「ノーマン・ボーローグ博士生誕100周年」
―記念シンポジウム―
笹川アフリカ協会(SAA)主催によるノーマン・ボーローグ博士(インド・パキスタンの緑の革命を指導してノーベル平和賞を受賞)の生誕100周年記念シンポジウムがアフリカのウガンダ南東部の都市ジンジャで、7月10日、11日の二日間開催された。
笹川アフリカ協会は、1986年、ノーマン・ボーローグ博士、ジミー・カーター元米国大統領、日本財団初代会長の笹川良一が共同で設立した協会である。ボーローグ博士は晩年の20年間、SAA理事長としてアフリカの農業問題と闘い続けた。
設立以来『笹川グローバル2000』(SG2000)農業プログラムをサブサハラ14カ国で展開。各国のパートナーと協力しながら、零細農家に対して高収量品種の導入や高生産性農法の活用を奨励することで生産性と収益性の向上を目指しており、現在は、ケニア人のルース・オニャンゴ会長の強いリーダージップのもと、エチオピア、ナイジェリア、マリ、ウガンダの4カ国で重点的に活動を行っている。
世界広しといえども、28年間もアフリカの零細農民を相手に活動してきた団体は他にない。特に近年、宮本正顕常務理事の努力により世界的に評価は高まり、ビル・ゲイツ財団、JICA、ナイジェリア政府、ドイツからの支援金もあり、更に支援を申し出てくれている団体や国があるものの、しっかりとした成果を出すためにはこれ以上急激な組織拡大は望ましくないとのことでお断りしている状態だと、宮本正顕さんは話してくれた。誠にうらやましい限りであり、又、設立当初から関与してきた私にとっても誇らしいことである。
このシンポジウムにはエドワード・セカンディ副大統領、モーゼス・アリ第2副首相、トレス・プチャナヤンディ農業大臣をはじめとするウガンダ閣僚、ボーローグ博士の娘ジーニー・ボーローグ氏と孫のジュリー・ボーローグ氏、ソグロ元ベニン大統領、藤田順三在ウガンダ日本国大使、ウガンダ政府関係者、国際NGO、大学、農業関連企業、ジンジャ周辺地区の農家、学生、青年海外協力隊ウガンダ隊員が参加した。
ウガンダの農業問題に関するパネル・ディスカッションでは、シンポジウムに参加している農家、学生からの質疑応答が活発に行われた。「農家の技術を向上させるために、農業を学校の必修科目にするべきか?」というセンションでは、マチョワ・クリストファー・モガル君(15歳)より、「農業をもっと楽しくするべきだ。農業を楽しむことで、農業にそれほど誇りを感じていなかった将来の世代が、農業に献身するのではないか?もっと農家のモチベーションを上げる仕組みを作れば、ウガンダ農業は発展するはずだ」という意見が出された。
さらに「農家の収入向上のために、どのように農業をファミリービジネスとして促進させればよいか?」というセッションでは、青年海外協力隊の神崎志穂さんが、米の普及による農業収入向上の可能性とそれに係る人材育成の重要性について発表。同じく青年海外協力隊の平野裕士さんは、活動している村の農業組合メンバーとマンゴージャム作りを始めたが、農家がジャム作りを通して食品加工だけでなく、それを売るためのマーケティングやジャムを作る際の衛生管理についても学ことができると発表した。
日本においては、農業も高齢化と共に後継ぎ問題が深刻であるが、若者が農業を誇りに思い、その可能性について議論する場の必要性を痛感した。
会議の休憩時間にボーローグ博士の娘であるジーニーさんと、孫娘のジュリーさんと挨拶を交わした。「父はミネソタの貧しい農家に生まれたの。大学時代はレスリングの選手として活躍したけど、大リーグのシカゴカブスの二塁手になることが夢だったらしいの。控え目な人で、自慢話はしないで一生懸命働く、とても倫理観の強い人だったわ。いつも私たちに教育の大切さを話し、死ぬまで教えることを忘れなかった。父の仕事で南米に何回も同行したけど、飛行場ではいつもDairy Queen(デイリー・クイーン)を探し歩いてアイスクリームを食べるのが楽しみだったみたい。確か死の二日前だったと思うの。癌の治療が終わって病院から帰って来て、突然「最大の問題はアフリカだ」と。晩年の父の頭の中は常に『アフリカ』だった。忘れもしない。死の6時間前に「Take it to the farmers」(その技術を農民の元へ)と言ったの。それが今回のシンポジウムのテーマになったことを、きっと父も喜んでいるでしょう」と語ってくれた。
ボーローグ博士の娘さんとお孫さん
ノーマン・ボーローグ博士は、私に多くのことを教えてくれた恩師である。常に「Never give up」、あきらめるなと、叱咤激励してくれた。ヒューストンで病魔に勝てないことを悟ったノーマン・ボーローグ博士が笹川アフリカ協会会長を辞任され、その感謝の慰労会を親しい関係者とご家族で行った折、私は不覚にも感極まって、生まれて初めて人前で号泣したことも遠い昔のように思い出される。
ボーローグ博士とご一緒した時間は筆者の宝物
葬儀での挨拶、そして今日のスピーチも、多くの方々から感銘を受けたとのお誉めの言葉を頂いた。私の下手なスピーチを補って余り有るスピーチの内容であった。
私のスピーチは、武部恭枝女史の指導のもと、小澤直、渡辺桂子、ヴィッキー本多、田中麻里などの若手が長時間の議論を通じ言葉を選んで作り上げた文章で、日本財団にスピーチライティングチームが存在することは、私の海外活動にとって今や不可欠の存在である。
10〜15分のスピーチの作成に1ヶ月近くの時間をかけて作成する担当者の労に感謝したい。
以下はそのスピーチです。残念ながら原文の英語からの翻訳なので、若干ニュアンスは違うかもしれない。
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ボーローグ・レガシー・シンポジウム
―挨拶要旨―
2014年7月10日
於:ウガンダ・ジンジャ
本日は、ノーベル賞受賞者であり、2009年に天国に旅立たれる最期の日まで笹川アフリカ協会(Sasakawa Africa Association: SAA)の会長を務められた、故ノーマン・ボーローグ博士の生誕100周年記念シンポジウムで皆さまにお目にかかることができ、大変光栄に思います。また、博士の最愛の娘であるジーニーさん、孫娘のジュリーさんもこの会場に駆けつけてくだったことを心より嬉しく思います。
ボーローグ博士と私の出会いは、30 年前に遡ります。ちょうどエチオピアを中心としたアフリカ各国が未曾有の大飢饉に見舞われていた時でした。当時、この飢饉に対し、世界各国がアフリカに食糧を届けました。「世界は一家、人類は皆兄弟姉妹」を基本理念とする私たち日本財団も、アフリカの人々を家族の一員と考え、苦境に陥ったアフリカの兄弟姉妹のために緊急食糧支援を行いました。しかし、このような支援は一時的に人々の空腹を満たすことができても、長期的な解決策にはなり得ないことは明らかでした。そこで、この出来事をきっかけに、私たちは、アフリカが抱える食糧問題を根本から解決するためのプロジェクトを立ち上げることを決意したのです。
この決意のもと、当時の日本財団会長であった私の亡き父、笹川良一と私は1986年にSAAを設立し、ボーローグ博士、そして、ジミー・カーター元米大統領に、私たちのプロジェクトへの協力をお願いしました。カーター元大統領はすぐに申し出を受け入れてくださいましたが、当時73歳だったボーローグ博士は「私はもう引退した身で、新しいことを始めるには年を取り過ぎています。」と躊躇されました。私の父は「私のほうがあなたより13歳も年上です。アフリカへの農業支援は、今からはじめても遅いくらいです。ですから、さっそく明日から一緒に始めましょう!」と説得しました。こうして、私たちのアフリカでのプロジェクトが始まり、飢餓という人類が抱える最も難しい課題のひとつに取り組むことになったのです。
アフリカでは、緊急な対応が必要とされる課題が山積していました。はじめに、農民たちに農業の基本を教える必要がありました。また、当時、多くのアフリカの国々で脆弱であった政府の農業普及サービスを強化していくこと、アフリカ各国政府が農業開発政策の優先順位を高めていくことが必要でした。これらは、本当に気が重くなるような難題でしたが、強い使命感を持ったボーローグ博士は、それらの難題に立ち向かっていったのです。彼は、どんな時も怖気づいたり、途中で投げ出したりすることはありませんでした。彼は、どんな困難な状況においても、いつも笑顔で「ヨウヘイ、諦めてはいけないよ!」と語りかけてくれたのです。
ボーローグ博士の生きる姿勢は、癌を患われてからの晩年になっても変わることはありませんでした。ご自身の身体が病に蝕まれている時でさえ、彼はアフリカの人々のことを最優先に考えていました。ある現場視察の後、ボーローグ博士がひどく咳込んだことがありました。私たちは、彼に出張を早めに切り上げて休むように言いましたが、「私がいるべき場所はフィールドだ」と、病気などものともせず、私たちの心配をよそに、強い闘士さながら、次の目的地に出かけていきました。
ボーローグ博士がSAAを率いてくださった20年の間に、ササカワ・グローバル2000はアフリカ14か国でプロジェクトを展開しました。私たちと一緒に仕事をした農業普及員はこれまでに数万人に達し、そのうち4000名を超える農業普及員をアフリカの大学20校において育成しました。また、私たちのプログラムを通じて、何百万人もの小規模農家の方々との「触れ合い」がありました。
私がここで申し上げた「触れ合い」というのは、アフリカの農民の心や魂に影響を与えるほどの深く、濃い「触れ合い」があったという意味です。ボーローグ博士は、アフリカの小規模農民の潜在能力を信じていました。彼の貢献は、耕運や植え付けの技術の指導という域を超えていました。彼は、農民に寄り添い、現場で共に汗を流すことで、食糧の増産を可能にしただけでなく、農民の心に「自信」という種を植えたのでした。この人道的なアプローチは、ボーローグ博士と共に働く全ての人々にとって、共通の価値観となり、SAAという組織の基盤として引き継がれていきました。
現在、SAAは、アフリカ諸国を中心に様々な国籍の職員で構成されたとてもダイナミックな組織に成長しました。オニャンゴ会長のリーダーシップの下、女性スタッフの数も増えてきています。現在の重点4か国、エチオピア、マリ、ナイジェリア、そしてウガンダにおいて、ノーマン・ボーローグ・スピリットを継承し、多くの開発パートナーと共に、アフリカにおける持続可能な農業の発展に貢献するため、尽力しています。
「Take it to the farmer」というボーローグ博士の言葉を私たちの指針として胸に刻み、この偉人が切り開いてきた道を共に歩み続けていきましょう。「Never give up」というボーローグ・スピリットに基づき、アフリカの農民に寄り添い、彼らの生活を向上させるというコミットメントを再確認し、共に取り組んでいきましょう。そして、子どもたちが空腹のまま眠りにつくことがないように、共に汗を流していきましょう。
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*日本財団ライティングチームの名作ですので、当時の弔辞を再録します。
ノーマン・ボーローグ博士 弔辞
2009年10月10日
於:テキサス州A&M大学
早いもので、博士とアフリカの農業開発に取り組み始めて四半世紀が経ちました。「食糧難に苦しむアフリカの人々の空腹を少しでも満たせてあげたい。」父と私は、当時70歳のあなたに無理を承知で協力を要請したところ、快く引き受けてくださいました。以来、あなたはアフリカの農民やその子どもたちのためであれば、いかに多忙であろうと最優先で取り組んでこられました。
Bill、Jean、あなたの父親はあなたたち家族を心より愛していました。そしてあなたの父親はアフリカの農民たちを想い、幸せを願っていました。マラウィで肺炎寸前まで体調を崩したときも、そしてガンに侵されていたときも、自分の心配よりアフリカの農民たちの幸せを考え、行動していました。そして驚くことには、その時のようにどんな苦境に立たされようと、決して苦しいとか辛いとか弱音を吐くことはありませんでした。むしろ困難を正面から受け入れ、それを乗り越えるモチベーションを生きる糧にしているようにさえ見えました。
博士は可能な限り現地を訪れ、農民と一緒に汗をかきながら優しく丁寧に手ほどきする一方、カントリーディレクターには厳しい姿勢で指導に当たられていました。そして年に一度の収穫祭で、農民たちが歓喜のダンスをしているときに見せる幸せに満ちた博士の笑顔を、私は忘れることができません。
「アフリカの子供たちが空腹を抱えたまま眠りにつかないように・・・。」博士がよく口にしていたその想いを胸に走り続けたその成果は、単に農民やその子どもたちの空腹を満たすだけのものではありませんでした。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「夢」という、土壌を耕しました。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「希望」という、種を植えました。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「情熱」という、水と太陽を注ぎました。
そしてNorman、あなたはアフリカの農民の心に、「自信」という作物を実らせたのです。
あなたは決してあきらめなかった・・・。
私も、あなたがアフリカの人々のために活動を始めた時と同じ70歳になりました。
「アフリカに緑の革命を・・・。」私は、あなたの夢そして我々の夢をボーローグスピリットを継ぐ同志(指導者、学者・研究者、農民)とともに、最後まで追い続けます。
絶対にあきらめません。
ボーローグ博士、どうか安らかにお休み下さい。