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2017年07月01日

第4回 海辺にて

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海辺 撮影:服部考規


このところの地球温暖化のせいか、この夏は、これまでにも増して暑い夏になりそうな予感です。海のない山梨県に育った私は、子供の頃、夏になると、母の郷里の海辺の町に良く連れて行ってもらいました。海岸で色とりどりの石を探したり、砂に埋もれた貝を掘り起こしたり。拾った小さな巻貝を耳に当てると、サーっという風の音にも似た響きが聞こえてきたことを思い出します。幼いころは、この音が海の音だと信じていました。

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石笛 撮影:服部考規

海辺で見かける自然石に孔の開いたものを、「いわぶえ(石笛)(磐笛)」と名付けて、神道の「警蹕(けいひつ)」という、神を招く音として使っています。警蹕は神道行事の中で発する「オーッ」と言う声を指しますが、孔の開いた自然石を吹いて高音を出す場合もあるのです。石笛を吹くと、人間の可聴範囲を超えた高周波の音が出るので、邪気を追い払う音、魔除けの音として使われてきました。能の横笛(能管)の高音「ヒシギ」の音にも似ていることから、能管は石笛と関係があるという説があります。
石笛は、海や河川の自然石を利用したものですが、砂岩、火山弾、翡翠、珪石などでできています。この写真の石笛は砂岩質の多い堆積岩です。数カ所の孔に唇を当てて吹くと実に甲高い音がします。

>>石笛


海といえば貝。貝の楽器の代表は法螺貝です。昨年、千葉県で日本の楽器について話をする機会があり、その時に仏教で吹く法螺貝の映像を紹介した所、参加していた曹洞宗福田寺のご住職が、たまたまお持ちの小ぶりの法螺貝を見せて下さいました。房州より南の海に生息する巻き貝で、地域の名前を付けて「房州法螺」と呼ぶそうです。

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房州法螺 撮影:服部考規

法螺貝といえば、修験道の山伏が吹いたり、密教行事の始まりに真言宗や天台宗のお坊さんが行列の先頭で吹く大きめの貝が一般的だったので、このような小ぶりの法螺貝があるとはびっくりでした。千葉県外房では「ポッポ」、「ポッポケイ」、「ポッポガイ」、「ポーポー」、「ポーポーケイ」、「ポーポーガイ」などと呼び名も色々あるようで、食用にもなるそうですが、吹口を付けて、漁師たちが舟同士の合図に吹いていたのだそうです。あまリも私が珍しがるものですから、ご住職はとうとうこの貝を私に下さいました。

>>房州法螺

>>大きい法螺貝


法螺貝は仏教では「ほうら」と呼び、ルーツはおそらくインドでしょう。日本には、空海(1434−1495)や円行(1455−1512)等がもたらしたそうで、法螺とは、仏の説法の力を称える言葉だったものが、貝の名前となったのだそうです。

巻き貝を吹くことだけでなく、小さな巻貝の卵嚢(らんのう)を使った「海ほおずき」という音を出すおもちゃがあったのをご存知でしょうか。昭和50年代ごろまで、夏祭りの出店で良く見かけた発音具です。

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海ほおずき 撮影:竹内敏信

口の中に入れて鳴らすと、グゥィーと言うような不思議な音がしました。子どもたちが口にくわえて鳴らすと、虫封じになるという言い伝えがあるそうですが、昔の玩具は、その目的をたどると皆、虫封じ、厄除けになってしまいます。
7月9日、10日の2日間、東京浅草にある浅草寺では、夏の風物詩「ほおずき市」が開かれます。懐かしい海ほおずきがきっと並んでいることでしょう。

次回は、「縁日にて」です。

文:茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)
音源制作:film media sound design
※スピーカー等の環境によって、再生されない場合があります。

2017年06月01日

第3回 蛙の歌

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田んぼの風景 撮影:服部考規

♪蛙の歌が 聞こえてくるよ〜
子供の頃に輪唱で歌った「蛙の歌」。もとはドイツ民謡と言われていますが、原曲そのものは不明です。でも、ドイツ人は決して蛙の声を「歌」とは考えないでしょうね。人も虫も動物もすべて自然の一部と考えてきた日本だから、蛙の声も「歌」になるのでしょう。
インドネシアでも、蛙の声は音楽と密接に関わっていて、バリ島の声だけの合唱「ケチャ」のルーツも蛙の声だそうです。バリガムランを日本人で初めて習得した皆川厚一さんが、「バリ島の蛙は時間差で啼くから、本当にケチャみたいなんですよ」と、現地で録音したテープを下さいました。テープからは、確かにケチャの数パートを歌っているような、時間差で啼く蛙の声が聞こえてきました。

新潟県上越市の大学に赴任したばかりの梅雨の頃、夜になるとモーターが回るような音が外で聞えました。一晩中断続的に聞こえて来る唸るような低い音を、子供時代の自家水道のモーター音に似ているなあと思っていたら、翌朝それが牛蛙の声と判明。詩人の草野心平が「蛙の声明(しょうみょう)」という作品を書いていますが、牛蛙の声は、まさにお坊さんが唱える声明にそっくり。バリ島の蛙の鳴き声とは随分違っていました。

歌舞伎の擬音では、赤貝で蛙の声を表現します。貝殻の表面のギザギザした面をすり合わせると、グヮッグヮッと蛙が鳴いているような音になるのです。

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赤貝の蛙 撮影:服部考規

>>赤貝の蛙
誰が最初にこの素敵な演奏法を考えたのでしょう。
歌舞伎では、身近な道具を使って自然界の音を作り出すことが本当に上手なのです。

例えば、牛の声を出す笛は、写真下の管の左端を口に加えて息を吹き込むと「モーッ」と啼き、馬の嘶きは、写真上の管に両唇を入れ込んで吹くと「ヒヒーン」と啼くのです。

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馬の笛(上)と牛の笛(下) 撮影:服部考規

>>牛と馬の擬音笛
馬笛は、巻き舌をして息を吹き込むと、馬がブルブルと唸るような声も出せます。一体中はどうなっているのかというと、内部に細い3本の管が取り付けられていて、それぞれの管にシングルリードが付いています。このリードは、夏祭りの屋台で見かける音の出る風船のリードと同じ仕組みで、クラリネットのリード構造によく似ています。
蛙の声に、牛と馬の声、そこに見えてくる懐かしい思い出は、田植えの風景です。

この時期に山あいの村の水辺に生えるイタドリ。若い芽は、山菜として食べるようですが、少し成長して空洞になった茎の部分は笛になります。イタドリ笛は、竹より加工しやすいので、自然に恵まれた地域では子どもたちの身近な笛として活用できる素材です。

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イタドリの笛 撮影:竹内敏信

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イタドリの笛(リードなし) 撮影:服部考規

>>イタドリの笛(リードなし)
一端が閉管のイタドリの開いた部分に口を当てて吹くと、パンンフルートになります。新しい茎は一部に切り込みを入れて葉っぱを差し込んでリードのある笛にもなります。茎が赤いものと緑のものとがあり、この写真の赤い茎のイタドリ笛は20年も前に作ったのに、まだ現役なのです。

次回は、「海辺にて」です。

*************
今回のシリーズで聞くことの出来る楽器の音は、佐藤勇一氏(film media sound design)が録音して下さっています。佐藤氏は、歌舞伎や民俗芸能の音響を担当するなど、日本の伝統的な音文化に精通した音響プランナーです。


文:茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)
音源制作:film media sound design
※スピーカー等の環境によって、再生されない場合があります。

2017年05月01日

第2回 草々の響き

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ナズナ 撮影:服部考規
「穀雨」の恵みを受けた野の草たちの背丈が急に伸びだして、あっという間に豊かな緑で彩られる季節になりました。しっかりと大きくなったナズナのハート型の実は、子供たちの音遊びに十分な楽器に成長しています。実の一つ一つを茎から取れないようにそっと剥(む)き、実の部分が揺れるようしてから、耳の近くで茎をくるくると回転すると、小さな小さな音が聞こえます。学校の帰り道、子どもたちは道端で摘み取った草の音をシャラシャラと響かせて遊んだものでした。

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音がなるように実を茎からむいたナズナ 撮影:服部考規
>>ぺんぺん草


ナズナは、実の形が三味線の撥(ばち)に似ているから「シャミセン草」「ペンペン草」とも呼ばれます。三味線の撥の形にはいくつか種類がありますが、長唄三味線の撥は確かに似ています。

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長唄三味線の撥 撮影:服部考規

「ぺんぺん」は三味線の音色を表現した擬音語なのでしょうが、ナズナを揺らした音色は実際の三味線の音とかなり違います。

日本の楽器を練習するときは、カタカナ語を口で唱えて練習します。箏(こと)なら「コーロリンシャン」、笛なら「ヒャイトロ ヒャイトロ トヒュヒャ」、三味線は「チントンシャン」「チリチツテン」のように。三味線では、この片仮名譜を「口三味線」といいます。3本のどの糸を弾(ひ)くのか、撥で弾くのか掬(すく)うのか、それとも指ではじくのかなどを、このカタカナ語で表しているのです。ところが、口三味線の中には「ペンペン」という言葉は出てきません。江戸時代に人気の『東海道中膝栗毛』でも、弥次さん喜多さんは「チチチチ チンチン」のように口三味線で音を表現していますから、「ペンペン」のパ行の表現はどこから来たのだろうと、改めて考えてしまいました。「ベンベン」の表現はあるので、それよりも軽い音だから「ペンペン」となったのでしょうか。
そういえば、近松門左衛門作『心中天の網島』「河庄の段」の改作には、悪役の登場人物が箒を三味線に見立てて主役を揶揄する場面があり、「アペン アペン ペペペン ペペペン ペンペンペン・・・」(最初の「ア」は掛け声)のように「ペンペン」がいっぱい出てきます。現在も文楽で大人気の場面ですので、この言い方が有名になって、三味線の音が「ペンペン」になったのかもしれません。

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沖縄のクバ三味線(上)とフィングル三線(下) 
撮影:竹内敏信


昭和49年、沖縄民謡調査に出かけた時、石垣島でクバの葉の茎や、芦の葉の茎で作った「クバ三味線」、「フィングル三線」と呼ばれる楽器を見つけました。音色はペンペン草の響きを少し大きくしたような音色です。今はほとんど見かけない楽器ですが、沖縄の子どもたちはこんな楽器を作って自然の中で音を楽しんだのでしょうか。

都会の遊歩道はすっかりきれいになり、ペンペン草を見かけることも少なくなりました。聞こえて来る音のほとんどがコンピュータを通した音になってしまったこの頃と比べて、学校の帰り道、道草しながらカラスノエンドウやペンペン草の素朴な音に感動した子供時代のほうが、私達の音に対する感性はずっと豊かだったように思うのです。

次回は「蛙の歌が聞こえてくるよ〜」です。

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今回の連載に素敵な写真を提供してくださっているお二人の写真家をご紹介しましょう。竹内敏信氏は、世界各国の様々な自然、そして日本の自然の原風景を撮影する第一人者として知られる写真家です。今回の連載の写真は、茂手木著『おもちゃが奏でる日本の音』(音楽之友社)のために撮影した伝統的な発音具シリーズから提供して頂きました。服部考規氏は、竹内敏信氏のお弟子さんで、若手写真家として活躍中。今回のエッセイのために風景写真と私の楽器コレクション撮影を担当してくださっています。

注:穀雨(こくう)とは二十四節気の一つで、春雨が穀物を潤す時期のこと。

文:茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)
音源制作:film media sound design
※スピーカー等の環境によって、再生されない場合があります。

2017年04月01日

第1回 鳥たちの聲

日本音楽の世界では、風景の中で、また生活の中で耳にする身近な音を、楽器の音色や声の表現に取り入れてきました。音を揺らして吹く横笛は、鳥のさえずりを表わし、川辺で布を打つ砧のリズムは能や箏曲の題材でした。
この連載では、美しい蒔絵が施された豪華な楽器の話ではなく、暮らしの中で生れた素朴な音を出す道具や、自然の音を取り入れた楽器を季節ごとに紹介しながら、日本の音文化を考えてみたいと思います。ここで紹介する楽器は、メロディーやハーモニーの出る楽器だけではありません。音を出す道具をすべて楽器とします。世界の楽器研究の視点では、音を出すために作られた道具はすべて楽器と捉えることができるからです。

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メジロ  撮影:服部考規

まずは春の鳥たちの声を聴くことから始めましょう。

自宅の庭の片隅に作った藤棚の、絡まりあう蔓の止まり具合が良いのか、春の兆しを感ずる頃から小さな鳥たちが庭を訪れます。シジュウカラ、ムクドリ、ヒヨドリに混じって、緑の体で白い縁取りのある目をしたメジロも遊んでいます。メジロは花の蜜が好きで、カンヒザクラのやっと開いた花びらの蜜を、小さな体を逆さにして器用に吸っています。花札の絵柄で知られるこの鳥を、私はずっと鶯と思い込んでいました。
日本の各地には鳥の声を模倣した様々な鳥笛があります。中でも多いのが竹で作った鳥笛で、その代表が鶯笛です。
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歌舞伎の鶯笛  撮影:編集部
>>歌舞伎の鶯笛


鶯笛は、短い竹管の一端に吹口を付けた笛で、2本の指の腹で竹管の両端を閉じて息を吹き込みながら一端の指を少しずつ開けて、ホーホケキョと鳴らします。「ホーホ」は閉じたまま、「ケ」で片端の方だけ指を開き、「キョ」で再び指を閉じます。開く指加減で音高が変わるのです。鶯笛には土産物で売られているような、鳥の姿が管上に付いた見栄えの良い笛もあれば、何も装飾されていない素朴な笛もあります。歌舞伎の擬音で使う鶯笛はあとの方です。最近の土産物の見栄えの良い笛の音は出にくい場合が多く、素朴で装飾のない歌舞伎用の笛は、美しい鳴き声を響かせます。もちろんそれだけ作りも精巧ですから高価です。

鳥笛のもう一つは、胴体の中に水を入れて吹く磁器製の水鳥笛です。
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撮影:編集部
>>水鳥笛(磁器製)


この笛のルーツは中国にありますが、昭和40年代まで各地の祭りの出店でよく見かけました。鳥の尻尾の部分が吹口で、水を入れるのは胴体と尻尾との接触部分まで。水を入れすぎたり足りないと、ピーッと1つの音しか鳴りません。管と胴体の接触部分に水が触れたり離れたりする量を入れれば、ピョロピョロと鳴きます。水笛なので、川辺で鳴くヒバリの声を表しているのでしょうか。でもメジロの声にとてもよく似ています。

ピョロピョロ鳴く音を出す楽器で、日本オリジナルの楽器が、シンギングバードという発音具です。
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シンギングバード(写真上)
撮影:竹内敏信/日本玩具博物館(姫路市)所蔵
>>シンギング・バード(ブリキ製)


写真のようなブリキの筒の側面にスリットを入れ、閉じた両端の片側に長い紐を付け、空中で回転させると、ピョロピョロ鳴き出します。素晴らしい発明です。

東北地方の鳩の形をした大小の陶器の笛や、木製の笛も有名です。鳥笛は日本全国で様々な素材、音色が作られ、昭和50年代までの子どもたちの身近な楽器だったのです。

次回は「草々の響き」です。


文:茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)
音源制作:film media sound design
※スピーカー等の環境によって、再生されない場合があります。

2017年03月30日

平成29年度は「季節の音めぐり」

平成29年4月より、新シリーズ「季節の音めぐり」をお届けします。

日本の楽器、と言われると何を思い浮かべますか?
お琴に三味線、尺八や和太鼓…。
このシリーズでは、そんな演奏会が開かれているような楽器ではなく、日本人の身近な暮らしの中で生まれた音を出す道具や、不思議な楽器を季節に合わせてご紹介していきます。

執筆は、当財団の第2回「日本文化藝術奨励賞」受賞者で、現専門委員の茂手木潔子氏(聖徳大学教授)にご担当いただきます。

毎月1日に更新します。お楽しみに!

2017年03月01日

第12回 桜餅

春三月といえば、桜の花ですね。「万葉の梅、古今の桜」といわれるように、奈良時代には中国伝来の梅の花が愛でられましたが、平安時代になるとミツバチの媒介によって品種間の交雑が進み、多様な変異種が生まれて美しい花を咲かせるようになった桜の花が愛でられるようになりました。「見わたせば 柳さくらをこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」(素性法師)などと詠まれています。文学作品では、花といえば桜という意味になりました。「ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)というのも有名な歌ですね。

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そうした季節の花を愛でるのも日本の文化の一つですが、もう一つ注目されるのは、そのような季節の花を、見栄えも美しく味もおいしい和菓子に作るという文化です。梅や桜や菊や紅葉など、目で鑑賞するだけでなく、自然の移ろいの中にそれらの花を巧みに季節ごとのお菓子として作り、それを賞味して楽しんできた歴史があるのです。
 春の花といえば桜、桜と和菓子といえば桜餅ですね。そして桜餅といえば、江戸風の長命寺と、上方風の道明寺が有名ですね。江戸風の桜餅、長命寺は小麦粉を溶いて薄く焼いた皮で小豆の漉し餡を包み、その上から塩漬けの桜の葉を巻いています。上方風の桜餅、道明寺は道明寺粉を蒸して作った粒身を残した餅に小豆の漉し餡を詰めて、塩漬けの桜の葉を巻いています。いずれも小豆餡に桜色の皮や餅、塩漬けの葉というのが特徴です。

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和菓子の歴史と由緒から言えば、そのほとんどは平安京以来の宮廷や幕府や大寺院のおひざ元である京都が、その誕生から成長までの本場です。華麗な呉服の歴史や茶道や華道、能や歌舞伎など芸能の歴史なども同じです。先端の日本文化はすべて京都から発信されてきたのです。そうした中で、この桜餅だけは、江戸もがんばってきた歴史がありました。喜多村信節『嬉遊笑覧』(文政13年(1830)自序)には「近年隅田川長命寺の内にて、桜の葉を貯へ置て、桜餅とて柏餅のやうに葛粉にて作る、はしめハ粳米にて製りしがかくかへたり」という記述があります。そしてそのほかにも、この文政年間(1818-1830)の記録類には長命寺の桜餅についての記事が散見されます。俗説としては、八代将軍吉宗が植樹した隅田川沿いの桜の葉を、長命寺の門番であった山本新六が塩漬けにして餅に巻いて売り出したのが始まりだともいわれていますが、確かな証拠はありません。ただ、隅田川の桜堤、江戸の花見、桜餅の由来、という話題としてよくつながる話であり、『東都歳事記』(天保9年(1838))にも「隅田川名物 さくらもち」の絵があり、浮世絵の類にも、隅田川の桜餅はよく描かれていました。

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『東都歳事記』より

 さて、桜の和菓子といえば、塩漬けの桜の葉を巻いた桜餅だけではありません。桜の葉を使わない上品な桜の和菓子もたくさんあります。京都の老舗の菓子司に伝えられている、桜、初桜、花衣、桜きんとん、などがそれです。桜の花弁の形をあらわしたもの、桜襲(さくらがさね)の衣を表す外郎(ういろう)の皮で小豆餡を包むもの、紅色と白色のきんとん製にした咲き誇る桜花を表すものなど目にも美しく味も深く、お抹茶とともに静かに味わう人たちに、ちょっとした幸せを感じさせてくれます。京都から発信された桜のお菓子も、現在では東京や名古屋、そして金沢や松江などのかつての城下町をはじめ、日本の各地に広まっています。そして、それぞれの町で進化しています。今年の春は、いくつかの桜餅や桜の和菓子を、その由来を尋ねながら味わってみてはいかがでしょうか。

日本というのは小さな島国ですが、東西南北に長く広がっています。そして、寒冷な地方から温暖な地方まで、それぞれの環境に根ざした、季節ごとの行事や食文化がさまざまに伝えられています。それら日本各地の行事や食文化の、地方ごとのちがいを見つけ、またその歴史を知ることで、私たちの日常生活を味わい深く豊かなものにし楽しんでいきたいものですね。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2017年02月01日

第11回 稲荷寿司

 2月の行事といえば、節分だと思う人がいまは多いかもしれませんね。しかし、節分は旧暦では2月ではなく1月の行事でした。「大晦日と元旦」が月の満ち欠け、「節分と立春」が太陽のめぐりによる新年を迎えるための行事で、両方とも旧暦では同じく1月初旬でした。明治6年(1973)の改暦で、「正月」が新暦の1月に移り、「節分」が月遅れで2月に残ってしまったのです。
 古くからの2月の行事といえば2月8日、お稲荷様の初午の祭りです。お稲荷様へのお供えといえば、きつね色の油揚げです。だから、2月といえば節分の恵方巻もいいでしょうが、やはり古くからの初午にちなみ、いなり寿司を味わってはいかがでしょうか。甘辛く煮た油揚げの中に酢飯を詰めた寿司で、関東では米俵型の四角形に作り、関西ではキツネの耳に似せたような三角形に作るのが多く、ゴマにシイタケ、ニンジンなどの具材を入れた五目稲荷も多いようです。

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 稲荷寿司の由来を伝えているのは、江戸時代後期の喜多川守貞『近世風俗志』(『守貞漫稿』)(1837−53)という本です。その記事によれば、「天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて、袋形にし、木(き)茸(のこ)、干瓢(かんぴょう)等を刻(きざ)み交(まじ)へたる飯を納(い)れて、鮨(すし)として売り巡る」とあります。つまり、江戸では天保末年に稲荷寿司を売り歩く者がいたというのです。この記事に続いて、次のような意味のことが書かれています。夜も昼もこれを売っているが、もっぱら夜に売っている者が多い。屋台の行燈(あんどん)に鳥居を書いて稲荷社のように仕立て、稲荷寿司とか篠田(しのだ)寿司(信太(しのだ)寿司)と名付けている。稲荷も信太もきつねに因む名前であり、きつねが油揚げを好むといわれるところからきているのだ。寿司とはいっても「最も賤価鮨なり」つまりもっとも安い寿司だと書いています。もともとは尾張の名古屋で作られるようになったもので、それが江戸でも天保の前半頃から店で売られるようになった。とはいうものの、ただ両国辺りの田舎者だけを相手にするような寿司店で売られていたくらいのもので、屋台で売り歩く安い寿司、というのが稲荷寿司だ、というのです。

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『近世風俗志』(『守貞漫稿』)より 寿司の屋台

 稲荷寿司の立場からみれば、まあずいぶんな言われ方、書かれ方ですね。この『近世風俗志』は、寿司についてはかなり丁寧でうるさく、押し寿司、箱寿司、握り寿司、海苔巻き寿司、笹巻寿司などの区別、アナゴやコハダや玉子などの握り寿司の具材など、図入りで詳しく書いているので、江戸時代後期の寿司の様子がよくわかる本なのですが、その寿司についての「食類」の記述の部分では、稲荷寿司についてはまったく触れられていません。さきほどの記事は、売り歩く者がいるということで「生業」の部分での記事です。大坂の出身で江戸に暮らしながら上方と江戸を往復し、それぞれの風俗や文化を比較して楽しんでいた喜多川守貞(1810−?)にしてみれば、稲荷寿司は寿司の中に入れるほどのものではなかったのでしょう。
 しかし、値段が安く美味しい手軽な寿司として、稲荷寿司は庶民の間では大いに受け入れられ普及していきました。現在のように新鮮な魚が流通するのは1970年代以降であり、長い間、日本各地では新鮮な魚の代わりに、いろいろと工夫が凝らされて、ちらし寿司やもぐり寿司などさまざまな食材の寿司が創られ賞味されてきました。海苔巻き寿司の安価版である干瓢巻と稲荷寿司のセットを、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」に登場する助六、曽我五郎と遊女の揚巻の名に因んで、「揚げ」(油揚げ)「巻き」(海苔巻き)としゃれて「助六」と呼んで楽しんでいるのもその流れです。

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 稲荷寿司には、関東と関西の違いもおもしろいのですが、それ以外にも北海道から沖縄まで、それぞれの地方でどんなこだわりがありどんなかたちで食べられているか、その違いを探り楽しみながら、この2月8日のお稲荷様の日には稲荷寿司を食べてみてはいかがですか。また、節分の恵方巻に稲荷寿司を加えて、現代版助六セットとして味わってみるのも楽しいでしょう。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2017年01月01日

第10回 七草粥

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 正月は、むかしから、年取り魚の鰤や鮭など各地の魚類を添えた年取りのお膳、それにおせちの組重、また雑煮などをはじめとするいろいろなごちそうが用意され、老若男女、多くの人たちの楽しみの行事でした。最近では洋風や中華風のおせち料理もみられるようになり、美酒と美食で胃腸も忙しい日々となっています。しかし、それらが一段落ついたころ、1月7日の七草粥は、また味わい深いものです。新春の七種類の若菜を集めて、水分を多くして米を柔らかく粥に煮る料理で、消化吸収がよく健康食の代表でもあります。七種類の若菜については、「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草」という歌がよく知られていますが、この歌はすでに江戸時代前期の貝原益軒と甥の好古の編になる『日本歳時記』(1687年)にも記されている古くから知られた歌でした。この七草の組み合わせの歴史も古く、すでに平安時代末期の『年中行事秘抄』(12C末)にもみえています。また、七草の行事も西行法師の『山家集』(13C後)に「うづゑつき ななくさにこそ おいにけれ 年を重ねて 摘める若菜に」と歌われています。

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 七草の粥の歴史をさかのぼっていけば、正月七日の七草粥だけでなく、天皇即位の践祚大嘗会(せんそだいじょうえ)の解齋(げさい)の膳に供された七種御粥にもたどりつきます。それは『延喜式』(927)巻40の主水司の記事に「米・栗・黍子(きみ=きび)・薭子(ひこ=ひえ)・篁子(みの=むつおれぐさ)・胡麻子・小豆」とあるもので、七種類の穀類と菓類などを柔らかく煮たものだったことがわかります。また、鎌倉時代の『太平記』(14C後)には正月15日の粥を七草粥と呼んでいる例がみられます。現在では1月7日が七草粥で、15日は小豆粥というのがふつうなのですが、歴史をさかのぼると、このように大嘗祭とか正月年賀式とか、重要な祭事のあとにそれを締めくくる意味の儀式的な献立として七草粥があったことが考えられます。
 正月行事の献立としてみれば、7日の七草粥と15日の小豆粥というのは1セットとなっています。正月年賀式を締めくくっていく順番として、上弦の日の7日には白色緑色系の七草粥が、満月の望の日の15日には赤色系の小豆粥が、それぞれ食されてきたのです。小豆には、冬季に弱まっている太陽の光熱へのあこがれと願いと感謝の思いが込められており、冬至、雑煮、小正月の小豆粥などとくに冬場の行事食として繰り返し食されてきたのでした。七草粥で独特な作法として知られているのが、「ななくさなずな、唐土の鳥と日本の鳥と、渡らぬさきに、なずなななくさストトントン」などと唱えながら、まな板を叩いて野菜を切るという方法です。日本の各地に伝えられてきたもので、歴史も古く室町時代の『桐火桶』(1363頃)には7回ずつ7度叩くとあり、江戸時代の俳諧『玉海抄』(1656)には「七草をはやし初(そ)めてや七ひやうし」と詠まれています。これは鳥追いの歌ともなっており、1年の災厄や疫病や害虫鳥類の被害を除けて1年が五穀豊穣、身体壮健のよい年となるようにという願いが込められています。

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 さて、七草粥は日本各地を見渡してみると、粥ではなく美味しい雑炊を炊くという地方も多く、岡山県周辺、四国、九州地方にそうした例が伝えられています。また、正月の供え餅を入れて雑煮にして食べるという地方も、秋田県から北陸地方、鳥取県、北九州など日本海側に分布しており、近畿地方から瀬戸内地方にも点在しています。
 柔らかくて胃腸にやさしい粥は長い歴史をもっており『続日本紀』文武4年(700)には寺の和尚が病人に食させたという記事があります。中世の禅寺ではほぼ朝食が粥であり、その伝統は今も引き継がれています。その禅寺からの影響かどうかはともかくとして、関西では古くから朝食に朝粥が好まれており、奈良県では茶粥がよく知られています。健康食でもあり栄養のバランスもよい七草粥を、今年の正月には味わってみてはいかがでしょうか。物足りないという人は、日本の各地に伝えられているような七草雑炊にしてみるとか、七草雑煮にしてみるのもいいでしょう。伝統食は意外におしゃれなものでもあるのです。



文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年12月01日

第9回 おせち料理

 正月料理として知られるおせち料理。重箱詰めで、一の重は三つ肴と呼ばれる黒豆に数の子、たたき牛蒡(関西)、田作り(関東)と、口取りと呼ばれる紅白の蒲鉾や昆布巻き、栗金団や伊達巻など。二の重は焼き物や酢の物でブリや鯛や海老、紅白なますや酢蛸など。三の重は里芋や人参、蒟蒻、筍など野菜の煮物が中心です。与の重まである場合には少しずれ、そこに煮物や酢の物、魚介類が入ります。おせち料理はこのように、一の重から決まりがあるようでいて、実は地域ごと家ごとに違いがあります。なぜなら伝統料理と思えるおせち料理の歴史は、実はまだ浅いからなのです。

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 江戸時代中期の辞書『俚諺集覧』に「せち、節日の食膳を節供と云を略せる也、俗にオセチと云」と記されています。つまり、おせちは節日に神様に供える食膳の御節供の略で、正月の料理に限定されていませんでした。江戸時代前期の『日本歳時記』には、雑煮や屠蘇や鏡餅のことは書かれていますが、組重のおせち料理のことは書かれていません。おせち料理も組重もなかったのです。しかし、江戸時代後期のアンケート調査「諸国風俗問状」には、組重について「組重の事、数の子、田作、たたき牛蒡、煮豆等通例。其外何様の品候哉」と質問があります。北は陸奥国から南は肥後国まで15件の回答によると、江戸と同じ組み合わせだという例が多く、それに加えて秋田ではハタハタ、肥後天草では鰹節とスルメなど、地域の特産物があげられています。越後長岡領の答書によると、蕨を笑いという言葉にかけて縁起のよい料理に見立てています。正月料理に縁起をかつぐという伝統は変わりないようです。
 おせち料理の源流を考える上で参考になるのは、上方の「蓬莱(ほうらい)」と江戸の「食積(くいつみ)」です。蓬莱は三方の上に米・勝栗・干柿・熨斗鮑・橙などを盛り付け飾っておくもので、井原西鶴の『日本永代蔵』(1688)には「春の物とて是非調(ととの)へて、蓬莱を餝(かざ)りける」とあり、その絵が載っています(図)。一方、喰積は正月の年賀の来客がそれを一口食べます。雑俳『柳多留』には「喰いつみを三十日に喰ってしかられる」という川柳もみられます。

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【図】井原西鶴『日本永代蔵』より

 それより少し前の天保7年(1836)刊『萬家日用惣菜俎』には、正月節料理と年始重詰があると書かれており、節料理と重詰とは別だったことがわかります。前述の「諸国風俗問状」の質問の組重は、現在のおせち料理ではなく、祝い肴の喰積のことだったのです。元旦に食べる御節の食膳とは別に、重詰めを喰積と呼ぶ例は明治になってもみられます。もともと正月のお膳をおせちと呼んでいたのが、現在では喰積と呼ばれた重詰めをおせち料理と呼ぶようになったのです。
 江戸の組重が各地で共通していたのは、江戸の文化が参勤交代などで日本各地に広まったからだと想定できます。近代に入ると交通の発展、商業の活発化、婦人雑誌などマスコミの影響もあり、さまざまな要素を取り込みながら変化し、日本の伝統的な正月料理としての位置を占めていきます。そして戦後、生鮮食品の流通の拡大で、地域や階層を越えて広く豊かな食文化として享受できるようになりました。子孫繁盛の数の子、豊年満作の田作り、根深く根強いたたき牛蒡、まめに健康にという煮豆、いずれも縁起の良い食べ物です。そこに、めでたいの鯛、長寿にあやかる海老、子孫繁盛の里芋、芽が出てめでたいクワイ、すくすく伸びる筍、先を見通す蓮根などが加わり、めでたい物尽くしのおせち料理が完成していったのです。最近では刺身やウニ、イクラなどのほか、キャビアやフォアグラ、ローストビーフなども好まれます。それらは2000年頃を境に、高級おせち料理商戦によって急速に普及しています。高級食材と美食グルメという現代人の欲求がそのブームを支えているのです。
 そこから縁起のよい食材、めでたい料理という意味は消えていくのか、それともキャビアは子孫繁盛、ローストビーフは牛の強さ、のように新たな意味を付けられ残っていくのか、それを観察しているのもおもしろいのではないでしょうか。

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文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年11月01日

第8回 蕎麦

 11月は、新そばの季節。秋の新そばは、味も香りも色合いもよく、秋新(あきしん)などと呼ばれ、むかしからそば通(つう)に好まれてきました。麺類が好きな人たちに、うどん派ですかそば派ですか、と尋ねます。すると、うどん派の人はそうでもないのですが、そば派の人はこだわりがなかなか強いようです。そばの味のよさや食べ方について、またそばの名店について、それぞれ自分が知っていることを自慢しあいます。

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 そばが現在のように美味しいごちそうになったのは、歴史的にみてそれほど古いことではありません。そばの歴史をふりかえってみると、むかしのそばは決してごちそうではありませんでした。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に、道明阿闍梨という平安時代中期の高僧にまつわる説話が紹介されています。修行の旅の途中で、山の住人にそばをふるまわれたときの話です。そこで次のような歌が詠まれています。
 ひたはへて 鳥だにすへぬ そまむぎに
   ししつきぬべき 心ちこそすれ

(一面に生えていて、鳥さえ食べないような「そまむぎ(蕎麦)」を食膳に供されて、肝を冷やすほどの心地がしました)
 平安京の都に住む上流階級の貴族や高僧にとって、そばは人間の食べ物とすら考えられていなかったようなのです。道明阿闍梨に供されたのは、蕎麦の粒をそのまま粥にしたものであった可能性があります。あるいはそば粉にして練った蕎麦掻(そばが)きか、そば粉を水で溶いて焼いた蕎麦(そば)焼(や)きだったかもしれません。

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 そばが人気の食べ物になるのは、麺状の蕎麦(そば)切(き)りになってからです。蕎麦切りの初見については多くの人が注目してきました。現在では、信濃国(現在の長野県)木曽郡大桑村須原の定勝寺の『定勝寺文書』の天正2年(1574)3月16日条の「振舞ソハキリ」だというのが定説になっています。定勝寺の修復工事の竣工祝いの品々とその寄進者の名前が記されており、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」などとあり、千村淡路守夫人が酒を徳利で1本とそば粉1袋、金永という人物が蕎麦切りを振る舞ったというのです。その他、蕎麦切りの発祥地については古くから諸説ありますが、やはり信州からだろうというのが定説です。それが江戸時代になって江戸や大坂などの近世都市で流行し、たくさんのそば屋が繁盛していったのでした。江戸時代前期の寛永20年(1643)版『料理物語』には、蕎麦切りの製法が詳しく記され、味付けにも大根の汁、花ガツオ、おろしアサツキの類、からし、わさびなどがよいと記されています。江戸時代中期の寛延4年(1751)脱稿の『蕎麦全書』には江戸におけるそば作りの技法やそば屋の名店とその店のそばの呼び名をたくさん紹介しています。日本のそばの一大発展期は、寛延年間(1748−1951)をはじめとする江戸中期だったのです。

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 現在の日本でそばが話題になるのはやはり年末の年越しそばでしょう。では、その起源はいつころのことでしょうか。現在わかっている範囲では、実はこれも江戸中期、寛延年間のことなのです。寛延3年(1750)の句集『玄峰集』に、「蕎麦打ちて 眉(まゆ)髭(ひげ)白し 年の暮(くれ)」という句があります。蕎麦を打ったので粉で眉や髭が白くなった、という内容です。正月の年取りに際しての縁起かつぎで、そばは長くてのびるから寿命が延びるという長寿の願いが込められているのです。
 私はうどん派かそば派かと問われれば、だんぜんそば派です。陸奥地方に行けばわんこそば、越後ではへぎそば、出雲ではもちろん割り子そばです。旅の楽しみの一つは、その土地の美味しいものを食べることです。日本各地にそばの美味しい店があります。そばは栄養バランスも抜群です。ぜひ秋の新そばを各地で味わってみてはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)