まだまだ寒さが厳しいですが、2月に入り季節は春に向かっていきます。
今回は、近衛天皇久寿元年(1154)、疫病をはやらせる神を追い払うための『夜須禮歌(やすらいうた)』をご紹介します。
この歌は、前代以来、三月の花の散るころに行われた鎮華祭に歌い舞われたもので、寂蓮法師の筆といわれる歌詞は下記のようなものです。
♪花や咲きたるや安らや
花や咲きたるや 夜須禮花や。
花や咲きたるや やすらい花や。
急 (急に乱調子になること)
ヤ富草の花や やすらい花や
ヤ富をせばナマへ やすらい花や
ヤ富を御倉の山に やすらい花や
ヤ餘(あま)るまでナマヘ やすらい花や
ヤ餘(あま)るまで命を乞はば やすらい花や
ヤ千代に千代添えへや やすらい花や
ヤ此の殿をナマヘ やすらい花や
ヤ此の殿をなかぬの関と やすらい花や
ヤいはしめてナマヘ やすらい花や
ヤいはしめて千代ふる神の やすらい花や
ヤ御夜殿(みよとの)にせむや やすらい花や
ヤさけ苗小苗 ヤ採る麿もやすら
ヤさけ苗小苗 ヤ引く麿もやすら
返 (返唱)
やさるもとたひに 鳥立つなりや
たどり立つなりや
今宵に来て初更(よひ)に来て
寝なましかば 鳥立たましや
たどり立たましや
今争はで寝なましものを
今思ひ出でて したら恋しや
(新訂増補『日本歌謡史』高野辰之著 五月書房より)
「やすらい花や」と願うように歌うのは、「花よやすらえ(散らないでくれ)」という祈願です。「富草」とは稲のこと。「ナマヘ」は、「祈まえ」という意味です。
また、苗の事が出てくるので、田植えをする時の歌でもあったのでしょう。
当時、桜花が咲き散る頃には疫病が流行ることが多く、人々は長寿を祈りながら歌い舞いました。『梁塵秘抄』では、あまりの騒ぎに禁止令まで出たと記されています。
正暦5年(995)には、京中に疱瘡が大流行し、病人や死者が多数出ました。当時、伝染病は疫神などの悪霊の仕業と考えられていたので、襲ってくる悪霊を鎮めるために御霊会と称し、祭を催したそうです。
長保(999〜1003年)の頃には、疫神を今宮に遷して、以来年々祀られることになりました。
春の初めに疫病をはやらせる神を追い払うため、現在も京都今宮神社で「やすらい祭」が催されています。
資料:
新訂増補『日本歌謡史』高野辰之著(五月書房)
新訂『梁塵秘抄』佐佐木信綱校訂(岩波文庫)
ණ
日本文化藝術財団 事務局長 伊達晟聴
花や咲きたるや 夜須禮花や。
花や咲きたるや やすらい花や。
急 (急に乱調子になること)
今宮やすらい会の囃子言葉ではないです。
上記の言葉は,言ういません。
それぞれの保存会により,囃子言葉は相違します。
本文の囃子言葉は,ミックスになっています。
今宮やすらい会 北川敏彦