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leprosy.jp
resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「18歳意識調査・第14回―海外と日本」―4人に3人以上が「日本は良い国だと思う」― [2019年05月31日(Fri)]
「18歳意識調査・第14回海外と日本」
―4人に3人以上が「日本は良い国だと思う」―


日本財団は「海外と日本」をテーマに第14回目の18歳意識調査を行った。既に詳しい結果が財団の公式サイトに掲載され、メディア各社にもリリースで要旨が案内されており、本ブログでは筆者の感想を述べさせていただく。何よりも印象に残るのは、回答者1000人のうち4人に3人以上(76.9%)が「日本はよい国だと思う」と答えている点である。昨年8月、内閣府が公表した「国民生活に関する世論調査」も現在の生活に「満足」、「まあ満足」と答えた人が過去最高の74.7%に上っており、さまざまな課題があるにしても、多くの人がこの国に住む幸せを実感しているだと思う。

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「日本人が世界に誇れるもの」(複数回答)としては「アニメ・漫画などサブカルチャー」、「和食」、「日本の景色・自然・四季」、「治安の良さ」がいずれも過半数を占め(55.3〜50.3%)、「平和であること」も43%に上っている。これに対し「他の先進国に比べ欠けているもの」では「男女平等」の46.1%をトップに、「外交力」、「経済力」、「教育水準の高さ」、「政治的影響力」が30%台(35.7〜30.2%)で並んでいる。

欠けているものの上位に「経済力」、「教育水準の高さ」が並んでいるのは、ある意味、筆者の世代には驚きである。双方とも戦後の経済発展を実現した日本の強みである。18歳の目線で見た「現実」ということであろうが、特に教育は資源を持たないこの国を支える要である。どう在るべきか、あらためて広範な議論の必要性を感じさせる数字と思う。「男女平等」がトップに挙がっているのは、次代を担う若者の多くが女性の一層の社会進出を必要と感じている結果であろう。少子高齢化、労働力不足が叫ばれる中、雇用面を含め女性が社会で活躍できる受け皿の整備が急務であるのは言うまでもない。

このほか海外で生活することに52.8%が「とても興味がある」、「興味がある」と答え、その理由を「行ってみたい国・地域・場所がある」、「海外の文化が好き・関心がある」などとしている。3人に1人強(36.5%)は外国人の友人を持ち、6割近くが「外国人の友人がほしい」と答え、とかく指摘される「若者の内向き志向」とは、やや異なる“若者像”が浮き彫りにされている気もする。

また学校での英語教育に関しては半数弱の47.2%が「英語が読めるようになった」、「話せるようになった」などとして「とても役に立った」、「役に立った」としている半面、19.9%は「未だ英語が話せない」、「未だに外国人と意思疎通が出来ない」などを理由に「全く役に立たなかった」、「役に立たなかった」として対照を見せている。

多分に個人の関心や得手、不得手が反映された結果だと思うが、これからの若い人は英語に限らず外国語を少しでも身に付けたほうがいい。人との付き合いや行動範囲が拡大し、自らの考えや価値観も広がるからだ。偉そうに、かく言う私は、英語すら満足にできない。素直に告白することで、未来を背負う若者に対する切なる期待に変えたい。
【私の毎日】5月30日(木) [2019年05月30日(Thu)]
5月30日(木)

7:00 朝食

9:00 大英博物館で開催中の国外最大規模の日本漫画の展覧会
     『The Citi exhibition Manga』展

写真1 日本漫画展覧会を鑑賞.jpg
日本漫画展覧会を鑑賞


12:30 WMU(World Maritime University-世界海事大学)
    IMLI(International Maritime Law Institute-国際海事法研究所)
    の笹川フェローたちと昼食

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WMUとIMLIのフェローたちと


14:30 キタック・リム(Kitack Lim)国際海事機関(IMO)事務総長面談

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リム事務総長を表敬


17:30 「 世界のハンセン病を制圧する」英訳出版記念イベント

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「ネバーギブアップの精神でやって参りました。
80歳の青年としてこれから世界を飛び回りたいと思います」と挨拶

写真5日本財団のイギリスでともに活動している多くの方にご出席いただく.JPG
日本財団で、イギリスで、ともに活動している多くの方にご出席いただく

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英語版のタイトルは
「No Matter Where the Journey Takes Me: One Man’s Quest for a Leprosy-Free World」

写真7デイビッド・ヘイマン(Prof. David Heymann)ロンドン大学教授と久しぶりに再会.JPG
デイビッド・ヘイマン(Prof. David Heymann)ロンドン大学教授と久しぶりに再会

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左からグレイトブリテン・ササカワ財団理事長セント・アンドリュース伯
国際法曹協会ディム・ヒューズ副専務理事、筆者
国際法曹協会人権問題研究所所長ヘレナ・ケネディ女性男爵、鶴岡公二駐英国特命全権大使
今回の翻訳本を出版したハースト出版社主のマイケル・ドゥワイヤー氏


20:15 ジャン・フィレモン(Jean Freymond)元笹川アフリカ財団理事との夕食




【私の毎日】5月29日(水) [2019年05月29日(Wed)]
5月29日(水)

7:30 朝食

12:45 グレイトブリテン・ササカワ財団訪問

1グレイトブリテン・ササカワ財団のブレンダン所長.JPG
グレイトブリテン・ササカワ財団のブレンダン所長


14:00 東洋アフリカ研究学院(通称ソアス/SOAS )の
    Burma Campaign Memorial Library(ビルマ・キャンペーン記念図書館) 訪問

2図書館司書のJotika Khur-yearn氏が図書館の中を案内してくださった.JPG
図書館司書のOliver Urquhart Irvine氏が図書館の中を案内してくださった

3日本財団が寄贈したミャンマーに関する書籍が保管されていた.JPG
日本財団が寄贈したミャンマーに関する書籍が保管されていた


14:45 日本研究の笹川フェロー(Sasakawa Studentships for Postgraduate Study of Japan)との懇談

4日本のアイヌ音楽研究の内容についてフェローから話を聞く.JPG
日本のアイヌ音楽研究の内容についてフェローから話を聞く


16:30 王立国際問題研究所(通称チャタム・ハウス:Chatham House)のロビン・ニブレット所長

17:30 「日英グローバルセミナー」最終報告書公開イベント(挨拶)

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「世界の課題を主体的に解決するために、私たちの英知を結集
二国間の協力関係を強化することが重要だと信じています」

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「日英グローバルセミナー」は
日本と英国が国際的な課題について話し合う未来志向的な取り組みで
チャタムハウスと日本財団が共催で過去5年間開催しました

20:00 「日英グローバルセミナー」関係者との夕食会

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5年間の活動を振り返りながらの歓談となった


雑誌「財界」母の教え [2019年05月29日(Wed)]
「母の教え」


雑誌「財界」
春季特大号2019
笹川 陽平

「大空襲のとき、母が言った『あなたは1人強く生きて』という言葉が今もわたしの心の支えになっています」

「平凡な母でしたが、母はこの世の中に1人しかいない。その存在そのものに、ありがたさを感じます」――。
日本財団会長の笹川陽平氏は、兄弟3人を育てた母への感謝の気持ちをこう述べる。戦中戦後、厳しい時代を生き抜き、世の中に迎合せず、世界平和のために生きる原点とは――。

大空襲で母の手を引き……


父・笹川良一と母・喜代子の3男として、東京で生まれました。妾の子だったので、16歳まで父のことは知らず、長兄・勝正、次兄・堯、そして母の4人で浅草で暮らしていました。

母は百姓の娘で学問があったわけでもありません。家事に専念し、子どもをしっかり躾ける、ごく普通の母親でした。

洋服は継ぎ接ぎだらけでも、洗濯をして清潔なものを着る。自分のオシャレのためではなく、「他人様に不愉快な気持ちを与えないため」ということです。

また、朝は「おはようございます」と挨拶し、ごはんは「いただきます」、「ごちそうさまでした。おいしかったです」といただく。他人様には礼儀正しく接し、子ども同士仲良くする。

「人に迷惑をかけてはいけない」、「恥ずかしいことをしてはいけない」と、まず公共性を身に付けさせたのが、当時の母親たちでした。いたずらをすると、お仕置きに灸(ヤイト)をすえられる、「お天道様が見ていらっしゃる」としつけられた時代です。

わたしは4歳の頃、疫痢にかかって病院に担ぎこまれ、1週間程入院したことがあります。

母は毎日、お見舞いに来てくれました。退院の日はきれいな下着を持ってきて、着替えをさせてくれ、手をつないで帰ったのがとても嬉しかった。

帰り道、浅草寺に寄ると、母は「この子が今後、病気にならず、元気に長生きしますように」と私の身代わりとして亀を買ってくれ、わたしはその亀を浅草寺の池に放しました。これが、物心ついてから一番最初の母との思い出です。

戦争が始まると、2人の兄は疎開先で生活、5歳のわたしは浅草で母と2人暮らしをしていました。そして、6歳の頃、東京大空襲が起きました。

病弱な母は、その日、高熱にうなされていました。ラジオで空襲警報を聞き、わたしは米を一升詰めた風呂敷をたすき掛けにして担ぎ、頭から毛布を被った母と避難所の郵便局に逃げました。ところが、郵便局は人であふれ、ここも危険が迫り、第二避難所が墨田川だったので、町内会長の団長さんに「一緒に行こう」と説得されましたが、水が苦手なわたしは「川には行かない」と泣きわめき、最後は「また元気で会いましょう」と別れ、わたしと母は郵便局に残りました。

しかし、郵便局にも火の手が回り、子どもながらに「ここも危ない」と、母を連れて別の場所へ逃げることにしました。

以前、軍事訓練中の兵隊さんの後について、浅草から上野の山まで行ったことがあったので、そこを目指そうと考えました。

ところが、道中には焼夷弾に直撃されて死ぬ人々、火災による強風が吹き荒れ、母の毛布にもあちこち火が点き、この世のものとは思えない情景。熱にうなされていた母は、神社の石段に座りこみ、とうとう動けなくなってしまいました。「ここに留まるから、あなたは1人強く生きて」と言う母の手を、わたしは何度も強く引っ張り、よろよろと母は歩き始めました。

しばらく行くと、一カ所だけ燃えていない場所がありました。ガラス張りの自転車屋さんで、中に人がいるのが見えたので、ガラスを叩いて「水を1杯下さい」とお願いすると、家主がすぐに水を持ってきて、休ませてくれました。こうして、わたしと母は九死に一生を得ました。

戦後は、大阪にある父の遠い親戚の家でお世話になりましたが、食べるものがなく、栄養失調で全身におできができたり、水ばかり飲んでいたので、走ると胃の中で水がチャポンチャポンと動く感覚を未だに覚えています。

生活が苦しいのはわかっていたので、ものを欲しいと言ったことはありません。7、8歳の頃、母にデパートに連れて行ってもらい「何か買ってあげる」と言われたときも「欲しいものはないよ」と答えていました。

母は、つらい、貧しいといった愚痴を1回も言わなかったし、わたしも聞かなかった。16歳まで父のことを知らなかったのも、そのためです。ただ、母からは「あなたのお父さんは立派な人だから」とだけ聞いていました。

貧しい生活でしたが、小学生の頃は生徒会長を務め、成績もトップ、運動会でも1等賞だったので、母にとって、わたしは自慢の子どもだったようです。

死は“作る”もの

16歳から父の家で暮らし始めました。朝は飯炊き、仏様のお世話、来客者の靴磨き、そして父の車の掃除。「笹川ホテル」と言われるほどたくさんの人が泊まりにくる家だったので、夕方16時に学校から帰宅すると、来客者の服の洗濯、風呂沸かし、晩飯の用意、片付けと、寝るのは12時を過ぎていました。

大阪での生活同様、丁稚のような生活だったので、高校にも友だちもいなかった。いつも孤独でした。でも、だからこそ精神的に強くなれたのだと思います。

父はすべてにおいてスケールが大き過ぎたので、一般の人には理解困難な人だったと思います。父もそれを理解していて「みんなが良いと言うことは大したことじゃない。常に世の中を改革するのは少数意見だ」と言っていました。わたしも「変人でなければ世の中は変えられない」と思っています。

“変人”とは良い意味で“先覚者”であるからです。ただ、良識的な生活をする人からは反発を受けます。でも、わたしはそれでも良いと思っています。会社や社会で良く思われたいと思うから、みんなが良い子になり、社会制度を変えたり、人間の心を変えられなくなっている。

わたしは、人に褒められる人になりたいとは思っていません。それよりも、言うべきことを言って、批判される人でいたい。

要は、自分の人生をどう生きるか。人に良く思われたいと思わないので、日本財団に来てからは人付き合いもないに等しい。

わたしも常に少数意見の立場ですが、溢れる情熱、どんな困難も乗り切る忍耐力、成果が出るまでやり続ける継続力。この3つを哲学に生きてきました。

母は66歳のとき、すい臓がんで亡くなりました。わたしは最期まで一緒に暮らし、きちんと看取ったので、母も喜んでくれたのではないかと思います。

病弱な母でしたが、ある時、腰の痛みを訴えて聖路加国際病院へ連れて行くと、すい臓がんと診断されました。本人には告知せず、日野原重明先生に付いていただき、開腹手術をしましたが、手遅れでした。日野原先生は、手術室の外で待っているわたしに「手術をすれば生存率10%、手術をしなければ1年もちます。どちらを取りますか」と。わたしは「1年残して下さい」と答えました。そして手術をしたふりをして縫合し、母は家に戻りました。

その後、2人の兄も含めて、みんなが大事にするので、母は「わたし、死ぬのかしら」などと冗談交じりに言っていました。伯父の葬儀で大阪に行ったときには、兄弟の家族たちも交えて旅行にも行きました。

けれども1年後、母は痛みを訴えるようになり、近くに住む医者に自宅に来てもらい、鎮痛剤を打つようになりました。正月にはお神酒を飲んで過ごせたものの、3が日を過ぎると、また痛みが出て、医者が不在の夜中、「痛い、痛い」と言うので、わたしは母の隣に添い寝して、腰のあたりをさすっていると、痛みが和らいだのか静かに寝入りました。ところが早朝になると痛みが激しくなり、山王病院に入院。それから数日後の1974年1月10日、母は亡くなりました。

1日ちょっと痛い思いをさせてしまいましたが、つらい思いをさせたのはその時ぐらいでした。わたしは、死とは“作るもの”だと思っています。どのように送り出してあげるのか、遺族がしっかり考えてあげなくてはいけないと思っています。

わたしも「ベッドの上では死なない。世界のどこかで野垂れ死にしたときは、そこで焼いて、骨の一片だけ持って帰って来い。家族が現地まで来る必要はない」としっかり書いています。命あるもの、死は当然のこと。特別なことでも何でもないのです。

おそらく母はこの連載の中で最も平凡な母親だと思います。しかし、世界にたくさん女性がいても、産んでくれた母は、母1人しかいない。そのことに今もありがたみを感じています。

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写真前列左から母・喜代子、次兄・堯、陽平、お手伝いさん
後列左からお手伝いさんの婚約者、長兄・勝正(1940年頃)


【私の毎日】5月28日(火)東京からロンドンへ [2019年05月28日(Tue)]
【私の毎日】5月28日(火)東京からロンドンへ

7:40 羽田空港着

9:10 羽田発

12:40 イギリス・ロンドン着

15:00 ホテル着

19:00 鶴岡公二駐英国特命全権大使夕食会

鶴岡大使公邸の庭で記念撮影.JPG
鶴岡大使公邸の庭で記念撮影
(筆者右から山中Y子教授、鶴岡大使、藤井昭宏元駐英大使、
細谷雄一教授、鈴木悟日本財団参与、竹中治堅教授)


【私の毎日】5月27日(月) [2019年05月27日(Mon)]
5月27日(月)

7:07 財団着

終日 綬章の礼状書き
「英国出張」 [2019年05月27日(Mon)]
「英国出張」


明日から英国・ロンドンに出張いたします。

英国の王立国際問題研究所(通称チャタムハウス)と日本財団共催の「日英グローバルセミナー」で挨拶を予定しています。

また、「ネイチャー」でご紹介頂いた英語版書籍「残心」の出版イベントを行います。

帰国は6月1日です。

月刊Boss「失われた覚悟と倫理」―日本人の本質に立ち返るとき― [2019年05月27日(Mon)]
「失われた覚悟と倫理」
―日本人の本質に立ち返るとき―


月刊「BOSS」
2019年6月号
笹川 陽平


改元の意義

「令和」は万葉集のなかからとった言葉ですね。いままでの年号は中国の古典から引用されていたのですが、今回は大化の改新以来はじめて、国書から選ばれました。-

その背景には稀にみる活発な元号論争があったのですが、これは私が最初に問題提起したことなんです。どうして元号を他国の文献からとらなくてはならないのか? 日本の古典から選べばいいし、造語でもいいではないかと言ったら、予想以上に反響を呼びました。

万葉集は貴族だけでなく、防人など一般の人々も含めた、生活の中のあらゆる営みが組み込まれた歌集です。そうした意味でも、出典が万葉集だったことはとてもよかった。安倍政権にも限られた階級ではなく国民みんなが参加した書物から元号を選びとりたいという意思があったのでしょう。

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インタビューを受ける


日本は中国から漢字をもらい、中華文明を受け継いで今日に至ると思っている人も多いでしょうが、初期に中国の文化を取り入れたあとは独自に咀嚼し、固有の文化を築いてきました。福沢諭吉・西周・中江兆民などが新しく日本語をつくりあげてきたわけです。

一例をあげると、ロシア革命当時には、その資料はまず日本語に翻訳され、「資本家」「経営者」「利潤」など、もともと中国語にはない言葉が日本で新たに作り出されました。それを中国語に訳したことによって、中国の現代語には日本語がたくさん入っています。

実は「中華人民共和国」という国名の「人民」も「共和国」も、日本人が作った日本語なのです。私は今年も中国の5つの大学で講演をする予定なのですが、この話をすると現地の学生だけでなく教授たちもびっくりしますよ。

このように、文化とは互いに刺激し合うことで発展していくものです。だからこそ日中間の相互理解をもっと進めていこうと話しているわけです。

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日本文化に立ち返ることこそ真の国際化である
写真:月刊「BOSS」提供


商人道を見失うな

新元号の発表時に安倍首相は平成を「変化と改革を求められた30年」と総括しましたが、いつの時代もそうなんです。ダーウィンの進化論が「強い種より変化に適応した種が生き残る」と教えているように、企業や組織もとどまることなく、常に激しく変化していかなくてはなりません。

そのために、もっとも必要な条件は、指導者の覚悟です。平成の時代がもたらした日本の現代社会の欠点は、指導者が自らの責任でリスクをとらなくなってしまったことだと考えます。リスクをとらないところにイノベーションは決して起こりません。若い世代の人々は果敢にリスクをとって起業しているじゃありませんか。ところが、大きな会社になればなるほど馴れ合い人事で、誰から見ても異論の出ない人だけがリーダーに祭り上げられ、何の仕事も進まない。これでは変化に対応できなくなります。

新しい時代には、各人が責任を持って自分の仕事にあたってほしい。私の希望はそれだけです。平成の時代には不正会計や改ざん事件がいくつも起きました。良品廉価の精神や、近江商人の「三方よし」に代表されるような日本伝統の企業倫理は消え去りつつあります。グローバリゼーションの悪しき影響で株主至上主義に陥り、四半期ごとの決算報告で利益を出さなくてはならなくなったために倫理破綻を起こしてしまっている。

数字や品質をごまかした企業は、商売を辞めなくてはいけません。謝罪会見で経営者が30秒も頭を下げるなど、こんなに恥ずかしいことはない。昔のように切腹しろとは言いませんが、そのくらいの覚悟を持てと思いませんか。

逆に、覚悟があれば日本人は必ずいい仕事をするし、イノベーションも起こせます。そのことは歴史が証明していますよ。

もうひとつ、これからは政治家でも企業人でも、世界を知らなくては指導者になれない社会に変える必要がありますね。海外の会社と戦っていくためには、敵をよく知らなくてはいけませんから。特に若者はグローバルな立ち位置を求めていってほしい。そのために、私の世代がしっかりと状況を作っておかなくてはならないと思います。「近頃の若い奴らは」なんて愚痴を言わないで、優秀な若者たちを応援してあげないといけません。

とはいっても、グローバルに活躍する人材をつくるというのが、実はもっとも難しい課題だと思います。なぜなら、若い人はみな旅行で外国に行きますね。そこで夜は一人で外出することもできないし、ホテルの部屋にも厳重なロックが必要な国が圧倒的に多いという現実を知れば、日本こそが世界一暮らしやすい国だということが肌身に染みてわかってしまう(笑)。海外に優れた大学や研究環境を求めている学者たちならともかく、一般の方がわざわざ危険と隣り合わせで生活せざるを得ない海外で働きたいと思うでしょうか。

オリンピックへの希望

日本がどれだけ素晴らしい国なのか、世界中の人はみんな知っています。人種も宗教の対立もありません。テレビのニュースでは最近殺人の話題が多くて、いかにも危険に思えますが、日本は世界中でも殺人が非常に少ない国ですよ。少ないからニュースになっているのです。2016年のオリンピックが行われたリオでは、この年だけで1万1000件を超える殺人、殺人未遂事件が発生しています。たったひとつの都市の話ですよ。

来年に行われる東京オリンピック・パラリンピックは、世界の人々が日本の良さを実感する最高の舞台になるでしょう。私たちは日本人として誇りをもたなくてはいけないのですが、だからといって傲慢になってはいけません。「おもてなし」という日本ならではの心で海外からやってくる人に接すれば、東京オリパラもその後に続く大阪万博も必ずうまくいきます。何にも心配することはありません。

東京オリパラは、日本財団も全力で支援しています。参加する11万人のボランティアの方々のとりまとめをしているのは、東京都でもオリンピック委員会でもなく、当財団です。日本財団が降りると言ったら東京五輪は成立しません(笑)。

なかでも私が特に期待しているのは、パラリンピックです。長らく障害者問題に取り組んできた当財団では、社内のワンフロアを解放してパラリンピック種目の団体を集めました。そして、競技内容の変更や帳簿の処理、英文資料の翻訳までをトータルで支援しています。パラスポーツでは、車いすが床を傷つけるなどの理由で公共の練習場が借りられないことが多い。そこでお台場に専用競技場も建設しました。ここに全国から見学に訪れる人が絶えないのです。子供たちが車いす体験を通じて、障害者への理解を深めたりしている。新時代には、さらに理解が進むはずです。

現在、日本には財政や少子高齢化など、様々な問題があります。しかい過去1000年の歴史を振り返ってみれば、私たちは大変な飢饉や天変地異を幾度も乗り越えてきました。関東大震災、第二次世界大戦。江戸の振袖火事のように江戸中がほとんど燃えてしまったときにも、3日も経たないうちに新しい建設の槌音が上がりました。こんなにすさまじい生命力を持っているのが日本人なのです。

令和の時代にも、もっと日本を明るくする力を、私たちは持っていると信じます。

【私の毎日】5月24日(金) [2019年05月24日(Fri)]
5月24日(金)

13:00 財団着

14:00 日本モーターボート競走会・評議員会

15:30 屋山太郎 政治評論家

16:30 世界海事大学・日本留学生・入学挨拶
    
15:00 末松広行 農林水産省事務次官

17:30 「子どもの貧困」事業打合せ

18:30 フィンランド・日本・外交関係樹立100周年記念レセプション
    於:フィンランド大使館
 
週刊新潮「皇后陛下のお導きで」 [2019年05月24日(Fri)]
「皇后陛下のお導きで」


週刊新潮
5月2・9日ゴールデンウイーク特大号
笹川 陽平


平成27年1月、ハンセン病の差別撤廃を世界に訴える第10回目の「グローバル・アピール」が東京で開催され、その直前、この病気の現状について両陛下にご進講申し上げました。

吹上御所の小さなお部屋でした。当初15分の予定が、話が弾んで70分にもなりました。それも私が一方的にお話するのではなく、両陛下から専門的な御下問もあり、ご見識に驚きました。

その一つに、天皇陛下から「プロミンというのはいい薬だそうですね」とのお言葉がありました。ハンセン病の特効薬のことです。また皇后陛下からは「なぜブラジルではハンセン病が制圧できないのでしょうか」というご下問もありました。両陛下とも専門的な事柄までほんとうによくご存知でした。

考えてみれば、両陛下は国立、私立を合わせ日本に14あるハンセン病療養所をすべてお訪ねになり、回復者を励まされました。皇室とハンセン病の関わりは、奈良時代の光明皇后が作られた悲田院、施薬院に遡ります。こうした伝統を引き継いでいらっしゃるのです。

そしてこの時、私を深く感動させたのは、皇后陛下のある一言でした。皇后陛下は「韓国の状況はどうでしょうか」とお尋ねになりました。私が韓国の患者はゼロとなり、移民や外国労働者の発症が数例あるだけです、と申しあげますと、皇后殿下は「それはよかったわ」と安堵され、さらに思わぬお話をなさったのです。

皇太子妃時代に、韓国のシスターからハンセン病の深刻な状況を訴えるお手紙が届いたそうです。その内容に心を痛められた皇后陛下は、高松宮殿下と当時、駐韓国大使だった金山政英氏にご相談されたとお話されたのです。

突然、金山大使の名前が出てきましたので、私はたいへん驚きました。実は昭和45年に金山大使が私の父、笹川良一のところにお見えになって韓国でのハンセン病患者の窮状を訴えられ、そこに私も同席していたのでした。それがきっかけで父は韓国に病院を作り、私も現地に同行しました。そこで父が血の気を失った無表情な患者たちを抱擁している姿を見て、ハンセン病対策を一生の仕事とする決心をしました。つまり、私は皇后陛下のお導きでハンセン病に関わることになったのです。

ご進講の際、私はグローバルアピールで来日したハンセン病回復者たちに励ましの言葉をお願いしたい旨、申し上げました。そして2週間後、8人の回復者とともに再び吹上御所にうかがいました。ここで両陛下は、お言葉を述べられた後、さっと8人に近寄られ、一人一人手を握ってお話をされました。人間扱いされてこなかった彼らに、同等の人間として親しく接せられたのです。

両陛下は「人間愛」のお方です。恵まれない人、病気で苦労している人、被災された人など、苦境にある人たちを励ますことを自らの責務として、お務めをされてきたのではないかと拝察します。

被災地訪問が度々報じられますが、両陛下はその間にも四十数回も関係者を御所にお呼びになって現地の状況を尋ねておられます。被災地で跪かれるのは、形の問題ではありません。自然なお気持ちの発露として、そうなさっておられるのだと思っています。



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