけた初期の建物は
東京大空襲で焼け、
現在の建物は1947年(昭和22年)に再建されたものです。
3階建てが2階になり、八角形ドームも角屋根になっています。
東京駅も、時を重ねてきましたね。
人間の人生も、同じように大切な時を重ねていきます。
おじいちゃんおばあちゃん、父母、そして子供たちへと
自らの人生を、受け渡していくのです。
駅の構内ですれ違う多くの人たちも同じ。
文化の香りも、良いものを大事に引き継ぎ足していきたいものです。
「満作(マンサク)」が黄色い花を咲かせています
資料:『東京下町おもかげ散歩』坂崎重盛著 グラフ社
『TOKYO 老舗・古町・お忍び散歩』坂崎重盛著 朝日新聞社
『江戸の町・巨大都市の誕生』
内藤 昌 著 イラストレーション・穂積和夫
「古今・お江戸日本橋」ホームページ
東京都印刷工業組合 日本橋支部
「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」 ホームページ