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2010年07月15日

第十三回 西行



その4 武者の世・源平争乱

西行の生きた世は、平安の末期から鎌倉時代への動乱期。
そこに起こっていたのは武士と貴族、武士と武士との争いでした。
西行は、その争いをどのようにみていたのでしょう。



何事の争ひぞや

何事の争ひぞや
それは、源平争乱の時、
西行は人が殺しあう痛ましい戦争を心から嘆いています。

世の中に武者おこりて
西東(にしひんがし)、北、南、
戦ならぬ所なし。
うち続き人の死ぬる数聞く、
おびただし。
まこととも覚えぬほどなり。
こは何事の争ひぞや、
哀れなることのさまかな、と覚えて


死出の山越ゆる絶え間はあらじかし
亡くなる人の数つづきつつ 


(戦乱の死者の数はおびただしく、事実とは思えぬほどだ、
どこまで続くのか、死出の山を越える武者たちよ、
いったいこれは何の争いなのだ!)
現代訳『西行の心月輪』高橋庄次著より

深い哀しみと怒り。
かっては武者であった西行、他人事とは思えなかったでしょう。
悲痛な言葉、「こは何事の争ひぞや」が
西行の心をあらわしています。

寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に攻め入り、
平家は都を離れ、西海へと落ちていきました。
その義仲も翌年には義経に攻められ敗死。
その時、西行は詠います。

木曾と申す武者、死に侍りにけりな。

木曾人は海の怒りを鎮めかねて
死出の山にも入りにけるかな




地獄絵を見て

連作「地獄絵二十七首」は、木曾義仲が近江で戦死した時から、
平家が壇ノ浦で滅亡するまでの間に生み出されたもの。
地獄絵を見た西行は、乱れきった戦乱の世を背景に、
何かに突き動かされるように歌を詠んだといわれています。

      地獄絵を見て

  見るも憂し如何にかすべき我が心
    かかる報いの罪やありける


見るもつらい地獄絵、
どうすべきなのかと西行は自らの心に問いかけるのです。
このような報いを受けるような罪が私にあったのか、と。

  受け難き人の姿に浮み出でて
    懲りずや誰もまた沈むべき


考えてみれば、人に生まれるだけでも難しいことです。
私たちが、今ここにこうして生きているということだけでも
奇跡のようなことなのです。
その人としての命をもらってこの世に出てきたのに、
どうして懲りもせず、罪を犯して地獄に沈もうとするのか。
罪業をくりかえす人間にたいする西行の悲痛な声です。

  好み見し剣の枝に登れとて
    笞の菱を身に立つる


「好み見し剣」とは?
この地獄絵の亡者は、生前には剣を好んだ武者なのでしょう。
その好みの剣が死後の地獄では、責め道具となって、
逆に自分の身体を苦しめるという歌なのです。
戦争で殺し合う武者への西行の痛烈な批判でしょうか。
亡者は鋭利な剣の木の枝に登れといわれますが、
するどい刃のついた剣の木、登れと言われても登れない。
しかし、登れと、「菱」で笞(むち)打たれるのです。
西行は涙を流しつつ詠っていたのかもしれません。
その苦しみの後に、救いへの自覚がやってくるのを望みながら。

心をおこす縁たらば、阿鼻の炎の中にても、
と申すことを思ひ出でて


  隙もなき炎の中の苦しみも
    心おこせば悟りにぞなる


その苦しみが、求道の念をおこすこととなるならば、
たとえそれが阿鼻地獄の炎の中であっても
救いへの道になると思った西行。





地獄からの救い・暁の菩薩

地獄に堕ちる罪人の歌です。

  問うとかや何ゆゑ燃ゆる炎ぞと
    君をたき木のつみの火ぞかし


「あの炎は何か」
「お前がこれから堕ちる地獄の炎だ」
それを聞いて罪人が恐れおののき悲しみます。
歌は戯曲のようにつづき、詠われていきます。

かくて地獄にまかりつきて、地獄の門ひらかんとて、
罪人を前に据ゑて、鉄(くろがね)の笞(しもと)に投げやりて、
罪人にむかひて、獄卒、爪弾(つまはじ)きをしかけて曰く、
「この地獄出でしことは昨日今日のことなり。
出でし折に、また帰り来まじき由、かへすがへす教えき。
ほどなく帰り入りぬること、人のするにあらず。
汝の心の、汝をまた帰し入るるなり。人を怨むべからず」
と申して、荒き目より涙をこぼして、地獄の扉を開くる音、
百千の雷(いかずち)の音にすぎたり。


  ここぞとて開くる扉の音聞きて
    如何ばかりかはをののかるらん


なんとなんと西行という人は!
地獄の鬼をこのように表現する心をもった人なのです。
恐ろしい獄卒、その鬼が、鉄のむちを投げ出し、
その荒々しい目から涙をこぼしつつ、罪人を教え諭して
いるのです。
「お前がこの地獄を出たのはつい最近のことだ。
そのときここにまた戻って来てはならぬと繰り返し教えたのに、間もなくまた戻って来るとは。
他人のせいではない。
お前の心が、お前をまたここに戻し入れたのだ。
他人を怨むことではない」
と。
人は同じ過ちを繰り返します。
戦争も何度となく繰りかえされてきました。
源平の争乱の後も、承久の乱、南北朝の対立、応仁の乱、
そして戦国期へと続き、全国を戦乱に巻き込んでいきました。
その戦の根は、現在でも根絶はされていません。
西行の願いはいまだ果たされていないのです。

何千の雷鳴よりも凄まじい地獄の門を開ける音。
しかし、人間には聞こえないのか、
何度も何度も地獄に戻ってしまう人間の営み。
その地獄の中に救いはあるのか。
西行が見いだした救いとは・・・・・、
最終章のドラマが詠われていきます。

  すさみすさみ南無と唱へし契りこそ
    奈落が底の苦に代りけれ


  朝日にや結ぶ氷の苦は解けん
    六つの輪(わ)を聞く暁の空


菩薩の姿を見て罪人がおもわず「南無」と唱えたその心。
その菩薩との契り、それこそ地獄の苦しみからの救い。

「朝日にあって氷がとけて行くように、
罪人の苦しみも解けて行くだろう
六道の苦しみを打ちくだく法の輪が、
夜明けの鐘に清浄(しょうじょう)とひびく
暁の壮大な空よ
暁の菩薩の光よ」

         現代訳『西行の心月輪』高橋庄次著より

「人間の魂を救う地蔵。
それは、さまざまな姿に化身して人々を救済する菩薩」。
西行は聴きたかったに違いありません。
清浄なる夜明けの鐘の音を!
壮大な夜明け、その暁の空、
その空と一体となることを西行は待ち望んだのでしょう。



たはぶれ歌



西行70歳のころ、嵯峨に草庵を結び暮らすようになりました。
夏の暑い午後のこと。
庵でぐっすりと昼寝。
すると、ピーッと、鋭い麦笛の音。
ハッと目覚めた西行。
なんだろうと思って見ると、
かんかん照りの中で、
髪をうなじのところで留めた童髪の子どもが、
手すさみに麦笛を鳴らしているのです。
なにものにもとらわれない自由な境地の西行。
その無心の心は、子どもの吹く麦笛の音に満たされていきます。

  うなゐ子がすさみにならす麦笛の
    こゑにおどろく夏のひるぶし


なんと素直な気持ちにさせる歌でしょうか。
昔の幼い子どもたちの遊びを想い、心が澄んでいくようです。


願はくば

西行は亡くなる前年に嵯峨の草庵を捨てて、
河内の弘川寺の草庵に移りました。
そして、1190年(建久元年)2月16日に
亡くなるのです。(現在の暦では3月中旬から4月にかけてです)
その日、桜が満開に咲いていたかもしれません。

  仏には桜の花をたてまつれ
    我が後の世を人とぶらはば


西行は生前に詠っていました。
満開の桜の下、それも2月15日の満月のころ、
ブッダの涅槃の日に、わたしも死にたいもの、
そして、もし死後に弔ってくれる人いたら、
そのときは桜の花を供えてください、と。

西行が明恵上人に語ったと伝えられる言葉があります。

「一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ、
我れ此の歌によりて法を得ることあり」
と。

西行73年の生涯でした。





資料:
『西行の心月輪』高橋庄次著 春秋社

『いまを生きる知恵』中野孝次著 岩波書店

『国語百科』編集代表内田保男・石塚秀雄 大修館書店

『西行』白州正子著 新潮文庫
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2010年07月01日

第十二回 西行



その3 心の行方

西行は20代後半、陸奥への旅に出かけました。

陸奥国(みちのくに)へ修行してまかりけるに、
白河の関にとどまりて、
所がらにや、常よりも月おもしろく哀れにて、
能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、いつなりけむ、
と思ひ出でられて、名残多く覚えければ、
関屋の柱に書き付けける。


  白河の関谷を月の洩(も)る影は
    人の心を留(と)むるなりけり


陸奥国への玄関口「白河の関」で詠った歌です。
旅で見る月の美しさは、また格別のもの。
西行が京から旅立ったのは、晩春か初夏でしょうか。
もう秋の風が吹き、美しい月が・・・・・。
西行はそのとき、旅の歌僧・能因の歌を思い出しています。
その歌は、
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関

今回は、陸奥の旅をへて還ってきた西行の姿にふれながら、
その生き方を考えてみたいと思います。


西行の覚悟


陸奥国から還ってきた西行。

「いったいこれが出立時と同じ西行なのか――
それが最初に会ったときの印象(かんじ)であった。
日に焼け、風に鞣(なめ)された肌は浅黒く、
がさがさに荒れていて、
野山を蓬髪で歩く山伏のような容貌であった。
まるで苔むした大岩がごろりと横たわっているようであった。
押しても突いても動きそうもない――そんな思いがした。
そこには、不安とか、迷いとか、畏(れとかいうものが完全に削ぎ落とされていた。
天地自然の運行(めぐり)と一つになった
巨大な山のような存在(もの)が
重く悠然と横たわっていた。
何一つあわてなかった。
急ぐなどということもなかった。
躊躇(ためらい)もなかった。
天地自然がこの世に存在するように西行はそこにいた」


辻邦生著『西行花伝』の中で、
1年半ぶりに陸奥の旅から戻ってきた西行の印象を
友人藤原頼業(よりなり)が語っているところです。
『西行花伝』は、辻邦生氏の描きだした西行の物語ですが、
そこには西行の真実の姿が語られているような思いがします。

西行は頼業に、自分を変えた旅での出来事を話し出します。
それは不幸な人々の打ちひしがれた姿。

「領主の過酷な労役に耐えかねて故郷を棄てた農民や、
良人を土地争いで失った女や、
娘を盗賊に奪われて発狂した母親や、
飢えのために死人の肉を食って鬼になった男たちに出逢った。
幸せな人たちもいたが、
多くは不幸に打ちひしがれた人たちだった。

旅の道々、白骨となって野ざらしになった骸を
どれだけ埋葬したか分らない」


旅に出て、この世の不幸と悲惨さを見た西行、
そして、
「私は旅のなかで何か学んだとすれば、
六道輪廻のこの存在(ありさま)を、
そっくり受け入れることだった。
苦痛も侮蔑も汚穢も恐怖も、まるで地獄の餓鬼が
血まみれの屍を頭から貪り食うように、
そっくり受け入れようと思ったのだ。略
私はどのようなことが襲ってきても
それを決して避けまいと覚悟した。略
存在(もの)が六道のうちにあるかぎり、
それは私にとって無縁であってならないのだ」


話しを聞いていて、とめどなく涙があふれ出る頼業。
そして、その半年もたたない久安4年の秋の終わりに
頼業は出家し、寂然と号するようになります。
西行の“この世の苦悩や悲惨をすべて引き受ける覚悟”は、
頼業の心にも響いていったのでしょう。


動じない面魂(つらだましい)

南北朝時代の歌論書『井蛙抄(せいあしょう)』には、
有名な逸話があります。
それは、文覚(もんがく)と西行の出会いのこと。

文覚は、出家する前は西行と同じように武者でした。
俗名は遠藤盛遠(もりとう)。
友人の妻袈裟御前に横恋慕し、誤って殺害して出家したのです。
出家してからも頼朝挙兵などにかかわった荒法師。
彼は、日頃から、数寄心をもつという西行を嫌っていました。

「文学(覚)上人は西行をにくまれけり。
その故は遁世の身とならば、
一すじに仏道修行のほか他事なかるべきに、
数寄をたてて、ここかしこにうそぶきありく条、
にくき法師也。
いづくにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし。
つねのあらましにて有けり」


“頭を打ち割ってやる”とは大層憎んだものです。
文覚の弟子たちはそんなことになっては大変と
大いに心配していたのですが、
ある日、神護寺の法華会に、なんと西行がやって来たのです。
文覚は、自ら庭先に出ていくと、西行のことをしばし見詰め、
これへと招き入れました。
そして、かねてよりお噂を聞いておりましたと、
ねんごろにもてなし、
翌朝の食事の世話までして帰したのです。
弟子たちは不思議でなりません。
いつも、「頭をぶち割ってくれん」と言っていたのですから。
そこで、これはどうしたことでしょうかと訊ねると。

「あらいふかいなの法師どもや、
あれは文覚にうたれんずる物のつらよう(面様)か。
文覚こそうたんずる者なれ」


(まったく言う甲斐のない法師たちだ。
あれは文覚に打たれるような者の面をしているか。
文覚をこそ打つような者だぞ)と言って、
弟子たちをたしなめたというのです。
上記『井蛙抄』の現代語訳は、『西行の風景』桑子敏雄著より

西行は文覚に打たれるような面構えをしていなかったのですね。
逆に文覚の頭を打つような者だったのです。
そして、「心しずか」に語り合った文覚と西行。
西行は、悠然と自らの歌と仏道の考えを語り、
文覚はそのことを納得したばかりではなく、
さらに、その何ごとにも動じない面魂の奥底にあるものを知り、
弟子たちに、お前たちには、それが分からないのか、
と言ったのです。


西行の人間的な魅力

鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、
鎌倉で、西行が源頼朝と会見したときのことが記されています。
それは文治2年(1186)8月15日の事です。
鶴岡八幡宮に参詣していた頼朝は、
老僧がひとり、鳥居のあたりにいるのを見かけました。
あやしんで名字を問わせたところ、
「佐藤兵衛尉義清法師、今は西行と号す」と返事があったのです。
その人物が西行だと知った頼朝は伝えさせます。
「心静かにお会いし、和歌のことをお話したい」と。

西行が了承したので、
頼朝は、喜んで西行を館に招き、歓談したのです。
さっそく、頼朝は、歌の道と弓馬のことについて尋ねると、
そのとき西行は・・・・・。
白州正子著『西行』では次のように書かれています。

「弓馬に関しては、在俗の間は辛じて家風を伝えておりましたが、
保延3年(1137) 8月(実は6年10月)遁世の折、
秀郷以来九代相伝の兵法は焼失してしまいました。
罪業のもととなると思いまして、以来何もかも心低に残さずみな忘却つかまつりました。
詠歌の方といえば、ただ花や月に心が動く時に、
三十一字をつらねているだけで、
まったく奥儀(おうぎ)というものを知りません。
したがって、何も申し上げることはないのですが、
折角お召しにあずかったのですから、
弓馬の道についてつぶさにお話しいたしましょうと、最初の言とは矛盾したことを平然といってのけたのである」
と。

歓談は翌朝まで続き、
もっと話をしたかったのでしょうか、
しきりにとどめる頼朝を振り切るようにして
西行は退出したそうです。
その時、頼朝は銀(しろがね)作りの猫の置物を贈りましたが、
西行は門の外で遊んでいた子どもたちに惜しげもなく与えて、
立ち去っていったのです。

公の文書に、将軍からの高価な拝領物を子どもに
与えてしまった西行のことをわざわざ記したのは、
鎌倉武士の度肝をぬいた西行の人間的な魅力に
魅了されたからに違いありません。

頼朝が最初に西行に伝えたように、
「心静かに語りたい」、
あるいは、心静かに語られずにはいられない人物。
そのような人になっていた西行なのです。

西行このとき69歳。
東大寺大仏再建の資金を調達するため、
陸奥守秀衡に会いにいく途中でした。



先日、鎌倉の鶴岡八幡宮に行ってきました。
西行の訪れた頃には、どのような趣があったのでしょう。
今は、まぶしい陽光につつまれ、
境内は修学旅行の生徒たちでいっぱいです。
今年3月に倒れた大イチョウの根元からは新芽が出ていました。
ゆっくり境内を散策した後、大磯にまわり、
駅から少し歩いたところにある鴫立沢の旧跡を訪ねました。
静かなたたずまいの鴫立庵の入り口に小川が流れています。


   心なき身にもあはれは知られけり
      鴫立つ沢の秋の夕暮れ


と口ずさむ西行にふらりと出逢ってみたくなります。

西行は平清盛と同じ年に生まれ、
鳥羽院北面の武者の頃は同僚でもあったそうです。
その清盛の子重衡が戦で焼いてしまった東大寺。
その再建勧請の旅の途中、鎌倉に寄って、
源頼朝に乞われて話し相手になる西行。

日本中を哀しい戦いに巻き込んだ源平合戦のとき、
西行は何を考え、何を思っていたのでしょうか。
そして、最晩年は・・・・・。

つづく





資料:『西行花伝』辻邦生著 新潮社
『西行の心月輪』高橋庄次著 春秋社
『西行』白州正子著 新潮文庫
『白い道』瀬戸内寂聴著 講談社
『西行の風景』桑子敏雄著 NHKブックス
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2010年06月15日

第十一回 西行



その2 心

当時の人々はどのように思っていたのでしょうか。
鳥羽院に仕える若き23歳の武者・兵衛尉佐藤義清(のりきよ)の
突然の出家を・・・・・。
2年後、これもまた23歳の若き内大臣藤原頼長は、
日記『台記(たいき)』に書いています。

西行、もと兵衛尉義清(ひょうえのじょうのりきよ)なり。
左衛門大夫康清(さえもんのだゆうやすきよ)の子なり。
重代の勇士を以て法皇に仕ふ。
俗時より心を仏道に入れて、家富み年若く、
心に愁ひ無きも、遂に以て遁世(とんせ)す。
人これ嘆美するなり。


それは、1142年(康治元年)3月15日のことでした。
その日、一品経(いっぽんきょう)の書写・奉納の
勧進(かんじん)のためにやってきた西行。
「一品経」とは、
法華経二十八品を28人で一品ずつ写経するものです。
頼長は快く書写することを承諾し、西行の年齢を尋ねました。
年若い裕福な「重代の勇士」がいさぎよく
自分と同じ年に出家したのです。
そのことに驚き、賞讃した頼長。

また『古今著聞集』は、次のようなことを記しています。

「(西行)は世をのがれ身をすてたれども、
心はなほむかしにかはらず、たてだてしかりけるなり」


「たてだてし」(古語)とは、気が強いという言葉ですが、
「荒くれ者、手におえぬ乱暴者」という意味も含まれているとか。
いざ戦いの中では修羅にならなければ生きていけない武者。
その義清(西行)の血の中には、あのムカデ退治で有名な
俵藤太以来の荒い気性が残っていたのかもしれません。
また、若年の頃には、「相当の癇癪(かんしゃく)持ちで、
好き嫌いが激しかった」ともいわれます。
そのような気性の荒さに気づきながらも、
自分ではどうすることもできない若き日の西行の心が
みえてきます。

西行は多くの歌を詠みました。
歌とは心の結晶です。
今回は、その“歌”をとおして、
西行が人生をどのように生きようとしたのかを
考えてみたいと思います。



心の歌

   心から心にものを思はせて
      身を苦しむるは我身なりけり

   ましてまして悟る思ひはほかならじ
      わが嘆きをばわれ知るなれば


白州正子著『西行』では、

「われ嘆きをば知るなれば」の嘆きとは、
「重代の勇士」の体内にひそむ暗黒の部分、
― 恐るべき野獣にも似た荒い血潮を鎮(しず)めるために、仏道に救いを求めたのではなかったか」
と。

猛々しい武者として生きてきた佐藤一族です。
前回に書いた、
鳥羽院領荘園と佐藤一族荘園の境界紛争の中で、
いまにも暴発しかねない激しい気性の義清(西行)が
いたのかもしれません。
それゆえ心の葛藤と苦悩はさらに大きくなっていたのでしょう。
その頃の歌に、

世を遁れける折、縁(ゆかり)ありける人のもとへ言ひ送りける。

   世の中を背(そむ)き果(は)てぬと言ひ置かん
      思ひしるべき人はなくとも

 
(世の中に背いてしまったときっぱり言って置こう。
たとえわたしの心を理解してくれる人がいなくても)
歌意:『西行の心月輪』高橋庄次著より



青年僧西行


西行は出家後の数年は、都周辺で過ごしていました。
鞍馬で修行していた頃、次のような歌を詠んでいます。

 世を遁れて鞍馬の奥に侍りけるに、
 筧(かけひ)氷りて水参(まう)で来ざりけり。
 春になるまで、かく侍りなると申しけるを聞きて詠める

 わりなしや氷る筧(かけい)の水ゆゑに
    思ひ捨ててし春の待たるる


(どうしようもないことだ。筧の水が氷ったために、
思い捨てたはずの憂き世の春が待ちどおしいとは。
筧は、竹を二つに割って泉から水をひく樋のことです)

厳寒の中での修行、覚悟の出家であるのに、
俗世の春が懐かしくなる西行。
次のような歌もあります。

北山寺に住み侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、
ほととぎすの鳴きけるを聞きて


   ほととぎす死出の山路へかへりゆきて
      わが超えゆかむ友にならなむ


待ちに待った春になったとき、
西行は病気になってしまいます。
病で衰弱した西行、死の恐怖にさらされたのでしょうか。
なんとほととぎすに呼びかけます、
あの世の旅のみちづれになってほしいと。
猛々しい武者の心に同居する心の弱さともいえる繊細さ。
まだ若き青年僧西行なのです。



心の遁世


出家僧には教団組織の中での僧位や僧官への道がありますが、
西行はそれを求めませんでした。
心のままに自由に生きる方を求めたようです。

出家前後に、歌の連作「述懐十首」があります。

捨てて後(のち)は紛(まぎ)れし方(かた)は覚えぬを
   心のみをば世にあらせける


(身を捨てた後は、憂き世に紛れることはないけれど
心だけをそのまま世に置いておくことにした)

出家した後も、“心だけをそのまま世に置いておく”とは?
その答えは、次の歌にあるとのこと。

塵(ちり)つかで歪(ゆが)める道を直(なお)くなして
   ゆくゆく人を世に継(つ)がへばや


(塵も付かぬ清らかさで、歪んだ道も真直ぐにして
このさき人々をそういう世にするように導いて
なんとかそれを次々に継承させたいものだ)

西行がこのように詠ったのは、心をこの世にとどめて、
世の中のけがれて歪んだ道を清め、すこしでも正しい方向に
向けることができればという気持ちからでした。
世は平安末期、動乱の時代です。
人々が少しでも苦しみから逃れることができればと願って、
仏の道を説き、出家を勧めて歩いたといわれています。



命をかけた慕情

西行、苦悩の恋心。
それが出家のひとつの原因にもなったのではないかとも。

   知らざりき雲居(くもゐ)のよそに見し月の
      影を袂(たもと)に宿すべしとは


(宮中でふとよそ目に見た高貴なお方が忘れられなくて、
袂を涙で濡らすことになろうとは思いもしなかった)

こんな歌も・・・・・。

    いとほしやさらに心の幼(をさな)びて
      魂(たま)切(き)れらるる恋もするかな


(なんといういじらしさよ、わたしの心はますます幼くなって
魂がひきちぎられるような一途な恋をしている)

西行に、魂切れらるる恋をさせる人とは、
「申すも恐れある上臈(じょうろう)女房」であり、
「雲井の月」と喩えた宮中の高貴な女性だったのです。

   何ゆゑか今日までものを思はまし
      命にかへて逢ふ世なりせば


(どうして今日までもの思いに苦しんでなどいようか、
もしわたしの命と引き替えに、あのお方に逢えるような世の中で
あったなら)

自分の命と引き替えにしても逢えない女性。
その人は鳥羽院の中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)ではなかったかといわれています。
前回に書いたこと、「14歳のころ、元服して義清と名乗り、
都で徳大寺家の家人として仕えていたときのこと。
主家との主従関係はとても親しく、
義清は主の権中納言徳大寺実能(さねよし)と妹璋子(たまこ)に
父母の温かさを求めていた」と、どこかつながりますね。

その待賢門院璋子は、1142年(康治元年)に出家します。
西行はこれをどこで知ったのでしょうか。
すぐに出家結縁のために「一品経」を発願し、
最初に書いたように内大臣頼長を訪ねているのです。
それは、経文の縁にすがって待賢門院璋子の出家に結縁しようと
いうものなのです。
西行の心が推しはかられます。

待賢門院が亡くなったのは、それから3年後、
1145年(久安元年)、享年45歳でした。
西行はそのとき28歳。

   たづぬとも風のつてにも聞かじかし
      花と散りにし君が行方を


(いくら尋ねても、風の便りにも聞くことは出来ないのでしょうね。
花となって散ってしまわれた君(待賢門院)の行方は)

西行の心の中で、
女院の美しい姿は、桜の花となって散って行くのです。
その花の行方を散らせる風に尋ねようとする西行の心。
悲痛な慕情は、花にむかい、月となって
詠われ続けていくことになります。

待賢門院の一周忌が明けた春、
30歳になった西行は都周辺の草庵暮らしを捨て、
初めて東国陸奥への長旅に出かけました。

青年僧としての苦悩の青春を脱しての旅。
西行はどのような人物になって還って来るのでしょう。

つづく



資料:歌の歌意は『西行の心月輪』高橋庄次著より
   『西行の心月輪』高橋庄次著 春秋社
   『西行物語』全訳注 桑原博史 講談社学術文庫
   『西行』白州正子著 新潮文庫
   『歌人西行』伊藤嘉夫著 第一書房
   『白い道』瀬戸内寂聴著 講談社

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2010年06月01日

第十回 西行



その1 武者と遁世(とんせ)の道

ブッダが入滅してからおよそ1600年後、
その涅槃の日に、
桜の花の咲く下で
自分も死にたいと願った日本人がいました。
その名は西行(さいぎょう)。

   願わくは花の下にて春死なむ
      そのきさらぎの望月のころ
                     西行


(願うならば、桜の花の下で春のさなかに死にたい。
あのブッダの涅槃の日、2月15日の満月のころに。)



仏教と日本人の心

6世紀に日本に伝わった仏教。
「一切は空であると人間の我を否定したインド仏教」。
日本人はその仏教に心の浄化を求めました。
最澄の「道心」、道を求める心。
空海の修行によって最高の心をえる「十住心」。
明恵は菩提心、それは求道の心。
親鸞は信心。
道元は身心脱落(身心が自在になった状態のこと)。
このように、無私、無心の境地を
心の浄化によって得ようとした日本人。
日本の仏教にとって大切なのは、
「心」の探求だったといえます。

今回は、西行の人生にふれ、
より良く生きる心を探ってみたいと思います。

      ☆

西行が生きた時代は、
激しく動くけわしい世の中で、
藤原氏の内紛や武家の台頭など、
兵乱、盗賊の横行、宮殿社寺の火災に、
人々の心は不安に満ちていました。
あの平家の風雲児・平清盛も西行と同年生まれ。
時代は激しい変化に揺れ動いていたのです。



西行こと、佐藤義清(のりきよ)の生い立ち

1118年(元永元年:平安後期)、
藤原氏佐藤家の長男として生まれた西行。
元服名は義清。
佐藤家は紀伊国の荘園の在地領主で、
父康清は佐藤一族の棟梁でした。
母は源清経の娘です。
父母は、哀しいことに義清の幼い日に
亡くなっているようです。

14歳のころ、元服して義清と名乗り、
都で徳大寺家の家人として仕えました。
主家との主従関係はとても親しく、
義清は主の権中納言徳大寺実能(さねよし)と
鳥羽院の中宮であり待賢門院となった妹璋子(たまこ)に
父母の温かさを求めていたそうです。



雅(みやび)な武者


鎌倉時代中期に成立した『西行物語』があります。
実在の人物を主人公としながらも、
基本は作り物語(創作)の手法で書かれていますが、
当時の人々の考えがわかります。
西行の若き日のところを少し載せてみましょう。
桑原博史全訳注『西行物語』より。

一 その家系と才能

鳥羽院の御時、北面に召し使はれし人侍りき。
左兵衛尉(さひょうゑのじょう)藤原義清、
出家ののちは西行法師といふ。略


続きは現代訳で。

「彼は弓矢の道にすぐれた家系の血をうけ、
武芸の名誉を世に示していた。
あの弓の名人養由(ようゆう)の百発百中の腕まえを習い、
軍学者張良(ちょうりょう)の兵法書の奥儀を会得していたのである。
がいして漢詩文を好み、菅家・紀家の二家に伝わる古い書を読んで、蛍雪(けいせつ)の功を積んでは、身心を充実させる手段とした。
もとより音楽の道にも造詣(ぞうけい)が深い。
こういうわけで、
日本の伝統であるから、和歌の道にいたっては、
――かの素戔鳴命(すさのおのみこと)が、
「八雲立つ出雲八重垣」の詠歌を基本として、
三十一文字の大和言葉による文芸を創始なさって以来、
柿本人麻呂・山部赤人のことはいうまでもなく、
そのほかに歌道を好み、
あの聖徳太子の時代以来その道を学んできた歌人たちは、
在原業平、凡河内躬恒、紀貫之、貴撰法師、など多くいる―
けれどもこの義清が、枯れた木草に花を咲かせ、
無情の鬼の心をやわらかくするようなすぐれた和歌を詠む才能は、それら昔の名歌人や先覚者にも劣らぬほどだったのである」
と。

西行の家系は、ムカデ退治で有名な俵藤太秀郷にさかのぼります。
武勇にすぐれ、多芸多才の宮廷武者だった青年時代。
春の詩歌の会、秋の月の宴、
蹴鞠の会、紫宸殿前での弓の競射など、
四季の遊宴には、義清は欠かせない存在だったようです。

鳥羽院に愛された華やかで雅な武者。
それだけではありません。
「10代の若さで豊かな荘園経営の家督を相続した
佐藤一族の棟梁」でもあったのです。

しかし、突然のこと、すべてを捨て、
その義清がわずか23歳でこの世を断念して
出家を思い立つのです。
どうしたことでしょう。

出家の8ヶ月ほど前の歌です。

さても過ぎにし二月(きさらぎ)の頃、
出家の事を思ひ定めたりしに、折ふしそら霞み、
心細かりしに、


   空になる心は春の霞にて
      世にあらじとも思ひ立つかな


(むなしさを自覚したわが心は、あたかも春の霞のように
立ちのぼって、このまま現世にいまいと決心できたのだ)
桑原博史全訳注『西行物語』より


霞のような心の状態で、遁世を思い立つ一人の男が
そこにはいるのです。
その心は、いかなるものだったのでしょう。



世を遁れて


遁世せざるえない理由は様々にいわれています。
『西行物語』では、親友佐藤範康の急死によって、
人の世のはかなさを痛切に思い知らされたからと。
また『源平盛衰記』では、恋のためとも。

いくつかの説が考えられるとのこと。
1、一般厭世説
2、恋愛原因説 
3、政治原因説 
4、総合原因説
(全訳注 桑原博史『西行物語』より)

人の心は計り知れないものです。
父母に早く死に別れ、家庭の温もりに恵まれなかった義清。
その男が成長し、妻や子を持ち、大切に守り育てた家庭。
それを捨てさる決意をするとは・・・・・。

『西行の心月輪』高橋庄次著には、次のような話があります。

義清が北面の武者として仕えた鳥羽院は、
徳大寺実能と同様に父とも頼んだ存在でした。
しかし、その鳥羽院領荘園と佐藤家の荘園との間には
長期にわたる境界紛争があったのです。
鳥羽院に仕える義清は、
一族の不満をその身に抱え込んでせきとめていたのです。
在地の佐藤一族の不満はたまり、
棟梁である義清に紛争の重圧がのしかかります。
次第に追い詰められていった義清。
その板ばさみの中、
出家するほか道はないと決心したと。



身を捨ててこそ


1140年(保延6)のこと、
ついに出家せざるを得なかった23歳の若き武者。

  鳥羽院に出家のいとま申すとて詠める。

   惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
      身を捨ててこそ身をも助けめ
                  西行上人集


(わが身に執着して惜しんだところでなんになるでしょう。
惜しんでも惜しまれることのないこのような世の中で、
身を惜しみ通せるものでしょうか。
そのようには思えません。いつかは死ぬのが世のならい。
そんな世の中ですから、いっそ自分からこの身を捨ててこそ、
身を助けることにもなるのでしょう)

出家のいとまごいは許されませんでした。
しかし義清は自分の意志を通すべく出家するのです。

その時のことを『西行物語』では、
義清は、
「主君の御訓戒を恐れて、今度出家をやめ、
また愛着深いわが家に帰ったら、
いつをその時期と決められようか。
そもそも恩愛の道を捨てて世俗への執着を
絶ち切れとは釈迦如来の教えであり、
髪を剃り黒染めの衣を身につけるのは、
現世の苦悩を脱する出発点である」
と。
(現代語訳 桑原博史全訳注『西行物語』より)

義清は高野山に帰依し、出家して西行と名のるようになります。
法名大宝坊円位。
この円位という名は、心に月輪(がちりん)、
つまり満月を観想する真言密教の心位を現したものといわれます。

義清の出家は、家を捨て、血縁をはなれ、
この世の過酷な争いのしがらみを断ち切る方法であり、
また「追いつめられた魂を救う唯一の道」であったとも。

私たちは、出家遁世した後に西行が詠んだ歌の数々から
その西行の心を察するほかありません。

つづく




資料:
『西行の心月輪』 高橋庄次著 春秋社
『西行物語』 全訳注 桑原博史 講談社学術文庫
『西行』 白州正子著 新潮文庫
『歌人西行』 伊藤嘉夫著 第一書房
『西行花伝』 辻邦生 新潮出版
『白い道』 瀬戸内寂聴著 講談社
『和歌の解釈と鑑賞事典』 井上宗雄 武川忠一 編著
                            笠間書院
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