人民元切り上げ問題の展望と日本への影響
[2010年04月01日(木)]
「米国財務省からは一貫して人民元切り上げ要求を受けている」。3月下旬、食事を供にした中国の国際金融当局関係者は筆者にそう語り、「切り上げ幅について具体的な数字の提示こそないが、『2005年のような調整を再度行うべきだ』との要求を受けている」と述べた。
中国は、従来1ドル約8.3元に固定していた人民元レートを2005年7月から2008年7月まで緩やかに上昇させてきていたが、世界金融危機の顕在化のために現在は1ドル約6.8元で再び固定している。
「元の過小評価が米国の実業界や労働者に及ぼす経済的影響は非常に大きい」。3月15日、米国下院議員130名は、中国が人民元を切り上げないならば中国製品に輸入関税を課すよう求める書簡をガイトナー財務長官とロック商務長官に送った。書簡は、米財務省が4月15日に公表する報告書で中国を「為替操作国」として認定し、対抗策を講じることも求めている。
これに先立つ3月11日には、オバマ大統領も「中国が、より市場原理に沿った為替レートを目指せば、世界経済の不均衡解消に向けた努力に重要な貢献となる」と指摘している。米国が人民元の切り上げを強硬に要求する背景には、大統領の支持率低下や失業率の高止まりといった国内事情があるものと考えられる。
一方の中国は、2005年7月から2008年7月までに人民元が21%上昇したことで、温家宝総理が「人民元レートは過小評価ではない」と反論している。
そもそも現在の人民元レートが適正であるか否かにかかわらず、海外からの圧力に屈して切り上げを行うことは、中国国内の反発を招く恐れがある。人民銀行の周小川総裁も「中国も雇用創出という極めて困難な任務に直面している」として、「人民元切り上げを要求する(海外からの)雑音は、この問題の解決にとって何の役にも立たない」と述べている。
1.人民元の適正レートは
ピーターソン国際経済研究所のフレッド・バーグステン所長は、3月24日の下院歳入委員会の公聴会において、「人民元相場は米ドルに対して40%過小評価されている」と指摘した。
これは購買力平価で考えれば人民元の適正レートは40%程度過小評価されているということだろうが、購買力平価は長期的な為替の均衡水準を示す一つの考え方にすぎない。現在1ドル90円台にある日本円も購買力平価で言えば1ドル160円程度が適正レートとされるが、多くの資源エネルギーや食料を輸入に頼る日本にとって、本当にこれほどの円安水準が「適正」なのかは疑問である。
一方では、1995年から2005年までの10年間、中国は10%近い高成長を続けていたにもかかわらず、人民元レートを1米ドル=約8.3元に人為的に固定してきたことによって、実質実行レートでは10〜15%程度過小評価されていたという見方がある(清水2006)。2005年から21%上昇した現在の人民元レートは、この5年間の経済成長などを加味しても、決して過小評価されている訳ではないとも言える。
結局、適正レートを人為的に定めることは大変難しい。なぜなら、世界全体の長期的な均衡にとって適正なレートと、中国経済の短期的な安定にとって適正なレートとは、必ずしも一致しないからである。経済学でも為替の適正レート算出について従来から盛んに研究されてきているが、立場等の違いから複数の理論が存在している。
一つ言えることは、人民元レートを米ドルに対して人為的に固定しておくことは、世界的な貿易不均衡を招く可能性があるばかりでなく、名目為替レートが中国の国内均衡(完全雇用や低インフレ)を満たす均衡実質為替レートから乖離が進む可能性が高いということである。こうした状況を避けるためには、市場メカニズムによって自然に人民元レートが調整されるようにせねばなるまい。
したがって、今の人民元は急激な切り上げこそ必要としないにせよ、2008年7月以来米ドルに対して人民元レートを人為的に固定している政策をできる限り早く終了し、以前のように市場メカニズムを通じた緩やかな調整を許すような為替政策へ復帰することが中国の安定的発展にとって重要だ。
この点、中国も、人民銀行を中心に世界金融危機に対する緊急対応から脱し、人民元レートを再び柔軟化するタイミングを図っていると聞く。一時に大幅な切り上げが行われることはないにせよ、2005年7月のように静かに人民元レートを柔軟化させるのは時間の問題だろう。
2.日本への影響は
仮に人民元レートが上昇した場合、日本に影響を与えるルートは主に3つある。すなわち、(1)日本円レートに与える影響、(2)中国から日本への輸入に与える影響、(3)在中国日系企業から第三国(欧米)への輸出に与える影響の3つである。
このいずれのルートにおいても、2005年7月以来の人民元レート上昇が日本に与えた影響は、ほとんどなかったと言ってよかろう。
人民元レートの上昇が始まった頃は、経済的につながりの深い日本の円も、人民元相場の上昇につれて急激な円高になることが危惧されたが、こうした現象は実際には発生しなかった。
また、中国から日本への輸入や在中国日系企業から第三国(欧米)への輸出についても、人民元レートの上昇が大きな影響を与えることはなかった。輸出と輸入をトータルで見れば、人民元レート上昇の影響は相殺され、日本企業への影響はほとんどなかったと言える。
人民元切り上げを強硬に主張する米国と比較すると、日本では今のところ人民元切り上げを求める声は大きくない。その背景には、(1)米国が中国に対して巨額の貿易赤字を計上しているのに対し、日本は中国に対して貿易黒字を上げていること、(2)多くの日本企業が中国の工場から欧米市場に製品を輸出していることなどの理由が指摘できる。
ただし、日本においても、人民元レートを人為的に管理すべきでなく、できる限り市場の調整に委ねる方が好ましいという見方が支配的である。なぜなら、市場メカニズムを通じた人民元レートの適切な変動こそ、中長期的には世界全体の貿易不均衡や中国自身の安定的発展に有利だからである。例えば、野田佳彦財務副大臣も、3月15日の記者会見で、「基本的には人民元の柔軟化が世界経済、中国経済にとってもプラスと思う」と述べている。
米国が人民元の切り上げを強硬に要求する背景が、オバマ大統領の支持率低下や高失業率の継続といった国内事情である一方、中国が易々と米国の要求に応じることができない理由も主に国内事情である。
どこの国の外交政策や通商政策も、国内事情から独立ではいられない。この点においては、米国も、中国も、日本も、みな同様である。国内事情を背景に不合理な要求をしてくる相手国を罵るだけでは、問題解決はしない。重要なのは、お互いの国内事情を理解し合い、冷静な対話を通じて、相互に受け入れ可能な解決策を探る努力である。
「中国も、現状の経常黒字の積み上がりを決して快くは思っていない。できれば米国とは冷静に話し合いたいのであって、自国の国内事情を全て中国に押し付けるのはやめてもらいたい。」冒頭の中国国際金融当局者も、そう語っていた。
【参考文献】
清水聡(2006)「人民元の均衡実質為替レートの推計」『アジア経済』第47巻第11号、2-28
白井早百合(2004)『人民元と中国経済』日本経済新聞出版社
(東京財団HPより再掲)
中国は、従来1ドル約8.3元に固定していた人民元レートを2005年7月から2008年7月まで緩やかに上昇させてきていたが、世界金融危機の顕在化のために現在は1ドル約6.8元で再び固定している。
「元の過小評価が米国の実業界や労働者に及ぼす経済的影響は非常に大きい」。3月15日、米国下院議員130名は、中国が人民元を切り上げないならば中国製品に輸入関税を課すよう求める書簡をガイトナー財務長官とロック商務長官に送った。書簡は、米財務省が4月15日に公表する報告書で中国を「為替操作国」として認定し、対抗策を講じることも求めている。
これに先立つ3月11日には、オバマ大統領も「中国が、より市場原理に沿った為替レートを目指せば、世界経済の不均衡解消に向けた努力に重要な貢献となる」と指摘している。米国が人民元の切り上げを強硬に要求する背景には、大統領の支持率低下や失業率の高止まりといった国内事情があるものと考えられる。
一方の中国は、2005年7月から2008年7月までに人民元が21%上昇したことで、温家宝総理が「人民元レートは過小評価ではない」と反論している。
そもそも現在の人民元レートが適正であるか否かにかかわらず、海外からの圧力に屈して切り上げを行うことは、中国国内の反発を招く恐れがある。人民銀行の周小川総裁も「中国も雇用創出という極めて困難な任務に直面している」として、「人民元切り上げを要求する(海外からの)雑音は、この問題の解決にとって何の役にも立たない」と述べている。
1.人民元の適正レートは
ピーターソン国際経済研究所のフレッド・バーグステン所長は、3月24日の下院歳入委員会の公聴会において、「人民元相場は米ドルに対して40%過小評価されている」と指摘した。
これは購買力平価で考えれば人民元の適正レートは40%程度過小評価されているということだろうが、購買力平価は長期的な為替の均衡水準を示す一つの考え方にすぎない。現在1ドル90円台にある日本円も購買力平価で言えば1ドル160円程度が適正レートとされるが、多くの資源エネルギーや食料を輸入に頼る日本にとって、本当にこれほどの円安水準が「適正」なのかは疑問である。
一方では、1995年から2005年までの10年間、中国は10%近い高成長を続けていたにもかかわらず、人民元レートを1米ドル=約8.3元に人為的に固定してきたことによって、実質実行レートでは10〜15%程度過小評価されていたという見方がある(清水2006)。2005年から21%上昇した現在の人民元レートは、この5年間の経済成長などを加味しても、決して過小評価されている訳ではないとも言える。
結局、適正レートを人為的に定めることは大変難しい。なぜなら、世界全体の長期的な均衡にとって適正なレートと、中国経済の短期的な安定にとって適正なレートとは、必ずしも一致しないからである。経済学でも為替の適正レート算出について従来から盛んに研究されてきているが、立場等の違いから複数の理論が存在している。
一つ言えることは、人民元レートを米ドルに対して人為的に固定しておくことは、世界的な貿易不均衡を招く可能性があるばかりでなく、名目為替レートが中国の国内均衡(完全雇用や低インフレ)を満たす均衡実質為替レートから乖離が進む可能性が高いということである。こうした状況を避けるためには、市場メカニズムによって自然に人民元レートが調整されるようにせねばなるまい。
したがって、今の人民元は急激な切り上げこそ必要としないにせよ、2008年7月以来米ドルに対して人民元レートを人為的に固定している政策をできる限り早く終了し、以前のように市場メカニズムを通じた緩やかな調整を許すような為替政策へ復帰することが中国の安定的発展にとって重要だ。
この点、中国も、人民銀行を中心に世界金融危機に対する緊急対応から脱し、人民元レートを再び柔軟化するタイミングを図っていると聞く。一時に大幅な切り上げが行われることはないにせよ、2005年7月のように静かに人民元レートを柔軟化させるのは時間の問題だろう。
2.日本への影響は
仮に人民元レートが上昇した場合、日本に影響を与えるルートは主に3つある。すなわち、(1)日本円レートに与える影響、(2)中国から日本への輸入に与える影響、(3)在中国日系企業から第三国(欧米)への輸出に与える影響の3つである。
このいずれのルートにおいても、2005年7月以来の人民元レート上昇が日本に与えた影響は、ほとんどなかったと言ってよかろう。
人民元レートの上昇が始まった頃は、経済的につながりの深い日本の円も、人民元相場の上昇につれて急激な円高になることが危惧されたが、こうした現象は実際には発生しなかった。
また、中国から日本への輸入や在中国日系企業から第三国(欧米)への輸出についても、人民元レートの上昇が大きな影響を与えることはなかった。輸出と輸入をトータルで見れば、人民元レート上昇の影響は相殺され、日本企業への影響はほとんどなかったと言える。
人民元切り上げを強硬に主張する米国と比較すると、日本では今のところ人民元切り上げを求める声は大きくない。その背景には、(1)米国が中国に対して巨額の貿易赤字を計上しているのに対し、日本は中国に対して貿易黒字を上げていること、(2)多くの日本企業が中国の工場から欧米市場に製品を輸出していることなどの理由が指摘できる。
ただし、日本においても、人民元レートを人為的に管理すべきでなく、できる限り市場の調整に委ねる方が好ましいという見方が支配的である。なぜなら、市場メカニズムを通じた人民元レートの適切な変動こそ、中長期的には世界全体の貿易不均衡や中国自身の安定的発展に有利だからである。例えば、野田佳彦財務副大臣も、3月15日の記者会見で、「基本的には人民元の柔軟化が世界経済、中国経済にとってもプラスと思う」と述べている。
米国が人民元の切り上げを強硬に要求する背景が、オバマ大統領の支持率低下や高失業率の継続といった国内事情である一方、中国が易々と米国の要求に応じることができない理由も主に国内事情である。
どこの国の外交政策や通商政策も、国内事情から独立ではいられない。この点においては、米国も、中国も、日本も、みな同様である。国内事情を背景に不合理な要求をしてくる相手国を罵るだけでは、問題解決はしない。重要なのは、お互いの国内事情を理解し合い、冷静な対話を通じて、相互に受け入れ可能な解決策を探る努力である。
「中国も、現状の経常黒字の積み上がりを決して快くは思っていない。できれば米国とは冷静に話し合いたいのであって、自国の国内事情を全て中国に押し付けるのはやめてもらいたい。」冒頭の中国国際金融当局者も、そう語っていた。
【参考文献】
清水聡(2006)「人民元の均衡実質為替レートの推計」『アジア経済』第47巻第11号、2-28
白井早百合(2004)『人民元と中国経済』日本経済新聞出版社
(東京財団HPより再掲)




