夢はよく見ますか。
子どもの頃はよく見ましたね。
最近は、意識していないせいか、
目覚めた時に夢を記憶していることも少なく、
あまり見なくなったような気がしています。
その夢についてですが、
夢を大切にし、自分の見た夢の記録を19歳より書きとめ、
60歳で亡くなる1年前まで記録し続けた人がいました。
その人の名は明恵上人(みょうえしょうにん)。
その夢の記録は、『夢記(ゆめのき)』として伝来されています。
膨大な夢を記録し、「人生を夢と現実の織りなす絵巻物」のように
生きた人です。
その生涯は、
8歳で、父母を亡くし、
13歳で、「年すでに老いたり、死なむとする事も近づきぬ」といい、
狼に自分を食べさせようと墓場に行き、
16歳で、出家し、
18歳で、釈尊(しゃくそん:ブッダの尊称)の遺子たることを自覚し、
19歳から夢の記憶を書き残し、
24歳で、右耳を自分で切り取り、
30歳で、釈尊の生まれた国天竺〔インド〕行こうとし、
34歳で、後鳥羽院より高山寺の地を賜り、
49歳の時に起った承久の乱では、
北条方に追われた多くの人の命を救い、
後に鎌倉幕府の執権となる北条泰時と対面し、敬われるようになり、
51歳の時、戦乱で家族を亡くした子女のため善妙尼寺を建て、
60歳で、大往生をとげた名僧。
今回は、その明恵上人の生き方を考えてみましょう。
その人生から学ぶことも多いと思います。
その1 幼年時代
明恵は、承安3年(1173)紀州に生まれました。
父は平重国(たいらのしげくに)といい、
高倉院の武者所に仕えていた武士です。
母は紀州有田郡一帯に勢力を持っていた豪族・湯浅宗重の娘。
幼名は薬師丸、生まれる前から男であったら、
将来は神護寺の薬師仏に参らせ仏弟子にしょうと考えていた母が
名付けたといわれ、両親の愛を受けて成長しました。
しかし、明恵が8歳になった時、大きな変化にみまわれます。
治承4年(1180)正月に、母が病気で亡くなってしまうのです。
その8月、源頼朝が伊豆で挙兵し、源平の争乱が始まりました。
9月、父は、京都から上総(かずさ)の国へと向かいます。
そして、『明恵上人行状』には、
「源平の乱の初め、
上総の国にして源氏のために誅(ちゅう)せられ畢(おはん)ぬ」と。
父・重国は源氏と戦いで戦死してしまったのです。
戦争とは本当に悲しいものですね。
重国は母のいない2人の幼子を残し、
どのような気持ちで死にのぞんだのでしょうか
「誅せられ」という言葉には、戦闘においてではなく、
捕縛されて死んだかもしれません。
このことは、幼い明恵の心に深い傷として残っていくのです。
父母に死別した明恵は、母方の叔母にひきとられます。
叔母は明恵を我が子のようにして愛情をそそぎました。
しかし1年後、その叔母とも別離の時がやってきます。
湯浅一族は明恵を僧籍に入れることを決めたのです。
明恵は、平氏の武士として死んだ重国の子。
源氏の旗をかかげる湯浅党のもとで武士として育てることは
無理なことだったのでしょう。
神護寺へ
京都に近い高雄山神護寺には
明恵の叔父(母の兄)である上覚(じょうかく)がいました。
上覚は、「神護寺の復興を使命とする文覚の一番弟子」だったのです。
その叔父上覚の導きによって、明恵は京都の神護寺に入山します。
運命とは過酷なものです。
この神護寺の文覚こそ、頼朝に挙兵を勧めた人なのですから、
いわば、父の仇なのです。
まだ幼い明恵でしたが、人生の重要な節目がやってきたのです。
9歳の明恵は、叔母の家を出て、高雄山神護寺に向かいます。
その道のりは生涯忘れられないものだったでしょう。
「生年九歳のとき、八月のころ、高尾山にのぼる。
親類にはなるる事かなしく覚えて、泣く泣く馬に乗りて登山す。
鳴滝(なるたき)河をわたるに、その馬あゆみあゆみ水を飲む。
心に思はく、この馬だにも人の心を知りて行けとこそ思ふらめとて
立ち留まらずしてあゆみあゆみ水を飲む」
親類から離れることが悲しくて、泣く泣く馬に乗る幼き明恵。
どうして自分は泣いているのか。
馬でさえ人の心を知って立ち止まらないで歩みながら水を飲むのに、
自分は人の心を知るこの馬よりおとるではないか。
はやく尊い僧になって一切衆生(しゅじょう)を導かねばならないのに・・・・・。
「我れ、親類の後生(ごしょう)たすからむがために
法師になして尊とからむとす。
然(しか)ればその志を知りて尊とかるべきに、
何ぞこの馬におとるべき。
今は法師になりて尊く行ひて親類より始めて
みな一切衆生を導引(みちぎ)かむと思ふ願いをおこす。
その後類親(るいしん)の恋しさもうせぬ。
尊とからむことをのみ思ひき。
かくの如く思ひつづけて高尾にのぼりつきぬ。
すなわち上覚上人に付きて倶舎頌(くしゃじゅ)を受け始む」
わずか9歳の少年が、
「早く出家を遂げて、縁ある人々をはじめ一切衆生を
あまねく導引こうと思う願いをおこす」とは!
それは、まだ幼き明恵が、悲しみに耐え、
親類縁者、そして亡き父母への激しい「恋慕の心」を、
仏道修行への力に転じていく心構えをみせているのです。
これには叔母の影響が大きかったようです。
明恵の心に刻まれた叔母の声、「法師になりて尊く行ひて」など、
幾多の言葉が、明恵の心に鳴り響いていたのでしょう。
こうして明恵は幼き日の最大の試練を乗り越えていくのです。
叔母は、その生涯を通して明恵を見守りつづけ、
夫が亡くなった後には自らも出家し、旧宅を寺にして、
草庵をつくり、明恵に施与したとのことです。
母亡き後、このような叔母がいて本当によかったですね。
父母への想いと学び
少年明恵は、仏教の教えを熱心に学びました。
しかし、亡き父母を思う心はやむことがなく、
「犬や鳥を見ても、もしやわが父母の生まれ変わりでは
ないかと思い大切に敬い」、
またあるとき、
「無意識に犬をまたいだ時、
もしかしたら父母ではなかったかと思って、
引き返してその犬を拝んだ」そうです。
そして、「戯(たわむ)れ咲(わら)ふ」ということまで
意識的に慎んだのです。
それも先に逝った父母の苦しみを思ってのこと。
「父母におくれたること日夜、朝暮に思ひ忘る時なし、・・・・・
戯れ咲ふことあるにも、
もし父母三途に生まれて重苦をもうけむに、
これを助けざらむさきに、
何事を心よくしてか戯れ咲ふべき、(略)」
尊き僧になって父母を助けんとする健気な少年がそこにはいます。
父母への愛は人生にとって本当に大切なものですね。
釈尊という慈父との出会い
この頃、明恵に仏教の開祖釈尊にたいする
激しい「恋慕の心」が生まれます。
「釈尊は我等が慈父なり」
父母を想う悲しみの中、
「慈父としての釈尊との内面的な出会い」をはたす明恵。
明恵の心は、釈尊への想いで満たされていきます。
それは、
「我、親類の後生たすからむがために法師になして尊とからむとす」
「もし父母三途に生まれて重苦をもうけむに、これを助けざらむ」
という強い使命感があったからこそ釈尊と出会えたのでしょう。
明恵は自分の進むべき道を釈尊に見いだしました。
「仏の深い真意をたずねるための勉学」は、
「仏・釈尊との心のきずなを結ぶための通路」でもあったのです。
少年の危機
明恵の勉学は進み、尊き法師の道が見えてきたようでしたが、
12歳の頃、彼の心に影が生じます。
「十二、三歳の時、高尾を出(い)でむと思ふ事ありき」
12、3歳の時、行く当てもなく、神護寺から出ようとしたのです。
そして、ある夜、夢を見るのです。
寺を出て、三日坂まで来ると、
八幡大菩薩の使いの大蛇や蜂が出てきて留めたので、
これは未だその時期ではないと思い直し、
引返した所で目が覚めたということです。
明恵は、なぜ神護寺から去ろうとしたのでしょうか。
そして、きわめて深刻な事態に陥ります。
「十三歳の時、心に思はく、
今は十三になりぬれば、年すでに老ひたり。
死なむとする事も近づきぬ。
何事をせんと思ふとも行く程行きて営むべきにあらず。
同じく死ぬべくは、仏の衆生のために命をすて給ひけむが如く、
人の命にも代はり、とら狼にも食われて死ぬべしと思ひて、
その心を試すがために、倶舎頌(くしゃじゅ)ばかり手に握りて
人にも知られずして、ただ一人五三昧(ござんまい)〔墓場〕へ行きて
とどまれる事ありき。
かたはらに物の音せしかば、すでに狼の来たるかと思ひて、
彼(か)の薩捶(さった)王子の餓虎(がこ)に身を施しが如く、
我もまた今夜、狼に食われて命を捨(す)つべしと思ひき。
釈尊僧祇(そうぎ)〔教団〕の昔の修行を思ひつづけられて
あはれなりしかば、一心に仏を念じて待ちいたりしかども、
別の事なくて夜もあけにしかば、
遺恨なるように覚えて還(かへ)りにき」
明恵はどうしたのでしょう。
何があったのでしょう。
仏の道を捨てるのではなく、どうせ死ぬなら他の命を救わんと、
薩捶(さった)王子の餓虎(がこ)の教えをまねて、
飢えた狼にわが身を食べさせ、命を捨てようとするのです。
それにしても、
13歳にして、「年すでに老ひたり」とは・・・・・。
その意味するところは、次回にいたしましょう。
つづく
資料:
『明恵 夢を生きる』 河合隼雄著 講談社
『華厳宗沙門 明恵の生涯』 磯部隆著 大学教育出版
『明恵上人』 白州正子著 新潮社
『名僧列伝』 紀野一義著 講談社学術文庫
『明恵』 田中久夫著 吉川弘文館
『明恵 遍歴と夢』 奥田勲著 東京大学出版会