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被災地を応援する加古川市民ネットワーク−中間報告会 [2012年01月12日(Thu)]

シーズ加古川の岩本です。

あけましておめでとうございます。
昨年のシーズ加古川の活動のご理解ご協力頂きありがとうございました。
今年も一番若い若者として、楽しみつつがんばります!!

今回、タイトルの通り東日本大震災に対して
加古川から出来る事を!!ということで結成された
「被災地を応援する加古川市民ネットワーク」の
中間活動報告会が行われました。



25名ほどの方が参加され
震災発生当初から活動されている方、
またその活動をサポートされてきた方たちとの
活発な意見交換が行えました。



今回みなさまからお預かりしている支援金の
一部を岩手県の以下の6つの団体に助成することが決定されました。

・一般社団法人 おらが大槌夢広場(大槌町)
・NPO法人 いわてGINGA−NET(盛岡市)
・「復興ぞうきんプロジェクト」(盛岡市)
・まちづくりチーム「げいぐり」(山田町)
・まちづくりチーム「M.A.D」(宮古市)
・もりおか復興支援ネットワーク(盛岡市)

また、これからの助成方法に関しても
様々な意見が交わされており
・団体に対する助成から、団体の行う゛活動゛に対する助成を行うこと
・雇用の創出につながる活動を行っている団体に対して助成を行うこと
・民間の良さを活かして、難しい書類などの提出は求めずに
 しかし、助成をして満足ではなく、その団体がどのように活動していくか
 継続的にサポートを行っていくことが重要なるのでは
といった提案・意見があり、
これからの支援活動をより充実させていくための意見交換が行えました。

これからも、運営事務局のシーズ加古川として
スタッフを定期的に派遣し、現地の団体の活動や
頑張っている人との意見交換を通し
岩手などの状況を加古川の方がにお伝えし、
支援につなげていきたいと思っています。

これからの活動に対しても
ご支援ご協力をいただけますようお願い致します。

(岩本順平)
岩手 [2011年10月31日(Mon)]

8月初旬から2か月、10月はもう一人追加して2名を現地に常駐させて、山田町の災害ボランティアセンター支援や、仮設住宅でのコミュニティづくりのお手伝いをしてきました。現地でのニーズは刻々と変わりますが、災害ボランティアセンターの位置づけも大きく変わることもあり、緊急支援的な活動は一つの区切りをつけたいと思います。
今後は、中間支援として、岩手の中間支援組織を支援する活動に中心を移していこうと思います。
沿岸部では、そろそろ行政がまちづくり計画を発表しつつあり、そんな中で「まちづくり協議会」を作ろうという動きや、新たに中間支援NPOを立ち上げようという動きがあり、そのような動きもサポートしていこうと思っています。

理事長 田中 茂
東日本大震災支援活動に関して [2011年10月19日(Wed)]

シーズ加古川の岩本です。

東日本大震災復興支援活動として8月初旬から10月15日まで
岩手県下閉伊郡山田町という町の
山田町災害ボランティアセンターを拠点として山田町社会福祉協議会や
他のNPO法人、NGO団体と協力・連携し復興へむけて一丸となり活動を行いました。
東日本大震災復興支援活動として岩手県に私が行くのは今回で終了の予定です。
2ヶ月間で培ったつながりを活かして加古川から岩手県や福島県、宮城県に対する
復興支援活動を行いたいと思います。

「支援」ということに関し私が感じたことを記します。

支援をするにあたり私は幾つかのプロセスが必要だと感じています。

まず、支援をする前に一つ考えていただきたいことがあります。
それは「何のために支援をするのか?」ということです。
この時点で、不純な動機がたくさんある場合は考え直した方がいいと思います。
本当に、岩手・福島・宮城の人の事を想っているのか。
これは重要です。

また次に必要だと感じることは現地の人とのコミュニケーションです。
支援活動をするにあたって現地の情報は重要です。
実際に求められているものを提供しなければ支援になりません。
岩手や宮城や福島の人達が何を求めているのか。
こういったことは、現地の方とコミュニケーションをとらなければ分かりません。
もし、私達が必要だと思ったとしても、必要だと理解して頂かないと無駄なモノになってしまいます。
信頼関係の構築できたコミュニケーションが必要です。

最後ですが、リターンを期待しないということだと思います。
感謝してほしい。
と、露骨に思っている方は少ないと思いますが、
何かしらのリターンを期待してるのだろうと思われる支援は多くあり、そして迷惑です。

これら3つのプロセス
1.何のために支援するのか?ということを考える
2.現地の人とのコミュニケーションをとる
3.リターンを期待しない支援を行う
は、当たり前のことのように思いますが、実際支援を進めていくと変化していきます。
常に、頭に置いておくことで現地の人が喜ぶ支援が行えると思います。

これからのシーズ加古川としての支援活動ですが、
現在、職員の津田が山田町に常駐しています。
現地の情報に関しては津田が対応できると思います。
また、私も今は加古川ですが、現地と連絡を密にとっていますので
情報が必要なときや、支援活動を行いたいと思われている方は
是非ご連絡いただければと思います。

復興はまだまだ始まったばかりです。
これからも支援は必要とされています。
岩手や宮城、福島のことを過去のことにせず
支援ということを考えていただければと思います。

ご質問・ご意見はシーズ加古川の岩本へよろしくお願い致します。

(文責:岩本順平)
岩手県の山田町から [2011年09月11日(Sun)]


シーズ加古川 超若手の岩本です!!

岩手県の山田町で活動しています。

今も前のブログの時と同じように
山田町災害ボランティアセンターで活動しています。

今日9月11日でちょうど
東日本大震災から半年がたったわけですが。

山田町災害ボランティアセンターの様子も
山田町の様子も少しずつ変わってきています。

まわりの町でもそうですが
徐々に復旧ということは徐々に終わってきていると思います。

今からが「復興」の始まりなのかなぁ。と、感じています。

ボランティアセンターではボランティアの方々に
地元のニーズをひろって、作業を依頼しているのですが
力作業のニーズ、必要性は低下してきています。

今までの物質的な支援ではなく、
これからやっと「心のケア」というところに活動が変わっていくことが
必要なんだと思います。


私が、この町に来て感じたことですが。
この町の復興は、この町の人がしたいように
していくのが一番いいように感じます。

山田町というところは震災以前では2万人ほどの規模の町でした。
今は1万7千人台にまで少なくなっています。

しかし、人の数は少なくても、山田町には山田町の文化があり
歴史があり、価値観があります。
それは、外から見たらなかなか分かりづらいことなのかもしれませんが。
そういった山田町の築き上げてきた無形のものを
大事にしながら復興していくことが必要だと感じます。
そのために、地元の方とlコミュニケーションをとり
じっくりと復興へ進んでいくお手伝いがしたいと思っています。


また、今の時期でもボラバスが毎週来てくれています。
時間がたっても、忘れずに支援をしようしてくれる人が
たくさんいることはすごくうれしいです。
それもたくさんの地域から来ていただいています。

そういったたくさんの人が集まる場所なので
たくさんの価値観やたくさんの考え方がぶつかります。
だからこそ、コミュニケーションの難しさや重要性を強く感じます。

まだまだ、というか、全然私自身に足りないところばかりですが

いろんな体験を通して考えながら、学びながら
すこしでも、山田町の助けになるようがんばります!!


(文責:岩本順平)
ギャップと蓮の花 −被災地・岩手県を訪問して−(2) [2011年08月16日(Tue)]

東日本大震災被災地訪問(2)
2011年8月10日〜8月11日

シーズ加古川 李 貫一


 遠野市
10日の朝は7時45分までに各自朝食を済ませ、遠野市へ向かった。山に囲まれ、街は静かだ。
遠野市には遠野市社会福祉協議会・ボランティアセンターがある。
山田町が最前線なら、ここは中継基地。遠野市は内陸にあり被災地ではない。各被災地へほぼ等間隔で行ける位置にあり、ここがボランティアや物資の中継地点になっている。最近まで物資倉庫になっていた体育館も視察した。
このボランティアセンターの近くに、もうひとつボランティアセンターがある。「日本財団ROADプロジェクトボランティアセンター」の看板が遠野市浄水場の中に見える。
 工事現場にあるような仮設施設がボランティアセンターになっていて、宿泊もできる。

 釜石市
遠野市から釜石市へ。釜石は海岸近くに街が広がっていたために林立した倉庫や工場の建物、高層のオフィスビルやマンション、商店街が大きな被害を受けている。窓は壊され、鉄骨が折れている建物が野放しになって残っている。もし車が通り、人の気配がなければゴーストタウンそのものである。
訪問した「NPO法人@リアスNPOサポートセンター」の入居ビルは2階までの部分は爆風を受けたような様相で、3階以上で仕事が行われている。さらに上層階は住宅になっていて、ひとつのビルに廃墟とオフィスビルと住居が階層をなしていて、廃墟となった下層の目線をそのまま上に向けると洗濯物がほしてある住居が見える。悲惨のなかに人の強さと希望を見出した風景だった。
廃墟となった店舗の前に「営業中」の看板を掲げて店の前に椅子を出している床屋さんに、どんなところからでも這い上がり復興を果たそうとする庶民の力強さを感じ取れることもできた。
お会いしたのは同NPO法人代表理事の鹿野さんと事務局長の川原さん。復興を果たそうとする勢いと知恵を兼ね備えた知勇兼備の人だ。
現在、@情報誌(生活情報)の発行 Aアーカイブづくり B映像を子どもたちの教育に活用 Cイベント(仮設住宅向け)の開催 などの事業を県から受託している。支援の区切りは2年で、それ以降をどうするか。
これからの重要課題は「人材の確保」「人材の育成」だという。
長期的な復興には人材が必要で、資金面とソフト面合わせた支援が必要。
行政の限界から民間の活力にも期待している。
代表理事の鹿野さんは県下の中間支援をまとめる「いわて連携復興センター」の代表理事でもある。
岩手県も兵庫県と同じく、NPOの中間支援組織は一つではない。
兵庫からのアドバイザー派遣など、今後の支援のかたちを探るのも今回訪問の目的のひとつ。鹿野さんからは専門家だけでなく、実際に神戸の商店街を復興してきた当事者のアドバイスも重要と付け加えた。


大船渡市
大船渡市の少し高台に「リアスホール」という曲線がきれいな市民ホールがある。その中にレストランをあり、現在そこで被災者のための弁当を作り、配っている団体が「さんさんの会」である。
そこに兵庫県から運んできた玉ねぎ、カボチャ、スイカなどを降ろす。
私は副代表などから話を聞く事務局長を横目に、入荷したものをノートにつけていた青年に声をかけた。
当初はここリアスホールが避難所となっていて、避難者に食事を出していた。仮設住宅ができてからは仮設住宅に食事を配給し、今は仮設住宅の独居老人などに弁当を配っている。
他の人が感じ取れない現場にいて、日々一人暮らしの高齢者に弁当を届けているボランティアの彼女に、自分の感覚でいいので、日々のことを感じたままに書き残しておくようにアドバイス。未来の宝を見るようでした。

陸前高田市
大船渡市から陸前高田市は近い。
しかし、陸前高田市の沿岸部に入った途端、太陽は雲に隠れ、どんよりとした雲が覆ったような気がした。
だだっ広い白黒の世界があった。水が引かず、泥の一帯の上に廃墟となった白い建物が傾いているだけである。ここでは復興の気配も感じることができなかった。
車で通り過ぎただけの場所であったが、強い印象を自分に残した。
そこで色を感じたのは、いまだ捜索を続けている消防庁のゴムボートの色と赤茶けた鉄の山だけだった。


所感
岩手県の広さゆえか、被災地の惨状ゆえか、多くのギャップを感じる二日間となった。
何もなかったかのようにビルが林立し、ビジネスマンやビジネスウーマン、学生たちが行き交う盛岡市内、町と町、都市と都市を結ぶ長い線の左右には、太古の昔より変わらず厳として存在する濃緑の森たち。しかし、沿岸部に出ると風景は一変する。対極の光景がそこにはある。まだ悲惨な惨状の爪痕が残っている。
がれきを積み上げた山は、悲しみとやりきれない恨みを積み上げている。そこには色のない白黒の世界が広がる。
さらに言えば、被災者と被災を免れた者、生き残った者と死んでいった者。
ギャップがあることが悪いとか良いとかということではなく、ただ事実としてギャップがあることを感じた。
しかし、廃墟の中でいくつもの光を見ることができた。それは「人の光」であり、「希望の光」。
久慈市「やませデザイン会議」の田中さん、川代さん、
「山田町社会福祉協議会」の阿部さん、佐々木さん、
「NPO法人いわてNPOフォーラム21」の中村さん、
釜石市「NPO法人@リアスNPOサポートセンター」の鹿野さん、川原さん。
大船渡市「さんさんの会」でボランティアをしている青年。
世の中には素晴らしい人達がたくさんいる。岩手は必ず復光する。
泥水の中から綺麗な花を咲かせる蓮の花。そんな花が咲く土壌が被災地・岩手にはあると思った。
私の大切な友人を含め、訪問時、貴重な時間をいただいた方々にあらためてお礼を申し上げます。有難うございました。

ギャップと蓮の花 −被災地・岩手県を訪問して−(1) [2011年08月16日(Tue)]

東日本大震災被災地訪問(1)
2011年8月8日〜8月9日

シーズ加古川 李 貫一

 被災地へ
 東日本大震災から5カ月。8月8日から11日まで田中理事長、柏木事務局長に同行するかたちで、被災地・岩手県を訪問した。私にとっては初めての被災地訪問となる。
 現地入りは私の希望からである。「現場に立ち、少しでも痛みを感じることができれば」と思ったからである。
届けるものもあり、車での岩手入り。8日の午後6時ごろ加古川市を出発し、最初の訪問地・久慈市に入ったのは9日の午前8時ごろ。11日の朝には兵庫県に戻っていたので、実質、岩手県にいたのは9日と10日の2日間。
この2日間、天気は晴れで、気温も30度を超え、猛暑日が続いた。

 岩手県
 岩手県は北海道に次いで全国で2番目に広い面積を持つ県。
 今回お会いした人達の口からも、「岩手県は広いから」という言葉が出てくる。
 地元の人も広さを実感している。なかには「東京へ出るより県内の各市へ行く方が時間がかかる」と付け加える。
 今回訪問したのは、久慈市、宮古市、山田町、盛岡市、遠野市、釜石市、大船渡市、陸前高田市である。岩手県の沿岸を南下したかたちである。
 
 久慈市
比較的被害が少なかった久慈市。「もう50センチ堤防が低ければこの建物も無事ではなかった」という久慈市勤労青少年ホームで話を聞く。
久慈市はもともと工場が少なかったので、被害も少なかったという。
また、河口から約1・5キロぐらいのところで、川が2本に分かれ、津波の力が分散し、被害を少なくしているという。
お会いしたのは「NPO法人やませデザイン会議」議長の田中さんと事務局長の川代さん。
団体名の「やませ」の意味は「やっかいもの」「迷惑なもの」の意味で、しくみを変えることで、自分たちが楽しめるもの、有益なものにしていこうとの意味が込められている。
同団体は市より勤労青少年ホームの指定管理を受け、「ジョブカフェ」の委託を県より受けている。設立より18年。青年会議所のOBを中心にスタートした団体。現代表の田中さんは6代目。
 久慈市は福祉系のNPO法人が多く、市民活動的なNPO法人は少ない。多くが任意団体でやっていける。

 宮古市・田老町
私が最初に目にした被災現場は、以前「万里の長城」とも言われた高い堤防が築かれている田老町。高く築かれた海辺の堤防の内には家族のいとなみがあったであろう住居のコンクリートの土台だけが四角を並べている。
堤防の手すりの鉄棒は曲がりくねり、津波の威力を物語る。今は無力だった堤防の高さだけがむなしい。 
堤防の東には、今は静かに海が広がり、西には、少し離れた高台の上に小学校の校舎と運動場が見える。その建物にも津波は押し寄せ、穴を開けている。
そこにいたであろう子どもたちのことが気になり、近くにいた地元の人に聞くと、全員無事だったという。


 宮古市街
宮古市の魚市場。壊れた建物の中には人の活気が少し戻り、がれきは一部では排除され、徐々に活気を取り戻そうとしている。
かたちを留める鉄筋コンクリートの建物は爆風が通りぬけたように窓枠だけが残り、鉄骨を剥き出しにしている。
津波の爪痕が色濃く残る残骸の風景のなかで、徐々に活気を取り戻そうと行き交う車。「復興」の景色だった。
身近な人たちに亡くなった方や、被災している人がいる宮古の人たち。平静に暮らしを繰り返しながらも、心の傷を共有している。


再会
宮古市には私の古い友人がいる。
私が韓国の延世大学韓国語教育部へ留学していた時、20年以上も前の話である。やはり日本から留学に来ていた女子大生で、帰国後、結婚をして、宮古市に住んでいた。
ご結婚されたこともあり、連絡することもなかった。しかし、大震災後、安否だけでもと思い、以前使っていたメールアドレスに送信したところ、使用されていない様子で、メールは届かなかった。
今回の岩手訪問に便乗し、訪問。約20年ぶりの再会となった。
家は海からそれほど遠く離れていない位置であったが、少し高台にあり、被災を免れていた。相手にとっては急な訪問であり、御迷惑ではなかったかと思う。
 また、前日、兵庫県から車を走らせてきて風呂に入っていないことが気になった。
彼女はピアノを教えていて、数分後には生徒さんが来られるという状況であった。
お互い変わらない様子を確認し、当時の思い出を二三語りあい、震災時の状況を聞いた。
自らが被災することはなかったが、知人の中には被災された方がおられた。
被災前と同じ日常を繰り返しているようでも、痛みを共有されているようであった。
帰り際にも、これから山田町の復興をお手伝いさせていただくために、シーズ加古川のスタッフ一人を当分の間常駐させることを告げると、「(山田町を)よろしくお願いします」と頭を下げてくれた。もったいなくも、申し訳なかった。岩手の人と出会い、多くを教わり、励まされているのはむしろ私たちだ。
元岩手県職員で「いわてNPOフォーラム21」の中村さんによると、震災を機にこういった再会劇が各地であったとのこと。

山田町
宮古市から釜石市へ行く途中に、下閉伊郡山田町はある。人口18,634人(2011年3月1日)の町で死者597人、行方不明者256人、家屋倒壊数3184棟。
人の命を数で表すことはできない。ひとりひとりに全て物語があり、何ものにも代え難い命であった。
宮古市から45号線を走り、左に折れた先に山田町の災害ボランティアセンターがある。そこには大きな爆撃があったのではないかと見間違う戦場のような光景があった。
左側は海で、沿岸にあった木々はなぎ倒され、右側には、がれきの山が5階の高さぐらいに積まれている。泥水の上には建物の屋根の部分だけが見えている。さらに進むと大きな旅館だった建物の上に押し流された車が乗っている。
それを左に見て入った所が以前は海洋センターであった山田町の災害ボランティアセンターである。
体育館と道場、グランドがあり、グランドにはドクターヘリが止まっていた。多くのボランティアが行き交い、ボランティアを終えて帰ろうとする団体が、玄関で記念撮影をしていた。
お会いしたのは、山田町社会福祉協議会事務局事業推進係長の阿部さんと同協議会主任ボランティアコーディネーターの佐々木さん。
最前線であるこのセンターで指揮を執っている。もっとも敬意を表したい人たちだ。
現在、支援のかたちは転換期を迎えている。物資の提供や修復から、地域づくり、仮設住宅のコミュニティづくりに移っている。生活相談を含め「カフェ」の開催が仮設住宅ごとに始まっている。
地域づくりは社協、NPO、ボランティア、地域の方が一緒になり進めていくが、地域の方が主役となるよう持っていく。また地域のなかで、仮設住宅の人と既存の在宅の人たちの交流促進も課題。
ここに投下されたわれらシーズ加古川の岩本君も社協の佐々木さんや阿部さんに付いてこの事業を進める。



盛岡市
9日の夜は盛岡市のビジネスホテルで宿泊。この盛岡市でお会いしたのが、「NPO法人いわてNPOフォーラム21」の中村さん。最近まで岩手県職員として働いておられた。
名刺には「協働コーディネーター」という肩書と一緒に「郷土食コーディネーター」という肩書があり、まずそちらに興味が引かれた。
岩手の郷土食から話が始まり、県全体のNPOや中間支援組織の歴史や現状をお聞きした。発展して、中間支援の育成や指定管理のあり方にも話が及んだ。

(2)へ続きます。

岩手県山田町災害ボランティアセンターから [2011年08月12日(Fri)]

シーズ加古川事務局スタッフの岩本です。


8月8日から東日本大震災復興支援の一環として
岩手県山田町災害ボランティアセンターで
災害ボランティアセンターのスタッフの方たちや
山田町社会福祉協議会の方たち
また、支援に入られている他のNPO法人の職員の方たちと
一緒に活動をさせていただいてます。

現在山田町災害ボランティアセンターには
毎日100名前後のボランティアの方たちが来られて活動しています。
ボランティアの種類も多様化してきており
昨日は仮設住宅をまわりコミュニケーションをとりながら
プロのマッサージ師がマッサージをするという団体の方たちも来られていました。



被災者の方たちの細かなニーズにこたえる
そういった災害発生直後とは違うことが今ボランティアセンターには求められてきています。

また、これから予期される問題として
仮設住宅での独居老人の孤独死という問題があります。
その対策のひとつとして、山田町災害ボランティアセンターでは現在週に1回
仮設住宅をまわって「お茶っこ」カフェというものをしています。
仮設住宅の中でコミュニティを作ろうという活動です。

お茶っこカフェについてはまた後日報告します!!

盛岡 [2011年06月18日(Sat)]

 少し前の話になりますが、6月5・6日と盛岡に行ってきました。
カウンターパートの「SAVE IWATE」さんと今後の活動についての打ち合わせのためです。
岩手県北部は、被災した沿岸部(宮古市、山田朝等)と内陸部(盛岡市)の距離があり、北上高地を超えて車で片道2時間半かかります。その距離がボランティア活動の大きな障害となっていて、解決策が望まれていました。
 この度、盛岡市が岩手県立宮古高校の川井分校(廃校になっていた)を改修し、支援拠点にする計画が動き出し、課題がひとつ解決しようとしています。そんな中、シーズ加古川としてどのような支援策が考えられるかの刷り合わせをするための訪問でした。
 当法人は、いわゆる中間支援組織です。単に、ボランティア活動を直接当法人のスタッフが行うだけではなく、中間支援組織としての関わり方を模索したいと考えています。
 阪神・淡路大震災かきっかけとなり、ボランティア活動や市民活動が活発になりました。そして、多様な活動をサポートする中間支援組織が必要となったことは事実です。今回の東日本大震災をきっかけに、東北地方のボランティア活動や市民活動は更に活発になると思われます。
そのことをどのようにサポートできるのか?
少し現地に入り込んで模索しようと思います。
来週6月21・22・23日再び現地に向かいます。
by 田中 茂
マッチング [2011年05月27日(Fri)]

昨日、加古川市民の想いと現地のニースのマッチングに成功しました。
「被災地を応援する加古川市民ネットワーク」の立ち上げは以前のブログにも書かせて頂きましたが、発足後様々な活動をする中で、先般、新聞記事を見られた方から電話があり、子ども用の文具と絵本を提供できるが、送り先を探してほしいとのご依頼を受けました。
早速、被災地で活動するNPO法人等が作る全国規模のメーリングリストに投げかけたところ、千葉県船橋市のボランティアグループがら受け取りたいとのレスポンスがありました。
このグループは被災地各保育園、幼稚園、小学校を中心に、文具と絵本を届け続けているボランティアグループとのことで、明日28日に加古川市民の想いが被災地に届くことになりました。
NPO法人フリーへルプさんを中心に、5000点を越える物資を送っていただいていますが、
このように、マッチングがうまくいったのは初めてで、嬉しい限りです。
これからも、このような支援が息長く続けられれば良いなと思います。

by田中
ら・マロン 東日本大震災ふれあいコンサート開催! [2011年05月08日(Sun)]


さる5月8日(日)東播磨生活創造センター「かこむ」の多目的パフォーマンススペースにて、ら・マロンによるふれあいコンサートが開催されました。
マンドリンとギターデュオというコンビで、「癒しの音楽」をお届けしているら・マロン。この東播磨生活創造センター「かこむ」では、年に二度、春と秋にコンサートを行っていただいています。今回は、東日本大震災チャリティーということで、募金活動も行われました。

沢山の方が来場下さり、会場内は熱気ムンムン!



ら・マロンさんのアツイ演奏とも相まって、皆さま大満足の内容となりました。

当日のセットリストです
1. アヴェ・マリア
2. 薔薇のタンゴ
3. タンゴの歴史(カフェ1930・ナイトクラブ1960)
4. 恋とはどんなものかしら(オペラ『フィガロの結婚』より)
5. 夜の女王のアリア(オペラ『魔笛』より)
6. 花のワルツ(『くるみ割り人形』より)
7. 間奏曲(カルメン組曲より)
8. みかんの花咲く丘
9. 茶摘み
10. 浜辺の歌
11. 黄昏のビギン
12. 喝采
13. 矢切りの渡し
14. 雨にぬれても
15. ムーンリバー
16. 世界に一つだけの花
17. もしも明日が
18. 上を向いて歩こう
19. 見上げてごらん夜の星を
20. 街の灯り
21. ここに幸あり
22. いつでも夢を
23. ラストダンスは私に(アンコール)

 2時間に及ぶ演奏!本当にお疲れ様でした!
 最後は万雷の拍手でステージを下りた、ら・マロンのお二人。今後ともご活躍をお祈りいたします。また是非、「かこむ」で癒しの音楽を聞かせてくださいませ〜!

かこむ:イケダ
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