地域の再生と新しいコミュニティづくりの記録
〜『まだ見ぬまちへ〜石巻・小さなコミュニティの物語〜』より善海田稲荷の二本の松(写真/青池組facebookより)
2011年3月11日からまもなく7年。津波で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市の太平洋に面した門脇・南浜・雲雀野地区で、青池憲司監督(青池組)は震災後からカメラを回し、地域の再生と小さなコミュニティづくりのプロセスを撮り続けてきました。
毎年1月に震災の記録映画を区内で上映し続けている「神戸をわすれない・せたがや」の第31回目の会で、青池監督の最新作『まだ見ぬまちへ』が上映されました。
◆日々のくらしを描く 神戸市長田区の野田北部・鷹取地区で1995年の地震後、地域と人びとの復興と再生の様子を撮り、14巻もの長編ドキュメンタリーを製作してきた青池憲司監督とスタッフ(青池組)は、3.11以後、石巻で撮影を開始。これまで宮城県の門脇小学校と周辺地域を舞台とした「子どもたち」が主人公の二作『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』『津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録』を世に出してきました。
2012年の夏から1年かけて上映会を行い、一段落した2013年秋に、「大人たちはどうしているんだろう」と気になり、もう一度石巻に入り直し、2014年の3月11日から新たな作品を撮り始めました。映画はそれからの3年半を中心に、以前に撮っておいた映像を足した6年半の記録です。
時の流れとともに目の前に展開されていく映像は、見るほどに馴染みになっていく住民の方々と共有していくようで、2時間半はあっという間でした。青池さんは上映開始にあたり、こんなふうに話しました。
「2014年に再度撮影に入った時期は震災後4年目に入る時期でした。地震・津波のあとの3年は変化が激しく、風景も含めて被災地の世の中が動いていく時期ですが、4年目はある意味では一段落して、ガレキが片付き、更地の状態になった。風景はほとんど変化していかないし、人の心の揺れ動きも、ある程度落ち着いたまま、かなりの時間続いていく、そういう凪の状態でした。
『そういう時期に映画に何ができるか、何も起こらないで映画になるのだろうか』と不安になりながらの3年半の撮影でした。何も起こらないけれど、少しずつ日々のくらしは過ぎていくわけで、そういう時間を少しでもすくい上げることができたかな、と思っています。
映画作品を完成させるには『起承転結』みたいな力学が働くわけですが、この映画は『結』がなくて『転転』みたいな…。東日本の震災からずっと地元でお付き合いしていると、神戸と比べたら時間の量、ベクトル、質量がはるかに違う大きな出来事で、とても私一代では捉えられない要素があります。やっぱりプロセスを伝えるしかないという思いでまとめ、こういう映画なんだと少しずつ自分の納得がいくようになってきたという状態です」
そのプロセスは映画を観ていただくしかありませんが、印象的だった場面をいくつか紹介する中で、想像し共感していただけたらと思います。
世田谷での上映会、青池監督が作品への想いを語った
◆自然に始まった「まねきコミュニティ」 津波が家屋も車もすべてを押し流し、門脇小学校の校舎に打ち付けたあの日、子どもたちも地域の人たちも「登れ!登れ!」の掛け声とともに日和山へのぼりました。3つの町1,772戸のうち、家屋の大破流出をまぬがれたのはその山裾に建つ十数戸のみでした。人びとは直後から寄りあって生活を始めます。
「この世の終わりかと思いました」と遠藤佳子さん。「残った世帯にある食べ物を供出し、本間英一さんのテニスコート事務所にあったお米をみんなで分けて食べました」お年寄りが多いこの地区では助け合いが不可欠です。江戸時代からの湧き水をバケツリレーで運び、寒い時だったので外にかまどをつくってビニールで覆い、なんとか生き延びようと思案します。
「街灯が点いた日、みんなで外に出ました。本当に明るいと思いましたね」
自然に始まった寄り合いの場。遠藤さんは言います。「本間さんとはそれまであまり話したことがなく、『おはよう』くらいでしたけれど、今度のことで絆が深まりました」コミュニティには「まねきコミュニティ」という名がつきました。日和山の中腹に江戸時代からの「まねき所」という、旧北上川の河口を出入りする千石船に旗を振って航行の安全を指示した小屋があったのです。「新しい人を招き入れ、人がどんどん増えて新しいまちになるように」との思いをこめての名前でした。
「かどのわき町内会」発足の記念撮影(2016年6月)
◆風景が、環境が変わっていく 門脇小は140年の歴史がある学校。校舎の半分が焼けて今もそのままの状態です。残すか壊すかをめぐり、住民と行政が議論を続けています。居住不可地区となり原野と化した南浜、雲雀野には復興祈念公園ができることになっています。その計画に住民の意見を反映させるためのワークショップが開かれました。子どもたちも含めたワークショップでアイデアを出し、フィールドワークを行い、震災前の生活でなじんだ場所を歩きました。
海の事故が起きないように祈る儀式の場だった「善海田稲荷」。「ぬれ仏堂」の仏様は津波で行方不明に。「海に帰られたのだ」と人びとは言います。環境デザイナーの阿部聡史さんが湿地を案内します。日和山からの地下水が溜まったところにはメダカが帰ってきています。
2015年3月11日は4回目の慰霊祭。356人が津波の犠牲となり、142人の行方がまだわかっていません。すべてが流されたあとの土から、かぼちゃとミニトマトの芽が自然と出てきました。それを見て、ならばできるだろうと、遠藤さんは自宅の庭で野菜づくりを始めます。じゃがいもやサヤエンドウを植えています。
「見る景色が変わっていきます。震災直後は海がこんなに近かったかとびっくりしましたが、今は見えるのがあたりまえです。でも防潮堤ができるとまた見えなくなってしまいます。それが恐いようで」と遠藤さんは話します。
津波で流された門脇保育所の園長はこう語ります。
「毎月避難訓練をしていました。門脇小が避難場所でしたが、山の上の石巻保育所の方が安全だからそっちへ、と子どもたちを抱えて登りました。お昼寝後の着替えをいやがる園児たちも、訓練の時は5分で着替えます。自分のいのちを守ることを徹底しなくてはなりません」
15年の秋、復興公営住宅が2箇所に建ち、151世帯が入居することになります。復興住宅に入ってくる人たちを仲間に入れてこそ本当の復興と考え、暮れのお餅つきには新しい住人の方々も参加。来られなかった人たちにはつきたてのお餅を配りました。16年6月には本間さんを町会長とする「かどのわき町内会」が発足しました。一度は更地になった土地も、人の手が入るようになると、湧水池に汚染が見られるようになります。でも、今にも枯れそうな善海田稲荷の二本松の根元には若木が育ち始めています。
復興住宅の集会所での餅つきには新旧の住民が集まった。餅のつき手が遠藤さん。
避難所や仮設住宅から人が戻ってきても、店が一軒もないのは困ると、この地域で震災後初めての商店として、本間さんたちは日用雑貨を扱う「まねきショップ」をオープンさせました。17年の夏祭りの頃には住民は175世帯350人へと増えました。地蔵講では副住職が「まちの中の思い出を保って、地蔵とともに暮らしたことを伝えていってほしい」と語ります。
地域を見守るお地蔵さん
◆終わりのない「まだ見ぬまちへ」 上映後に参加者からの感想が寄せられました。震災後、神戸の長田神社前商店街の商品をカタログにし、全国から「買うことで街を元気にしよう」と、「寝ていてもできるボランティア」を発案した女優の黒田福美さんはこの映画でナレーションを担当。
「監督は『起承転結の結がなくて』とおっしゃいましたが、『結』というのは後世の人たちが映像を通して『なるほど』と思う時なのではないかと思いました。神戸があったから、ここにいらっしゃるみなさんも、東日本、これから起こるかもしれない、まだ見ぬ被災地に思いを寄せるようになったのだと思います。映画の中から人の強さと優しさを感じさせていただきました」
昨年「セボネ7月号」にも登場した「エコロジカル・デモクラシー財団」を立ち上げた若者の一人、東工大の吉田祐記さんは「コミュニティを取り戻すことと、自然との関係を取り戻すということの構図が丁寧にはっきり見えて素晴らしいと思いました。環境が変化する中で語られる茫漠とした不安の言葉から、海や川や山といった自然とどう付き合っていくのかを考えさせられました。まさにエコデモですね」と感想を述べました。
コミュニティにはエンドがなく、プロセスがずっと続くということ、そのことが『まだ見ぬまちへ』というタイトルにこめられているのだと改めて気付かされます。
(取材/編集委員 星野弥生)
●『まだ見ぬまちへ』公式サイト
https://aoikegumi.shinsaihatsu.com/madaminumachie/