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第九回 「春よ来い」[2012年02月01日(水)]


2月に入ると、すぐ3日には節分、
4日は立春の日となります。
豆まきして、鬼や災いを追い出して、
冬から春への折り目とするのです。

毎日寒い日がつづいていると、
春の来るのが待ち遠しいですね。

このような春への思いを“うた”にした童謡があります。
古来よりの“わらべうた”ではなく、
大正時代後期につくられたものですが、
春への思いを込めて歌ってみませんか。


「春よ来い」


春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている


作詞は、詩人相馬御風(そうまぎょふう/1883〜1950)。
早稲田大学校歌「都の西北」や「カチューシャの唄」を作詞。
作曲は、弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう/1892〜1952)。
『鯉のぼり』、『浜 千鳥』、『雀の学校』などを作曲。

「春よ来い」の“うた”では、

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが


と、みいちゃんが春よ来い、早く来いと歌い、
そのみいちゃんのモデルは、作者の長女といわれています。

あるきはじめた幼い子どもが
片言の幼稚語で歌うのは可愛いですね。

赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと

「じょじょ」とは、草履のことで、
「おんも」とは家の外のこと。

赤い鼻緒の草履をはいた女の子が
お外に出たいと、春の来るのを待っているのです。
うららかな春風の吹く日を楽しみにしているのですね。
なんと可愛いのでしょう。
この可愛さの中に、
雪国の人々の春への思いが託されていて、
歌う人、聴く人の心にその思いが響いてきます。
そして、

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の


家の前には桃の木があって、

つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている


蕾もみんな膨らみ、
早く咲きたいと、春の来るのを待っています。
想像力豊かなイメージで、
人も自然も一体化していて素敵です。
それこそ自他一如!

“自他一如”とは仏教の教え。
作詞した相馬御風は新潟県糸魚川市出身の詩人で、
早稲田大学講師を勤めた後、故郷に戻り、
良寛の研究に没頭しました。
私たちが親しく良寛さんを知ることができるのは、
相馬御風の功績だといえます。

良寛さんには、
春の日に子どもたちと楽しく遊ぶ詩があります。
春には少し早いですが、よき春の来ることを祈り
読んでみましょう。



冬ごもり  春さり来れば
飯乞ふと  草の庵を
立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと
手毬つく  ひふみよいなむ
汝がつけば 吾がうたひ
吾がつけば 汝はうたひ
つきて唄ひて 霞立つ
永き春日を 暮らしつるかも


そして、反歌は、


霞たつながき春日をこどもらと
  手まりつきつつこの日暮らしつ

こどもらと手まりつきつつこの里に
  遊ぶ春日はくれずともよし

“今は春べ”
と喜ぶ子どもの笑顔。

良寛さんも、手まりに加わって、

手毬つく  ひふみよいなむ
汝がつけば 吾がうたひ
吾がつけば 汝はうたひ


子どもたちの弾む心。
良寛さんの弾む心。

楽しさあふれる詩ですね。
良寛さんの過ごす越後の冬はさぞや寒かったでしょう。
長く、堪える冬。
春を迎える喜び。
人々の心は弾みます。
それは、
あるきはじめた みいちゃんも一緒でしょう。
私たちもみんなで“春を呼ぶうた”をつくれば
楽しいでしょうね。




資料:『糸魚川歴史民俗博物館ホームページ』
    『風の良寛』中野孝次著 集英社



【邦楽囃子コンサートのご案内】

明治神宮の杜の中で、邦楽囃子のコンサートを
行います。

日時:平成24年2月19日(日)
    13:30開場、14:00開演
場所:明治神宮 参集殿
出演:藤舎流家元 藤舎呂船社中

初めて邦楽囃子を聞かれる方、お子様にも
ご参加いただきたいと思っております。
詳しくはお問合わせください。

(公財)日本文化藝術財団
TEL:03-5269-0037

Posted by 広報 at 09:52 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第八回 「雪やコンコン」[2012年01月15日(日)]


雪(ゆゥき)やコーンコン
霰(あられ)やコーンコン
お寺の柿(かァき)の木に
いっぱいつーもれ
   コーンコン


冬の寒い日、天空から舞い降る白い雪。
子どもの頃、よく歌ったのは、
雪やこんこ 
霰(あられ)やこんこ
降っては降っては  ずんずん積もる

(略)

この歌は新しく作られた尋常小学唱歌の「雪」です。
その参考にされた歌が“わらべうた「雪やコンコン」”

「雪やコンコン」は京都で歌われていたもので、
記録によると、伝承童話のもっとも古いものともいわれます。
1108年のこと、「讃岐典侍日記」(天仁元年正月二日条)には、
幼い鳥羽天皇が「降れ降れこゆき」とうたった様子が
書かれています。

つとめて起きて見れば雪いみじく降りたり。
・・・降れ降れこゆきと、いはけなき御気はひにて
仰せらるる聞ゆる。


讃岐典侍(さぬきのすけ)藤原長子が朝早くに起きて、
庭を見れば、雪がたいそう降っているのですね。
すると、幼い鳥羽天皇が可愛い声で
「ふれふれこゆき」とおっしゃっているのが
聞こえてくるのです。
「いはけなき御気はひ」なんて、なんと可愛いのでしょう。
一千年前、京の都に降る雪の光景が見えてきますね。

兼好法師の「徒然草」(1330年頃)にも
「ふれふれこゆき」について述べられています。
それは第百八十一段、

『降れ降れ粉雪(こゆき)、たんばの粉雪』という事、
米(よね)搗(つ)き篩(ふる)ひたるに似たれば、粉雪といふ。
『たンまれ粉雪』と言ふべきを、
誤まりて、『たんばの』とは言ふなり。
『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。
 昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、
雪の降るにかく仰せらけれる由、讃岐典侍が日記に
書きたり。


そうですね、米をついて粉をふるうと、
まるで粉雪が舞っているように見えたのですね。
また、『たンまれ粉雪』というところを、
あやまって、『たんば』といったのは、
京の西北方に「丹波」があり、京の雪はその方から
降ってくるように思われたのからだそうです。
このように兼好法師も鳥羽院が幼いころ、
「ふれふれこゆき」とうたっていたのを知っていた
のですね。



昔から、雪の美しさを愛でることもあれば、
豪雪になって人々の生活を苦しめるのも雪なのです。

雪降る土地では、
常に人々の心とともにあった雪。
「雪やコンコン」も、お寺の「柿の木」が、
「松の木」(宮城・新潟・京都)や「梨の木」(宮城・長野・新潟)、
「山椒の木」(新潟・宮城・鹿児島)、「茶の木」(東北・茨城・
千葉・東京・静岡)、「背戸の柿の木」(石川)などの変化して
伝えられています。

また、宮城で歌われたものには、次のようなものもあります。

   雪コンコン

雪 コンコン 雨コンコン
お寺の屋根(やァね)さ 雪一杯(いッぺェ)たーまった
小僧(こぞ) 小僧(こぞ) ほろげ
和尚さんほろがねがら
         おらやーんだ


「ほろげ」のホロクは方言で、
「揺さぶっておろす」こと。
「おらやーんだ」は「わたしは嫌だ」の意味です。
和尚さんと小僧のやりとりでしょうか。
生意気な小僧ですね。
和尚さんがやらなければ嫌だなんて・・・・・。
でも、和尚さんは子どもたちに慕われていたのでしょう。
楽しく歌われていますからね。
  
福島では、雪を呼ぶ歌として

   雨コンコン(雪)
  
雨コンコン 雪コンコン
おら家(え)の前さ たんと降れ
     お寺の前さ ちっと降れ


雨コンコンと雪コンコンと歌われていますが、
この“うた”は雪を呼ぶ歌なのです。
家の前にたくさん降った雪で、
“雪だるま”をつくったり、
“雪合戦”をして遊んだのでしょうか。



同じような歌は愛知にもあります。

雨降りコンコ 雪降りコンコ
コンコの山に(お宮の松に)、
さっさと(ドンドと)かかれ


長野では、

雨降るコンコ 雪降るコンコ
お寺の裏の蓑も笠も持って来い来い


石川では、

雨コッコ雪コッコ
背戸の枇杷(びわ)の木にとまらんせ


尾張では、

雪ふれこんこ雨ふれこんこ

それぞれの土地に生きた人々の雪に込めた想いが
さまざまな言葉になって歌われているかと思うと
なんだか人恋しくなってきます。
どのような表情で歌っていたのかな?

東北地方にはこのほかに
雪の降るのを見ながら歌うものがあります。

  上見れば(雪)

上見れば 虫コ
中見れば 綿(わだ)コ
下見れば 雪(ゆぎ)コ


雪の降る姿をじっくりと見たことはありますか?
上のほうの雪は虫に、
中ごろの雪は綿のように見え、
下のほうはハッキリと雪。
上のほうの雪はじっくり見たことはありません。
今度、雪降る日に出合ったら落ち着いて見てみましょう。

このように雪のことを考えているうちに
一つの詩を思い出していました。
それは岩手県に生まれた詩人、宮沢賢治の詩。

   永訣(えいけつ)の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
(略)
わたしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみぞれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(略)
おまえがたべるこのふたわんのゆきに
わたしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に変って
やがてはおまえへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ


最愛の妹の死をまえにして歌うこの詩は
なんと美しく切ないのでしょう。
雪が兜卒の天の食に変わるとは!
兜卒の天の食とは、弥勒菩薩の住む兜卒天の食で、
衆生を救う弥勒の意思のエネルギーの源となる
という意味なのです。
それは、常に人々の役に立つために生きようとした
賢治の切ない思いなのでしょう。
“わらべうた”を歌い遊ぶ子どもたちもすぐに大きくなって、
賢治の詩を理解するようになるでしょうね。

子どもたちが雪降る日の寒さに負けないで、
雪遊びをしながら歌った“うた”が
大阪に残されています。
 
   雪ばな散る花(雪遊び)

雪ばな散る花 空(そォら)に虫が湧ァく花(わな)
扇 腰にさして キリキリッと
            舞いましょ
大寒 小寒 誰の甚平(じんべ)借って着よ


元気な子どもたちは雪を花にたとえて歌っています。
ときには幻想的な花にも見える雪。
チラチラ降ってくる小雪を見て、
空に虫が湧いて舞っていると。
シュールで美しい映像ですね。
子どもも大人も不思議に心とらわれる雪。
私たちは人生で何日“雪の降る日”に出合うでしょうか。

では、歌ってみましょう。
寒さに負けずに大きな声出して、

雪やコーンコン
霰(あられ)やコーンコン
お寺の柿(かァき)の木に
いっぱいつーもれ
   コーンコン




資料:『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 いそっぷ社
    『わらべうた・日本の伝承童謡』
             町田嘉章・浅野建二 編 岩波文庫
    『徒然草』西尾実・安良岡康作 校注 岩波文庫
    『宮沢賢治詩集』草野心平編 新潮文庫

Posted by 広報 at 00:25 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第七回 「お正月がござった」[2011年12月31日(土)]


明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。


今年は東日本大震災からの復興元年。
よりよき日本をつくりあげていくために
すこしでもお役にたつ活動をしていきたいと考えております。

年初にあたり、「わらべうた」に寄せる素敵な詩をご紹介しましょう。

「わらべうたに寄せる詩」 尾原昭夫

遊びは子どもの生命(いのち)という
そのあふれ出る生命の泉に
リズムがおどり
明るい歌声がはずむ

わらべうた
春の若草のように
つつましく しなやかな

わらべうた
道ばたの雑草のように
素ぼくでたくましい
その歌声

そこには
子どもたちの生命が 知恵が 心が
遠い祖先からうけついだ血のように
静かに 力強く 脈打つ

いま一度
その鼓動に耳をかたむけ
日本の子どもの
知恵と心を聞き出そう

いま一度
その生命の泉を
知恵を 心を
日本の子どもたちに伝えよう

        昭和十六年五月 子どもの日


“わらべうた”の歌声は、
子どもたちの生命の泉からあふれ出るのですね。
そういえば、子どものとき、
おもいっきり大きな声で“うた”を歌った時、
自然と元気が出て、明るい気分になったことを覚えています。
今年も楽しく“うた”を歌いましょう。



           ☆

“わらべうたの旅”は、はや七回目。
そのうたの数々は、私たち日本人の中で伝承され、
子どもの心や、大人の心、時代の心までも
あらわしてきました。

では、お正月の“うた”を歌ってみましょう。

第七回 「お正月がござった」

お正月がごーざった
何処までごーざった
神田までごーざった
何に乗ってごーざった
交譲木(ゆずりは)に乗って
ゆずりゆずりごーざった


正月、つまりは年神を擬人化して、
“お正月がごーざった”と、祝い喜ぶ“うた”です。

うたに出てくる交譲木というのは、
タカトウダイ科の常緑喬木。
その葉は、年の初めや、
その他の祝い事の飾りにつかわれます。

わらべうたの中には、正月にやってくる年神を人格化して
「正月つぁん」とかと呼ぶ“うた”がいくつかあります。
この正月つぁんは、有難いことに、羽子板を背負ってきたり、
餅を持ってきたりしてくれるのです。
それはとてもとても嬉しいこと。
子どもたちはお正月ならではの遊びを楽しみ、
美味しいご馳走を食べたりして過ごします。
正月に用意される「おせち」料理。
それは、神さまへの供物、捧げものでした。
黒豆は、「魔よけの黒」で、
「まめに暮らせるように」と食べます。
数の子は「春を告げる魚ニシンの子」。
そして小魚を甘く煮た「田作りの五万米(ごまめ)」。
小魚は米作りの肥料として豊かな実りをもたらすところから
五万米と命名されたそうです。
「たたきごぼう」も豊作と息災を願って食べるもの。
さらにハレの日の食べ物である「餅」。
それらは、わたくしたちに福をもたらす年神さまへの
捧げものなのです。

その正月(年神)さまは、交譲木(ゆずりは)や
白馬に乗ってやってくるといわれます。
山々を越えて、近くの山でちょっと一休みして、
そして、ゆっくり里に下りて来るとのこと。
それで待ちきれずに、迎えの歌を!
その発想は全国的に広まっていたそうです。

お土産を強調するものもありますよ。
お正月さまの土産の品々をいろいろ数えあげ歌うのです。

富山では、

正月さん(正月)

正月さァん 正月さん
何処までごォざった
くるくる山(やァま)の下(しィた)までごォざった
お土産なァんだァ
榧(かや)や搗栗(かァちぐり) 蜜柑に昆布
繭玉(まいだま)ふってごォざった

正月さァん 正月さん
何処までごォざった
くるくる山の下までごォざった
お土産なァんだァ
蜜柑搗栗 交譲木に垂藻(たわらも)
繭玉ふってごァざった


その他、次のような“うた”もあります。
栃木では、
「お正月ァんどこまで、坂東山の麓まで、
木ッぱのような餅しょって、油のような酒しょって、
ござった、ござった」

群馬では、
「お正月ァんどこまで、万丈山の腰まで、
赤い餅に白い餅を、松葉にさしてござる」
茨城では、
「お正月何処まで、ばんじょ山の陰まで、
土産持って来た、小豆餅、切り餅、笹葉にくるんで…」


お正月の食べ物をいっぱいあげて歌うのは楽しそう。
また、愛知では正月はええもんだと、
次のように歌いました。

正月はええもんだ
赤い“べべ”着て 羽子(はね)ついて
譲りの葉のよな餅食って
雪(ゆーき)のような“まま”食って
木片(こッぱ)のような魚(とと)添えて
正月は ええもんだ
正月 がーつがつ
がーつの処(とーこ)へ行ったれば
芋(いも)煮て 隠(かく)いて
蕪(かッぶら)煮て 突き出(だ)いた


どの“うた”も食べ物のことがよく出てきますね。
それには意味があるようです。
元旦は年神さまを迎え旧年の豊作と平穏を感謝する日なのです。
同時に、今年の豊穣と平安を祈願します。

そして、子どもたちがもらうのは年玉(年魂)です。
そのお年玉は、もともとは年神さまから与えられる魂だったのです。
そのことを知れば、本当に大切に使わなければなりませんね。

そして元気に遊びましょう。
子どもの頃、近くの広場に行って凧あげを楽しみました。
風にのって、ビクッと糸が引かれるとき、
何か不思議な感覚がしたものです。
風と自分がむすびつき、つながっているのです。
凧と糸によって大自然とつながる自分。
それは自分の心身が宇宙とつながっていることを
自覚する瞬間です。

凧 凧 あがれ 天まで あがれ

とよく歌いました。
その凧揚げの歌は、風招びの歌でもあったのです。

いなさの山から、風もらお、いんまかぜ、もどそ (長崎)
凧 凧 あがれ 天まで あがれ 風くんであがれ 
   

そして、正月七日は七草粥
七草とは、芹、なずな、御形(ごぎょう)、はこべら、仏の座、
すずな、すずしろ。
その七種の新菜を羹(あつもの)として食べると
無病息災といわれます。
この七草にちなんだ歌があります。
菜をまな板の上に置き、薪・火箸・すりこ木・包丁などで
まな板を叩きながら歌うのです。
それは、愛知・静岡地方の「七草なずな」の唄。

 七草なずな(七草)   

七草(なァなくさ) なァずな
菜切包丁(なッきりぼうちょう) まァな板
唐土(とうど)の鳥(とオり)が
日本の国(くゥに)へ渡(わァた)らぬ先に
合(あァ)わせて バッタバタ


鳥がでてきますね。
そして、バッタバタ?
どういうことでしょう。
それは、まな板をたたく擬声語だそうです。
この唄は七草ばやしといって、本来の意味は鳥追いの唄。
年の初めに作物の害敵である鳥を追いはらって
豊年の予祝を行う“うた”なのです。
なにしろ飢饉にならず、飢えずに過ごせるのが
なによりですから、
人々はそれを祈って生きてきたのです。

世界ではいまも飢えている子どもたちが大勢いて、
苦しんでいる国があります。
日本も様々な問題が山積みですが、
まだまだ幸せといえます。
心静かに厳かなお正月を過ごしましょう。



資料:『日本のわらべうた』尾原昭夫著 文元社
    『わらべうた研究ノート』本城屋 勝著 無明舎出版
   『わらべうた−日本の伝承童謡』町田喜章・浅野健二 編 岩波書店
   『うたおうあそぼう わらべうた』木村はるみ・蔵田友子著 雲母書房

Posted by 広報 at 21:38 | この記事のURL | コメント(0)

第六回 「花いちもんめ」[2011年12月15日(木)]


勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ

隣のおばさん ちょっと来ておくれ
鬼が怖くて行かれない
布団かぶって ちょっと来ておくれ
布団ボロボロ行かれない
お釜かぶって ちょっと来ておくれ
お釜底ぬけ行かれない

あの子がほしい
あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん

相談しよう そうしよう
決まった ○○ちゃんがほしい
ジャンケンポン

勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ


この“わらべうた”は、
もとは京都から昭和初期に全国に広まった
「子取り遊び」の一つです。
上記の歌詞は秋田で採取されたもの。
歌詞は考え深いものがあります。


『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著には、

「花」を「子ども」に、
「いちもんめ」を通貨の「一匁(いちもんめ)」に
置き換えてみます。
この歌全体が「間引き」による人買いへの人身売買、
そして人買いが遊郭へ卸す時の駆け引きを
綴っているとしたらどうでしょうか。


と述べられています。
これはどうしたことでしょう。
“わらべうた”というものは、
ときとして大変な意味を持つものなのですね。
どうしても伝えたいことがあるとき、
やむおえぬ想いがあるとき、
人々は何かに託してその想いを
伝え残していくことを考えるのでしょう。
この「花いちもんめ」は、
江戸時代の哀しい思い出かもしれません。

江戸時代、富士山の大噴火や日照りによる
飢饉や飢餓が続きました。
農民は自分の子を餓死させるよりは
働きにだしたほうがよいと考え、
多くの子どもが奉公に出されました。
実際は「年貢のかた」に子どもを持って
いかれたのです。
幼い女の子の多くは子守りとして働き、
その子たちが成長して十二、三歳になると、
女中奉公にあらためて出るか、
女郎として売られていきました。
一握りの子どもは奉公先から嫁にいかせてもらえました。
奉公に出された子どもたちは、家族が離散したり、
実家はあっても借金が返せないまま死ぬまで奉公しつづけ、
生涯親の顔を見ることはできなかったといいます。
このような境遇の子どもたちが、
自分が人買いに連れられて売られていく状況を、
わらべ歌にして伝承されたと推察されています。

『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著より



もう一度歌詞を見てみましょう。

勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ


それが、
「花」を「子ども」に、
「いちもんめ」を通貨の「一匁(いちもんめ)」に

置き換えてみると。
「子ども一匁」とはなんと哀しい言葉なのでしょう。

私たちの歴史の中で、飢饉などの大災害は
しばしば起こってきました。
今年3月の大震災とその津波による原発放射能汚染。
いつどのような災害がやってくるかもわからないのです。

「花いちもんめ」が歌われるようになった江戸時代、
日本は多くの飢饉に襲われました。
約260年間の間に、
130回程の飢饉があったといわれています。
2年に1回の割合です。
その3分の1以上(ほぼ40回)は、
東北地方で起こったのです。
その時、飢饉に苦しむ多くの人々。
哀しい歴史です。

その中でも三大飢饉といわれている飢饉があります。
どのようなものだったのでしょう。
それは、享保・天明・天保という年号のときに
起こりました。

享保の飢饉は、1732年(享保17)の夏、
イナゴの大群が瀬戸内海沿岸を中心に発生。
近畿から九州にかけて、稲に大きな被害を与えました。
飢えて苦しんだ人々は二百数十万人。
そして、なんと一万数千人が飢え死にするという悲惨さでした。
それとともに米価があがり人々は苦しみつづけたのです。

天明の飢饉は、1783年(天明3)。
その数年間、冷害・長雨にたたられたうえに、
浅間山(長野県)が爆発。
このため東北地方を中心に大飢饉となりました。
仙台藩(宮城県)では14万から15万人が、
南部藩(岩手県・青森県)では6万人余りの人が
亡くなったのです。

天保の飢饉は、
1833年(天保4)から4年余り続いた飢饉。
これも、冷害・長雨・風水害などの異常気象がもとで
米の収穫が半分以下に減り、
農作物が全滅に近い被害を受けました。

飢饉の悲惨さについて、『農喩(のうゆ)』という本に、
次のような意味のことが綴られています。

「奥州には、飢え死にした人がたくさんいます。
食べ物という食べ物は、何一つなくなってしまったためです。
人々は、牛や馬の肉はもちろんのこと、
犬や猫まで食べ尽くしてしまいました。
そのあげく飢え死にしていったのです。
ひどいところでは、四十戸余りあった村のすべての人が、
死に絶えてしまいました。
だれがいつ死んだのかもはっきりしません。
世話する人もいませんからほうりすてられた死体は、
鳥や獣のえじきになっている有様です」


悲惨の極みとはこのことです。
このようなつらい状況を生み出すのが飢饉なのです。
いま世界で大災害が起こったならば世界中の国々や
人々が援助の手を差出し、
ボランティアの人々も現地に駈けつけます。
ところが、江戸時代には信じたくないようなことが
ありました。それは「津留(つどめ)」というもの。
領主が「津留」を命じれば、
隣の藩の人たちがどれだけ困っていても、
米や麦などを送ることはできなかったのです。
当時は、藩は独立国のようなもの、
藩主は、隣の藩を救うより、
自分の藩のいざというときのために食料を取っておこうと
することが多かったのです。
なかには、飢えに苦しむ人々が領地にはいってくると、
自らの食料が減るのを恐れて
力づくで追い返してしまった藩もあったそうです。
そして、もっとひどいことをした藩もありました。
自分の藩の食料を自由に動かせないように「津留」を命令し
米の値段をつりあげるだけつりあげ、
大儲けしたしたというのです。
なんということでしょう!

では、飢えに苦しむ人々のために何ができたのでしょう。
こんなこともありました。
それは、「お救い小屋」というもの。
幕府や藩は飢饉がひどくなると人々のため、
一人当たり八勺(120g)ほどの米を薄い粥にして、
朝夕2回に分けて配ったりしたのです。
しかし、それも一時をしのげるだけのことでした。
それでもお救い小屋には何百・何千という人々が
集まってきたといわれます。
そして、天明・天保の飢饉の後には、飢餓への備えとして、
米などを蓄えておく倉として「郷倉」をつくることが増えました。

こうして、さまざまな“うた”の誕生した背景を考えると、
“わらべうた”には、日本の歴史や心の在り方が見えてきます。
           
          ☆

では、ふたたび哀しい思いをすることのない
幸せな世界がこの地球にやってくることを祈りつつ、
この「子取り遊び」を歌い楽しんでみましょう。



遊び方は、
前述の『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著では
次のようです。

A組とB組の二組に分かれて一列横隊に向き合います。
まずA組が「勝ってうれしい花いちもんめ」と歌いながら
B組に向って前進し、「・・・・・もんめ」に合わせて
足を蹴りだします。
A組に対抗してB組も同じように前進します。
その時A組は後退し、元の位置に帰ります。
歌いながらこの動作を繰り返していくのです。
「相談しよう そうしよう」の場面では、
相手の組の誰をもらうか各組で決めます。
そして「○○ちゃんがほしい」と相手に要求します。
人気のある子から引き抜かれていったように
記憶しています。
ここでの勝敗は、指名された子もしくは組の代表が、
ジャンケンで決着をつけるようになっています。
組の代表者がひっぱりっこして勝った方が、相手の組より
一人引き抜くという勝敗のつけ方もあるようです。
最終的には何度か「花いちもんめ」を繰り返し、
残った人数の多い組が勝ちとなります。


この歌は現代でも子どもや大人にも
人気を博しているようです。
友人に聞くと、大人になった今でも勤め先の同僚と
新宿御苑などで歌って楽しんでいるそうですよ。




資料:『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 いそっぷ社
    『スーパー日本史』益田宗・中野睦夫 監修
                    古川清行著   講談社

Posted by 広報 at 19:34 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第五回 「げんこつ山のたぬきさん」[2011年12月01日(木)]


げんこつ山の
たぬきさん
おっぱい飲んで
ねんねして
だっこして おんぶして
また 明日


この歌は、幼い子に歌詞としぐさで子守の方法を
教えています。

そのお手本はたぬきのお母さん!

『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著では、

げんこつ山に住んでいるたぬきの
お母さんと子だぬきの物語です。
たぬきのお母さんは子どもが泣くと、
おっぱいを飲ませます。
子だぬきは母さんのおっぱいを両方の手で
押さえて上手に飲みます。
お腹がいっぱいになると寝てしまいました。
お昼寝から覚めた子だぬきをお母さんはだっこしたり
おんぶしたりして、かわいがっています。
たぬきの愛情たっぷりの育児の姿がわらべ歌に
なったようですね。


幼稚園でもおなじみのわらべうた
幼い女の子が目の前で歌ってくれました。
♪げんこつ山の・・・・・と歌いながら、
両手を可愛く動かして、楽しいしぐさ付きです。

楽しい振り付けで、楽しく歌いながら
子守の方法を覚えていくのですね。

愛情たっぷりの育児の姿が歌になる“たぬき”さん。
最近都会ではめっきり出会うことはありませんが、
それでも時々たぬきに出くわした人の話を聞くことが
できます。
先日、日が暮れた頃、
池袋の立教大学キャンパス内にある旧江戸川乱歩邸の屋根に
二匹のたぬきの影を見たとのこと。
見た人は、その影は猫と違って尻尾がふあーと大きく
後ろに伸びているので、あれはたぬきに違いないと。

そこで、
森口満・作『タヌキまるごと図鑑』を読んでみました。
絵がいっぱい載っていて解説がつけられ、楽しい本です。
それによれば、タヌキは夜行性で、夜、動きまわり、
外見の特徴は、目のまわりに黒いもようがあり、
手足の先は黒く、しっぽにはシマシマはなく
先っぽだけ黒いのです。

日本には広く住んでいて、
「カチカチ山」や「ブンブクチャガマ」など
昔からわたくしたちには身近な存在でした。
5月ごろ子どもを産み、
生まれたての子どもは、100gぐらいしかありません。
しかし、その後はぐんぐん成長していくのです。


たぬきの子育て

その誕生と成長を、新日本動物植物えほん17
『たぬきの子』(増井光子・文 滝波昭生・絵)で
見てみましょう。
これまた楽しい絵本です。

 やがて、ちいさな ちいさな 
たぬきが うまれた。
1とう、 2とう 4、5とう。
 目を とじ、耳も ふさがった、
とっても ちっちゃな
くろっぽい 子ども。みんな
かあさんたぬきの たからもの。


そして、成長へ

 とうさんたぬきは、 せっせと はこぶ。
のねずみ、パンくず、いろいろな たべもの。
いそがしい おかあさんたぬきも おおだすかり。
子だぬき、 はやく 大きくなーれ。
 子だぬきたちは、 そだつのが はやい
10日で 目が あき、 やがて はいだす。


少し育つと

子だぬきたちは、おやの まわりで、
おいかけっこや レスリング。
おやに あまえる 子だぬきも いる。


育ち盛りの子だぬきは、

いつも おなかを すかせている。子だぬき つれて、
たべものさがしに あるくのは とうさんたぬき。


すこし大きくなると、

いろいろな 道を おぼえたし、虫とりだって できる。
どれ、きょうは ひとりで あるいてみよう。


いろいろな経験をして、からだも親ほどに成長すると、

たぬきたちの 心に わきあがる おもい。
したしい ともだちが ほしい。
どこか とおくへ たびしてみたい。
 しぜんが また、 そっと ささやく。
“ひとりだち しなさい。
じぶんの かぞくを もちなさい”と。
 子だぬきたちは、だれかを もとめて、
つぎつぎ たびだつ。あたらしい 天地へ。


すこし長く引用してしまいましたが、とてもいいですね。
『たぬきの子』の著者・増井光子さんの文章です。
感動してしまいました。
たぬきの子どもたちの成長の様子がよくわかります。
子守りの方法を教える“わらべうた”に、
たぬきさんが選ばれるわけですね。
            
            ☆


さて、たぬきと出あうには山に入って探すのが一番!
しかし、夜行性、昼間は姿を現しません。
夜まで待つのですよ。
ケモノ道をさがして、そこで待ち伏せは
いかがでしょう。
水辺には足跡も見つけられるそうです。

ところで食事はどうなっているのでしょう。
それは、次のようなものです。
クワ、ヘビイチゴ、ヤマザクラ、イチョウ、センダン、
アケビ、カキなどに、
カナブン、エサキオサムシなどの昆虫。
サワガニも、そしてアカネズミなど。

では天敵は!
それはオオカミです。
いまの日本ではオオカミは絶滅していないとのことなのですが、
なんと野良犬が天敵となることがあるのです。

そしてそして、
むかしの人たちは、たぬきをつかまえて食べていたと。
大昔の遺跡からは、たぬきの骨が出てくることがあるのです。
「あんたがたどこさ」の“うた”にも
猟師が鉄砲で撃って食べてしまうという歌詞がありましたね。
今では、食用ではなくて毛皮のために、
捕獲されてしまうことがあるのです。
また、町の近くの道路では交通事故で、
ひかれてしまうことがよくあるのです。
それは成長した子だぬきが親から離れて、
一人旅にでかけるときなのです。
可哀そうですね。
やっと育ったのに!
たぬきと出あったらいつまでも元気でねと、
祈ってあげよう。

           ☆

では、歌ってみましょうか。幼い子と一緒に!

げんこつ山のたぬきさん

(握りこぶしを上下にトントン)

おっぱい飲んで


(口元に両手をあてておっぱいをのむ)

ねんねして

(ねむるしぐさ)

だっこして

(両手を前で合して、抱っこする)

おんぶして

(両手を後ろに回しておんぶする)

また 明日

(両手を身体の前でまわして、
かいぐりかいぐりする)




資料:『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 イソップ社
    子ども科学図書館
   『タヌキまるごと図鑑』森口満・作 大日本図書
    新日本動物植物えほん17
   『たぬきの子』増井光子・文 滝波昭生・絵
    新日本出版社

Posted by 広報 at 04:03 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第五回 「山寺の和尚さん」[2011年11月15日(火)]

山寺の 和尚さんは
まりがお好きで まりはなし
猫をかンぶくろへ へし込んで
ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
ニャンポン其処にか 
わしゃ此処に
さらば 一貫貸しました


この“わらべうた”は
全国的に広まっている「手まり歌」です。

『童歌を訪ねて』太田信一郎著によると、

この剽軽(ひょうきん)なわらべ唄は、
古く江戸時代から歌われていたようで、
手毬唄として広く愛唱されてきました。
 歌は江戸(東京)を中心に長野、京都、広島、
高知などに伝わり、その土地土地によって
いろいろと異なった歌の文句が生まれました。
 例えば長野の“毬は突きたし毬はなし”や、
高知の“毬は蹴りたし毬はなし”、
そして、広島の“ポポンのポーと蹴りゃ
ニャンニャンのニャーと鳴く”など、
それぞれ楽しいものがあります。


また、『日本わらべうた』尾原昭夫著によると、
この唄は、安政4年(1857)ごろ
「ぽんにゃん節」として流行唄(はやりうた)にも
なった
そうで、寄席などでおもしろおかしく
踊られたりした
そうです。
そして、
この“うた”に類似したものが紹介されています。

○山寺のォ 和尚さんは、
 猫がお好きで、 猫を紙袋に押し込んで、
 ちょいと押しゃニャンと鳴く、
 おニャニャンのニャニャンと鳴く、
 まずまず一貫貸しまァしィた。

○ひとり坊さんさみしかろ、
 猫を紙袋へおっぺしこんで、
 ポポポンポンとつきや、
 おニャンニャンニャンと鳴く、
 まずまず一貫貸し申した。

○でんでらのお子だちは、
 手まりつくとも銭がなし、
 ネコを袋に入れといて、
 ちょいと蹴ころがいて、
 オニャニャンニャンニャン。

○お母さんに抱かれて乳飲んで、
 毬買っておくれ、
 菓子買っておくれ、
 毬は買いたし銭はなし、
 赤い紙袋に猫入れて、
 ぽんとつきゃにゃごにゃご、しゅ、しゅ。


なんていろいろの歌詞があるのでしょう。

それにしても、いたずら好きの和尚さん!

猫をかンぶくろへ へし込んで

紙袋に“ヘしこまれた猫”!
猫にとってはさぞ迷惑なことだったでしょうね。
そして、
ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
なんとなんと・・・・・。

ニャンポン其処にか わしゃ此処に
うむ、猫と遊んでいるのでしょうか。

さらば 一貫貸しました
うむうむ?
どう考えればいいのでしょうか。

インターネットの「ヤフー知恵袋」
こんな質問が寄せられていました。
「山寺の和尚さん」というわらべ歌は
『動物虐待の歌』だったのですか?!


それに対して、ベストアンサーに選ばれた回答は、
hakuseiunさんのもので次のように述べられています。

江戸の風潮を形成し、煽った子供歌ですね。
お寺様は、猫がネズミを食べるので、
殺生な生き物として嫌いました。
でも、人々は、家を荒らすネズミを退治する猫を
重宝しますから、揶揄した歌ですね。


だから、寄席などでおもしろおかしく踊られたりした!
そう考えれば納得です。
“わらべうた”から、時代時代の風潮や
ものの考え方を知ることができるのは
楽しいことですね。
ありがとうございます。

和尚さんと猫についてすこし考えてみたいと思います。

最近は、寺の住職さんのことを
“和尚さん”と親しく呼びかけることは
少なくなっていますね。


和尚さんのこと

『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著には、
和尚さんについて次のように述べられています。

昭和の初め頃まで、
お寺は地域と密接に関わっていました。
たとえば住職(和尚さん)が近隣の人々の
相談ごとにのるのは日常茶飯事で、
手紙などの文字を書いたり読んだりして
あげていました。
人々も世話になっている和尚さんへ
収穫した作物を持っていったりと、
何かにつけて寺へ足を運んでいたようです。
規模の大きなお寺は別として、
各地に点在するお寺は
住職が一人で守っていました。
その寺にある墓を守り、朝晩お経を上げ、
もちろん掃除もする和尚さんを、
境内で遊んでいた子どもたちは
身近な人物としてみていたのでしょう。


いまではどうでしょうか。
子どもの頃、
近所に小さなお寺があり、
そこでは、お正月にはいつもかるた大会
催されました。
4月には、「花まつり」。
お釈迦さまの誕生をお祝いする灌仏会です。
お釈迦さまの誕生の時に、甘露の雨が降ったという
言い伝えから、甘茶を誕生仏にそそぐ行事です。
それを楽しみにして
毎年兄と一緒にお寺に出かけたものです。
寺の住職は級友のお父さん、
よく説法もされていました。
猫を飼っておられたかどうか、
今では思い出せません。


猫のこと

人と猫のつき合いは
いつごろからはじまったのでしょう。

それは、人類が穀物を貯蔵するようになった時代から
といわれています。
古代メソポタミア時代、
当時、穀物倉庫をネズミたちが荒らすようになり、
そのネズミを退治するリビアヤマネコを益獣として
そばに置くようになったとのこと。
以来、人と猫の共存共栄がはじまり、
猫は人々に可愛がられるようになったのです。

日本には、奈良時代に仏教の経典とともに
やってきたといわれています。
猫は仏教の経典や穀物をネズミの害から守る
ため船に一緒に乗せられていたとのことで、
やはり和尚さんと猫とは
切ってもきれない関係にあるのですね。


和尚さんと猫は仲良し?!

この“うた”に登場する和尚さんは、
本当は、きっと猫を可愛がっていたかもしれません。
いろいろ想像することができそうですが、
そのようの思うことにしました。
そう考えると楽しくなります。
和尚さんを揶揄した文句も、明るく笑いとばせます。

まりつきをしたいのに、まりがない・・・・・。
思案すると、そばに猫がいる。
人って勝手なものです。
おい猫さんや、一緒に遊ばないか!
猫はニャンと答えたのか応えなかったのか。
そのところはよくわかりませんが、
遊ぶことになってしまいました。
ということは、仲のいい二人、
いや和尚さんと猫!
もともと仲が良かったのですよね。
そうじゃなければ、
警戒心の強い猫はそばによってきませんから。

猫も和尚さんによくなつき、
和尚さんを好きだったのかもしれません。
だから猫からすれば、
和尚さんと“まりつき”遊びを
楽しんでやっていたのではないか、
と思っても愉快かもしれません。
そして、紙袋に入って、ポンとけられりゃ、
ニャンと鳴いて、
楽しく弾んだに相違ありません。
  
このような善良な!想像をしながら、
この“うた”を歌ってみようと思います。

それ、ほれ、ポンと、まりをつくのを忘れないでね。

山寺の 和尚さんは
まりがお好きで まりはなし
猫をかンぶくろへ へし込んで
ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
ニャンポン其処にか 
わしゃ此処に
さらば 一貫貸しました



ツワブキ



資料:『童歌を訪ねて』太田信一郎著 富士出版
    『日本わらべうた』尾原昭夫著 文元社
    『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 イソップ社
    『ペット 家庭の医学 ネコ』
内田明彦 永友利作著 保健同人社

Posted by 広報 at 15:06 | この記事のURL | コメント(0)

第四回 「あんたがたどこさ」[2011年10月31日(月)]

あんたがたどこさ 肥後さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それを猟師が 鉄砲でうってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で ちょいとかぶせ


この“うた”は「まりつき歌」の代表的なものです。

最近は“まり”をついている子どもたちを
ぜんぜん見かけませんね。

60代の人に聞くと、幼い頃は“まり”をついて
遊んでいたそうです。
「あんたがたどこさ」の歌詞は、
年上の子どもに習っていつの間にか覚えていたと。
目の前で歌ってもらいました。
テンポがよくて楽しい曲!
でも「たぬきを撃って食べる」なんてちょっと怖そう。

歌って遊んだのは家のまわりの空き地だそうです。
少しタイムトリップしてみましょう。


それは昭和20年代終わり頃、
町には自動車がほとんど走っていなくて、
商店街の細い路地を入ると
そこに小さな空き地があります。
みんなが寄り集まって遊んでいます。
年上の子が大将。
ベーゴマ、竹馬、缶けり、縄跳び、紙芝居。
そんな中で“うた”を歌ってまりつきも!
夕方薄暗くなってくると、かくれんぼ。
その頃、空は夕焼け色に染まっているのです。
お腹が空くのも忘れて遊びます。
そろそろ夕食の時間。
あまり遅いとお母さんが心配して迎えに来ます。
いつ思い出しても子ども時代は懐かしいものです。


今、一度、“うた”を聴いてみたいと思い、
考えました。
そう、You Tube(ユー・チューブ)を開いてみよう!

聴こえて来ました。可愛い歌声が。
ご紹介しておきましょう。
下記のアドレスです。
http://www.youtube.com/watch?v=-Y_60tlz3dI
oushiyoka さんが 2009/09/14 にアップロードしたもの。

歌声は元気いっぱい、一緒に歌ってみたくなります。
その他、多くの人が歌っているものがアップされています。
皆さん楽しんでおられるのですね。

歌詞はどうでしょう。

あんたがたどこさ 

「あんたがたはどこから来たの」
と訊ねているのは誰?
そして、答えているのは?

肥後さ

ということは、肥後から来た人?
また訊ねます。

肥後どこさ 熊本さ

熊本だ、と答えれば、

熊本どこさ せんばさ

そう!

そのせんば山には、たぬきがおってさ

うむうむ。

それを猟師が 鉄砲でうってさ

うむ。

煮てさ 焼いてさ 食ってさ

うむッ。

それを木の葉で ちょいとかぶせ

うむ・・・・・!



太田信一郎著『童歌を訪ねて』には
次のように書かれています。

  あんたがた何処さ 肥後さ
  肥後何所さ 熊本さ

と歌い継がれてきたこの手毬唄(てまりうた)は、
一説には「問答唄」といわれ、幕末から明治期に
かけて生まれました。
九州熊本がその発生地のように思われていましたが、
実は関東の歌で、埼玉県川越市喜多院裏の
「仙波山」あたりがそもそもの発祥地であることが
地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされて
います。
 幕末に薩長連合軍が倒幕のため川越の仙波山にも
駐屯し、その時付近の子どもたが兵士に
「あんたがたはどこから来たのさ」
「肥後から」
「肥後って何所さ」
「熊本のことさ」
と問い、答えた(問答)ことから始まったと伝えられ、
後に手毬唄として歌い遊ばれました。


書かれている中で
「九州熊本がその発生地のように思われていました」
とあります。
九州にもこの“うた”の発生地とされているところが
あるようです。


では“うた”に合わせてまりをついてみましょう。
『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著に書かれている
この“うた”のまりのつき方は次のようです。

「せんば山にはたぬきがおってさ」の「さ」と、
「それを猟師が鉄砲でうってさ」の「さ」で、
まりをつきながら片足をヒョイとあげて
まりをくぐらせます。
  「煮てさ焼いてさ食ってさ」も同じように
「さ」でまりをくぐらせるのですが、
まりつきのテンポからして、
(一度ついたら一度くぐらせる)の動作を
三回続けて行うようになります。
一回ならどうにかできても、
三回連続はちょっとむずかしいかもしれませんね。


そうです、なかなかむずかしそう。

そして、最後のフレーズの
「それを木の葉でちょいとかぶせ」となります。
「かぶせ」でまりをスカートの中に隠してしまいます。

正面に隠すのは簡単なので、
まず、こちらを試してみるのがいいかもしれません。
タイミングがつかめたら、後ろ側へ隠すのに挑戦して
みましょう。


えっ!むずかしそう。

コツとしては、
まりを股の間から後ろへ叩き込むようについて、
同時に腰を前へ突き出します。
このようにするとまりは自然にスカートの中に
納まるようです。


少し練習してうまくなろうかな・・・・・。

そういえば、思い出しました。
江戸時代の手まりの名手を!
その人の名は、
いつも子どもたちと
手まりを楽しんでいた良寛さん。

良寛さんにはこんながあります。

袖裏の毬子直千金
(しゆうりのきゅうし あたいせんきん)
言ふ吾好手にして等匹無しと
(いふ われこうしゆにして とうひつなしと)
箇中の意旨如し相問はば
(こちゆうのいし もしあいとはば)
一二三四五六七八 
(いちにさんしごろくしち)

わたしの袖の中に、毬(まり)がある。
それは極めて高い値打ちの物だ。そして、
「自分ほどの毬つきの上手な者はいまい」と、
心の中で言う。
人がもし、毬つきの境地を尋ねたら、
「一二三四五六七八と続いて、
尽きることのない仏心と同じだ」と答えよう。


(『良寛の名詩選』選・解説◎谷川敏明 写真◎小林新一より)

まり遊びが庶民の間に広まったのは江戸時代です。
良寛さんも子どもたちと楽しんでいたのですね。
そして、その境地は、
尽きることのない仏心!
  良寛さんの心がしのばれます。

 子どもらと 手まりつきつき 此さとに
   遊ぶ春日は くれずともよし

                  良寛

では、まりつきを一緒に楽しみませんか。

あんたがたどこさ 肥後さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それを猟師が 鉄砲でうってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で ちょいとかぶせ




資料:『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 イソップ社
   『童歌を訪ねて』太田信一郎著 富士出版
   『良寛の名詩選』選・解説◎谷川敏明 写真◎小林新一
    (株)考古堂書店

Posted by 広報 at 21:14 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第三回 「ずいずいずっころばし」[2011年10月15日(土)]

ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壷に追われて トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
俵のねずみが 米食ってチュウ
チュウチュウチュウ
おっとさんが 呼んでも
おっかさんが 呼んでも
行きっこなーしよ
井戸のまわりで お茶碗欠いたの
だあれ


“うた”は知っていても意味はわからず、
歌っていても意味はわからず、です。
でも、おもわず口ずさんでみたくなるのです。
擬態語、
ずっころばし
トッピンシャン
ドンドコショ

と、
チュウチュウチュウ
の擬声語がリズミカルな口調にさせてくれます。

こんな歌詞を考えたのは誰でしょう?

気になる言葉は、
茶壷に追われて トッピンシャン

“茶壷に追われる”とはどういうことでしょうか。
“トッピンシャン”とは?

“茶壺”が鍵のようです。

次のような川柳があります。

 御茶壷が 泊り宿々 寝つかれず


御茶壺が泊まる!
宿々寝つかれず?

茶壺が泊まって、寝つかれず、とは、
なぜ?

そんなことを想っていると、
テレビから、歌声が流れてきました。
なんとその“うた”は、

ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壺に追われて トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ


それは、
BS‐TBS番組『ふるさと うたの細道』でした。
歌声に続いて、次のようなお話が語られはじめました。

「ずいずいずっころばし」は
古くから日本に伝わる“わらべうた”です。
江戸時代、京都宇治の新茶を徳川将軍家に献上するために
行われていた『御茶壺道中』。
「ずいずいずっころばし」は
その様子を歌った“うた”とされています
、と。

それは、江戸時代のこと、
宇治でとれた新茶を三代将軍家光の頃から、
徳川幕府に献上されることとなったそうです。
以来、新茶を「御茶壺」につめて東海道を下る
『御茶壺道中』というものが行われるようになったのです。


この『御茶壺道中』の位はとても高く、
当時、参勤交代の大名行列も道を譲るほどだったそうです。
その「御茶壺」は将軍様そのもの、行列を遮ったり、
前を横切ったりしようものなら大変です。
すぐさま無礼打ちになってしまうとのこと。

川原井泰江著『なつかしの わらべ歌』によると、

四月一日に空の茶壺を持って江戸を出発します。
そして茶壷にお茶を入れて帰還するのが六月一日です。
その二か月間は茶壷をまるで将軍のごとく扱い、
道中行きも帰りも行列で進みます。
「御茶壺は将軍様がお手に取り、
そのお茶は将軍様が毎日お飲みになる」と、
それはもう恭しく運ばれたようです。


将軍が飲む1年分のお茶。
それを、その年の新茶ができる時期に合わせて、
役人が宇治までとりに行くというものです。
400人以上もの長い行列。
それが道中を練り歩くのです。
豪勢ですね。

大名までも「御茶壺」に出合うと
土下座する決まりがあったそうで、
その行列の一行は、将軍の権威をかざして、
悪行三昧もしたようです。
大変迷惑したのは「御茶壺」が通る街道筋の庶民です。
豪勢に飲み食いし、2ヶ月の間も嫌われ恐れられながら
旅をする「御茶壺」とは!
街道筋の庶民はこの『御茶壺道中』を恐れ、
その怖さを子どもたちに教えるために
“うた”にしたとのこと。

では、この“うた”はどんな意味を持っているのでしょう。

どんどん胡麻味噌すってたら、『御茶壺道中』が来た〜!
それ大変だ、戸を閉めろ!

茶壺に追われて
 トッピンシャン


ピシャリと戸を閉めるのです。

ぬけたら ドンドコショ


通り過ぎて、ああよかった。
ほッと一息。

俵のねずみが 米食ってチュウ


ねずみが米食う小さな音すら聞こえるぐらい
静かにして行列をやりすごす?
また、役人が“こずかい”をせびって持っていく?
そのことを、
ねずみが米食ってチュウと表現したのでしょうか。

おっとさんが 呼んでも
おっかさんが 呼んでも
行きっこなーしよ


誰が呼んでも外に出てはいけませんよ。
何も知らない子どもたちは、
面白がって外に出てしまうかもしれません。
危険なので、お父さんが呼んでも
お母さんが呼んでも出てはいけませんよ。
そう言っているのですね。

井戸のまわりで お茶碗欠いたの
だあれ


そんな中、井戸端で、慌ててお茶碗割った音が
聞こえてくる。誰なのかしら・・・・・。
井戸は人が身を投げることもある怖いところ。

う〜ん、みんな息を殺して静かにしている。
怖いです『御茶壺道中』。

遊び方は、前回と同じく鬼さがしでしょうか。
円陣組んで、
軽く握ったこぶしを円の中央に出すと、
一人がその円の中心にいて、
歌いながら人差し指をこぶしの穴に突いていきます。
うたが歌い終わったところで、
こぶしに「指を突っ込まれている子どもが鬼」となります。
鬼を決めたり、指遊びに使われる“うた”ということですね。

では、江戸時代の庶民の気持ちになって歌ってみようかと、
昔の東海道・品川宿に出かけてみました。
東海道の玄関口品川宿。
宿内の家屋は1,600軒。
人口7,000人で賑わっていたそうです。


現在も街道は江戸時代と同じ道幅です。
歩いてみると、大勢の供を連れた大名行列が通ると
大変だなあと実感します。
避けるしかありません。
また簡単に横切ることができる幅なので、
子どもたちは遊びに夢中になって
横切ることもあったでしょう。
すると、無礼打ちとは!
本当に危険な行列でしたね。

品川宿の本陣跡がありました。
松のそばに石碑が建っています。

大名たちや旗本、公家などが休憩、宿泊したところです。
おそらく、「御茶壺」もここで休息したことでしょう。
そのときは、宿場の人々の苦労も大変だったに違いありません。
現在、この本陣跡は聖蹟(せいせき)公園となっています。
公園に入ってみると甘いキンモクセイの香りがしてきました。

今では、「ずいずいずっころばし」
懐かしい“わたべうた”になっていますが、
本陣跡に立って『御茶壺道中』で苦しんだ人々を想いながら
歌ってみることにしました。

さて、

ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壷に追われて トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
俵のねずみが 米食ってチュウ
チュウチュウチュウ
おっとさんが 呼んでも
おっかさんが 呼んでも
行きっこなーしよ
井戸のまわりで お茶碗欠いたの
だあれ


 
キンモクセイ



資料:『なつかしの わらべ歌』川原井泰江著 いそっぷ社

    BS‐TBS番組『ふるさと うたの細道』

Posted by 広報 at 03:51 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第二回 「かくれんぼ」[2011年10月01日(土)]


  かくれんぼするもの 寄っといで
  ジャンケンポン あいこでしょ
  もういいかい まあだだよ

  かくれんぼするもの 寄っといで
  ジャンケンポン あいこでしょ
  もういいかい もういいよ


この「かくれんぼ」うたも、
みんなで歌うのは、いつもきまって夕暮れでした。
鬼と遊ぶ「かくれんぼ遊び」ですから!
あたりが薄暗くなる黄昏時、
鬼に見つからないようにドキドキしながら
電柱の陰に隠れたことを思い出します。

「かくれんぼするもの 寄っといで」、
空を指さし腕白坊主が叫びます。
すると、その指目指して、
わーッと子どもたちが駆け寄っていきます。
その腕白坊主の人さし指を1人が握ると、
次々に駆けつけた子が同じように
人さし指を空に向けて握っていきます。
みんなが集まり、
握り終わった時、
「指切った」
と腕白坊主が大きく叫び、
みんなの指を解き放ちます。
そして、ジャンケンポンで鬼を決めることになります。
鬼と遊ぶ「かくれんぼ遊び」のはじまりです。

「ジャンケンポン」
鬼が決まるまで続けられます。

「ジャンケンポン、ほれ、ジャンケンポン・・・・・」
そして、鬼が決まると、逃げるように、
わーッと、みんながいっせいに散らばります。
隠れるのです! 鬼から!

鬼は目をつむり、
「もういいか〜い」と大声で尋ねます。
するとみんなはいっせいに、
「まあだだよ〜」

鬼から見つからないように隠れるまで
口々に答えるのです、
「まあだだよ〜」と。


家の扉の後ろや、物陰、あらゆるところに身を隠そうと
ドキドキしながら隠れまわるのです。
このドキドキがたまらない!

「もういいか〜い」鬼の声に
「・・・・・・」
返事をする声がなくなったとき、
鬼は目を開けて、
隠れた子どもたちを探しにいくのです。
見つかると鬼のお手伝いをすることになります。
鬼は、最後の一人まで探し回ります。
最後の1人が探し出されると、遊びの終了です。

この「かくれんぼ」に、
「缶蹴り」が加わった、より楽しい遊びがあります。
「空き缶」を使った「かくれんぼ」です。

その「かくれんぼ」は、
鬼のそばに置いた「空き缶」を他の子どもたちから
蹴られないように用心しながら、
隠れている子どもを探し出すのです。

足を「空き缶」の上にのせ、じっーとあたりを見渡します。
隠れている子どもたちの気配を感じ取るために・・・・・。
感覚を研ぎ澄まし・・・・・。
そして、見当をつけたところへまっしぐらに駈けつけ、
探し出して、
「みつけた!」と叫びながら
「空き缶」のところまで飛んで帰り、
「空き缶」を踏むのです。
鬼の力は「空き缶」を踏むことで表現されます。

でもその前に、
他の子どもたちに「空き缶」を蹴られてしまったら、
どうしましょう。
そのときは残念!
もう一度、ゲームは振り出しに戻ってしまいます。
そんなことを繰り返しながら、
最後の1人まで探し出す遊びです。
なかなか鬼は大変ですね。

また、隠れた子どもたちは、
探し出される恐怖と同時に、
自ら積極的に「空き缶」を蹴るために攻撃に打って出れるので、
スリル満点です。
「空き缶」を蹴る楽しみもあります。

鬼になっても楽しいし、
隠れて攻撃に出ることも楽しい遊びなのです。


ところで、わらべうたの中で大活躍する鬼。
その鬼とは、なんなのでしょう。
『うたおう あそぼう わらべうた』木村はるみ・蔵田友子著に
よると、その鬼の意味するところはおおよそ次のようになります。

「鬼」という字は本来、魂を意味しているとのことです。
その姿はないのです。
はっきりと見える昼間には出て来れません。
現れるときは人間に化けます。
人が鬼に食われると、
鬼の世界に連れ込まれて、さまようことになってしまいます。
さまよう人は安らかではおられません。
「安らかに鎮まれない魂」それが「鬼」
鎮まれない魂とはつらい魂です。
それが鬼だとしたら・・・・・。

遊びの中の「鬼ごっこ」は、
鬼そのものの登場と鬼からの逃避、
そして、むなしく鬼に捕まってしまう、
その実演です。


また、つぎのような鬼についても述べられています。

「悪魔払い、悪霊払いをする山の神としての鬼」もいるのです。
この鬼は、地下の悪霊を踏みしめ、
人間よりはるかに強力な生きる力を大地の中に踏み入れて、
山里に幸福をもたらすものです。
鬼に踏んでもらい、
鬼の強い生命力を分けてもらう行事も多く見られます。
特に大地の力が弱くなっている冬に行われる行事の中に、
この種の鬼が活躍するものが見られます。
そして、鬼を追い出すことは冬から春への以降のシンボルでもありました。
節分の鬼は、このような冬の顕現でもあります、
と。

日本の文化に色濃くその姿を滲ませる鬼。
昔は私たちの身近には、
鬼たちがいっぱいいたのではないでしょうか。
それとも今は見えないだけかもしれません。
いや見ようともしないだけかも・・・・・。



散歩の道すがら近くの公園によってみました。
周辺を樹木に囲まれた小さな公園です。
ブランコのそばには、
幼い子どもをつれたお母さんたちが情報交換でしょうか、
集まってなにやら夢中でおしゃべり中。


小さなグランドにあるバスケットゴールの前では、
小学生ぐらいの男の子がたった1人で、
何度も何度もシュートをくりかえしています。

そのグランドで、
小さな男の子がお父さんとキャッチボール。
そばで幼い女の子が1人でバトミントン。
遊び方も、時間の過ごし方も様々、多様性の時代です。
歩きながら頭をよぎったのは、
今時、「かくれんぼ」を楽しんでいる子どもたちには
出会わないなあ、ということでした。

ところで、遊ぶとき、みんなで一緒に歌ううたは!あるのかな?
遊びながら一緒に歌うことが少なくなっているのかな、
うたは「人の心」そのものです。
現在は、その心を一緒にして遊ぶということが
少なくなっているのでしょうか。
お正月とか誕生日とか、特別な行事のとき意外は・・・・・。
さびしいです。


空き缶といえば、「空き缶下駄」で遊んだことを思い出します。
空き缶に穴を開け、紐を通しておきます。
2個の「空き缶下駄」を作り、
足を乗せ、紐で引っ張りあげながら歩くのです。
最初は調子をつかめないので難しいですが、
慣れてくると、
“カンカン”と音を立てながら走ることもできました。

このような「空き缶遊び」は
昭和の中期頃まで見受けられたようです。
現在のように物が豊かになると、
「空き缶遊び」のようなものは無くなってしまうのですね。
遊ぶ道具のない時代に、
楽しく遊ぶために工夫された遊びや道具は
鬼の力をもその中に含ませていたような気がします。

夕暮れの中、「もういいか〜い」、「まあだだよ〜」と交し合う声。
「カ〜ン、カラカラカラ」と音を立てて蹴られ転がる空き缶。
“カンカンカン”と響かせながら駆ける子どもたち。

それは、
鬼と神の間を行き来する
子どもたちの宇宙だったかもしれませんね。


                                   曼珠沙華

資料:『なつかしの わらべ歌』
        川原井泰江著 株式会社いそっぷ社 発行

    『うたおう あそぼう わらべうた』
        木村はるみ・蔵田友子著 雲母書房 
         

Posted by 広報 at 10:23 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

第一回 「通りゃんせ」[2011年09月15日(木)]


通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちいっと通してくだしゃんせ
御用のない者 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ


子どもの頃、
この「うた」をみんなで歌うのは、
いつもきまって夕暮れ時。
通りゃんせ 通りゃんせ ♩♬
歌っているうちに不思議な気持ちになりました。

御用のない者 通しゃせぬ 
しだいしだいに不安な感じがしてきます。
そして、いよいよ
行きはよいよい 帰りはこわい
なのです。

どうしてこわいのか、わかりません。
どうしてなのか、聞くこともこわそう。
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ 

で最高潮!

この不安感と緊張感がたまらなくいいのです。
こわいものみたさでしょうか。

このようにして子どもたちは、
社会のもつある種のこわさを感じていくのでしょう。

この「うた」は江戸時代に全国に広がって行ったそうです。
別名、「天神様参り歌」「関所遊び歌」

それは、どのようにして生まれた「うた」なのでしょう。
ひとつには、「天神様参り説」

その舞台は現在の埼玉県川越にある三芳野天神横の細道。
川越にはお城がありました。
城内の者が天神様へ参拝に出かけるとき、
行きは簡単に城外に出られるのですが、
城内に帰るときには手荷物などのきびしい検査があったそうです。
そのお調べは大変厳しくて、
なかなか城内には入れてもらえなかったのです。
それはそれは厳しいチェックだったのでしょう。
こわいほどの!
そのような理由で「行きはよいよい 帰りはこわい」
「うた」に歌われるようになったといわれています。

そうだったのですね。

ということで、最初は川越城内で歌われていた「通りゃんせ」
それが江戸に伝わり、全国に広がっていったのです。


もう一つは「関所遊び説」

「関所」は室町幕府の時代に設けられはじめましたが、
江戸時代には、江戸を守り、全国の治安を守るためにと
全国各地に設けられるようになりました。
その関所は、旅人にとっては厳しい取調べの場所となったのです。

幕府が特に厳しく見張っていたのは
「入鉄砲・出女」といわれるもの。

「入鉄砲」とは?
それは江戸で反乱を起こそうと企む者が
鉄砲などの武具を江戸に持ちこむ事。

「出女」とは、
当時、大名の奥方たちは江戸に人質のようになって
暮らしていましたが、その奥方たちが逃亡することを
意味するのです。
奥方たちの不自由な暮らしぶりが見えてきますね。

そして、関所を通過するには関銭を支払い、
通行手形も見せなければなりません。
通行手形は旅をするにはどうしても必要だったのです。
しかし、手形を持っていても、
女性には厳しい取調べが待っていました。
髪形が違ったことで通行不可能!
なんてことが起こったのです。
その事例が関所役人の日誌に載っているそうです。
関所とはこわいものですね。
そんなこんなで「行きはよいよい、帰りはこわい」
なってしまうのです。

このようなことが書かれている本を読んでいるうちに、
川越の三芳野天神に行って、
「通りゃんせ」を歌ってみようと思いたちました。

お天気の良い日、川越に着くと、
駅で観光案内パンフをもらい、いざ出発です
まずは、街をゆっくりと見物しながら三芳野天神に向いました。

すぐに蔵造りの町並みが見えてきます。
江戸時代の面影!
平成11年には国の重要伝統的建築群保存地区に選定されていて、古いたたずまいの中に、風情のあるお店が沢山並んでいます。

通りから「時の鐘」が見えてきました。
約400年前から城下町に時を知らせてきた鐘です。
鐘のある櫓は奈良の大仏と同じ高さ。
今も市民に時を告げていて、1日4回です。
午前6時、正午、午後3時、午後6時にと。
その鐘の音は「残したい日本の音風景百選」に
選ばれているそうです。


少し行くと、
国の重要文化財に指定されている大沢家住宅があります。
寛政4年(1792)に建てられたもので、
呉服太物を商っていた店蔵です。

すこし先、札の辻の交差点を右に行くと、
川越市役所があります。
市役所前交差点の角には、
武将太田道灌の像が建っていました。
川越城は父である太田道真とともに築いたお城なのです。
すこし行くと、城の中ノ門堀跡が道路右にありました。
深く掘られた堀は、
敵の侵入を防ぐために工夫が凝らされています。
昔はこのあたりも戦場だったことがありました。
案内によると、
天文6年(1537)、後北条氏によって攻め落とされ、
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略のときに、
前田利家に攻められ落城しているのです。
そして、
寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱によって
城の大規模な改修が行われています。

もう少し歩きましょう。
市立の美術館・博物館前の交差点を右に曲がると
三芳野神社が見えてきます。
神社の手前には川越城本丸御殿がありました。

樹木に囲まれた境内。
「通りゃんせ」“わらべ唄発祥の地”であることを
示す石碑があります。

細道はどこ!と見渡しました。
歴史を感じさせる社殿があり、
そこにむかうように境内の地面に細道らしきしるしが
続いています。
ここでしょうか細道は!
また、鳥居にむかう参道もありました。

その鳥居には、
「強い地震の折には倒壊の恐れがありますので、
石垣・鳥居・石灯籠には近付かないでください。
社務所」
と注意書きが張られていました。
ここにも大震災の影響が出ているのです。
ここにかぎらず、地震の際は本当に気をつけましょう。

右に少し小高くなっているところがあり、
樹木も沢山あって日陰になっているので登ってみました。
そこから境内を眺めると、
子どもたちが元気に参道を駈けていきます。
遊びに来たのですね。
2人で話をしながら手を洗っていますよ。

左の広場では、
少年野球の子どもたちがバットの素振りに夢中です。
近くに初雁公園があり、試合のできる初雁球場があるのです。

初雁という名前は風情があっていいですね。
川越城は別名「初雁城」とも呼び、
その名は太田道灌がつけたものです。
築城祝いのとき、
頭上を初雁の群れが鳴きながら飛んで行くのを見て、
「初雁城」と名付けたといわれています。

神社の近くで楽しそうに遊んでいる子どもたちに会えて
本当に良い日でした。

江戸時代には、
この三芳野神社に親子そろってお札を納めに来たのでしょう。
「通りゃんせ」の歌声が聞こえてきそうです。
思わず口ずさみました。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちいっと通してくだしゃんせ
御用のない者 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ



参道の傍に天神囃子連の稽古場があり、
子どもたちがお囃子の練習をしています。
笛や太鼓が響きます。
懐かしい日本の音が聞えてきました。



キバナコスモス



資料:「なつかしの わらべ歌」川原井泰江著 
               発行:株式会社いそっぷ社
    
    「川越観光パンフレット」発行:川越市観光課

Posted by 広報 at 10:20 | わらべうた | この記事のURL | コメント(0)

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