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セボネ8月号特集「世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い〜「戦争体験を聴く会、語る会」より〜」  [2015年08月06日(Thu)]

世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い
〜「戦争体験を聴く会、語る会」より〜


 今年は戦後70年。70年前の8月15日から私たち日本人は、「戦後」を歩んできました。多くの若い“いのち”が失われた戦争を忘れずに、「二度と戦争はしない」と平和への想いを新たにする8月。去る5月23日に開催された「戦争体験を聴く会、語る会」で語られた「世田谷の疎開児童」に思いを馳せ、身近なところで戦後70年の意味をあらためて考えてみたいと思います。

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◆「鉛筆部隊」の子どもたちと特攻隊の出会い

 第8回目となる「戦争体験を聴く会、語る会」のことを知ったのは、セボネ5月号の取材で「北沢川文化遺産保存の会」のきむらけんさんにお話をうかがった時でした。きむらさんたちは、下北沢周辺の文化・歴史の遺産を探り出し、保存する活動を続ける一方で、戦争のことも調べ、戦争体験者の肉声を聞いて、戦争を知らない世代に「戦争とはなにか」を知ってほしい、そして平和の貴さを認識してほしい、と「戦争体験を聴く会、語る会」をスタートさせました。

 2008年の第1回目の「戦争体験を聴く会、語る会」の会場は代沢小学校でした。縁をたどっていくうちに、代沢小学校の子どもたちが疎開先の信州の浅間温泉で出撃前の特攻隊の若い人たちと出会っていた、という史実が明らかになったのです。代沢小は引率の先生が作文に熱心な方で、子どもたちを「鉛筆部隊」と名づけていました。鉛筆部隊と本物の部隊の出会いがあったのです。
 いつも自転車で何気なく通りすぎる代沢小学校にそんな歴史があったのか、と、急に戦争の事実が近くに寄ってきた気がして、かつての疎開児童たちが語るという会を心待ちにしました。


◆世田谷が戦争の歴史につながる

 5月23日の「戦争体験を聴く会、語る会」当日、きむらさんは基調報告の中で、4つのポイントを語りました。

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 ひとつは、なぜこの時期にこういう会を開いているのか、ということです。実は1945年5月24日から25日にかけて、会場となった下北沢の都民教会のあたりは、B29の爆撃が山の手を襲った「山の手大空襲」の被災地となったところでした。10万人のいのちを奪った3月10日の東京大空襲は語られることが多いですが、自分の暮らしているまちがかつてすざましい爆風に襲われた、ということを私は知りませんでした。山の手へ追い打ちがかかる中で、なかば敗戦は宣告されていたのにそれでも戦争は終わらなかったのです。

 2つ目に、「体験者から学んだこと」は「戦争は始まったら終わらない。誰も戦争をやめようとは言わなくなる。死や飢えをなんとも思わなくなる。人間を人間と思わない。人間が武器の代わりに使われてしまう」ということ。
 3つ目は「疎開児童」という、あまり語られることのないテーマ。浅間温泉には世田谷から7校、2500人が疎開し、その時に沖縄に向かう飛行機が松本飛行場にやってきたという隠れた近代の歴史。そして子どもたちが体験した心理的にも肉体的にも苦痛だった疎開生活の酷さです。
 4つ目は、戦争中に浅間温泉に飛来した特攻隊。
 この4つのポイントを軸に、体験者である「疎開児童」が浅間温泉での「特攻隊」とのふれあいを語る、というのがこの日のプログラムでした。


◆特攻隊の若者の思いを聴く

 昭和20年3月の数日間、世田谷の疎開児童たちと出会った特攻隊(武揚隊)の若者15人が、出撃の前日の壮行会に「別れの歌」を東大原小学校の100数十名の女子の前で歌を披露しました。その歌がなんと70年ぶりにこの日再現されました。サプライズの主役は東大原小の疎開児童だった、秋元佳子さん。秋元さんが歌詞とメロディを覚えていたおかげで、たった一時で消えるはずだった歌が、奇跡的に70年ぶりに蘇りました。「タイトルはないので仮に『浅間望郷の歌』としておきます」ときむらさん。秋元さんは記憶の中の歌をメロディをつけてアカペラで歌いました。

1.広い飛行場に黄昏れ迫る
  今日の飛行も無事済んで
  塵にまみれた飛行服脱げば
  かわいい皆さんのお人形

2.明日はお発ちか松本飛行場
  さあッと飛び立つ我が愛機
  かわいいみなさんの人形乗せて
  わたしゃ行きます◯◯へ

3.世界平和が来ましたならば
  いとしなつかし日の本へ
  帰りゃまっさき浅間をめがけ
  わたしゃ行きます富貴の湯へ

DSC04039s.jpg 秋元さん-m.jpg
特攻隊員が歌った歌を秋元さんが記憶していた

 秋元さんの記憶力にはびっくりです。都会のかわいい女の子たちが心をこめてつくったお人形を飛行機に乗せて、沖縄に「死ぬために」向かう、前途洋々たるはずの若者たち。切ない思いが、こちらにもずーんと伝わります。きむらさんは「これは戦争の時代に『平和』を歌った歌ではないか」といいます。

 特攻隊は、日本の負けが明らかになっている戦争末期に、爆弾を搭載した飛行機で敵艦に体当たりする「自爆」作戦ですから、帰って来られるはずもなく、「今度会うのは九段の花の下」、靖国神社が最終ゴールだったわけですが、この歌では、真っ先にめがけるのは靖国ではなく、浅間温泉です。この時期「世界平和」という言葉が出てくるのも不思議です。「『きけ、わだつみの声』に載っている長谷川信少尉は武揚隊に属し、富貴の湯に滞在していたのです。彼の言葉かもしれない」ときむらさんは推測します。長谷川少尉は「…恐ろしき哉 浅ましき哉 人類よ、猿の親類よ」と戦争の本質、人間の本質を鋭く衝いた青年でした。

 この日は、きむらさんとブログで偶然知り合ったという作曲家の明石隼汰さんが音源から採譜して楽譜にし、ピアノの伴奏をつけて本格的に歌う、というダブル・サプライズがあり、感動はさらに深まりました。

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明石さんの協力で再現された歌が披露された


◆元「疎開児童」から学び、考えること

 浅間温泉で疎開生活を送った、かつての世田谷の国民学校生徒たちが、次々と経験を語ります。「きむらさんと出会って、戦争は絶対にダメ、と若い人たちに話さなければいけないと決心した」小市さん(山崎小)は、「一生会えないかもしれない母の握った白米のおにぎりを大切に持っていたら、カビが生えてしまった」と今でも無念そう。同じく山崎小の長谷川さんは「疎開は地獄で監獄のようだった。『欲しがりません、勝つまでは』の世界。今、戦争になったとしてやめる自衛隊員がいれば、必ずや徴兵制となります」と危機感をあらわにします。

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学童疎開経験者が当時を語る

 代沢小の「鉛筆部隊」にいた鳴瀬さんは、起床ラッパを吹き、疎開中は欠食児童だったと語りました。松本に軍需産業の工場が移るなど、疎開児童たちに危険がせまるとお寺などに再疎開。「食料不足で、すいとん、生のさつまいも、蜂の子、バッタを焼いて食べた」という話もありました。


◆身近にある戦争の面影

 先生が提灯で道を照らし、代沢小の子どもたちが親元を離れ、真っ暗な町を下北沢駅に向かって歩いていき、父母たちの悲痛な声をあとに新宿行きの小田急線が駅を出て行く。そんな光景がきむらけんさんの著書『鉛筆部隊と特攻隊』(彩流社刊)から浮かび上がります。胸が締め付けられるような切なさを覚えます。代沢小から下北沢駅までの茶沢通りでしょうか。70年前の出来事を知ったあとは、何気なく通り過ぎる町並みも違って見えます。
 下馬にある「世田谷観音」。ここには特攻兵の霊が祀られている、と初めて知りました。子どもたちが遊び、プレーパークもある世田谷公園は、かつて駒沢練兵場でした。砧公園も代々木公園も、すべて戦争のために使われる場所であったのです。

 この8月、世田谷公園に平和資料館がオープンします。人びとが平和に憩う公園を70年前に戻してはいけない。いつまでも「戦後」と言い続けたい。節目の年、体験者の話に耳を傾け、身近な馴染みの場所を訪ね、あらためて戦後70年の意味を考えてみませんか?
(取材/星野弥生)
Posted by setabora at 10:31
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https://blog.canpan.info/setabora-vc/archive/149