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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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笹川 陽平
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11月30日(日) [2014年11月30日(Sun)]

11月30日(日)

7:00 バンコクより、羽田空港着

8:10 自宅着

13:30 オリンピックを成功させるためのシンポジウム 挨拶

11月29日(土) [2014年11月29日(Sat)]

11月29日(土)

0:30 羽田発

4:50 バンコク着

image1.JPG
特技はどこでも寝られることです!
バンコク空港にて


8:00 バンコク発

9:00 チェンマイ着

10:00 ホテル着

11:00 関係者との会合

13:00 関係者との昼食

18:00 ホテル発

18:30 チェンマイ空港着

19:30 チェンマイ発

20:30 バンコク着

23:15 バンコク発、羽田空港へ

11月28日(金) [2014年11月28日(Fri)]

11月28日(金)

7:40 財団着

9:00 ソアレス国連事務次長

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筆者右がソアレス国連事務次長


10:00 宇都隆史 外務大臣政務官

11:00 日本財団と国連法務部海洋法課(DOALOS)による日本財団奨学生総会 スピーチ

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総会でスピーチ

DSC_0050.JPG
DOALOS卒業生勢揃い!


12:45 ソアレス国連事務次長との会食

14:00 フィレティ・テオ 太平洋諸島開発フォーラム事務局長

14:30 清水一郎 伊予鉄道副社長

15:00 玄 秀盛 日本駆け込み寺代表

16:00 太田英昭 フジ・メディア・ホールディングス社長

18:30 DOALOS・歓迎レセプション

22:45 羽田着

00:20 羽田発、バンコクへ

「タイ出張」―ゼロ泊3日― [2014年11月28日(Fri)]

「タイ出張」
―ゼロ泊3日―


またまた今夜の深夜便でタイに出張いたします。
ミャンマー政府と少数民族武装勢力和解のため、力を尽くしてまいります。

帰国は30日(日)です。

「中国の小話」その46―中国 犯罪者の名言― [2014年11月28日(Fri)]

「中国の小話」その46
―中国 犯罪者の名言―


中国では、政治家や役人の贈収賄はいわば文化のようなものであり、逮捕されるのは運が悪かったと考える人々も多い。

下記は、中国国家権力者である政治家や有名人の嘘(うそ)の名言である。
日本ではこのことを『盗人(ぬすっと)猛々しい』という。
唯一、最後の劉胡蘭の言葉だけは真実である。


※清廉(心が清くて私欲がないこと)で公正な政府官僚になるのは一種の美学だ!
 ―収監された薄煕来元重慶市党書記の言葉―

※汚職と腐敗に対する我々の我慢の余地はゼロだ!
 ―汚職で失脚した周永康元党中央政治局委員の言葉―

※私の最大の欠点は清廉であること!
 ―収賄で党籍を剥奪された徐才厚元軍事委員会副主席の言葉―

※廉潔(心が清くて私欲がなく行いが正いこと)にして公に奉仕する!
 ―収賄罪で死刑猶予の判決を受けた劉志軍元鉄道部長の言葉―

※『人民日報』は創刊65年来、一言も嘘をついたことがない!
 ―卓球の世界チャンピオン、IOC委員ケ亜平の言葉―

※米国籍を取得したが、私は相変わらず中国を愛している!
 ―元フェニックステレビの名キャスター、楊蘭の言葉―

※共産党員は幾ら逮捕しても逮捕し尽くせないものだ!
 ―16歳の若さで革命の大義に殉じ、毛沢東から「偉大なる生、光栄ある死」
  と褒めたたえられた少女劉胡蘭の言葉―

11月27日(木) [2014年11月27日(Thu)]

11月27日(木)

14:00 財団着

16:00 ミャンマー障害者芸術祭・Sylff代表者会議 スピーチ打合せ

18:00 日本海事新聞「新春対談」録音撮り

「笹川記念保健協力財団設立40周年記念講演」―40年のいくつかのエピソード― [2014年11月26日(Wed)]

「笹川記念保健協力財団設立40周年記念講演」
―40年のいくつかのエピソード―


2014年10月17日
於:日本財団・大会議室


講演.JPG


笹川記念保健協力財団と日本財団は混然一体として仕事をやってまいりましたので、どちらがどうということではございませんが、先ほど紀伊國先生がお話しされましたように、この組織には人格的にも専門分野においても本当に優れた方々が集まって下さった。そういう方々のご協力をいただいて仕事がなし得たということで、組織というものも立場ということも重要ではございますが、大事な仕事をなし得る時というのは、最終的にはやっぱり人間と人間の交わりで、そこに本当の信頼関係が確立されているかどうかということで決まっていくのではないかと思っております。

今日お見えのほとんどの方々はご指導ご協力をいただい方々ばかりですので非常に話しにくいのですが、今日は特別の機会でございますので喜んでつたない話をさせて頂きます。私には時系列的にきちっとお話ができる才能がございませんが、皆さま方がご存じないようなエピソードをお話することによって、財団の40年をご理解いただければと思います。

私は単にこの笹川記念保健協力財団が40年を経過したという意味よりも、40年間でなし得たことの内容の深さ、そして拡がりというものを評価すべきではなかろうかと思いますので、そういう中でいくつかの話をさせていただきたいと思います。

中国が経済的に大変困難な時期、今の経済成長が始まっていない天安門事件の前から、中国のお医者さんを日本に連れてきて教育しようということを決めたわけで、先ほど初代理事長・館守三先生のお話がありましたが、最初は7人位から始めようということでございましたが、100人ぐらいで行わなければ白髪三千丈の国とは対等に交わりができないのではないかと考え、その時私は2つの事をお願いしました。

一つは、優秀な学生は北京、上海に偏っていました。そうではなく、中国全土から派遣していただきたい。また、あらゆる医学の分野から派遣していただきたいとお願いしましたが、これには2つの問題がありました。

一つは、どうしてもチベットから人が選ばれないんです。それは日本語のレベル、あるいは医学のレベルが低く、チベットだけがどうしても残ってしまったのですが、やっとまあまあの方が1人選ばれました。ところがなかなか引き受け手がいらっしゃらない。しかし、信州大学が、外科の方でございますけれども、受け入れて下さいました。

その方は日本に着いてから一切ご馳走を食べませんでした。チベットという厳しい場所で生活してきておりますので、1年たって国に帰った時、今の日本での食生活をやっていたら体が持たないと思うからということで、大変質素な食べ物に終始されたということを伺っております。残念ながら1年でございますから、手術を行うまでにはならず立ち合いをするという程度でしたが、帰国して1年有余たって主任教官をチベットに迎え入れて下さった時には、チベットではもうすでに名医の誉れ高い外科医として、1日20人ぐらい手術をしていたそうですから、やっぱり数をやると腕が上がるんだなと、私は素人なりに思ったわけでございます。

また私は看護師を呼びたいと思っておましたが、こちらも実現には7年かかりました。中国では、天安門事件前までは病院内での看護師の立場はきわめて低く、7年もかかってしまったわけです。当時、日本の看護師会の高橋さんという看護師さんが、もう亡くなられましたけれども、情熱を持って担当してくださいまして、今や、中国には立派な看護師協会が出来るまでになりました。

現在までに来日した中国人医師は2,200人を超えました。ありがたいことに、日中医学協会の献身的なご努力もあり、北は北海道の札幌医大から南は沖縄まで、全ての医科大学、そして国立研究所が受け入れてくださり、立派な教育だけでなく、日本の地方文化の理解への努力もして下さいました。私たちも、受け入れていただくためにはしっかりとした日本語教育が必要だと考え、長春医科大学で10カ月の日本語教育ならびに日本での生活というものがきちっとできる常識まで教えたわけでございます。当時中国はまだ国際的には孤立しておりましたから、海外留学の窓口はほんのわずかでしたので、医学分野の優秀な方々がほとんど全員日本に来てくれました。

今、中国の医学界の中堅より上は、ほとんど笹川奨学生といわれる方々です。当初、日本に着いた時は全員人民服でございました。しかしある時、私が中国を訪問して卒業生と食事をし、遅くなりましたので私の乗って来たマイクロバスで送ろうと思いましたら、全員自家用車を持っていましたので驚いてしまいました。(笑)

時代の変化というものを肌で感じたわけですが、日本の各医科大学はどこも受け入れを拒否することもなく、先ほど名前が出ました日中医学協会の阿部さんは『中国人医師の母』と言われるぐらい、お一人お一人に電話をし、主任教官とうまく行っているかどうか、研究テーマがうまく行っているかどうかと、細かい配慮をしてくださいました。単にお金を出して奨学生を呼ぶというだけのことならばどこでもできることでございますけれども、このような配慮が大変重要なことで、今も、この日中医学協会の先生方には中国に行っていただき、同窓会の皆さんを激励し、シンポジウムを開き、彼らのネットワークをきちっと作っていただいています。SARSが発生した時にも、第一線で活躍したのはほとんど笹川奨学生であったということで、本当に素晴らしい仕事をしていただいたと感謝しております。

当時、中国の留学生は、海外に出ますとほとんどが国に帰らなかったのです。経済発展した今では帰るようになりましたが、笹川奨学生は、天安門事件の時に3人の方がアメリカに脱出した以外は全員国に戻ったということで、中国政府にとりましても大変大きな力になってくれたと高く評価されています。財団、そして日中医学協会には、歴史に残る大きな仕事をしていただいたと思っております。

風景.JPG


チェルノブイリの原発事故の時には、私が直接ゴルバチョフ大統領から「何とか助けてほしい」との依頼を受けました。ちょうど5年が経過した頃でございましたが、ご承知のとおり、日露関係、当時は日ソ関係は断絶状態でございました。政経一致政策というのは日本の外交政策でございまして、経済と政治は一体で、北方領土の問題が解決しない、日ソ平和条約が調印されない以上、あらゆる交流はしないということでございました。唯一漁業の協定のみをやるという段階での依頼でございまして、これを大規模に取り組もうとした時には、やはり日本政府から私の所に注文が入りました。「日ソ関係は政経一致政策を取っている中で、財団がそのような大規模な支援活動をするのはいかがなものか」ということでございました。今までどこにも話したことはないのですが、私は私の一存で「人道支援には国境も無ければルールも無い。人道支援をすることについて異論があるならば公開討論をいたしましょう」と言いましたら、そこでけりがついたわけでございます。

その後の日本政府の対応は良くありませんで、我々のこのチェルノブイリの協力を窓口にして、実は政経一致政策を放棄してしまったのです。そしてロシアに良い所だけ経済援助で取られてしまって、肝心の平和条約も北方四島も返ってこないという間違った方向に行ったのは誠に残念なことでございます。

チェルノブイリの支援に関しては、重松先生、そして今日おいで下さった長瀧先生の大変なご努力で、長崎、広島で使っている機器よりもっと最新のものを作ろうじゃないか。日本の最新鋭の技術を駆使した医療機械でなければいけないということで、特に長瀧先生の甲状腺の器械は、私は正直言って高価で夜も寝られない時があったのを今白状いたしますが、素晴らしい機械ができました。

緊急を要する仕事ですので、ゴルバチョフ大統領が来日の際に飛行機を持って来てほしいと依頼しました。そうしましたら、ロシアにはアントノフという戦車も運べるような世界最大の軍用機があるんですね。先般の東日本大震災で、日本財団はメルセデスベンツ社から特殊車両をたくさん頂きましたが、それを運んだのはやはりアントノフでございました。しかし、この飛行機が成田空港に入るのが大問題でございまして、成田の飛行場の管理は国土交通省でございますが、民間飛行場に軍用機が降りた例がないから駄目だと言うんですね。例がないなら作ったらいいじゃないですかって言ったんですけれども、これがまあ、押したり引いたりの騒動でございましたけれども、結果的には受け入れていただきました。診療車5台に医薬品を詰めて運びました。その後は、これもあまり表には出ていませんが、アエロフロート、ソ連の国営の航空会社が数十回にわたって無料で運んでくれました。これには財団の槇女史を中心に、大変な努力をしていただきました。槇さん、60数回行かれましたかね、チェルノブイリには? 結局、10年間のチェルノブイリの費用は40億円を超えてしまいました。

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最新鋭の医療機械と医薬品を満載した車がアントノフに積まれ、一路ソ連(当時)へ


診療をはじめた頃は、長崎・広島の例からいって、多分、白血病と甲状腺異常だろうということで、この2つの対策を立てようということでしたが、結果的には白血病は2例か3例ぐらいしかなく、ピカドンの熱線被ばくと、低線量による長期にわたる被爆の差ということだったんでしょうか。しかしこの長瀧先生の先見の明で、当時0歳から10歳までの子どもたちの非常に詳細な甲状腺の調査というものが、その後の東日本の福島第1原発で活用されることになるわけでございます。

結論を言えば、車の走行距離は地球を90周回ったほど走りまわり、村々を回って精密なデータを集めていただき、その時多分、私の推測で延べ400人近いソ連の人たちを日本で教育していただきました。しかしその当時は旧ソ連でございまして、途中で国が3つに分かれ、このウクライナとロシアが大変仲が悪くて再契約をするについて調印するのを拒否するというんですね。ロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国と我々との契約なんですけれども、同じテーブルに着きたくないという強硬なウクライナの発言があって困ったんですけれども、結果的には財団とロシア、そして財団とウクライナ、そしてベラルーシという、個別の契約によって再度動き出すという形になったわけでございます。

その時現場で中心になってくれた方が、今、放射線の世界で第一級の人たちになっているわけです。その中心が山下俊一先生。まだ当時は若うございましたけれども、現地で活躍してくださいました。その後、福島原発事故が起こって日本政府が全然対応がないものですから我々が動こうということで、3.11から6カ月後に国際放射線、放射線と健康リスクについての国際会議を福島に乗り込んでこれを行ったわけでございます。

当時の新聞をひも解いてみますと、非常にセンセーショナルな記事がほとんどで、今思うと驚くような記事が多いというか、専門的知見もない科学者と言われる方々が住民を恐怖のどん底に陥れるような論評を書いておりまして、あの時の科学者、あるいは医学者というのは今どうしていらっしゃるのでしょうか。非常に残念なことでした。

山下先生には本当にご苦労をおかけしました。当時は先生の人格を傷付けるような発言が徹底してなされていまして、私も電話したりして一生懸命支えようとしたのですが、WHOで働いた経験もあり、国際経験も豊かな先生のお考えは微動だにせず、「私はきちっと仕事をしますから、笹川さんご心配なく」と言っていただきました。強靭な精神力で福島に乗り込んで仕事をされ、今や福島で尊敬される第一人者になっておられるというのは大変うれしい事ではございますが、その間の心の葛藤というものは相当なものであったろう推察するわけでございます。

そういうことで、我々はさまざまな仕事を一緒にやってまいりましたが、ハンセン病につきましては、先ほど紀伊國先生からお話がありましたが、多くの先人の後を継いで、私は少しお手伝いをしているというか、素人の観点からちょっと違った戦略と戦術というのを立てたに過ぎないわけで、全ては先ほどご紹介いただきました笹川記念保健協力財団にご協力いただいた40名の方々から頂いた知識であり経験であり、助言をどのように生かしてきたかというだけのことでございます。

ただ旧約聖書の昔からある古い病気ではございますが、医学的には薬も開発され無料で配布されているわけですから、けりをつけなければいけないと思うんですが、その中に人間の心の問題である偏見や差別という問題が複雑に絡み合ってきているわけでございます。

私はダライ・ラマ師とお話しした時「インドからハンセン病の乞食をゼロにするための闘いをやりたい」と話しましたら、彼は「そんなことは出来るわけがない」と断言されました。しかし、出来るか出来ないかはやってみないと分からない話で、やはり第一歩を踏み出すということが大切だと思っております。

お陰さまで、この春にはダライ・ラマ師が私と一緒にハンセン病の回復者の村に行ってくださり、今後の著作権による印税を、私どもの財団に全額寄付してくださるという大変ありがたいお話にまで発展をしてきておりますけれども、まだまだ我々の闘いは緒に就いたばかりでございます。多くの皆さん方のお力を頂かないと物事は前に進まないわけでございますので、今後とも、皆様方のご指導をいただきたいと思っております。

私は今から40年前、日野原先生からオスラー博士の『平静の心』という本を頂きました。医学を志した方はほとんど読んでいるだろうと思われる素晴らしい本で、私は医者でもないのですが、好奇心が人一倍強いのでたびたび読んでおります。日野原先生も大変尊敬をなさっていらっしゃいました。世界にオスラー協会というのがあるそうでございます。

その本の中の1つが、私の現在の仕事をやる上で大変大きな力になっております。そこの所だけ引いて来ました。どういうことを言っているかといいますと、重大な危機に直面した時にどのように判断するかということで、常に沈着冷静でなければいけない。そして特に感情に動かされるような判断をしてはいけない。そして何事にも動ぜず、毅然とした態度で判断しなければいけない。そういう精神を常に持つようにするべきだということが書かれていて、これは医者のために言った言葉なんですけれども万人に通じる言葉で、私も重大な危機をたくさん経験してきましたけれども、この本があったお陰で乗り切れたと思える、私にとって大変大切な本でございます。

その中にゲーテの言葉も引用されておりまして、「もし今、私自身に優れた点があるとすれば、それは先人により与えられたものである」。要するに、私の今日あるのはこの40人の、紀伊國先生が紹介された先人の方々より与えられたものが今の私であり、これをまたどうやって次に引き継いでいくかということが大変重要であるということでございます。

もう一つ、テニスンの詩も引用されております。「私は私が出会った全ての方々の一部である」という言葉で、何をするにも先人たちとの交わりの中で得たものですから、人生は謙虚に、与えられた仕事を通じて人生を全うするということが最も大事なことではないかと思っているわけでございます。

笹川記念保健協力財団では、これから喜多新理事長の下で新しい取り組みが始まっています。我々が日野原先生と組んで予防医学を始めた頃には、血圧計すら医者以外は持ってはいけないという時代だったんです。そういう中で予防医学を実践するために、さまざまな教育的なパンフレットを日本の地方自治体に配布してまいりました。そしてまた、その中でこれからの終末医療、特に癌患者に対峙するホスピスナース養成は今も続いておりまして、すでに3,400人の方々が日本中で第一線で活躍しております。第1期生をお迎えした時には「ホスピスナースって何だ? そんなものが何の役に立つんだ」と言われ、確か24人の内ほとんどの方が働いている病院を退職して参画をして下さいました。ということは、大先生がたくさんいらっしゃるので恐縮でございますが、終末医療に対する医師の意識というのは大変低かったのです。今もまだ低いのではないかと思うのですが、このオスラーの本の中にも出てくるんですが「医師は患者を診なさい」と言っているんです。当たり前のことですね。ところが医師は病気を診ちゃうんです。今はパソコンばかりを見ていて患者さんの顔は全然見ない医師もいるということですが。(笑)

こういう世の中だからこそ看護師の役割というものが大変重要でございます。90%近い人が終末は自宅で過ごしたいという統計データも出ております。最後の看取りは病院ではなくて自宅でという方向に変えていかなければいけないわけで、喜多理事長は、在宅のための看護センターを全国に作り、出来るだけ患者さんのいる近くで看護師を中心としたチームが働けるようにしていこうと努力されています。これから起業をされる看護師は、単にお医者さんの指示に従って行動していた今までと違い、自主的に事業家として飛び立っていただこうということで、一生懸命喜多先生に教育をしていただいているところです。

日本財団では、この人たちの事務所の開設から事業費まで含め、一貫して支援していきたいと考えております。過疎地においても在宅ケアが充実して受けられるような全国的な拡がり持ったシステム構築を目指し、シェイクスピアの言葉ではありませんが「終わり良ければ全て良し」、人生の素晴らしい終わり方ができるような体制を整えていこうというのが喜多理事長の新しい意欲的なお考えでございます。私たち日本財団もご一緒に仕事をさせていただけるということは、石館先生の言葉である『光栄な義務』だと思っております。

ありがとうございました。

11月25日(火) [2014年11月25日(Tue)]

11月25日(火)

7:00 デリーより、成田空港着

8:30 自宅着

13:20 財団着

13:40 日本吟剣詩舞振興会『新年号』対談 VS 菅原通雄会長

☆IMG_1813.jpg
対談に先立ち、日本吟剣詩舞振興会より、東日本大震災基金へ394,850円
ハンセン病回復者自立支援事業へ1,190,000円のご寄付をいただきました
大切に使わせていただきます


15:00 天城 一 社会貢献支援財団専務理事

15:30 WMU奨学生・帰国報告

16:00 「日本財団経営戦略」会議打合せ

16:30 鳥井啓一 日本財団参与

17:00 武見敬三 参議院議員

11月24日(月) [2014年11月24日(Mon)]

11月24日(月)

7:30 朝食

13:00 関係者と昼食

16:15 モディ首相
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モディ首相と

17:00 ハンセン病回復者協会のナルサッパ会長らと打ち合わせ

18:00 空港着

21:00 デリー発、成田空港へ

11月23日(日) [2014年11月23日(Sun)]

11月23日(日)

7:30 朝食

13:00 関係者と昼食

19:00 関係者と夕食
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