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2014年05月01日

第17回 室町時代 能『清経』

能を鑑賞する楽しみは、能楽師・観世寿夫氏が述べているように、音と動きによって、微妙で深遠な美しさに身をゆだねることではないでしょうか。
能を楽しむには、この芸能を愛した武将たちと同じ立場になって観るのもよいことかもしれません。南北朝、室町から戦国時代にかけ、いつ命をなくすかもしれない戦乱の日々。そういった合間に、能を観て感涙にむせんでいた武将たち。
例えば、源平の戦いを題材にした『清経』。
主人公(シテ)は、九州の柳ヶ浦で身を投げて亡くなった平清経の霊。脇役(ワキ)は、その妻。地謡(ぢうたい)は、その妻の「寝られぬ」夜に、恋しい夫への想い・哀れさを謡う。

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地謡  ♪手向け返して、夜もすがら、涙とともに思ひ寝の、夢になりとも見え給へと、寝られぬに傾くる、枕や恋を知らすらん。枕や恋を知らすらん。
シテ  ♪聖人に夢なし誰あって現と見る、眼裏に塵あって三界窄(すぼ)く、心頭無事にして一床寛し、げにや憂 しと見し世も夢、辛しと思ふも幻の、いづれ跡ある雲水(くもみづ)の、行くも帰るも閻浮(えんぷ=現世)の故郷に、たどる心のはかなさよ。
“うたた寝に 恋しき人を 見てしより
夢てふものは 頼み初(そ)めてき”

地謡の妻の心を謡う内容は“夫のかたみを返し、一晩中泣きあかす。夢でもいいから現れてほしい。寝ることもできず傾ける枕。その枕が、私のこの恋しい想いを伝えてくれるでしょうか”。その地謡の途中に主人公シテが舞台に登場し、
“聖人は夢を見ない。そして誰だって、夢を現(うつつ)と思うものか。眼の奥に塵があって、広い世界も狭く、心のなかに迷いがなくて、狭い床も広い。じつに、悲しいと見たこの世も夢、つらいと思ったこの世も幻。どんな雲も水も、跡を残さずに流れさる。ああ、ふるさと、わたしは行き、わたしは帰る。ああ、生きている人間の世界、わたしはまた姿をあらわす。何とはかないことだ、この心”。
※歌詞及びシテの謡の現代語訳:
『日本美 縄文の系譜』宗左近著(新潮選書)


「枕」という言葉が、舞台上で謡われた時、武将たちは、自分が愛している女性のことを思うのです。そのとき、「枕」は枕ではなく、武将たちの愛の情念そのもの。それがわかると、自らが武将のような気持で『清経』の舞台を見つめることができます。武将たちは、能の中に出現する人物の情念を、曲の持つ音楽効果と共に、夢のように味わったことでしょう。私たちも、能に身をゆだねて微妙で深遠な美しさを味わってみるのもいいのではないでしょうか。

資料:
新訂増補『日本歌謡史』高野辰之著(五月書房)
『日本美 縄文の系譜』宗左近著(新潮選書)
『観世寿夫・世阿弥を読む』観世寿夫著(平凡社)
posted by 事務局 at 10:59| Comment(0) | 日本歌謡物語
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