
勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ
隣のおばさん ちょっと来ておくれ
鬼が怖くて行かれない
布団かぶって ちょっと来ておくれ
布団ボロボロ行かれない
お釜かぶって ちょっと来ておくれ
お釜底ぬけ行かれない
あの子がほしい
あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん
相談しよう そうしよう
決まった ○○ちゃんがほしい
ジャンケンポン
勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ
この“わらべうた”は、
もとは京都から昭和初期に全国に広まった
「子取り遊び」の一つです。
上記の歌詞は秋田で採取されたもの。
歌詞は考え深いものがあります。

『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著には、
「花」を「子ども」に、
「いちもんめ」を通貨の「一匁(いちもんめ)」に
置き換えてみます。
この歌全体が「間引き」による人買いへの人身売買、
そして人買いが遊郭へ卸す時の駆け引きを
綴っているとしたらどうでしょうか。
と述べられています。
これはどうしたことでしょう。
“わらべうた”というものは、
ときとして大変な意味を持つものなのですね。
どうしても伝えたいことがあるとき、
やむおえぬ想いがあるとき、
人々は何かに託してその想いを
伝え残していくことを考えるのでしょう。
この「花いちもんめ」は、
江戸時代の哀しい思い出かもしれません。
江戸時代、富士山の大噴火や日照りによる
飢饉や飢餓が続きました。
農民は自分の子を餓死させるよりは
働きにだしたほうがよいと考え、
多くの子どもが奉公に出されました。
実際は「年貢のかた」に子どもを持って
いかれたのです。
幼い女の子の多くは子守りとして働き、
その子たちが成長して十二、三歳になると、
女中奉公にあらためて出るか、
女郎として売られていきました。
一握りの子どもは奉公先から嫁にいかせてもらえました。
奉公に出された子どもたちは、家族が離散したり、
実家はあっても借金が返せないまま死ぬまで奉公しつづけ、
生涯親の顔を見ることはできなかったといいます。
このような境遇の子どもたちが、
自分が人買いに連れられて売られていく状況を、
わらべ歌にして伝承されたと推察されています。
『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著より

もう一度歌詞を見てみましょう。
勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ
それが、
「花」を「子ども」に、
「いちもんめ」を通貨の「一匁(いちもんめ)」に
置き換えてみると。
「子ども一匁」とはなんと哀しい言葉なのでしょう。
私たちの歴史の中で、飢饉などの大災害は
しばしば起こってきました。
今年3月の大震災とその津波による原発放射能汚染。
いつどのような災害がやってくるかもわからないのです。
「花いちもんめ」が歌われるようになった江戸時代、
日本は多くの飢饉に襲われました。
約260年間の間に、
130回程の飢饉があったといわれています。
2年に1回の割合です。
その3分の1以上(ほぼ40回)は、
東北地方で起こったのです。
その時、飢饉に苦しむ多くの人々。
哀しい歴史です。
その中でも三大飢饉といわれている飢饉があります。
どのようなものだったのでしょう。
それは、享保・天明・天保という年号のときに
起こりました。
享保の飢饉は、1732年(享保17)の夏、
イナゴの大群が瀬戸内海沿岸を中心に発生。
近畿から九州にかけて、稲に大きな被害を与えました。
飢えて苦しんだ人々は二百数十万人。
そして、なんと一万数千人が飢え死にするという悲惨さでした。
それとともに米価があがり人々は苦しみつづけたのです。
天明の飢饉は、1783年(天明3)。
その数年間、冷害・長雨にたたられたうえに、
浅間山(長野県)が爆発。
このため東北地方を中心に大飢饉となりました。
仙台藩(宮城県)では14万から15万人が、
南部藩(岩手県・青森県)では6万人余りの人が
亡くなったのです。
天保の飢饉は、
1833年(天保4)から4年余り続いた飢饉。
これも、冷害・長雨・風水害などの異常気象がもとで
米の収穫が半分以下に減り、
農作物が全滅に近い被害を受けました。
飢饉の悲惨さについて、『農喩(のうゆ)』という本に、
次のような意味のことが綴られています。
「奥州には、飢え死にした人がたくさんいます。
食べ物という食べ物は、何一つなくなってしまったためです。
人々は、牛や馬の肉はもちろんのこと、
犬や猫まで食べ尽くしてしまいました。
そのあげく飢え死にしていったのです。
ひどいところでは、四十戸余りあった村のすべての人が、
死に絶えてしまいました。
だれがいつ死んだのかもはっきりしません。
世話する人もいませんからほうりすてられた死体は、
鳥や獣のえじきになっている有様です」
悲惨の極みとはこのことです。
このようなつらい状況を生み出すのが飢饉なのです。
いま世界で大災害が起こったならば世界中の国々や
人々が援助の手を差出し、
ボランティアの人々も現地に駈けつけます。
ところが、江戸時代には信じたくないようなことが
ありました。それは「津留(つどめ)」というもの。
領主が「津留」を命じれば、
隣の藩の人たちがどれだけ困っていても、
米や麦などを送ることはできなかったのです。
当時は、藩は独立国のようなもの、
藩主は、隣の藩を救うより、
自分の藩のいざというときのために食料を取っておこうと
することが多かったのです。
なかには、飢えに苦しむ人々が領地にはいってくると、
自らの食料が減るのを恐れて
力づくで追い返してしまった藩もあったそうです。
そして、もっとひどいことをした藩もありました。
自分の藩の食料を自由に動かせないように「津留」を命令し
米の値段をつりあげるだけつりあげ、
大儲けしたしたというのです。
なんということでしょう!
では、飢えに苦しむ人々のために何ができたのでしょう。
こんなこともありました。
それは、「お救い小屋」というもの。
幕府や藩は飢饉がひどくなると人々のため、
一人当たり八勺(120g)ほどの米を薄い粥にして、
朝夕2回に分けて配ったりしたのです。
しかし、それも一時をしのげるだけのことでした。
それでもお救い小屋には何百・何千という人々が
集まってきたといわれます。
そして、天明・天保の飢饉の後には、飢餓への備えとして、
米などを蓄えておく倉として「郷倉」をつくることが増えました。
こうして、さまざまな“うた”の誕生した背景を考えると、
“わらべうた”には、日本の歴史や心の在り方が見えてきます。
☆
では、ふたたび哀しい思いをすることのない
幸せな世界がこの地球にやってくることを祈りつつ、
この「子取り遊び」を歌い楽しんでみましょう。

遊び方は、
前述の『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著では
次のようです。
A組とB組の二組に分かれて一列横隊に向き合います。
まずA組が「勝ってうれしい花いちもんめ」と歌いながら
B組に向って前進し、「・・・・・もんめ」に合わせて
足を蹴りだします。
A組に対抗してB組も同じように前進します。
その時A組は後退し、元の位置に帰ります。
歌いながらこの動作を繰り返していくのです。
「相談しよう そうしよう」の場面では、
相手の組の誰をもらうか各組で決めます。
そして「○○ちゃんがほしい」と相手に要求します。
人気のある子から引き抜かれていったように
記憶しています。
ここでの勝敗は、指名された子もしくは組の代表が、
ジャンケンで決着をつけるようになっています。
組の代表者がひっぱりっこして勝った方が、相手の組より
一人引き抜くという勝敗のつけ方もあるようです。
最終的には何度か「花いちもんめ」を繰り返し、
残った人数の多い組が勝ちとなります。
この歌は現代でも子どもや大人にも
人気を博しているようです。
友人に聞くと、大人になった今でも勤め先の同僚と
新宿御苑などで歌って楽しんでいるそうですよ。

資料:『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 いそっぷ社
『スーパー日本史』益田宗・中野睦夫 監修
古川清行著 講談社









































