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2010年04月30日

第八回 仏陀 (ブッダ)



その2 修行者ゴーダマ・シッダッダ

またわたくしは一日に一食を摂り、
あるいは二日に一食を摂り、・・・・・
七日に一食を摂った。
このようにして、わたしは半月に一食を摂るにいたるまで、
定期的食事の修行に従事していた。
わたしは野菜のみを食し、
あるいは稷(きび)のみを食し、あるいは・・・・・
またわたしは森の樹の根や果実を食し、
あるいは自然に落ちた果実を食して暮らしていた。

「マッジマ・ニカーヤ」『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二著より

人生の真理を求め、29歳で出家したブッダ。
本名ゴーダマ・シッダッダ。

苦行にはげむブッダの姿が、等身大の彫刻として
ラホール博物館(パキスタン)に所蔵されています。
写真で見ると、やせ衰えてあばら骨もくっきりと、
血管さえも浮きだしています。

今回は、ブッダの修行の一端にふれて、
“生きる”ということを、考えてみたいと思います。


真理への遍歴

出家したシッダッタは、遍歴修行者となりました。
まず、アーラーラ・カーラーマと
ウッダカ・ラーマプッタという仙人を訪ねます。
その修行は、「無念無想の深遠な境地に至る瞑想法」
すぐさまその修行を体得しましたが、
その修行法に満足することはできませんでした。
瞑想から覚めるとどうなるか。
心はもとの状態にもどり、
ふたたびさまざまな煩悩が起こってしまうのです。
シッダッタは考えます。
煩悩の起こる根本の原因はなにか、と。


苦行へ

シッダッタは、修行者たちが集まり、
さまざまな苦行を行なっている森に入りました。
それは、ネーランジャラー河のほとりのセーナー村。
緑の木々があり、人影も少なく、静けさが漂う地でした。
シッダッタは苦行に身を投じます。
身心を賭けたきびしい実践の中から、
安らぎの境地へ突き抜けようとしたのでしょう。

苦行は、古代より宗教者が行なってきた修行方法の一つで、
断水、不臥(ふが)、断食、調息、不眠、特定の身体的ポーズを長時間保つことなど、身体をきびしく抑圧し、
肉体に苦痛を与えることにより、精神の浄化をはかるもの。
その原語「タパス(熱)」が示すように、
その結果として偉大な力を生じ、
奇跡を起すものと考えられていた。

『ブッダ』監修・奈良康明より


まず、心の乱れを抑える苦行を始めました。
どのような苦行なのでしょうか。

座して歯をしっかりと噛み締め、
舌を上顎につけて微動だにしないもので、時間がたつにつれて、頭を大石で押さえつけられたような苦痛が忍び寄ってくる。
苦痛から逃れようとする心の乱れは凄まじいまでに
激しくなってくるのだ。

『釈迦の本』学研より


苦痛を起こし、それに耐える力を・・・・・。

暑い日も、寒い日も、わたしはただ一人、
聖なる〔 真実 〕を求めて、裸で、火もなく、
おそろしい森に住む。

『中部経典 十二経』


肌を包む布は、ゴミの山や火葬場で拾い集めたもの。
深夜に坐るのは、野獣がうろつく墓場。
屍の骨が寝床。
牛飼いの少年たちがやって来て、ゴミを身体にまき散らす。
両耳の穴に木片を突っこまれる。
しかし、怒ることもなく、
心の平静に住する行をおこなうシッダッタ。

何ごとにも動揺しない心、
自我にとらわれることない心。
生の真実を求める修行には、
「私が」とか、
「私のもの」という自我はない。
心の平静を保ちつつ、自我を超えたものに向かうシッダッタ。

肉が落ちると、心はますます澄んでくる。
わが念(おもい)を智慧と統一した心とは
ますます安立するにいたる。
わたくしは安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、
わが心はもろもろの欲望にひかれることはない。
見よ、心身の清らかなことを。

『スッタニパータ』


月日が流れ、
年が過ぎました。
苦行を重ねて6年。
しかし、まだ悟ることがなかったシッダッタ。

ある朝、衰弱した身体をひきずり、
苦行林の近くに流れるネーランジャラー河にたどりつくと、
水で身を浄め、ニャグローダ樹の下に坐りました。
伝説のよると、そこで村の娘スジャータの捧げる乳粥を飲んで
元気を回復したといわれます。

こうして、シッダッタは苦行をはなれ、独自の道を歩みだしました。
答えを求め、新しい境地を開くために・・・・・。


菩提樹の下で

シッダッタは、しばしの休養をとり、
断食で衰弱しきった体力の回復を待って、
ガヤーの町外れに行きました。
一本のアシュヴァッタ樹をみつけたシッダッタは、
この樹を次の修行の場所ときめ、深い瞑想に入ったのです。
古来、この樹は神々が宿る霊樹として知られていました。
ブッダがこの樹の下で悟りを開いたので、
一般に菩提樹という名で呼ばれています。

この樹が、夢の島熱帯博物館にあると聞き、出かけてみました。
ありました、インド ボダイジュ
そばに、ムユウジュ(無憂樹)の花が咲いていました。
シッダッタの母マーヤーがこの花を手にとろうとしたとき、
急に産気づき、シッダッタが誕生したといわれています。
この日本で咲く美しいインドの花!
(ムユウジュの原産地はインド、東南アジア)



覚醒の日

身心のすべてを賭けての求道。
その修行が成就する日がやってきたのです。

日が暮れると、瞑想をいっそう深くして精神を鏡のように
研ぎ澄ませた。瞑想が瞑想を生み、真実が真実を導き出す。

『釈迦の本』学研より


どのような真実が導き出されたのでしょうか。
そのとき、シッダッタ(ブッダ)に何が起こったのでしょうか。
成道の体験とは!
答えは簡単ではないとのこと。
『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二著では、
「答えは必ずしも簡単ではありません。
なぜならこの成道の体験は、ブッダの人格の深い秘密の部分に根ざしているからです。どうしても論理や経験則では解けない
謎の部分といっていいでしょう」
と。
でも、すこしは知りたいと思います。
そこで、『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二著を手元におき、
考え、感じ、想像してみましょう。

ただ、この体験が、ブッダの人格を根底からひっくり返し、
それまでの人格とは百八十度の大転換をきたした。


成道の体験によって、百八十度の大転換をした人格。
ここでいわれる人格とは、自己とは、どういうものなのでしょう。

人間の人格の中心にはやむにやまれぬ生存への執着があり、それを中核(コア)としてさまざまな欲求をのばし
世界像を形造っています。

人間は根元的な生存欲を中核とし自己を構築しています。


根元的な生存欲がさまざまな欲求や願望を生みだし、
自己を中心とした世界をつくりあげているということですね。
それは、自分に都合のよい世界像になりがちです。
その世界像がひとりよがりのものになってしまえば、
他との争いにまでなりかねません。
人がもってしまう苦悩もまた生存欲に根づいた妄執や執着から
生みだされたものです。
私たちの見ている現実とは、
自分自身の欲望がつくりあげた仮構の世界像だとしたら・・・・・、
私たちは「ありのままの世界」を見てはいないのです。

ブッダも人間である以上、老病死の苦悩を背負っていました。
この苦悩は深く生存欲に根づいているのです。


覚醒の日、シッダッタ(ブッダ)の内部で起こったことは、
自らの生存欲の中核を打ち砕いたこと。
自己の中核を打ち砕けば、
それまでの悩み苦しんだ自己は消滅してしまいます。
自己が消滅すれば、
自己の生存欲によってつくりだされた仮構の世界(現実)は、
壊れ滅してしまいます。
そうすれば、そこには「ありのままの世界」
ありありと目の前にあらわれるのみです。
それは無我の体験です。

原始仏典の『ウダーナ』には、成道の過程が
初夜(夕方)、中夜(夜中)、後夜(明け方)の詩になっています。

〈初夜の偈〉
努力して思念しているバラモンに、
もろもろの理法(ダンマ)が現れるならば、
彼の疑惑はすべて消滅する。
原因〔との関係をはっきりさせた縁起〕の理法を
はっきりと知っているのであるから。

〈中夜の偈〉
努力して思念しているバラモンに、
もろもろの理法(ダンマ)が現れるならば、
彼の疑惑はすべて消滅する。
もろもろの〔 縁 〕の消滅をはっきりと知ったのだから。

〈後夜の偈〉
努力して思念しているバラモンに、
もろもろの理法(ダンマ)が現れるならば、
かれは悪魔の軍勢を粉砕しているのだ。
あたかも太陽が天空を輝かすようなものである。

「理法(ダンマ)があらわれる」! それは、悟りを得たこと。
今までの悩み苦しみは、理法を悟ることにより
吹き飛んでしまったのです。
悟りを得たのです。
悪魔の軍勢を粉砕し、太陽が天空を輝かすのです。
シッダッタの心は晴れわたりました。

悟りを開いて覚者となったゴーダマ・シッダッタ。
そのとき、35歳でした。



参考文献は次回参照
【仏陀 (ブッダ)の最新記事】
posted by 事務局 at 11:32| Comment(0) | 仏陀 (ブッダ)
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