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2010年09月15日

第十七回 明恵



その4 知と心

明恵21歳の頃、華厳哲学の勉学をとおして、
生涯を共にする仲間を得ました。
今回は、その後の明恵の生き方をとおして、
人生にとって大切な「知と心」の問題を考えてみたいと思います。



紀州・白上の峰

建久6年(1195)のこと、
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著の略年表によれば、
「その年3月、頼朝入洛、東大寺再建供養。
秋、一両年来の東大寺出仕を止め、
神護寺を出て紀州栖原(すはら)の白上の峰にこもる」
と。

23歳の明恵は、数名の若い仲間と紀州白上の峰に登って
草庵を結びました。
このあたりは、母方の武士団湯浅一族がいるところです。
『行状』の筆者喜海によれば、

「同(建久)6年秋ごろ、高尾を出て、衆中を辞して、
聖教を荷ひ仏像を負って、紀州に下向、
湯浅の栖原村白上の峰に一宇(いちう)の草庵を立て居をしむ」


その庵は、二間(4メートル弱)の草庵。
眺めはすばらしかったようです。

「前は西海に向へり。
遥かに海上に向ひて阿波の島を望めば、
雲はれ浪しずかなりといえども、眼なほきわまり難し」


そして、東には深い谷があり、
谷に吹く風の音が聞こえてくるのです。

「渓嵐(けいらん)響をなして巌洞に声を送る」

草庵の前に一本の松があり、
その下は坐禅をするのに適していたようです。

「草庵の縁の前、西北の角学問所の前に一本の松あり。
その下に縄床一脚を立つ」


そして、
「また西南の角二段ばかりの下に一宇の小草庵を立つ、
これ同行来人のためなり。ここにして行法、坐禅、誦経、
学問等の勤め、寝食を忘れて怠りなし」




心の陶冶(とうや)


明恵は、なぜ東大寺や神護寺をはなれ、
白上の峰にやって来たのでしょうか。

その年、心が激しく動揺する事があったようです。
おそらくそれは頼朝が京にやってきたこと。
頼朝挙兵の時、明恵の父は平家方の武士として戦い、
戦死していたからです。

頼朝上洛に衝撃を受けた明恵は、自覚します。
当時、明恵の華厳研究はすすみ、高い評価を受けていたのですが、
いまだ、自らの身も心も、一切の対立を越える
華厳世界〈大縁起法界〉の中に入りきれてはいない
と。

つまり「心が理論に追いついてはいない」ことを思い知るのです。

「理論というのは世界に入っていく通路。
しかし、その通路をとおって世界に入るのは心」
だといわれます。

明恵が白上の峰で修行しようとしたのは、
華厳の世界像を、峰の上での坐禅・瞑想によって、
体得したかったからなのです。


心の耳で聞く存在の音楽

明恵が修行する白上の峰で聞いたものは、存在の音楽といわれます。
その「あらゆるものの織りなす存在の音楽」とは!
そのことを、『華厳宗沙門 明恵の生涯』の著者磯部隆氏は、
次のように述べられています。

すべての存在は「大縁起法界」「円極法界」のなかにあって
宇宙の音楽に参与している。
けれども人はこの法界の外にいて、
世界の断片をはぎり取り固定化し執着するので、
彼と此との対立が生まれてくる。

十無尽の世界はたとえば音楽のようなものである。
宇宙はシンフォニーであり、すべての存在は音価をもつ。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドそれぞれの音は相互に区別され、
自分の音をもっている。
この自分の音は、高低一音階の中にあるゆえに存在し、
一音階もより高くまた低くつづく音階連鎖の中で独自な音階として存在できる。
他方また音階中の一音たとえばドは、
数学の点ではなく、幅と音量をもち、
みずからのなかに一音階のドレミファソラシドをもっていて、
さらにまたその中の一音にも一音階がふくまれ、限りがない。
それゆえに、音の連鎖と和音が成り立ちシンフォニーも生まれる。


そうなのですね。
私たちもそれぞれ宇宙の一音。
対立することなくあらゆるものと響きあって
よい音楽を生み出していなくては・・・・・。

では岩壁の上で明恵とともに存在の音楽を聞いてみましょう。
白上の峰、そこにあるのは風の音。
その風の音を聞きながら、知と溶けあう明恵の心
海、空、光、風の中で瞑想する明恵は、
心の耳を傾けます。
その心の耳に聞こえてくるのは存在の音楽
 
明恵は瞑想の中で心が体験する華厳の教えを
若い僧たちにも語ったことでしょう。

白上の峰の彼らの生活は貧しく厳しいものでした。
しかし、決して不幸ではありませんでした。
秋の月を見て歌を詠う明恵。
すばらしい月が出ているのに眠りこける仲間たち。
そのほほえましい歌と詞書。

 人々もろともに、雲間より出づる月を待つに、
 さよふけぬれども、晴れもやらず。人々寝入り
 がたに、軒の松の梢のほど晴れ上がりて、月の光、
 草の庵(いほり)にさし入るに、もろともに見むとて引き
 起こせども、なさけなきほどに起くることなけ
 れば、いといとうらめしくて、寝入る人の小袖の
 たもとに書きつけて侍(はべ)る

千歳ふる小松ならねど引きかねつ
深く寝入れる君がたもとを

寝入りぬる君をばいかにうらむらむ 
こずえに出づる秋の夜の月



耳を切る

白上の峰で、仲間とともに瞑想し充実していた日々。
そこに突然の出来事が起こります。
明恵は自分で自分の右耳を切り落とすのです。
どうしてでしょうか。

当時、明恵は瞑想の合間に白上の峰から里に下り
修行生活を維持するために乞食(こつじき)をしていました。
その時、明恵の眼に映ったものは・・・・・。
それは、武家政権下での地頭と荘園領主の利害の狭間で
虐げられ収奪される農民の姿。
後年の農民たちの訴状が残っています。
明恵が白上の峰で修行していた時から80年ほども経ていますが、
当時のことが推測できるものです。
その中から訴状第四条の文面には、

「おまえらがこの麦を蒔かないのなら、
(おまえらの)妻子どもを牢に入れ、
耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼のようにし、
縄で縛って痛めつけるぞ」
と。

(黒田弘子氏研究の
『ミミヲキリ ハナヲソギ―片仮名書百姓申状論―』「結び」から)


「耳を切り、鼻を削ぎ」という言葉は、
当時の地頭たちが農民を恫喝するときの常套文句だったようです。
それは、身体に苦痛を与えながらも、
農民たちを働かせることができるからです。
おそらく乞食の途中に、
このような現実に出合ったのかもしれない明恵。

彼は農民の苦しみを思い、悩み苦しんだことでしょう。
まして、この白上に来て3年目の建久8年に
事実上の地頭となる豪族湯浅一族に属する者です。
そして、その苦悩の果てに、
「地頭の農民に対する罪責を、自らに背負い、
農民の痛みを自分の身に受け、刻印づけようとして、
耳を切り落とした」
のです。

最初は、眼を抉(えぐ)ろうと考えますが、 
それでは盲目になり経文が読めない。
では鼻を削ぎ落とそうか。
いや鼻水が垂れて経文を汚してはいけない。
手を切ると印を結べない。
耳ならばどうだろう。
耳は穴だけになっても不便はないと。

「血はしりて本尊ならびに仏具などにかかれり、
その血今にも失せず」


『行状』に記されたその時の様子です。
明恵は、
「仏眼仏母像の前で、右の耳を仏壇の脚に結びつけ、
剃刀を取って切り落とした」
のでした。

徹底した生き方を貫こうとする明恵。
「耳を切る行為は、仏眼如来の前での決意表明であり、
契りであり、かつわが身への刻印」
です。
それは、大悲の心を持って生き抜くことへの・・・・・。

その時、明恵の考えを示す独白が『行状』に載せられています。

悲しむべきことに、
我らは春に花と戯ぶれ秋には果物を喜び食し
「ただ世間五欲の味を貪る」ばかりで、
一体いつ「無上甘露(かんろ)の正法を感じて、
あくまで法味を味はう春秋に逢ふべき」。
また、頭を剃り黒い僧衣をまとうのは、
如来の教えに従って、驕慢(きょうまん)な心を捨て
「身心を軽賤(けいせん)」がためであるにもかかわらず、
むしろ僧形を誇り「その頭のきらめけるを心よくし、
法衣を著せるもますますその雑色のてれるに奢(おご)る」。
我ら如来の本意に背く思いを抱くのであれば、
僧刑さえも不十分であり、志を固くして、
身をやつし如来の跡を踏むことのみを思う。


このように考え、思い切った行動をとる24歳の明恵には、
生きる目的が明らかにあり、それを信じて形に現そうとする
心と行動力が育まれていたのでしょう。
今回の神護寺を出て白上の峰における修行と
仏眼仏母像の前で耳を切る行為は、
明恵の人生にとって、もう一つの大きな意味を持っていたのです。
そのことは次回にいたしましょう。

つづく





資料:
『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著 大学教育出版
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著 講談社
『名僧列伝』紀野一義著 講談社学術文庫
『明恵上人』白州正子著 新潮社
『明恵上人集』久保田淳 山口秋穂 校注  岩波書店


posted by 事務局 at 14:59| Comment(0) | 明恵
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