2016年05月01日
第2回 粽と柏餅
端午の節供のお菓子といえば、粽と柏餅ですね。
平安時代の『倭名類聚抄』に、「知萬木(ちまき)」は「菰葉を以て米をつつみ、灰汁を以て之を煮て爛熟させ、五月五日之を啖(くら)う」(原漢文)とあります。ずいぶん古い時代から五月の節供の食べ物だったことがわかります。現在の端午の節供は江戸幕府が定めた五節句から広まったものですが、そのもとは平安時代の宮中の年中行事の一つ端午の節会に由来します。旧暦五月のこの季節は、梅雨も近づきカビが生え、害虫や毒蛇が這いまわる季節であったため、平安京の貴族たちも、菖蒲や蓬草を屋根に刺したり、薬草類で作る薬玉を身に着けたり、菖蒲酒を飲み粽を食べて邪気をはらいました。粽に用いられる茅や笹には抗菌性があることがわかっていますが、むかしの人には経験的に知られていたようです。
端午の節供の粽は、江戸時代になるとさかんに作られ賞味されていたことがわかります。元禄10年(1697)刊行の『本朝食鑑』は、粽には4種類あると記しています。
(1)蒸した糯米(もちごめ)を搗いて餅にし菰葉(まこものは)で包み乾した燈草(とうしんぐさ)で縛り、釜でよく煮てつくるもの。
(2)京都の川端道喜が考案した道喜粽と呼ばれるもので粳米(うるち)の米粉の細長いだんごをくま笹で包んで蒸したもの。禁裏にも納められて内裏粽とも呼ばれました。川端道喜は京都の和菓子の老舗で知られ、現在は米粉ではなく吉野の葛が用いられています。
(3)蒸した糯米(もちごめ)を搗いて餅にしたものを稲草(わら)で包んで蒸した黄白色の飴粽。
(4)駿州朝比奈の産で、朝比奈粽と呼ばれるもの。山茶花の樹根を焼いた灰汁に糯米を三昼夜浸してから蒸して搗いた餅を「藁のしべ」で包んで巻いた琥珀色のもの。
このように、すでに江戸時代にはさまざまな粽が作られ、その種類が話題となるほどでした。
その一方、柏餅については歴史上の記録が少なく、徳川譜代の内藤清内(1555−1608)の「天正日記」の天正18年(1590)7月23日の記事に「かしわもち」とあるのが古いと考えられています。しかし、その「天正日記」は偽書だという説もあり複雑です。江戸時代前期の仮名草子「酒餅論」には端午の節供の粽や柏餅のことが書かれていますので、おそらく寛文年間(1661⊸73)には柏餅があったといってよいでしょう。
記録からだけだと、このように柏餅は新しいと思われますが、端午の節供と粽や柏餅の歴史を知らせてくれるのは文献記録だけではありません。日本各地で伝えられている五月節供の食べ物の民俗伝承の実際が参考になります。文化庁編『日本民俗地図』や(財)農山漁村文化協会『日本の食生活全集』全50巻などによると、東北地方から北陸地方へは笹の葉で糯米(もちごめ)を三角形に包んで煮るなどした笹巻や三角粽の例が多く、それは関東地方では柏餅、東海から近畿地方では柏餅と粽が多いことがわかります。中国地方から四国地方、そして九州地方では、粳米の上新粉を蒸して搗きこね、中に小豆餡をくるんだものが多いようです。名前は粽、柏餅、笹餅などですが、柏の葉がない地方なので、サンキライ(サルトリイバラ)の葉で両側から包む小豆餡入り餅で、地方によって「しば餅」とか「かからだご」などと、呼ばれています。
端午の節供は、邪気をはらい健康を願う行事です。その節供の大切な食べ物が、笹巻、粽、柏餅なのですが、地方ごとにそれだけ多く伝えられているということは、記録にはなくともそれなりに長い歴史をもつ食べ物であることがわかります。むかしの人は笹や茅や柏葉の抗菌作用を経験的に知っており、その色彩と芳香を楽しむとともに厄除けの効験があるものとして大切にしていたと思われます。折口信夫は、三月や五月の節供などは、いずれも季節のめぐりの中で人びとの生命力が弱まり邪霊や悪霊に脅かされる一種の危機に生命力を強化するための行事として伝えられてきたのだといっています。正月の鏡餅や屠蘇、三月の菱餅や白酒、五月の粽や柏餅や菖蒲酒、いずれも米から作る季節にあわせた餅や酒で、生命力を強化するためのお節供だったのです。粽、柏餅は新たな生命力になるのだ、という健康への思いで味わってみるのもよいのではないでしょうか。
文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)
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