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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「中国の小話」その196―盗難バイクを取り戻す方法― [2019年08月19日(Mon)]
「中国の小話」その196
―盗難バイクを取り戻す方法―


ある女性の電気バイクが盗難にあいました。

すぐ警察に通報しましたが、警察は見つかる可能性が薄いと、冷淡な対応でした。

女性は、「荷物入れに汚職を通報する資料が入っているんです。万が一情報が洩れて公表されたらどうしょう」と、機転を利かしました。

すると、半日も経たないうちにバイクが戻ってきました。

「中国の小話」その195―どの国の酒がいいか?― [2019年08月16日(Fri)]
「中国の小話」その195
―どの国の酒がいいか?―


フランス人とイギリス人と中国人が、どの国の酒が一番いいかについて声高に議論した。

フランス人はワインが一番だと主張し、イギリス人はウイスキーが最高の酒だと力説し、中国人は我が国の白酒こそ一番だと突っ張る。三者共に譲らないのでマウスを使って実験し、勝負を付けることになった。

最初のマウスはワインを飲んで、即興でピアノを弾いた。

次のマウスはウイスキーを飲んで、楽しくソーシャルダンスを踊りだした。

三匹目のマウスは中国の白酒を飲んで、勢い台所から包丁を取り出し、凄まじい形相で「猫の野郎はどこだ!」と騒ぎ出した。

これを見て、フランス人もイギリス人も、「中国人がアメリカ人に喧嘩を売る理由がわかった。やはり中国の酒が一番だ」と、納得した。

「ちょっといい話」その114―笹川医学奨学生― [2019年08月14日(Wed)]
「ちょっといい話」その114
―笹川医学奨学生―


日本財団では、姉妹財団の東京財団政策研究所を通じて世界43カ国69大学の修士・博士課程の学生に奨学金を提供。開始以来30年が経過し、世界で1万6000人の卒業生が活躍している。

1990年代の中国は貧しく、10大学(北京、南京、復旦、中山、雲南、貴州、重慶、蘭州、内モンゴル、吉林)にこの制度を適用し、世界の卒業生の半分、約9000人はこれら10大学の卒業生である。今年は設置25周年で、新疆(しんきょう)大学と内モンゴル大学で式典を行ってきた。

新疆は人口約2000万人。面積は日本より広く、高台からの眺めは素晴らしく、かつて前会長の曽野綾子先生とシルクロードを車で旅したときに目にした山頂に雪の残る天山山脈を遠望することができた。新疆は1つの省でありながらカザフスタン、キルギスタン、モンゴル、アフガニスタン、パキスタン、インド、ロシアと、7カ国と国境を接する省である。

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遠くに望む天山山脈


新疆大学のある地域はウィグル族が多数住む所で、最近は緊張地帯になっており、我々一行も5人しか参加の許可が出なかった。報道で知るウィグル族への弾圧は、首都であるウルムチ市では知ることができず、当然ではあるが、心残りではあった。大学当局が上部への忖度から神経質になったものであろう。

空港には日中医学協会を通じて支援しているもう一つの奨学金事業、日中笹川医学奨学金制度の奨学生であった李南方先生が出迎えてくれた。30年振りの邂逅(かいこう)である。日本での研修を終えた笹川医学奨学生は、今日まで2300名を越え、優秀な医者として中国国内で活躍している。李南方先生は確か、第2期生であったが、来日した際の歓迎会では、原稿なしで敬語を使用した感動的なスピーチをされたので、私の記憶に明確に残っていた。

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横断幕を作って出迎えてくださった


どこで流暢な日本語を勉強されたのかとの問いに、日本の短波放送だけで勉強したと聞き、二度びっくり。当時、新疆自治区からの笹川医学奨学生の候補者は50名。その中でたった1人、李南方先生が選ばれたそうで、新疆から北京まで2日半の列車の旅だったそうだ。現在では飛行機で4時間である。

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李南方医師と
30年前のことが昨日のことのように思い出される


海を見たのも初めてで、1年間の笹川医学奨学生の生活は、自らの人生にとって忘れられない出来事であったという。その後、成績優秀で再度京都大学で学んで博士号を取得された。現在では中国で最も有名な「高血圧」の専門家として後進の指導に当られている。

「ハンセン病制圧活動記」その50―インド訪問記 ガンジーと私の夢― [2019年08月09日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その50
―インド訪問記 ガンジーと私の夢―


多摩全生園機関誌『多摩』
2019年7月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


1月27日から2月4日までハンセン病制圧活動のためにインドを訪問した。今回で59回目となる。インドの新規患者数127,356人(2017年度)は世界の約6割を占める。2005年にWHO(世界保健機関)が定める、人口1万人に1人未満という制圧目標を達成したとはいえ、まだまだ医療面での課題が多く残る国である。また、未だにハンセン病患者と回復者に対する差別的な法律や慣習が残っており、この解決も大きな課題である。

最初の訪問地のデリーでは、日本財団が2006年から継続しているグローバル・アピール2019の会合に出席した。今年は世界のビジネス機構である国際商業会議所(世界で4500万社が加盟)から賛同を得て、ビジネス界を中心に社会に対してハンセン病患者、回復者、その家族に対する差別の撤廃を訴えた。式典には回復者の子供たちの歌やダンスがあり、にぎやかな雰囲気となった。賛同団体である国際商業会議所に加えて、インド工業連盟の代表も出席するなど、ハンセン病回復者や家族の雇用促進について積極的に取り組む姿勢を見せてくれた。

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歌などを披露してくれたハンセン病コロニーに住む子ども達と


式典翌日の1月31日、ダードラ・ナガル・ハヴェリー連邦直轄領に移動した。インド中西部マハラシュットラ州とグジャラート州の間に位置する人口39万人、面積491kuの小さな連邦政府直轄領である。かつてのポルトガル領で、インド人にもあまり知られていない地域である。保健局によると、この地では早期患者発見キャンペーンや家族に対する予防薬の配布が功を奏し、昨年は目に見える障害を持つ患者の数がゼロだったという。同行してくださった中央保健・家族福祉省のアニル・クマール氏によると、ダードラ・ナガル・ハヴェリー連邦直轄領はインドでは珍しくハンセン病のコロニーがなく、差別もない地域だそうだ。それでも、患者が1万人あたり6.7人いるという数字は、インド平均値の10倍も高い超蔓延地域である。その理由は翌日わかることになる。

翌日、直轄領で活躍する80人のASHAとの会合に出席した。ASHAとは蔓延地域の世帯を一軒一軒回り、皮膚などに症状が出ていないかを確認する女性の保健ワーカーのことである。実はこの地域で数字が高い理由は、彼女たちの活動成果なのである。彼女たちが一生懸命に患者を発見していることで、患者数は増えるが、早期発見で障害が出る前に治療ができる。このことはとても喜ばしいことで、患者数が多いからといって悲観する必要はないのである。私は彼女たちに「ハンセン病は早く発見されることで障害となる前に治る。あなたたちの仕事は患者の人生そのものを明るいものにする。誇りを持って取り組んでいって欲しい」と激励すると、赤とオレンジ色の美しいサリーを着たASHAたちの顔が誇らしげ輝いた。

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会合に出席したASHAたち


その後、空路で東海岸に位置するアンドラ・プラデッシュ州のヴィジャヤワーダに向かった。ここでは日本財団が10年以上支援を続けているAPAL(インドハンセン病回復者協会)と日本財団の姉妹財団であるSILF(笹川インドハンセン病財団)が回復者に対する支援活動をそれぞれ行っている。ヴィジャヤワーダの空港に夕刻到着するとAPALはじめ、州リーダーや回復者が大勢で出迎えてくれ、美しい南国の花束を渡してくれた。貧しい生活の回復者からこのような贈り物をもらうたびに、嬉しいような、少し申し訳ないような複雑な気持ちになる。

ヴィジャヤワーダでの活動の一番最初に、ナラ・チャンドラバブ・ナイドゥ州首相との面談が実現した。選挙前で忙しい時期にも関わらず、私やAPAL代表のナルサッパ氏との面談要請を受け入れてくれたのである。面談の目的はただ一つ、回復者への特別支援金の引き上げの要請である。面談が始まってすぐに私から支援金について陳情をしたところ、即座に月1500ルピーから4000ルピー(約6000円)に増額する、と約束してくれた。州首相の英断に関係者一同の喜びも大きく、その日の夕食は楽しい時間となった。

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ナイドゥ州首相との面談


翌日はSILF(笹川インドハンセン病財団)が回復者のための支援活動を行うブンニ・ナガール・ハンセン病コロニーを訪問。椰子の木が道沿いに並び、鮮やかな花々がいたるところに咲いている南インドらしい地域にある。住民140人のうち回復者が42人のコロニーは2009年に州政府の政策によって作られた。土地と住居は州政府から提供されており、ほとんどの回復者が障害者年金を受給しているため、乞食をしている人はいないという。私たちが調査したインド全国850のコロニーの中でも恵まれた環境であった。

SILFの自立支援プロジェクトの責任者であるラケシュ氏が受益者を紹介してくれた。ひとりは水牛を飼ってミルクを販売しており、1日約600円の収入を得ているそうだ。もうひとりは雑貨を売って生計を立てている男性であった。少額ながらも安定した収入を得て家族を養っているようだった。他にもヤギの飼育や、野菜を販売する受益者もいるという。そのような様子を見た後、集会所に集まったコロニーの人々に「皆さんが団結して、一所懸命生活を良くしようと努力した結果、このコロニーはとても良い環境になっている。SILFは皆さんが自立した生活を送ることができるよう、さまざまな仕事を提供するのでそのチャンスを掴んで欲しい」と伝えると、コロニーの人々の表情が一層明るくなった。私はコロニー全ての人々が自立した生活を送ることができることを願いながら帰路に着いた。

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水牛を買ってミルクを売って生活向上を目指す家族

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これからも笑顔が絶えない生活を送ってほしい


今年はマハトマ・ガンジー生誕150周年である。実はインドを出発する2日前、インド文化省から私が2018年の「ガンジー平和賞」受賞者に選ばれたという知らせが入った。これまで懸命に取り組んできたハンセン病制圧活動が評価された結果だという。これは、私だけではなく、共に活動をしてきた同志と共に受賞したと考えている。
ガンジーはハンセン病患者の境遇を変えるために国づくりのマニフェストにハンセン病の解決を取り上げた。ガンジーの夢である「ハンセン病とその差別のないインド」はガンジーが生きている間実現することはなかった。ガンジー平和賞の受賞が決まってから、私がこの夢を引き継ぎ実現しなければならないという思いはますます強くなった。
「HEROs PARA-SPORTS DAY開催」―多様な社会の“接着剤”期待―  [2019年08月07日(Wed)]
「HEROs PARA-SPORTS DAY開催」
―多様な社会の“接着剤”期待―

 
アスリートによる社会貢献活動を通じ社会改革の輪を広げるのを目的に2017年秋、「HEROs Sportsmanship for the future」(HEROs)を立ち上げて間もなく2年になる。これを前に7月8日、日本を代表するアスリートや元アスリートらがパラスポーツを体験する「HEROs PARA-SPORTS DAY 2019」を東京都品川区の日本財団パラアリーナで開催した。

ACADEMY(教育)、ACTION(実践)、AWARD(評価)の3つのプロジェクトを柱とするHEROsの実践活動の一環で、東京五輪・パラリンピックを来夏に控え、社会活動に参加するアスリートの輪を広げるのが狙い。

HEROsアンバサダー20人のうち、この日、新たにアンバサダーになった元なでしこジャパンの近賀ゆかりさんら7人のほか、アテネパラリンピック男子車いすバスケットボール日本代表の三宅克己さんや日本財団パラアスリート奨学生ら計45人が参加。4チームに分かれ、床に座ってプレーするシッティングバレーボール、目隠しをした選手が3対3で鈴入りのボールを投げ合うゴールボール、車いすバスケットボールを未経験者でも取り組めるようアレンジした車いすポートボール、車いすをバトンにした車いすリレーの4種目を競った。

たまたまブラジル出張中で直接、見ることはできなかったが、目隠しの利用や座った姿勢での競技は通常のスポーツ以上に声掛けや助け合いが必要となる。関係者によると、参加選手は大声を上げながら競技の難しさと楽しさを体感したようで、優勝チームの代表は「スポーツは一瞬にして一つになれる」と感激の声を上げたという。

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スポーツは一瞬にして一つになれる!


4月の本ブログでも触れたが、スポーツは人の心を一つにする力を持つ。子どももスポーツを通じて戦う心や夢、生きる力を身に付ける。その限りで通常のスポーツとパラスポーツに何ら差はない。しかし、わが国では近年、駅へのエレベーター設置や道路のバリアフリーなどハード面の取り組みは進んでいるものの、スポーツの世界で言えば、パラスポーツと通常のスポーツを別視する心の“壁”は依然、根強いように感じる。

日本財団では障がいの有無などとは無関係に子どもから高齢者まで誰もが参加するインクルーシブな社会を目指している。欧米ではアスリートによる社会貢献活動がごく当たり前の姿となっている。日本でも「現役」、「元」を問わず、1人でも多くの選手がこの運動に参加し、多様な社会の“接着剤”の役割を果たしてくれるよう望んでいる。

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「日中医学交流会議2019東京」―挨 拶― [2019年08月05日(Mon)]
「日中医学交流会議2019東京」
―挨 拶―

2019年6月19日
於:日本医師会館

ご紹介賜りました日本財団の笹川でございます。私がここに立つのを不思議に思われる方もいらっしゃるかもわかりませんが、若干ご挨拶をさせていただきます。

まずはもって中国大使として新たに赴任されました我々の古い友人であります孔(こう)特命全権大使、尊敬する饒(らお)中華医学会副会長をはじめ、日本側からはただいまご挨拶されました日本医師会会長の横倉先生、久先生、長くお世話になっております小川先生にご出席いただき、ここに素晴らしい会議が開催されることは、私にとりまして感無量のことでございます。

と申しますのも、今から35年前の1985年に「日中医学協会」が設立され、文化勲章を受けられたがん研究会の黒川先生、東大の初代薬学部長でクリスチャンの石館守三先生のお二人が若造の私のところにお見えになり、これから日本と中国の関係を本格的にやっていくうえで一番大切なことはやはり人々の健康の問題でしょう。そのことを基礎にしてしっかりした交流を行いたいとのお話をいただきました。

日本財団の政治、思想、宗教、人種、国境を超えて人道的活動を行うという基本方針に合致するお話でしたので、当初10人程度の医学生をという話でしたが、私共としては、中国は広いので1回に100人はお迎えしようではありませんかということで始まったわけです。

私からは中国の衛生部に二つ条件を出しました。一つは中国全土からお迎えしたい。もう一つは医学のあらゆる分野からお迎えしたいと。その基本原則に基づいてやりましょうということになりました。

まず長春医科大学において、選ばれた方を8カ月間日本語漬けにしました。日本から教師を派遣し、単に日本語だけではなくて日本の生活習慣も含めて勉強していただき、その上で来日していただいたわけです。日本の受入れ先大学においては、北は北海道から南は沖縄・琉球大学に至るまで、2000人を超える生徒の受け入れに難色を示された学校は一校もございませんでした。この事業は日本側の医学界のご協力の賜物であります。また1年間と滞在は短かったのですが、すべての方が中国にお戻りになりました。当時は中国から外国に留学に出ますと国には戻らないということが中国政府の大変な悩みでしたが、このプログラムについては全員が戻ってきてくれたということで、中国政府並びに中国共産党から高い評価を受けたプログラムでございました。

10周年も20周年も人民大会堂に多くの人にお集まりいただき、盛大な記念式典を行ってまいりました。来年は35年になるわけですから、出来ますればご来席の皆さま方のご協力をいただいて、また人民大会堂で留学生OBを含めまして全員が集まってくだされば、大変素晴らしいことだと思っております。日中の交流の中には何万というプログラムがございますが、30年以上に亘って着実に努力し、日本の先生方のご協力によって中国の医学の進歩に大きな足跡を残したという事業は他にないと、中国の政府高官からも高く評価されてきたわけでございます。

ここに至りまして小川先生から、中国の努力でそろそろ日本が教える時代から共に研究をする時代に変わるべきところまできている。ですから、これからは少しシステムを変えて博士号を取得していただき、日中共同研究というレベルに上げましょうというお話をいただきました。このプログラムは日中共同で研究するレベルに上がってきた。そして新しい留学生には日本で博士号をとっていただこうと、こういうプログラムに発展してきたわけです。35年間ずっと傍で見てまいりました私にとって、そういう意味で今日の会議が大変感無量なものであると、冒頭で申し上げたのにはそういう経緯があります。

その間の中国の留学生のご努力は本当に驚くべきものがございました。私は先週、中国の新疆ウイグル自治区に参りましたが、そこでお迎えくださった李先生という女性の先生は、第7期生でございましたけれども、日本にお越しになったときに答礼のご挨拶をされました。皆さん毎年原稿をお読みになるのですが、彼女は美しい敬語を使われた日本語で原稿なしでお話しされました。どこで勉強なさったのですかとお聞きしましたところ、日本の短波放送で勉強しましたとお答えになりました。新疆ウイグル自治区から50人の選抜の中でたった一人選ばれて来日され、一度帰国されましたが、その後京都大学で博士号を取られ、今や高血圧の問題については中国で最高の権威者の一人になっておられる方で、30年ぶりにお会いし、お互い大変懐かしく思い出を語り合うことができました。

中国の趙群先生を中心に、この笹川奨学医学生の同学会、日本でいう同窓会は大変しっかりとした組織として運営されておりまして、日中医学協会に参加する先生方も毎年現地を訪問して下さり、友好を深めるだけではなくて、各地で共同でシンポジウムを開催していただいているということで、日中医学協会と中国医学界との間の堅い絆、歴史のある絆というものがこれからもさらに発展していくだろうと期待しております。

すでに中国の皆さんの努力によって共同研究のところまで進歩したということに、中国の皆さんに心から敬意を表したいと思います。政治的には山あり谷ありですが、地政学的に離れがたい中国と日本の関係でございます。問題が生じるのは隣国同士仕方がないことでございますが、どうぞ医学の分野におきましては、これからも大いに将来を見据えて発展していただきたいと思います。日本財団は今まで100億円の資金をこの事業に投下してきましたが、これからもお傍でご支援をさせていただけることを誇りに思っております。

今日の会合が成功することを心から願ってお祝いの言葉といたします。
ありがとうございました。
「中国の小話」その194―政府高官の高学歴― [2019年08月02日(Fri)]
「中国の小話」その194
―政府高官の高学歴―


日本は明治以来、政治家は博識で胆力のある方が多かった。しかし最近では、読者ご存知の通り、資質に問題のある方々でも当選し、大臣においては、当選回数が重要用件になる為、つまらぬ大臣も誕生する訳である。

中国でも当時の政治家の知的レベルは大変なものだった。
以下は1948年の民国政府高官たちの学歴です。

行政委員長(総理)  翁 文灝  ベルギール―ヴェン大学博士
外交部長       王 世傑   ロンドン大学博士、パリ大学博士
駐米大使       胡 適    コロンビア大学博士
教育部長       朱 家驊  ベルリン大学博士
司法部長        謝 冠生  パリ大学博士
司法部長(後任)  王 寵恵  イェール大学博士
交通部長       俞 大為  ハーバード大学博士
社会部長       谷 正綱  ベルリン大学博士
衛生部長       周 詒春  イェール大学博士
食糧部長       関 吉玉  ベルリン大学博士
考試(入試)院長  張 伯苓 シカゴ大学名誉博士
立法院長      孫 科   コロンビア大学修士
上海市長      呉 国驕@ プリンストン大学博士
最高法院院長    謝 嬴洲  パリ大学博士
中央銀行総裁     劉 攻芸  ロンドン経済学院博士

これが歴代中国政府高官の学歴の最高峰でした。
これを超えたものはありません。
あの頃は、博士になって初めて高官のポストを得ることが出来ましたが、今は高官になれば、博士学位がついてくる時代です。