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2017年03月01日

第12回 桜餅

春三月といえば、桜の花ですね。「万葉の梅、古今の桜」といわれるように、奈良時代には中国伝来の梅の花が愛でられましたが、平安時代になるとミツバチの媒介によって品種間の交雑が進み、多様な変異種が生まれて美しい花を咲かせるようになった桜の花が愛でられるようになりました。「見わたせば 柳さくらをこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」(素性法師)などと詠まれています。文学作品では、花といえば桜という意味になりました。「ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)というのも有名な歌ですね。

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そうした季節の花を愛でるのも日本の文化の一つですが、もう一つ注目されるのは、そのような季節の花を、見栄えも美しく味もおいしい和菓子に作るという文化です。梅や桜や菊や紅葉など、目で鑑賞するだけでなく、自然の移ろいの中にそれらの花を巧みに季節ごとのお菓子として作り、それを賞味して楽しんできた歴史があるのです。
 春の花といえば桜、桜と和菓子といえば桜餅ですね。そして桜餅といえば、江戸風の長命寺と、上方風の道明寺が有名ですね。江戸風の桜餅、長命寺は小麦粉を溶いて薄く焼いた皮で小豆の漉し餡を包み、その上から塩漬けの桜の葉を巻いています。上方風の桜餅、道明寺は道明寺粉を蒸して作った粒身を残した餅に小豆の漉し餡を詰めて、塩漬けの桜の葉を巻いています。いずれも小豆餡に桜色の皮や餅、塩漬けの葉というのが特徴です。

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和菓子の歴史と由緒から言えば、そのほとんどは平安京以来の宮廷や幕府や大寺院のおひざ元である京都が、その誕生から成長までの本場です。華麗な呉服の歴史や茶道や華道、能や歌舞伎など芸能の歴史なども同じです。先端の日本文化はすべて京都から発信されてきたのです。そうした中で、この桜餅だけは、江戸もがんばってきた歴史がありました。喜多村信節『嬉遊笑覧』(文政13年(1830)自序)には「近年隅田川長命寺の内にて、桜の葉を貯へ置て、桜餅とて柏餅のやうに葛粉にて作る、はしめハ粳米にて製りしがかくかへたり」という記述があります。そしてそのほかにも、この文政年間(1818-1830)の記録類には長命寺の桜餅についての記事が散見されます。俗説としては、八代将軍吉宗が植樹した隅田川沿いの桜の葉を、長命寺の門番であった山本新六が塩漬けにして餅に巻いて売り出したのが始まりだともいわれていますが、確かな証拠はありません。ただ、隅田川の桜堤、江戸の花見、桜餅の由来、という話題としてよくつながる話であり、『東都歳事記』(天保9年(1838))にも「隅田川名物 さくらもち」の絵があり、浮世絵の類にも、隅田川の桜餅はよく描かれていました。

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『東都歳事記』より

 さて、桜の和菓子といえば、塩漬けの桜の葉を巻いた桜餅だけではありません。桜の葉を使わない上品な桜の和菓子もたくさんあります。京都の老舗の菓子司に伝えられている、桜、初桜、花衣、桜きんとん、などがそれです。桜の花弁の形をあらわしたもの、桜襲(さくらがさね)の衣を表す外郎(ういろう)の皮で小豆餡を包むもの、紅色と白色のきんとん製にした咲き誇る桜花を表すものなど目にも美しく味も深く、お抹茶とともに静かに味わう人たちに、ちょっとした幸せを感じさせてくれます。京都から発信された桜のお菓子も、現在では東京や名古屋、そして金沢や松江などのかつての城下町をはじめ、日本の各地に広まっています。そして、それぞれの町で進化しています。今年の春は、いくつかの桜餅や桜の和菓子を、その由来を尋ねながら味わってみてはいかがでしょうか。

日本というのは小さな島国ですが、東西南北に長く広がっています。そして、寒冷な地方から温暖な地方まで、それぞれの環境に根ざした、季節ごとの行事や食文化がさまざまに伝えられています。それら日本各地の行事や食文化の、地方ごとのちがいを見つけ、またその歴史を知ることで、私たちの日常生活を味わい深く豊かなものにし楽しんでいきたいものですね。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2017年02月01日

第11回 稲荷寿司

 2月の行事といえば、節分だと思う人がいまは多いかもしれませんね。しかし、節分は旧暦では2月ではなく1月の行事でした。「大晦日と元旦」が月の満ち欠け、「節分と立春」が太陽のめぐりによる新年を迎えるための行事で、両方とも旧暦では同じく1月初旬でした。明治6年(1973)の改暦で、「正月」が新暦の1月に移り、「節分」が月遅れで2月に残ってしまったのです。
 古くからの2月の行事といえば2月8日、お稲荷様の初午の祭りです。お稲荷様へのお供えといえば、きつね色の油揚げです。だから、2月といえば節分の恵方巻もいいでしょうが、やはり古くからの初午にちなみ、いなり寿司を味わってはいかがでしょうか。甘辛く煮た油揚げの中に酢飯を詰めた寿司で、関東では米俵型の四角形に作り、関西ではキツネの耳に似せたような三角形に作るのが多く、ゴマにシイタケ、ニンジンなどの具材を入れた五目稲荷も多いようです。

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 稲荷寿司の由来を伝えているのは、江戸時代後期の喜多川守貞『近世風俗志』(『守貞漫稿』)(1837−53)という本です。その記事によれば、「天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて、袋形にし、木(き)茸(のこ)、干瓢(かんぴょう)等を刻(きざ)み交(まじ)へたる飯を納(い)れて、鮨(すし)として売り巡る」とあります。つまり、江戸では天保末年に稲荷寿司を売り歩く者がいたというのです。この記事に続いて、次のような意味のことが書かれています。夜も昼もこれを売っているが、もっぱら夜に売っている者が多い。屋台の行燈(あんどん)に鳥居を書いて稲荷社のように仕立て、稲荷寿司とか篠田(しのだ)寿司(信太(しのだ)寿司)と名付けている。稲荷も信太もきつねに因む名前であり、きつねが油揚げを好むといわれるところからきているのだ。寿司とはいっても「最も賤価鮨なり」つまりもっとも安い寿司だと書いています。もともとは尾張の名古屋で作られるようになったもので、それが江戸でも天保の前半頃から店で売られるようになった。とはいうものの、ただ両国辺りの田舎者だけを相手にするような寿司店で売られていたくらいのもので、屋台で売り歩く安い寿司、というのが稲荷寿司だ、というのです。

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『近世風俗志』(『守貞漫稿』)より 寿司の屋台

 稲荷寿司の立場からみれば、まあずいぶんな言われ方、書かれ方ですね。この『近世風俗志』は、寿司についてはかなり丁寧でうるさく、押し寿司、箱寿司、握り寿司、海苔巻き寿司、笹巻寿司などの区別、アナゴやコハダや玉子などの握り寿司の具材など、図入りで詳しく書いているので、江戸時代後期の寿司の様子がよくわかる本なのですが、その寿司についての「食類」の記述の部分では、稲荷寿司についてはまったく触れられていません。さきほどの記事は、売り歩く者がいるということで「生業」の部分での記事です。大坂の出身で江戸に暮らしながら上方と江戸を往復し、それぞれの風俗や文化を比較して楽しんでいた喜多川守貞(1810−?)にしてみれば、稲荷寿司は寿司の中に入れるほどのものではなかったのでしょう。
 しかし、値段が安く美味しい手軽な寿司として、稲荷寿司は庶民の間では大いに受け入れられ普及していきました。現在のように新鮮な魚が流通するのは1970年代以降であり、長い間、日本各地では新鮮な魚の代わりに、いろいろと工夫が凝らされて、ちらし寿司やもぐり寿司などさまざまな食材の寿司が創られ賞味されてきました。海苔巻き寿司の安価版である干瓢巻と稲荷寿司のセットを、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」に登場する助六、曽我五郎と遊女の揚巻の名に因んで、「揚げ」(油揚げ)「巻き」(海苔巻き)としゃれて「助六」と呼んで楽しんでいるのもその流れです。

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 稲荷寿司には、関東と関西の違いもおもしろいのですが、それ以外にも北海道から沖縄まで、それぞれの地方でどんなこだわりがありどんなかたちで食べられているか、その違いを探り楽しみながら、この2月8日のお稲荷様の日には稲荷寿司を食べてみてはいかがですか。また、節分の恵方巻に稲荷寿司を加えて、現代版助六セットとして味わってみるのも楽しいでしょう。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2017年01月01日

第10回 七草粥

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 正月は、むかしから、年取り魚の鰤や鮭など各地の魚類を添えた年取りのお膳、それにおせちの組重、また雑煮などをはじめとするいろいろなごちそうが用意され、老若男女、多くの人たちの楽しみの行事でした。最近では洋風や中華風のおせち料理もみられるようになり、美酒と美食で胃腸も忙しい日々となっています。しかし、それらが一段落ついたころ、1月7日の七草粥は、また味わい深いものです。新春の七種類の若菜を集めて、水分を多くして米を柔らかく粥に煮る料理で、消化吸収がよく健康食の代表でもあります。七種類の若菜については、「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草」という歌がよく知られていますが、この歌はすでに江戸時代前期の貝原益軒と甥の好古の編になる『日本歳時記』(1687年)にも記されている古くから知られた歌でした。この七草の組み合わせの歴史も古く、すでに平安時代末期の『年中行事秘抄』(12C末)にもみえています。また、七草の行事も西行法師の『山家集』(13C後)に「うづゑつき ななくさにこそ おいにけれ 年を重ねて 摘める若菜に」と歌われています。

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 七草の粥の歴史をさかのぼっていけば、正月七日の七草粥だけでなく、天皇即位の践祚大嘗会(せんそだいじょうえ)の解齋(げさい)の膳に供された七種御粥にもたどりつきます。それは『延喜式』(927)巻40の主水司の記事に「米・栗・黍子(きみ=きび)・薭子(ひこ=ひえ)・篁子(みの=むつおれぐさ)・胡麻子・小豆」とあるもので、七種類の穀類と菓類などを柔らかく煮たものだったことがわかります。また、鎌倉時代の『太平記』(14C後)には正月15日の粥を七草粥と呼んでいる例がみられます。現在では1月7日が七草粥で、15日は小豆粥というのがふつうなのですが、歴史をさかのぼると、このように大嘗祭とか正月年賀式とか、重要な祭事のあとにそれを締めくくる意味の儀式的な献立として七草粥があったことが考えられます。
 正月行事の献立としてみれば、7日の七草粥と15日の小豆粥というのは1セットとなっています。正月年賀式を締めくくっていく順番として、上弦の日の7日には白色緑色系の七草粥が、満月の望の日の15日には赤色系の小豆粥が、それぞれ食されてきたのです。小豆には、冬季に弱まっている太陽の光熱へのあこがれと願いと感謝の思いが込められており、冬至、雑煮、小正月の小豆粥などとくに冬場の行事食として繰り返し食されてきたのでした。七草粥で独特な作法として知られているのが、「ななくさなずな、唐土の鳥と日本の鳥と、渡らぬさきに、なずなななくさストトントン」などと唱えながら、まな板を叩いて野菜を切るという方法です。日本の各地に伝えられてきたもので、歴史も古く室町時代の『桐火桶』(1363頃)には7回ずつ7度叩くとあり、江戸時代の俳諧『玉海抄』(1656)には「七草をはやし初(そ)めてや七ひやうし」と詠まれています。これは鳥追いの歌ともなっており、1年の災厄や疫病や害虫鳥類の被害を除けて1年が五穀豊穣、身体壮健のよい年となるようにという願いが込められています。

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 さて、七草粥は日本各地を見渡してみると、粥ではなく美味しい雑炊を炊くという地方も多く、岡山県周辺、四国、九州地方にそうした例が伝えられています。また、正月の供え餅を入れて雑煮にして食べるという地方も、秋田県から北陸地方、鳥取県、北九州など日本海側に分布しており、近畿地方から瀬戸内地方にも点在しています。
 柔らかくて胃腸にやさしい粥は長い歴史をもっており『続日本紀』文武4年(700)には寺の和尚が病人に食させたという記事があります。中世の禅寺ではほぼ朝食が粥であり、その伝統は今も引き継がれています。その禅寺からの影響かどうかはともかくとして、関西では古くから朝食に朝粥が好まれており、奈良県では茶粥がよく知られています。健康食でもあり栄養のバランスもよい七草粥を、今年の正月には味わってみてはいかがでしょうか。物足りないという人は、日本の各地に伝えられているような七草雑炊にしてみるとか、七草雑煮にしてみるのもいいでしょう。伝統食は意外におしゃれなものでもあるのです。



文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年12月01日

第9回 おせち料理

 正月料理として知られるおせち料理。重箱詰めで、一の重は三つ肴と呼ばれる黒豆に数の子、たたき牛蒡(関西)、田作り(関東)と、口取りと呼ばれる紅白の蒲鉾や昆布巻き、栗金団や伊達巻など。二の重は焼き物や酢の物でブリや鯛や海老、紅白なますや酢蛸など。三の重は里芋や人参、蒟蒻、筍など野菜の煮物が中心です。与の重まである場合には少しずれ、そこに煮物や酢の物、魚介類が入ります。おせち料理はこのように、一の重から決まりがあるようでいて、実は地域ごと家ごとに違いがあります。なぜなら伝統料理と思えるおせち料理の歴史は、実はまだ浅いからなのです。

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 江戸時代中期の辞書『俚諺集覧』に「せち、節日の食膳を節供と云を略せる也、俗にオセチと云」と記されています。つまり、おせちは節日に神様に供える食膳の御節供の略で、正月の料理に限定されていませんでした。江戸時代前期の『日本歳時記』には、雑煮や屠蘇や鏡餅のことは書かれていますが、組重のおせち料理のことは書かれていません。おせち料理も組重もなかったのです。しかし、江戸時代後期のアンケート調査「諸国風俗問状」には、組重について「組重の事、数の子、田作、たたき牛蒡、煮豆等通例。其外何様の品候哉」と質問があります。北は陸奥国から南は肥後国まで15件の回答によると、江戸と同じ組み合わせだという例が多く、それに加えて秋田ではハタハタ、肥後天草では鰹節とスルメなど、地域の特産物があげられています。越後長岡領の答書によると、蕨を笑いという言葉にかけて縁起のよい料理に見立てています。正月料理に縁起をかつぐという伝統は変わりないようです。
 おせち料理の源流を考える上で参考になるのは、上方の「蓬莱(ほうらい)」と江戸の「食積(くいつみ)」です。蓬莱は三方の上に米・勝栗・干柿・熨斗鮑・橙などを盛り付け飾っておくもので、井原西鶴の『日本永代蔵』(1688)には「春の物とて是非調(ととの)へて、蓬莱を餝(かざ)りける」とあり、その絵が載っています(図)。一方、喰積は正月の年賀の来客がそれを一口食べます。雑俳『柳多留』には「喰いつみを三十日に喰ってしかられる」という川柳もみられます。

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【図】井原西鶴『日本永代蔵』より

 それより少し前の天保7年(1836)刊『萬家日用惣菜俎』には、正月節料理と年始重詰があると書かれており、節料理と重詰とは別だったことがわかります。前述の「諸国風俗問状」の質問の組重は、現在のおせち料理ではなく、祝い肴の喰積のことだったのです。元旦に食べる御節の食膳とは別に、重詰めを喰積と呼ぶ例は明治になってもみられます。もともと正月のお膳をおせちと呼んでいたのが、現在では喰積と呼ばれた重詰めをおせち料理と呼ぶようになったのです。
 江戸の組重が各地で共通していたのは、江戸の文化が参勤交代などで日本各地に広まったからだと想定できます。近代に入ると交通の発展、商業の活発化、婦人雑誌などマスコミの影響もあり、さまざまな要素を取り込みながら変化し、日本の伝統的な正月料理としての位置を占めていきます。そして戦後、生鮮食品の流通の拡大で、地域や階層を越えて広く豊かな食文化として享受できるようになりました。子孫繁盛の数の子、豊年満作の田作り、根深く根強いたたき牛蒡、まめに健康にという煮豆、いずれも縁起の良い食べ物です。そこに、めでたいの鯛、長寿にあやかる海老、子孫繁盛の里芋、芽が出てめでたいクワイ、すくすく伸びる筍、先を見通す蓮根などが加わり、めでたい物尽くしのおせち料理が完成していったのです。最近では刺身やウニ、イクラなどのほか、キャビアやフォアグラ、ローストビーフなども好まれます。それらは2000年頃を境に、高級おせち料理商戦によって急速に普及しています。高級食材と美食グルメという現代人の欲求がそのブームを支えているのです。
 そこから縁起のよい食材、めでたい料理という意味は消えていくのか、それともキャビアは子孫繁盛、ローストビーフは牛の強さ、のように新たな意味を付けられ残っていくのか、それを観察しているのもおもしろいのではないでしょうか。

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文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年11月01日

第8回 蕎麦

 11月は、新そばの季節。秋の新そばは、味も香りも色合いもよく、秋新(あきしん)などと呼ばれ、むかしからそば通(つう)に好まれてきました。麺類が好きな人たちに、うどん派ですかそば派ですか、と尋ねます。すると、うどん派の人はそうでもないのですが、そば派の人はこだわりがなかなか強いようです。そばの味のよさや食べ方について、またそばの名店について、それぞれ自分が知っていることを自慢しあいます。

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 そばが現在のように美味しいごちそうになったのは、歴史的にみてそれほど古いことではありません。そばの歴史をふりかえってみると、むかしのそばは決してごちそうではありませんでした。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に、道明阿闍梨という平安時代中期の高僧にまつわる説話が紹介されています。修行の旅の途中で、山の住人にそばをふるまわれたときの話です。そこで次のような歌が詠まれています。
 ひたはへて 鳥だにすへぬ そまむぎに
   ししつきぬべき 心ちこそすれ

(一面に生えていて、鳥さえ食べないような「そまむぎ(蕎麦)」を食膳に供されて、肝を冷やすほどの心地がしました)
 平安京の都に住む上流階級の貴族や高僧にとって、そばは人間の食べ物とすら考えられていなかったようなのです。道明阿闍梨に供されたのは、蕎麦の粒をそのまま粥にしたものであった可能性があります。あるいはそば粉にして練った蕎麦掻(そばが)きか、そば粉を水で溶いて焼いた蕎麦(そば)焼(や)きだったかもしれません。

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 そばが人気の食べ物になるのは、麺状の蕎麦(そば)切(き)りになってからです。蕎麦切りの初見については多くの人が注目してきました。現在では、信濃国(現在の長野県)木曽郡大桑村須原の定勝寺の『定勝寺文書』の天正2年(1574)3月16日条の「振舞ソハキリ」だというのが定説になっています。定勝寺の修復工事の竣工祝いの品々とその寄進者の名前が記されており、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」などとあり、千村淡路守夫人が酒を徳利で1本とそば粉1袋、金永という人物が蕎麦切りを振る舞ったというのです。その他、蕎麦切りの発祥地については古くから諸説ありますが、やはり信州からだろうというのが定説です。それが江戸時代になって江戸や大坂などの近世都市で流行し、たくさんのそば屋が繁盛していったのでした。江戸時代前期の寛永20年(1643)版『料理物語』には、蕎麦切りの製法が詳しく記され、味付けにも大根の汁、花ガツオ、おろしアサツキの類、からし、わさびなどがよいと記されています。江戸時代中期の寛延4年(1751)脱稿の『蕎麦全書』には江戸におけるそば作りの技法やそば屋の名店とその店のそばの呼び名をたくさん紹介しています。日本のそばの一大発展期は、寛延年間(1748−1951)をはじめとする江戸中期だったのです。

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 現在の日本でそばが話題になるのはやはり年末の年越しそばでしょう。では、その起源はいつころのことでしょうか。現在わかっている範囲では、実はこれも江戸中期、寛延年間のことなのです。寛延3年(1750)の句集『玄峰集』に、「蕎麦打ちて 眉(まゆ)髭(ひげ)白し 年の暮(くれ)」という句があります。蕎麦を打ったので粉で眉や髭が白くなった、という内容です。正月の年取りに際しての縁起かつぎで、そばは長くてのびるから寿命が延びるという長寿の願いが込められているのです。
 私はうどん派かそば派かと問われれば、だんぜんそば派です。陸奥地方に行けばわんこそば、越後ではへぎそば、出雲ではもちろん割り子そばです。旅の楽しみの一つは、その土地の美味しいものを食べることです。日本各地にそばの美味しい店があります。そばは栄養バランスも抜群です。ぜひ秋の新そばを各地で味わってみてはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年10月01日

第7回 牡蠣

 10月は英語でOctober、仏語でOctobre、Rがつく月です。欧米ではRがつかない月の牡蠣は食べるなといいます。私は1991年からおよそ20年ばかりフランスのブルターニュ地方の伝統行事について調査に通っていました。(新谷・関沢『ブルターニュのパルドン祭り−日本民俗学のフランス調査―』2008、悠書館) 魚介類がたいへん美味しい地域です。でもやはり、Rのつかない月の牡蠣は食べるなといっていました。8月Aoûtの行事の調査だったので、いつも牡蠣を食べられないのが残念でした。

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しかし、2001年3月、追跡調査でRがつく3月Marsにブルターニュを訪れました。地元の人に勧められ、カンカルという小さな町のレストランで食べた牡蠣の美味しかったこと、いまでも忘れられません。白ワインのシャブリと、ブロンやプラトーと呼ばれる丸い形のヒラガキの味は絶妙でした。日本と同じマガキもありました。それはクルーズと呼ばれていました。
1960年代末から70年代初頭のことです。フランスの養殖牡蠣が、ウイルスの蔓延で全滅の危機に襲われました。そのときフランスの牡蠣養殖業を奇跡的に救ったのは、日本から輸入された宮城県産のマガキの稚貝でした。現在ではそのマガキの子孫であるクルーズの方がフランスでも生産量も多くよく食べられています。
 日本でもこれから寒い季節にかけて牡蠣のシーズンがやってきます。日本の牡蠣はマガキと呼ばれる種類です。あの長い形、フランスでいうクルーズです。牡蠣はその味も美味で絶妙ですが、「海のミルク」とも呼ばれ、栄養の面でも申し分のない食材です。好きな人はどんどん食べて健康増進をはかることをお勧めしたいと思います。

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 世界中で食べられている牡蠣ですが、日本ではいつごろから食べられていたのでしょうか。考古学の発掘成果によれば、日本各地の縄文時代の貝塚から出土する貝の中では、ハマグリに次いで多いのがカキです。奈良時代の仏教説話集『日本霊異記』には、漁獲としてあがったカキを食べずに放生して善報を得たという話が載せられています。平安時代の『延喜式』には、伊勢国からの貢納物に蠣、礒蠣があったことが記されています。古代から牡蠣の味は日本人にとても好まれていたようです。
 現在の牡蠣の生産はほとんどが養殖によるものとなっています。その養殖の技術が始まったのは、天文年間(1532−1555)に安芸国(現在の広島県)の漁村から、とか江戸時代延宝元年(1673)に安芸国の草津で小林五郎左衛門という人物がヒビ(竹や雑木を干潟に立てたもの)に牡蠣を付着させて育てる方法を用いてからだなどと伝えられています(『廣島牡蠣養殖場ニ関スル成跡書』)。最近まで、その広島県に次ぐ牡蠣の生産高を誇っていたのは宮城県でした。その宮城県に牡蠣の養殖を定着させたのは、アメリカで牡蠣の養殖技術を磨いて帰国し、石巻市で実用化に成功した沖縄出身の宮城新昌(1884−1967)と、三陸出身の伝説的な水産業者の水上助三郎(1864−1922)との出会いからでした。その宮城県の牡蠣は東京など首都圏で喜ばれ、一大ブランドに成長しました。しかし、2011年3月11日、東日本大震災が三陸地方を襲います。宮城県の牡蠣養殖業は壊滅的な打撃を受けてしまいました。そのときです。かつて、宮城県の牡蠣が救ったフランスの牡蠣養殖業から、救援の手が差し伸べられたのです。フランスから牡蠣の稚貝や養殖に必要な物資が届けられ、生産を再開することができました。そして、皮肉なことに大津波は沿岸の泥やごみをみんな沖の方へと運び、いま、そのきれいになった海岸で新鮮で美味しい牡蠣が育っています。

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 広島県の牡蠣も、宮城県の牡蠣も、また岡山県の牡蠣も日本の古くからの伝統ある食材です。栄養も満点。これから寒くなる季節、生ガキや牡蠣の土手鍋などぜひ楽しんでみましょう。ちなみに、フランスでは牡蠣は生食だけです。日本ではフランスとちがって、Rのつかない5月Maiからむしろ食べ始めるイワガキもあります。牡蠣の日仏文化の共通点と相違点とがまたおもしろいですね。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年09月01日

第6回 栗菓子

むかしからの秋の味覚といえば、やはり栗でしょう。昭和30年代まで、日本各地の農村では、里山から野生の山栗がたくさん採れました。大栗の木が植樹されていた家では、子供たちは朝はまだ薄暗い時刻に誰よりも早く起きて、熟れて地面に落ちているイガイガの大栗を拾うのが楽しみでした。栗の実を上手に取り出してそのまま焼いて食べたりゆでて食べたり、また栗ご飯に炊いてもらったりしました。「桃栗3年、柿8年」などといって、果樹の恵みは先祖のおかげだと言い聞かされたものでした。

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その後の高度経済成長は、身近な材料の手作り菓子よりも、洗練された美味しい商品としてのお菓子の流通の時代をもたらしました。現在では、秋の味覚として美味しい栗のお菓子がおおぜいのファンを集めています。栗ようかん、栗きんとん、マロングラッセなどなど、この季節でしか味わえない旬のお菓子がきれいにショウウインドウに並びます。たとえば、栗きんとん、これはお正月のおせち料理の定番としてよく知られている縁起のよい食べ物ですが、その旬の季節とはいま、秋の9月です。正月の栗きんとんと9月の旬の栗きんとんとは、味も形もずいぶんちがいますが、いずれも日本の伝統的な栗の菓子です。岐阜県、美濃国の南東部の恵那地方から加茂郡八百津町への一帯では、栗きんとんで知られる和菓子屋さんが軒を連ねています。季節限定で、首都圏、東海、関西のデパートでも販売されて人気を集めています。京都の和菓子屋さんでは茶巾と呼ばれて人気を集めています。また京都では、マロングラッセ風の栗きんとんも喜ばれています。

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 では、日本の文化と歴史の中で、栗とはいったいどんなものだったのでしょうか。実は、稲や米が日本人にとってもっとも大切な食糧となるまでの、縄文時代の人びとの生命と生活を支えてきたでんぷん質(炭水化物)の中心が、栗だったのです。青森県の三内丸山遺跡では、野生の栗と栽培された栗との両方があったことが発掘調査によってわかっています。
秋は収穫の季節です。稲作と米が第一ですが、稲は栽培がむずかしく気候の影響を受けやすいうえ、病虫害や害鳥などの被害も多く、決して安定した作物ではありませんでした。それと比べると、里芋などの芋類、大豆などの豆類は安定した作物でした。収穫祭の一つにお月見がありますが、八月一五夜を芋名月、九月十三夜を豆名月と呼んだのでした。そして、その九月十三夜は栗名月とも呼ばれています。また、九月九日は重陽の節供で菊の花や菊酒で祝う節供ですが、一方では栗の節供としても祝われてきました。芋や豆は野生のものはほとんどなく栽培される作物です。しかし、栗は栽培もされますが野生の栗もたいへん豊富です。栗はとても安定した収穫物であり、飢饉の心配や危険のない大切な食べ物だったのです。栄養価からみても、でんぷん質、たんぱく質、カリウムなどのミネラル類、ビタミンC、そして食物繊維も豊富で、まさに完璧な食材なのです。薬効も古くから知られており、疲労回復、足腰丈夫、大腸小腸にもよい、とされてきました。
そうした実際の栄養価と薬効が知られていたからこそ、縁起のよい食べ物ともされてきました。勝栗(搗栗)は打鮑や昆布とともに、縁起と栄養の両方がよい戦陣の食材でもあり、正月のめでたい上方の蓬莱(ほうらい)や、江戸の喰積(くいつみ)に干柿や昆布などと一緒に盛り付けられてきたのです。

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 瓜はめば 子ども思ほゆ 栗はめば 
   まして偲ばゆ いずくより 来たりしものぞ…

と山上憶良が歌っているように、栗は万葉の時代から、心の和む食べ物でもあったようです。平安時代の『延喜式』には、栗は諸国から朝廷に貢進されており、当時は丹波産の栗が有名でした。丹波栗という評価は現在でもよく聞かれます。 
 京都の貴族たちの間で、栗きんとんが食されるようになっていたのは室町時代のようです。三条西実隆という公家の日記『実隆公記』の大永7年(1527)8月1日条に「自徳大寺金飩一器被送之」とあります。徳大寺さんから金とんを1ケース送って来られた、というのです。旧暦の8月1日は、ちょうどいまの9月1日前後です。みなさんも、9月には秋の栗きんとんを味わってごらんになってはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年08月01日

第5回 かき氷

暑い夏の美味しさといえば何といってもかき氷です。炎天下の日差しのもと汗いっぱいで一口!冷たーいおいしさが広がります。赤・緑・黄色のシロップや宇治金時、それにフルーツなどが添えられると豪華な美味しさが幸福感を一段と高めてくれます。

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 ところで、そんなかき氷の幸せを味わえた人たちの歴史とは、いつの時代までさかのぼれるのでしょうか。現在のような、鉋(かんな)状の刃をつけたかき氷機で作ったかき氷が売られるようになったのは、やはり戦後のことです。高度経済成長期(1955-73)に日本人の食生活は大きく変わりました。冷蔵と冷凍という技術が飛躍的に発展して、多くの人たちがその恩恵を受けられるようになりました。その昭和30年代に日本各地の子どもたちを喜ばせたのは、アイスキャンデー売りのおじさんでした。麦わら帽子をかぶって自転車にアイスキャンデーの旗をなびかせながら、村や町を廻っていました。それと同じころです、あの「氷旗」、白地に大きな赤い「氷」の文字に青い波をあしらった旗を掲げた店で、かき氷が人気を呼んでいました。ちょっと高価なアイスクリームが流行り始めていたのもやはり同じ、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていたころのことです。
 暑い夏にどうして冷たい氷を手に入れることができるのか、一つは、電気冷蔵庫と同じ原理を利用する冷凍技術の発達と製氷機の完成によってです。機械製氷が始まるのは明治期のことでした。明治16年(1887)東京製氷会社設立、明治40年(1907)に合併して日本製氷へ、とくに水産業の需要を主としてその発達と連動し、その後も吸収合併、戦時期の統制を経て、戦後にまた製氷事業が再開されました。そして現在の大手ニチレイへと展開していきます。

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 しかし、暑い夏の風物詩としての氷の利用の歴史は古く、機械製氷によるものだけではありません。冷たい氷を手に入れるもう一つが、天然氷の利用です。それは古代にまでさかのぼります。『日本書紀』仁徳天皇62年の大和国山辺郡都祁の「氷室」の記事が有名です。土を約3.5ⅿ位掘ってその上を厚く草で覆った室で、寒い冬季の氷を大量に貯蔵しておくものでした。夏季にその氷を取り出して利用したのです。平安時代に氷室から得られる天然氷の利用がみられたことは、『枕草子』の記事からもわかります。「あてなるもの、薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)、かりのこ、削り氷(ひ)に甘葛(あまづら)入れて新しき鋺(かなまり)に入れたる、水晶の数珠、藤の花、」(高貴なもの、薄紫色の上に表裏ともに白い襲(かさね)の汗衫を着ている童女の姿、鴨の卵、削り氷(ごおり)に甘味料の葛汁を入れて新しい金属製の碗に入れてあるもの、水晶の数珠、藤の花)と書かれています。冷たいかき氷の味を、あの清少納言も楽しんでいたのです。
天然氷の利用はその後も長く続き、明治時代には各地に天然氷の採氷池が開発され、五稜郭天然氷、日光天然氷、神奈川天然氷などが、機械氷とシェアを競ったほどでした。江戸時代から明治時代まで、夏季に氷の味を楽しんだという記事が散見されます。『浮世風呂』(1809‐13)には「氷水あがらんかい、冷やっこい、汲立てあがらんかい、冷やっこい」などとあり、『東京新繁昌記』には「涼味を炎天熱閙の間に売る者有り、氷や氷の声、清涼滴(したた)るが如く、歯牙為に寒し、堅氷を砕ひて冷水に和し、或は柑水と砂糖とを和す」とあります。明治のころは「氷水屋(こおりみずや)」とか「氷店」と呼ばれており、東京では「氷水屋は夏商(なつあきない)なれば、多く焼藷屋・汁粉屋・水菓子屋などの、一時これに転ずるも多く、氷水・雪の花・「アイスクリーム」より「ラムネ」などをも売る」(『東京風俗志』1901)とあります。大阪では「大阪の橋の名物たるや、固(もと)より喋々(ちょうちょう)するに及ばず。わけて夏になれば、橋上の氷店の盛なる、他に多く其此を見ず。」(『風俗画報』148号1897)と、たいへん賑わっていたことが記されています。

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 かき氷の魅力は、きれいな色彩や甘い味わいなどたくさんあります。主原料が氷ですから、ローカロリーでヘルシーなのでいろいろ楽しんでみませんか。かき氷は、夏の氷の芸術として、これからもますます進化していくにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年07月01日

第4回 鰻

鰻といえば土用の丑の日。この日に鰻を食べると夏病みしない、などと言います。そんな言い伝えや習慣はいつから始まったのでしょうか。

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現在もっとも流布しているのは、むかし江戸の町で商売がうまくいかない鰻屋が学者の平賀源内に相談し、「本日、土用丑の日」と書いて店先に貼るようにいわれ、そうしてみるとたちまち繁盛した、という話です。しかしこの話は古い記録にはみられません。意外と新しい、それも昭和も戦後になってからの作り話かもしれません。しかし、それなりに意味をもっています。だから否定も肯定もせず楽しく聞いておけばいいと思います。
それとは別に、土用の丑の日に鰻を食べる習慣は古く、『明和誌』(1822)には、「近き頃、寒中の日にべにをはき、土用に入り丑の日に鰻を食す。安永・天明の頃よりはじまる」とあります。安永・天明(1772−1789)の頃から、土用の丑の日に鰻を食べる習慣がみられたようですが、『江戸買物独案内』(1824)では、神田の春木屋善兵衛が元祖だと記しています。いずれにしても、江戸の町方で土用の丑の日に鰻を食べる習慣が生まれていたことは確かなようです。
鰻は、日本では古代からよく食べられていました。万葉集の巻16に収める大伴家持の次の歌二首がよく知られています。
石麿に われ物申す 夏痩せに
   良しといふ物そ 鰻取り食(め)せ
   
(石麿さんに申しますよ、夏痩せにいいということですから、鰻を取り寄せて、食べてください) 
痩す痩すも 生けらば あらむを はたやはた
   鰻を取ると 川に流るな
   
(痩せてはいながらも、生きていてこそですよ、鰻を取ろうとして、川で流されたりしないでくださいね) 

たしかに鰻は栄養価が高く、夏バテや食欲減退の予防に効果があります。古代から鰻は滋養に良いものとして食べられていたと考えられますが、何といっても鰻の食文化が磨き上げられたのは江戸時代でした。江戸初期の『料理物語』(1643)には、「なます、さしみ、すし、かばやき、こくせう、杉やき、山椒みそやき、此外いろいろ」とあり、さまざまな調理法で食べられていたことが知られます。かばやきというのは、江戸末期の『近世風俗志』(喜多川守貞『守貞漫稿』、1853)によれば、鰻を筒切りにして串に刺して焼いたので、その形が蒲穂に似ているから蒲焼といったのだと記しています。その後、醤油や味醂、調理法の発達で今日の身を開いて焼く方法が普及しても、名前だけは残ったのだというのです。なるほどと思わせる記事です。同書の巻5「鰻屋」の項では「京坂は背より裂きて中骨を去り、(中略)江戸は腹より裂きて中骨および首尾を去り」とあるのに、巻6「鰻蒲焼売り」の項では「京坂は鰻の腹を裂き、江戸は背を裂くなり」と、たがいに矛盾したことを平気で書いています。どうやら、腹裂きと背裂きとが京坂と江戸と、両方で併行していた時代があったらしいのです。

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現在では京阪は腹裂き→金串を打つ→素焼き→タレをつける→本焼き、東京では背裂き→竹串を打つ→素焼き→蒸す→タレをつる→本焼き、というのが通常です。
江戸では切腹を連想させるから腹は裂かない、と言い伝えています。近世文学研究者の延広真治氏によれば、江戸も元来は腹裂きで蒸しの工程はなかったが、文政年間のはじめ(1818)、下り鰻(秋の大雨による増水後や気温の低下で河川を下ってくる鰻、落ち鰻ともいう)を美味しく賞味できるよう蒸すようになり、蒸した後に串を打つ都合上、背裂きに変わったのだろうと述べておられます。平賀源内の話といい、武士の切腹の話といい、本当かどうかわからないままに、人びとの想像力が次々解説を生んでいくところがおもしろいですね。
 2014年に絶滅危惧種に指定されたニホンウナギ。その資源保護と持続可能な資源活用のため、国際的に政治・経済・学術の相互協力のもと対策が進められてきています。日本人にとって鰻は太古の昔から自然の恵みであり、日本の食文化の伝統を背負っています。資源保護への叡智が傾けられますようにと願わざるをえません。この夏も、遠慮しつつも大きな感謝の気持ちをこめて、鰻の蒲焼を味わってみてはいかがでしょうか。私はうな重が大好きです。土用の丑の日のピークをわざとはずして、先日ちょっとだけいただきました。小さなしあわせを感じました。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年06月01日

第3回 梅干し

六月は入梅の月、長雨の季節です。雨の中の通勤や通学で濡れた傘が電車の中でもに気になるし、じめじめと肌は汗ばみ、洗濯物も乾かない、いやな季節かもしれません。しかし、この梅雨の長雨は、東北地方から九州地方まで日本各地の農村では、稲の成育にとって欠かせない、まさに恵みの雨です。この初夏の長雨がなかったら、秋に稲の収穫ができません。おいしいごはんが食べられません。お寿司や日本酒や餅など、和食のごちそうも実はこの長雨のおかげなのです。 
そして、もう一つ、この季節の恵みが梅です。室町時代の連歌集『菟玖波集』(1356年)には、
 橘の 匂いになりぬ 梅の雨
と詠まれています。梅が日本でさかんに植樹されるようになったのは、奈良時代からのようです。色鮮やかで香りもよい梅の花が、新春を寿ぐ花として好まれました。『万葉集』には桜の花を詠った歌は43首しかありませんが、梅の花の歌は多く110首も収められています。その多くは恋の歌です。
 梅の花 咲きて散りなば 吾妹子(わぎもこ)を
   来むか来じかと 吾(あ)は松の木ぞ


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梅の花ではなく、梅の実が珍重されるようになったのは、平安時代になってからのようです。平安時代中期の医書『医心方』(984年)には、烏梅(うばい/むめぼし)を薬剤としたという記事があります。それは半熟の梅の実を干して煙でいぶして黒い薬剤としたもので、解毒作用の効能があったものと思われます。鎌倉時代の『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』にも烏梅(むめほし)とあるので、長く薬剤として用いられていたことがわかります。
一方、清少納言(966−1025年頃)の『枕草子』には、「にげなきもの(似つかわしくないもの・みっともないもの)」として、「歯もなき女の、梅食ひて酸(す)がりたる」とあります。歯のない老婆が梅を食べて酸っぱいと口をすぼめているさまが、みっともないというのです。ずいぶんとストレートな表現を清少納言という女性はするものですね。ただこれは、生の梅の実を庶民が季節の食材としていたことを知らせてくれる貴重な記事でもあります。しかし、それはまだ生の梅で、こんにちの梅干しのようなものではなかったでしょう。
梅干しという食材の登場は、おそらくは鎌倉時代の禅宗寺院での精進食あたりからだろうと思われます。室町時代の『庭訓往来』(1394−1428頃)にみえる「海月、熨斗鮑、梅干」という記事や、『蔭凉軒日録』明応元年(1492)12月22日の記事に、金柑や千餠や白芥子などとともに梅干しが供されたとある例からは、武家の饗応の膳に梅干しがあったことがわかります。
江戸時代になると、梅干しが各地でさかんに作られて士農工商あらゆる身分の人に広く賞味されるようになりました。大蔵永常(1768−1861)の『広益国産考』には、梅の木を植えて梅の実を収穫して農家の利益とするように勧めています。梅干しを詰めた酒樽が浪花から江戸へ、遠州相良から大坂へ、さかんに送られて利益をあげていたこと、また小田原名物の紫蘇巻き梅のことなどが書かれています。

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五月の連休に、私は世界に名だたる学者で粘菌研究や民俗学の先駆者として著名な南方熊楠の記念館のある紀伊田辺市に行ってきました。田辺市はみなべ町とともに名だたる紀州梅の産地で、和歌山県の超ブランド梅の南高梅の産地です。その絶品の味を現地で味わってきました。そこで梅干しのすばらしさが話題となりました。あの可愛らしい甲州小梅を一押しする人もいました。梅干しは、クエン酸やリンゴ酸などを含み、血液浄化、殺菌効果、老化防止、疲労回復などの効能があるまさに日本の歴史と文化が生んだ健康食品の第一です。それらをはじめ日本各地の梅干しや梅酒のすばらしさを発信するイベントが、地域の歴史を掘り起こしながら、これからますますさかんになるだろう、と語り合ったのでした。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)