ポートランドの風 5 [2012年07月14日(Sat)]
希望の庭 気付きの庭 ここはアメリカ合衆国・オレゴン州・ポートランドです。日本ではありません。こんな庭は、私が住む京都でもあまりお目にかかれません。来年で50周年を迎えるというこの庭の素晴らしさは、驚きでした。 日本庭園とはその様式ではなく、その精神にあることを、京都から遠く離れたポートランドで学ばせてもらいました。 朝早くから、ボランティアが来て、 なんとも丁寧に、庭の手入れをされています。 ここには100人を超えるボランティアがおります。 私が作品展をさせてもらった、建物の裏手からは、 ポートランドの町が見渡せます。 作品展の展示も整い、レセプションも終わり、作品展がスタート。ここに来るまでの忙しい日々、長旅、そして時差ボケ。疲れた体を深呼吸させたくてようやく庭をゆっくり歩くことが出来たのは、5日目。 雨の多いこの地に、豊かな苔が覆います。 圧倒的な緑の中を歩くうちに、私の中でわき上がって来たのは、ここに来る少し前、仲間と共に巡った三陸の、あの風景でした。8万本もの松が流され壊滅した陸前高田。そしてあの大槌町。田老、山田、唐丹・・・ 人が長年慈しんで来たものが何もなくなったような風景。 それに比して、ここの豊かさとの落差。 あの沿岸の人たちが、度重なる津波を乗り越えて、作り続けてきた美しい風景。その歳月を想いました。それが一瞬にして消滅してしまった3・11。 多くの人や動物、草木の命を失いました。 自然と呼ばれているものは、時として一気に全てのものを壊滅する、圧倒的な暴力でもあり、また、今歩いているこの庭のような豊かな恵みをもたらしてもくれるものでもあります。でも、この庭にしても、たとえば巨大な竜巻などに巻き込まれれば、その50年慈しんできた風景は瞬く間に壊れてしまうかもしれません。 人間のために自然があるのではない。この庭園内に何本もある巨大な杉の木は何百年もの歳月を生きてきている。その間、人と呼ばれる動物は、何世代も生まれ生きそして死んでいった。50年前にここに庭を作った日本人は、もう土に還り、いない。でも、そのバトンを渡された、束の間を生きる人たちがこの庭で木や石や花や水たちと交(まじ)り合いながら在ろうとしている。 当たり前のように人間も自然なんだ。 ここのスタッフの方は、まだようやく50年ですと話された。 ああ、あの被災地も、あと50年かかるかもしれないなと思いました。 でも人、そして山川草木は、こんな庭をともに作っていくことが出来る。 ここは、希望の庭でした。 ウランを最初に掘り出した山は、ネイティブ・アメリカンの人たちにとって、決して、人が手を出してはいけないと固く言い伝えられてきたところだといいます。採掘に駆り出されたのは、最も恐れていた彼らだったのです。人類最初の被爆者はネイティブ・アメリカンの人たちです。そのウランにより、広島、長崎であれだけの人が殺されたのです。同じような言い伝えの中生きてきた、オーストラリヤのアボリジニと呼ばれる人たちもまた、その採掘の前線で、今でも被曝を重ねています。自然(ウラン)は人間のためにあるという、決定的な過ちを繰り返している人間。 50年どころか、百年,千年かかっても取り戻せないようなことをしでかしてしまった人間。 放射能が広大に拡がり続けている国に、今、私は住んでいる。もう庭は作れない土地が拡がり続けてると言ってよいのだろう。 山川草木、ウランとさえ連なって生きている自然としての人間という存在。 人なしでは庭は存在しえない。 原発と庭とは相いれない存在。 ここは、重い気付きの庭でもありました。 そしてとても偶然なことなのですが、私は今月18日からまた一週間ほど、アメリカ合衆国・ニューメキシコ州のサンタフェに、作品展のために行きます。空港はアルバカーキー。そこから車で2時間ほどで標高2,000メートルの砂漠の中のオアシスの小さな町、サンタフェに着きます。ホピやプエブロというネイティブアメリカンの人たちが今も住む居留区が広範囲にわたって点在して住む地域です。そのプエブロの人たちの土地でウランが採掘されたのです。そしてアルバカーキーから遠くないところに<核開発の研究が行われ(マンハッタン計画)原子力の研究所、サンディア国立研究所がある。>のです。 2年前に同じギャラリーで作品展をさせてもらいましたが、その時には勿論津波も、原発崩壊など起こってはいませんでした。 今回の旅も特別なものになるでしょう。 またご報告します。 |