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うさぎのしっぽ 1 [2011年10月16日(Sun)]


9月16日(金) 快晴 うさぎのしっぽパッチワーク教室にて





6月にお邪魔した時、丘の上のこの教室は悲しみに満ちていました。主宰の熊谷和子さんの話は、こちらの胸をも塞ぐようでした。

あれから3カ月、秋の花が豊かな教室の庭にはたくさんの方たちが集まっていてくれました。手を動かしている人たちが持っている、空気というものがあります。
青空の下、きれいな庭での野染めは、ここがあの大船渡であることをしばし忘れてしまうような和やかな雰囲気でした。




前回来た時、そしてこの間郵送したものも含めると、それなりの数のお針箱をお渡ししていましたが、野染後に、今回もお針箱を始め、毛糸などをお見せすると、全員の方たちが喜んで受け取って下さいました。自分の家は大丈夫でも、皆さん必ず仮設などに生活しているお知り合いがおられます。ああやはりここは大船渡なのだと実感します。





手作りのおいしい炊き込みご飯や、地元のブドウなどを頂いた後、てびらこつぎっこが始まりました。宇治の三室戸保育園のこどもや保護者の方たちが5月に染めたものがベースとなりました。いわば、キルティング・ビーのためにある場所。スッと始められる皆さんの指先が違います。静かで濃密な時間が過ぎていきます。







縫われてゆく、ひとつのてびらこ(蝶)の由来や、行方を私たちは想い、願うことしかできません。胸が詰まるような、それでいて温かな時間と場所。居合わせて頂けただけでありがたいと思いました。



大切な友達と、その人が可愛がっていた猫の<たびちゃん>のてびらこ




うさぎのしっぽ 2 [2011年10月16日(Sun)]



この二匹のてびらこの背中には、
小さなてびらこが縫い付けられていました。



京都の清水裕美子さんから送られてきた白と黒のレース地は
てびらこにぴったりの素材となりました。





これからも縫い継がれてゆくてびらこつぎっこ




こちらに戻ってきてから、とても嬉しいニュースを熊谷さんから聞きました。あれから、気仙光陵支援学校の先生たちに、パッチワークを教えに行っているとのことでした。

みんなで針を持ち、布を取り囲んでつぎっこし、ぬぐだまって冬を乗り越えて行ってください。





あるがまま [2011年10月12日(Wed)]



わらび学園のてびらこつぎっこ




今回の旅で、私たちそれぞれの感じ方はもちろん違うと思いますが、皆一様に話した言葉があります。それは知的なしょうがいがある人たちの持っている大きな力のことです。
それは、季村敏夫さん熱い文章でも十分伝わっていると思います。とてつもない大災害のただなかに在って、感受性が極めて強い彼らが、いかに底知れぬパニックに陥ったか、私には想像だにできません。
もちろん一般論では言えないと思いますが、私には、彼らが、物事をあるがままに受け止めることができる人たちのように思われます。あるがままに受け止めることほど大変なことはありません。もろ体に来ることばかりかもしれません。そんな時彼らから発するメッセージは、だからこそ尊いものに満ちているのではとも。それはすごい力でもあり、才能だとも思います。あるがままに感じ深く傷ついた人ほど、こちらの抱えている悲しみや辛さにも敏感なのかもしれません。

こちら側がかたくなな心をどうにか解きほぐして彼らと接しようとした時、そのシグナルをちゃんとすぐに察し、受け止めようとしているのではと感じることがしばしばあります。時に気がつかない位の小さな仕草で、時に満面の笑みで応えてくれ、そして解きほぐしてくれる時間は、本当にありがたいものです。
こんなしんどい被災地のただなかで、ややもすると心に思い鎧のようなものを纏いがちな、しょうがいがない人達にとっても、彼らの存在は大きな救いになっているのではないだろうか。

あの時本当につらい思いをした、彼らの話を聞いて、申し訳ない気持ちが募り、その人たちと出来るだけ楽しい時を持てればと始めた野染の旅ですが、こちらのほうが、彼らにより、硬くなった心と体を楽にしてもらっている。

当面この旅は続くことになりそうです。





色止め、ようやく昨日(9・12)終わりました。




つぎは、同じく大船渡、うさぎのしっぽパッチワーク教室の一日です。







光陵の風を染める 1 [2011年10月10日(Mon)]






 福進丸     
 

 私の父は漁師。

 船は、流されたけど、

 船より、大事な物が、生きているから、大丈夫さぁ〜。

 父さんの船の名前は、福進丸。

 とっても、大好き。

 その名の通り福に育ち

 ゆっくり進み

 福幸(ふっこう)の海をあったかさんと渡る。



ケアホーム希望の佐藤啓子さんから2日前、詩が届きました。


写真提供・清水千佳さん


あの時、山田町は何日も孤立、ご両親やお兄さんが住む大船渡とは、しばらくは連絡が取れず、お互いの安否も確認できないままだったということです。
寒く長い夜を、どんな気持ちでお互い過ごされていたことでしょう。

そして7か月余りを経て、書かれた一篇。

ゆっくりゆこう、福進丸!!




その佐藤啓子さんの母校・大船渡の気仙光陵支援学校(旧気仙養護学校)での野染めは、小、中、高等部が、午前午後と三回にわたり、広々とした校庭、抜けるような青空、150mに及ぶ、ダイナミックなものになりました。



三陸野染の旅のきっかけを作って下さった仲田智佳先生と



友人との〈お別れの会〉の信州・大町で,この支援学校の養護教員の方と出会った事が、三陸・野染の旅のきっかけとなりました。その時のことを書いた文章を添付します。



次回、光陵での野染、お伝えします。


光陵の風を染める 2 [2011年10月09日(Sun)]

9月15日(木) 快晴
大船渡・気仙光陵支援学校の校庭にて



9:30〜 小学部のこどもたちと保護者の人たちと。
真夏のような暑さの中、木陰に集まり、おっちゃんの草笛からスタート





30mの木綿布二本があっという間に染めあがる



一本の刷毛に4人の手



二人の手



11:00〜 中学部の野染スタート 30mが一本


光陵の風を染める 3 [2011年10月09日(Sun)]



一面の夕焼け




高等部も30mを二本、11月の光陵祭の会場を飾る



空と草と体と色と、遊ぶ。夢中になる。




ほどけた身体。深呼吸。





みんなでぼちぼち行こうな


気仙光陵支援学校のホームページにも、この様子が載っています。ご覧ください。(光陵便り 第23号)



ここでちょっと幕間 [2011年10月08日(Sat)]

遠野の祭り  遠野まごころネット前で



今回私たちの旅に同行した人たちは合計で12人。

それを舞台に例えると、出ずっぱりは澤畑明見さん、ポコそして私の3人。最初の3日間があの<ふるさと>のフラダンス、たおやかな踊りで皆を魅了し、ハワイの伝統的な竹の楽器<プーオヘ>で大槌の町の津波・火災跡地で、わらび学園、ケアホーム希望での野染めの始まりにプアーッと吹き亘らせ、風のように去っていった木皿みえさん。
青森・八戸から田老町の野染に駆けつけててくれたのは、前回でも釜石祥雲支援学校での野染を手伝ってくれた、越前純子さん。忙しい仕事の合間の一日に、こんな自然に参加するのもいいなと思います。
神戸から辿り着き、上手(かみて)より登場し、鹿踊りから、銀河鉄道、宮古の物語、自動車内の泣き笑い、小原家の蔵、切なる朗読、あるときは吐き出し、またある時は口ごもりつつ瑞々しい言葉を残してくれた季村敏夫さん。そんな夫を笑顔たっぷりに包みながら、14年に亘る阪神淡路大震災のあの時、それから先の出来事を、名も知れぬ人たちの記録を集め続けている人の、物事を見る目の的確さと温かさを随所に感じたお連れ合いの範江さん。二人は4日間の濃い時間を刻んで、下手(しもて)より退場していきました。
そして二人に入れ替わるように、いつもの静かな風を纏いながら登場してきたのがヒゲさん。終幕近くには大阪からの三人組も登場してきます。


澤畑明見さんは本当に情が深い人。そして手を動かせる人。編み物や縫物の引きだしが豊かな人。私達が訪ねる大変な思いをして生きている人たちの懐に自然に入り、笑ったり泣いたりしています。
ポコは相変わらず穏やかで、どの場所に行っても誰かが寄ってきて、日向ぼっこのお茶っこ仲間のように話しています。そして今回もプロのタクシー・ドライバーのハンドルさばき、ありがたく助手席で楽させてもらいました。舞台で言うと、さしずめベテランの裏方さん。

そしてもう一人の頼もしい裏方さん。私たちの温かな止まり木としておいしい賄、温かな風呂と布団、静かな宿を提供してくれた小原尚子さん。こんな面倒な人たちを迎い入れて下さり、さぞかし大変だったと思います。支援する人を支援するという小原さんの姿勢は今回も揺るぎがありませんでした。感謝です。


そして実はこの旅の舞台の仕掛け人は、先日逝かれた、仙台の加藤哲夫さんではなかろうかと私は今になって気が付き始めています。加藤さんと出合ったこの4月終わりごろ。そのあと、確かに彼はシナリオを書き始め、5月末あたりに台本の第一稿を私に手渡してくれたのでは・・・ 何しろ命がけの台本です。「野染をしたい」と近くの人にしきりに、話しておられたようです。残念です。
大根役者ばかりですが見守っていてください。




左から季村敏夫さん、ポコ、ヒゲさんと澤畑明見さん、季村範江さん。後ろ姿が小原尚子さん。




ポスターにも、まけないぞう



訓練されたボランティアが被災地に行くことの意味はもちろんあると思います。でも私はこの間、通いながら、どんな人でも、やむにやまれぬ思いがあるならば、行っても良いのではと思うようになりました。だいたいが雑居のようにでこぼこした人間がどうにか住み、生きているアホな人間社会。その凸凹が、一人一人、会うべき人に合い、じわじわとした時間の中で相互扶助をしていくような関係が、被災地の中で作られて行けるならば、これもありかなと・・




あれから半年経ってもここはボランティアの拠点遠野まごころネット 




私たちの旅の背後には、本当にたくさんの人たちの思いがあります。
お針箱、毛糸、編み針、布、そしてミシン。それから活動資金としてご寄付を送って下さった方々。その整理やまとめをしてくれているボランティアの人たち。物理的に現地まで行けない人たちも、どうにかして今苦しんでいる人たちの助けに少しでもなればとの思いを強く感じています。
その一人一人の顔が見えるような手渡し方をしていくことは難しいことですが、出来るだけお伝えしていければと思っています。




新潟県・柏崎の チクチクサポート隊からたくさん送られてきた花ふきんのセット。絵葉書には50円切手と、<大切な人に元気ですと便りをしてください>との言葉が添えてありました。渡された人の中には涙ぐむ方もおられました。



阿部智穂さんと共に 2 [2011年10月06日(Thu)]



グリーンピア田老の仮設にて  13:00〜




震災後の今年の四月、取り敢えず被災地に出向き、その地で豊かなネットワークを持つ人たちに出会い、状況をお聞きしてから私に何ができるか考えてみようと思いたち、福島、宮城、岩手と巡る旅をしました。
てくりという岩手に根付いて生活する人たちを、美しい写真と共に丁寧に綴り、挽きたての珈琲でも飲みながらゆっくりと読みたくなるようなミニコミ誌があります。仙台のクラフトギャラリーで、そのてくりを発行している、盛岡の<まちの編集室>の木村敦子さんを訪ねてみたらと紹介されました。
そのとき、被災地で亡くなられた方たちの周りの人たちが、メモリアル・キルトを縫っていく時間と場所を作っていけないだろうかとの、おぼろげなイメージが私にはありました。そのことを木村さんに話すと、<たいまぐら>というところに住んでいる安倍智穂さんに会ってみたらどうでしょうかと、すぐアドヴァイスをいただきました。そのときは、時間的な折り合いがつかずお会いできなかったのですが、電話の向こうの何とも明るい声が印象に残りました。
その後6月に仲間と共に、三陸の被災地を巡る旅をしましたが、同行した澤畑明見さんも、安倍さんのことを彼女の書かれた本から知っていて、ぜひお会いしてみたいとのこと。
そんな風にして、私たちと安倍智穂さんが繋がっていきました。
その明見さんから、グリーンピア田老の、そしてそこに至るまでの文章が届きました。



染めた後、白生地を乗せ、リプリント





人と人とが出会う野染めの旅 
                              

私と斎藤洋さんとの出会いは、私の住んでいる世田谷の雑居まつりで、今から20数年前になります。雑居まつりとは、「地域の問題は地域住民の手で…!」を合い言葉に世田谷にとどまらず他県からも福祉・教育・食・環境・平和・国際協力などさまざまな分野で活動している団体やグループが集まって開催しているおまつりです。ちなみに今年は100団体近い参加を得て36回目を迎えます。
その雑居まつりの生みの親の一人が夫・澤畑勉で、通称ヒゲと呼ばれています。彼の主義主張は、思想・信条を乗り越えて「いのちと人権を守る」こと。これはおまつりのテーマでもあるので、斎藤さんの活動とは、おのずとつながりました。20数年前の雑居まつりでエイズ・メモリアル・キルト展を企画し、ここで出会ったのです。
当時私たち夫婦は区内の児童館・学童クラブに勤務していましたので、雑居まつりの後も、斎藤さんのライフワークである野染めを、折りをみて企画し、楽しませていただいているうちに野染めの魅力にはまり、現在に至っている次第です。
 5年前に私たち夫婦はそれぞれ将来への思いを抱いて、早期退職をしました。夫は大学院へ。私はあるきっかけからバスケタリーを始めました。2年ほど前、京橋のINAXブックギャラリーに参考になる本を探しに行った際に、安部智穂さんの『森の暮らし・たいまぐら便り』(KTC中央出版・2008/6/18発行)を見つけました。暮らしの中の写真がとても素敵で魅力がいっぱい、そして何よりプロフィールを見てますます親近感を覚え,即購入しました。私の本棚の中央に置いてあり時々見ては楽しんでいます。
 3.11 東北大震災以降 放射能の事もあり東北支援をと思いながらも手につかず、悶々としていた時に、斎藤さんの活動のメールが私の目と心に飛び込んできました。
「私にできることがあれば参加したい!」という思いで斎藤さんのこの野染めの旅の活動にご一緒させていただきました。
 6月に岩手方面に行く事を山形の友人に伝えたところ、安部智穂さんも避難所へいち早くお裁縫箱を届けたり、ワークの活動をされていると聞き、斎藤さんに伝えたところ直ぐ安部さんとの活動につながり6月には憧れのたいまぐらへ伺うことができ、この9月にも再会することができました。
 今回は安部さんの活動拠点である樫内・田老の仮設住宅の2か所で野染めをして来ました。そこでの皆さんの手作りへの想いや意識の高さにとても心うたれました。
 樫内で野染め後、お裁縫箱、布、編み針、毛糸など選んでいらっしゃる方が、「次はどんなポシェットをつくろうかな?」と話しながら「もうこれで4個目のポシェットなんですよ!」と言って作品を見せてくださいました。端切れを上手く工夫し、とても楽しんで試行錯誤されている様子がみられ、その時のその方の笑顔がとても印象的でした。
また、夏に向けて帽子作りをしたそうで、やはり端切れや衣類などでリメイクしたものでした。その方にとても良く似合っていて素敵でした。が、何より自分で作ったという気持ちがとても嬉しそうで、その様子が微笑ましかったです。
 田老で出会ったハンチング帽子作家の大棒レオ子さんは野染めをしていた時の様子は快活そのものでしたが、ハンチング帽子を見せてくださった時のレオ子さんは、野染め時のレオ子さんとは思えないほどに真顔で真摯な様子がとても印象に残りました。レオ子さんのお人柄が伺えたように思いました。帽子は、つばのあるものからジーンズをリメイクしたハンチングなど、素材も含めバラエティに富んでいて、お店に並べられるような完成度の高いものでした。
そしてキルトの可愛いエプロンも衣類などをリメイクした作品となっていました。
これから寒くて長い冬を迎えるにあたり、毛糸の帽子など、その季節に添った手づくり品を安部智穂さんが試作に試作を重ね、皆さんに作品を提供しているそうです。
帽子を作られた方が「この帽子を私たちに教えるために、安部さんは3つも4つも作って色々試して教えてくれるんですよ!」とおっしゃっていました。震災後直ぐに活動を始めた安部智穂さんのこれまでの濃やかな関わり方が、樫内・田老の仮設住宅の皆さんの心の励みとなり、手づくりへの意欲が高まり、お互いが育ち合う関係となって、素敵な作品たちを生みだしてきたのだなと確信しています。
何より安部智穂さんの笑顔で皆さんの心の縒りがほぐれていく様子が目に浮かびました。
そんな素敵な出会いに立ち会えたことに感謝しています。


10月6日        深謝  澤畑明見

                            





安倍智穂さんと仲間たち。
この半年力を合わせてきた雰囲気が伝わってきます。
左端が澤畑明見さん




大棒レオ子さんと、帽子たち










安倍智穂さんと共に 1 [2011年10月04日(Tue)]


9月14日(水) 曇り時々雨


宮古市田老・樫内へ



東和の朝は雨、天気が怪しい。内陸と海岸、そして沿岸部でも岩手の北にある宮古と、南の陸前高田ででも、かなり天候が違うことがこの間わかり始めてきて、宮古は大丈夫だろうと根拠のない予測を立て、遠野、釜石、大槌、と馴染みになった道を通り抜け宮古に入る。
季村敏夫さんのルーツともいうべき町。彼の口から何度か聞いた、彼の父母が若き日出会った町、小舟で行きつ戻りつ熱き情を交わしたであろう閉伊川。その川にも津波は上がっていったのだろうか。そこに架かる橋を、彼は車の中からどんな思いで見ていたのだろうか。


宮古市内から二つ目のトンネルを抜けると、6月に来たあの宮古恵風支援学校が近い。4つ目のトンネルを抜けるとやがて田老町樫内。45号線を右手に入りしばらく行くと海寄りの高台に仮設が並ぶ。その先にバブル期の匂いを残すリゾートホテル跡のような洋風の建物群が突然現れる。そこを拠点にしたみやこワーク・ステーションという、障がいを持つ人たちが住み、共同作業所をも併設しているこの場所で、今日初めの野染をすることになる。


昔はホテル前の噴水広場であったような場所に、そのワーク・ステーションの方たちと、近くの仮設の人たちが集まっていました。その中に、今回の野染を呼んでくれた黒田陽子さん(後に黒田さんは私の大学時代の友人の姪に当たる人だとわかり驚きました)、そしてたいまぐらの安倍智穂さんが笑顔一杯で出迎えてくれました。智穂さんとの3カ月ぶりの再会を喜ぶ間もなく、天候があまりにも怪しく早速白生地を張ることに。




今にも降り出しそうな中でも、ダジャレだけは言わなければならない。
笑うことこそ野染。・・・でも早く染めたい人達。




染め始めるとあっという間に20m近い木綿布が見事な秋色に。
小さなこどもが一人参加。笑いを巻き起こし、人々を解き、繋げてくれる。たった一人でもこどもという存在が改めていかに大きな力を持っているかを、今回も感じさせてくれました。(おっちゃんのギャグなど太刀打ちできない)




                       以上、写真は澤畑明見さん提供

染めた布の上に白生地を置き、指先で線を描くと色が浮かび上がる。版画の一つ・リプリントを楽しむ。染料を吸って乾きやすくする効果もある。


染終わるや否や、とうとう雨が落ち始め、やがて本格的な降りに。
本館と、昔は結婚式場らしき建物をつなぐウエディングロードのような屋根つきの通路に急遽皆で、長崎の龍踊りのように布を運び入れ乾かすことに。野染ではこんなこともよくある。そんな時は、雨をも楽しむしかない。雨粒に打たれた野染の布もなかなか美しくて特別なものとなる。(このブログでもリンクしている安倍さんのブログ・森の暮らし たいまぐら便り にもこの時の様子がとてもきれいな写真とともに載せてくれているので是非ご覧を!)



お針箱・毛糸・編み針など受け取っていただきました。前列の左から二番目の人が黒田陽子さん。この地域で踏んばっている様子が伝わってきました。



本館内にある喫茶店で温かいコーヒーをご馳走になり(ワーク・ステーションでは珈琲の自家焙煎もし、販売もしている)一息つき、野染で出来たさまざまな作品(野染の行方)をみんなで見て楽しんだ後に、エイズ・メモリアル・キルトをひろげました。一瞬にしてみんなの目が変わったように感じました。涙をためている方も何人かおられました。今、このキルトを広げることが果たして適切であったかどうか確かなことはわかりません。でも辛い病を抱え、精一杯生きた人たちの思いは、ここで必死に生きる人たちにも辛さだけでない、言葉を超えたメッセージを伝えてくれたと信じます。

この日の終わりに、乾いた野染を取り込みに戻って来た時、染に参加しメモリアル・キルトも見てくれていた、見覚えのあるお二人の人が手伝いに来てくれていました。仮設でたまたま出会ったお二人が、今はかけがえの無い大切な友となったことを話してくれました。笑顔で二人寄り添いながらしてくださった話がとても心に残り、私はなぜか、こんなところまで一緒に来てくれたキルト達のことを想っていました。



阿部智穂さん。
樫内でもとても大切な存在であることがひしひしと伝わってきました。



午後はその安倍さんがチクチクの会をずっと続けているグリーンピア田老の仮設住宅での野染です。雨はいつの間にか上がっていました。