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日本財団会長 笹川陽平ブログ

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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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10月31日(木) [2013年10月31日(Thu)]
10月31日(木)

8:20 ガーナ出張打合せ

8:45  SAFE20周年式典スピーチ打合せ

9:30 石破茂 自民党幹事長

10:00 作家 高山文彦様

13:00 山城 晃 ペルー日系人協会会長

13:30 真柳 亮 キリンビールマーケティング副社長

16:00 ボートレース市長会
10月30日(水) [2013年10月30日(Wed)]
10月30日(水)

8:00 小池保夫 日本モーターボート競走会専務理事

8:30 福祉・年度内事業打合せ

9:00 「まつり基金」事業打合せ

10:00 吹浦忠正 ユーラシア21理事長

13:00 寺島紘士 海洋政策研究財団常務理事

13:30 松岡正剛 編集工学研究所所長

18:00 秋山昌廣 東京財団理事長
「ちょっといい話」その27―セルビア共和国― [2013年10月30日(Wed)]
「ちょっといい話」その27
―セルビア共和国―


筆者は、日本財団の会長という立場で各国から栄誉を受ける機会がよくある。
しかし、過去一度も祝いの会を開いたことはないし、よほど印象に残った式典(マレーシアの国王からの授与式)の時以外、ブログに書くこともなかった。顕彰された品物は、メダルを含め、全て日本財団で保管されている。

この度、セルビア共和国大統領より「功労金賞」メダルを授与するとの連絡を受け、2001年以降全くご無沙汰しているセルビアからなに故にと、不思議に思っていた。

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「功労金賞」授与、なに故に?


大使館での簡素な式では、功績の理由として、ネナド・グリシッチ臨時大使がベオグラード大学への笹川良一奨学金の設置や世界的な人道活動について話された。しかし本当の理由は、昔の日本財団のユーゴスラビア、現在のセルビアでの活動について、現在まで記憶しておられ、顕彰しようと発意された方がいたということで、そのことが嬉しく、ブログに書くことにした。

話は1980年代に遡(さかのぼ)る。
チトー大統領が築いたモザイク国家ユーゴスラビアは、チトーの死後内戦となり、国はセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、マケドニアの7ヶ国に分裂してしまった。

内戦勃発当時、西側諸国はセルビア制裁を強化し、人道的支援さえ届かなくなった。当然日本政府も西側陣営で、制裁に協力した。そのためセルビアには、極端な話、生活必需品である「マッチ」さえ戦場で使用されるとの理由でセルビア側への輸出が禁止されていた。

筆者は、西側が悪者としたセルビア側に流れ出る難民救済のため、医薬品をはじめ、救援物資をセルビア赤十字を通して配布し、難民収容所にも足を運んだものである。

又、当時ヨーロッパ屈指の大学であったベオグラード大学に、世界43ヶ国69大学で行っている修士・博士課程を対象にした「笹川良一ヤングリーダー奨学金制度」を、1988年、10番目の設置校に選定した。優秀な奨学生の中には、後に外務大臣や中央銀行総裁になった人もいる。

当時、寸暇を惜しんでチトー大統領がこよなく愛したベオグラード市内のしゃれたこじんまりしたレストランで食事をしたことも懐かしい思い出である。大使によると、このレストランは今も盛業中とのこと。懐かしさもあって、いずれ訪れたい場所の一つではある。
10月29日(火) [2013年10月29日(Tue)]
10月29日(火)

6:30 自宅発

7:16 東京発

9:34 一ノ関着

10:00 岩手日日新聞社 山岸学代表取締役社長 面談

10:30 岩手日日発

11:30 関係者との昼食

13:20 マルガレータ・ワルストロム国連事務総長特別代表、鳥羽市長と挨拶

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ワルストロム国連事務総長特別代表
陸前高田のキャラクターに思わず笑顔!


13:30 国際防災の日記念・障害者と防災シンポジウム(開会挨拶)
    テーマ「障害とともに生きる人々と災害」

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「障害者と防災シンポジウム」で挨拶


15:00 会場発

17:06 一ノ関発

19:24 東京着

20:00 自宅着
10月28日(月) [2013年10月28日(Mon)]
10月28日(月)

9:00 平田竹男 内閣官房参与

10:00 福祉特別事業・鳥取県手話言語条例事業打合せ

10:30 渡邊秀央 日本ミャンマー協会会長

11:00 小川正史 ネパール大使

13:00 工藤栄介 海洋政策研究財団顧問

14:00 横江公美 Heritage財団上席研究員

15:30 鳥井啓一 日本財団参与
雑誌「サムライ人生の達人」対談 [2013年10月28日(Mon)]

<トップ対談>
日本財団会長 笹川陽平 VS 
サッポロホールディングス代表取締役社長兼グループCEO 上條 努

雑誌「サムライ人生の達人」
2013年第4号


50代・・・まだまだ人生これからでしょ!

50代ともなると、会社の中でもある程度責任のある地位に就き、
後継を育てることを考えることが多くなる。
この世代は何をすべきなのか。
国内外で様々な経験をしてきたふたりのトップに、
50代という年代について語っていただいた。


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<常に好奇心を持つことが若さを保つ秘訣>

笹川 今日は50代がテーマらしいけど、私は、今が青春まっさかりだと思っています。毎朝、青竹踏みと腕立て伏せも続けていますしね。一般的には人生の折り返し地点といわれていますが、50代・・・・・まだまだ人生はこれから(笑)。

上條 ただ会社人生で考えれば、ゴールが見えだすあたり。50代は「どう後輩に会社を託していくかを考える時」ではないかと思います。私は、これまで私を支えてくれた社員たちの才能を、ひとつでも多く引き出してやる時期だと考えています。その一方で、私自身、仕事力も能力もまだまだ伸ばしていこうと思っていますよ。

笹川 その発想はいいですね。ただ、今の日本の50代は暗いからね。日本人ほど悲観論を披露すると評価される民族はいないですよ。悲観論が好きなんだな。
 しかし、もっと明るくなければダメです。ピンチの後にはチャンスがあると考えるくらいの積極性を持ってもらいたい。確かに仕事には運、不運があります。ただクヨクヨしてもダメ、それより心にゆとりを持つべきですよ。

上條 その通りです。特にトップや上司が下を向いてばかりでは、部下は息苦しくてたまらないはずですからね。顔を上げて、常に前を向いている姿勢を大事にすべきです。

笹川 それと、最近の50代は他動的すぎると思いますね。つまり、上司からの指示やその他の状況によって否応なく動いている。もっと自らの意志で動かないともったいない。半世紀以上の経験を持っているのですから、会社に対しても社会に対しても貢献できることがもっともっと、あるはず。自分には可能性があるはずなのに、閉じこもってしまっている。

上條 それは感じます。「若者は指示待ちが多い」と50代の部長クラスが言うんですが、私から見ると「あなたも指示待ちだよ」と思うことが多分にある。それと50代以上の方々で多いのは、「これしかない」と思って考えを進めたがることです。ただ決してそれだけではない。まず動いてみて、他の新しい可能性を考えながら周囲の意見を聞き修正しながらやっていく姿勢が50代にも必要だと思います。

笹川 好奇心があれば、いろんなことに興味が出ますし、考えが凝り固まることもない。好奇心を失った時にその人の人生は終わるんですよ。年齢ではありません。70歳になっても好奇心を失わない人もいるし、20歳で失う人もいる。人生を、もっと良く生きるために好奇心を失ってはいけない。

上條 私も気をつけていることです。この歳になってマゼランの大航海に関する本『マゼラン最初の世界一周航海記』を読んで感銘を受けました。それで去年の夏に家内とふたりでポルトガルのリスボンに行ってきました。リスボンにある大航海時代を記念したモニュメントを見て、ここが未知の世界を発見する旅の出発地点であり、それが現在のグローバルな世界につながっているんだな、などと考えてきました。
リスボンに行ったもうひとつの理由は、赴任先のアメリカでニューヨークからの大西洋を見たので、今度は反対側から大西洋を見てみたい、と思っていたこともあります。次は、どこの海を左右から見てやろうかと考えているところです(笑)。

笹川 好奇心の強さが精神的な若さの秘訣なんですよ。50代に限らず本は、すぐには役に立たないものを読まなきゃいけない。多くの人はすぐに役立つ実用書ばかり読みたがりますが、無駄な本をたくさん読まないとダメです。精神と知能を鍛えるには役に立たない本を読まなきゃいけない。そういうものの方が、意思決定する時、どこかで生きてくる。

上條 ベトナムやシンガポールでも事業展開をしておりよく行くのですが、仕事の合間に歴史を訪ねて、いろんなところを歩き回ったりしていますね。

笹川 私は学生時代に、ひとりで3ヵ月かけてグレイハウンドバスでアメリカを一周しました。英語の勉強をしたかったわけではなくて、「孤独に打ち勝つにはどうしたらいいか」を見つけることが目的でした。高野山で冬の修行もしましたよ。
孤独はリーダーの必要案件です。群れちゃいけない。最後の意思決定はひとりでしなくてはならない。誰かに相談したり、助けてもらうことはできない。よく、孤独と孤立を履き違えている人が多いのではないでしょうか。
孤立は社会や家庭からひとりになること。孤独は自分の精神性を豊かにするためにあるもの。孤独でいる時間はひとりで考えごとをしたり、読書をしたり、音楽・映画鑑賞などをして、心を豊かにするために必要なのです。孤独はつらいものではなく、楽しむもの。私も休みの日は自然と、読書をしたり、音楽を聴いたりして孤独を楽しんでいます。
私が知っている中で、日本で一番「孤独を楽しんでいる」のは小泉純一郎元首相ですね。彼も休みの日はひとりで音楽を聴いたりして、家にこもっているらしいです。

上條 孤独がリーダーの必須条件だとおっしゃられましたが、同感です。私はトップの発言の重さというものを、社長に就任してから実感しています。自分の発言の意味を100%ちゃんと相手に伝える、ということは非常に難しい。受け取る側の人によって理解の仕方が違うかもしれない。そうなると、私の指示によって物事が動き出した後に、「これは私の指示とは違う」となってしまう。これは、経営者として一番やってはいけないことだと思っています。また、社外の方に会う度に発言を変えていては、企業姿勢が疑われます。このように発言の影響の大きさを考え、日々気をつけています。

<50代は若者に期待を持ち導いていく立場>

笹川 ずっと気になっていることがありましてね。世界あっての日本、日本あっての私たち個人なのですが、個人あっての日本、日本あっての世界と考える人たちが多過ぎる。自分が幸せになることが第一と考えている。
グローバリゼーションの時代には、世界があって日本が存在できている、という考え方が基本です。自分が個人的に幸せになることばかり優先して、日本や世界のことを考えようとしないのでは成り立たない。そこは、ちょっと考え直してみる必要があります。

上條 そうですね。私たちはひとりだけで生きているわけではない。それは日本にいても海外に行っても変わることのない事実です。
米国のサンフランシスコ支店長をしていた時に、ニューヨークまでアメリカ大陸を横断しました。東京からシンガポールくらいまでの距離が、アメリカというひとつの国の中に存在しているわけです。自分の中だけ、日本の中だけを見ていても何も分からない、と実感しました。

笹川 日本では留学する若者が減っているようですね。もっと海外に出てもらいたいですね。しかし、よく「近頃の若いものは・・・・・」などと言われますが、若い人を批判してはいけません。50代ともなれば若者を導く立場です。いまの50代の人たちも若いころは上司や目上の方々に、様々な場面で手助けしてもらっていると思います。それを忘れてしまうのはいけない。古代エジプトの建造物にも「近頃の若い者は良くない」と書かれているんですが、若者批判をする50代、60代は、一番よくない。自分たちが育てるべき若者じゃないですか。その若者を批判するのは、自己否定しているにすぎません。
私は、若者への期待感を失った指導者は辞めるべきだと考えています。若者には期待と夢を持ってあげないと、若い人は育ちません。いつの時代でも、社会を変えていくのは若い人たちですからね。

上條 私も若い人に期待しています。サッポログループでも海外での事業が大きくなってきて、そこに参加して海外のスタッフと仕事をする機会をつくっています。ただ若い人にかぎらず日本人は自分の内側に障壁をつくって、自分から外に出ていこうとしない。だから留学などで、学生のころから外に出ていく習慣をつけないといけないと考えています。残念ながら自分の息子たちには言えませんでしたが、孫には「留学しろ」と言ってやるつもりです(笑)。
そうやって誰もが心の障壁を下げていかないと、グローバルスタンダードと言われても、なかなか実践できないでしょうね。

笹川 だんだん、そうなっていきますよ。それができなかったのは、あまりにも日本が恵まれた国だからです。四季があって犯罪が少ない、こんな国は他にありませんよ。
恵まれているという点が、異文化交流の機会を少なくしているのです。ほぼ単一民族で成り立っている国ですから、日常的な異文化交流がない。そのためグローバル化が進む世界の中では、日本で育った人が海外で仕事をするには、残念ながら相当のハンディキャップを背負っています。積極的に異文化交流のできる環境を求めていくしかありません。これからはそう、せざるをえなくなるでしょうね。

上條 異文化交流といえば、サッポログループは、ビールの原料である大麦やホップを国内だけでなく、ドイツやチェコなど海外の農家の方々とも、種蒔きから協働して安心・安全な商品を供給する努力をしてきましたし、これからもやっていくつもりです。
見方を変えれば、消費者の方々も含めた様々な人や社会に助けられてやっているわけです。だからこそ、社会に貢献できる会社でありたいと思っています。

笹川 サッポログループは地域に密着した地道な社会貢献活動を続けきておられる。消費者に良い商品を供給するだけでなく、社会貢献活動のようなプラス・アルファがないと、これからの企業の責任は果たせません。それを実践しているサッポログループは、私どもの実施しているCSR(企業の社会的貢献)活動の調査でも群を抜いた存在です。
私たち日本財団と協力して東日本大震災の被災地に「コラボ・スクール」という学びの場をつくった発想もすばらしい。子供たちの勉強が遅れるのは親にとっては最大の悩みなのです。そこで放課後の勉強をサポートする、ボランティアの先生たちを派遣する活動をされたのです。

上條 私は宮城県仙台市で生まれ育ちました。
東日本大震災の時、まさかあんなところまで津波が押し寄せるとは思ってもみなかったし、仲間も被災した中で、何かできなかと考えていたんです。そして、次世代を担う子供たちが厳しい状況に立たされているのを知って、少しでも役に立ちたいと協力したわけです。
感動したのは、「コラボ・スクール」への支援を始めて1年が過ぎた頃に、仙台から子供たちがお礼に来てくれたんです。うれしかったし、進学に向けてがんばっていると聞いて、本当に良かったと思いました。
現地の方々は自らの力で立ち上がろうとして動いていらっしゃるわけで、そこに私たちも協力させて頂けたことをとてもうれしく思います。

笹川 遠大なご計画ですからね。そういう子供たちに、将来はサッポロビールを飲んでもらって売り上げを伸ばそうというわけですからね(笑)。
冗談はさておき、これからの時代、人に人徳が求められるように、会社も社徳を意識すべきです。

上條 寄付させて頂いている資金は、9月に東京・恵比寿で行っている「恵比寿麦酒祭(エビスビールまつり)」の売上です。つまり私たちは、支援者と被支援者の橋渡し役をやらせてもらっている。生ビールをお飲みいただいたお客様に支援者としてご参加いただいているのです。

笹川 バブル時代は、どの企業もメセナ活動(企業の芸術・文化活動支援)に積極的でしたが、バブルがはじけるとほとんどが残っていない。それではダメなんですね。

上條 こういった活動は身の丈で続けることが大切だと私たちは考えています。

「ちょっといい話」その26―ライッサ・ローレルさんのスピーチ― [2013年10月25日(Fri)]
「ちょっといい話」その26
―ライッサ・ローレルさんのスピーチ―


ライッサ・ローレルさんは、3年前の2010年の大学生の時に爆弾事件に遭遇。両足切断で失意のどん底の彼女を病院に見舞い、義足をプレゼントしたことがある。

後に結婚し、幸せな家庭を築くと共に、障害者として積極的に活動を開始した。そしてこの度、国連における「障害と開発の関するハイレベル会合」で、障害者の代表としてのスピーチをされた。

2012年6月 結婚式.jpg
2012年12月結婚、沢山の友人に祝福されて・・・


ここに掲載したのは、私の部分を読んで欲しいのではなく、悲嘆の苦しみから立ち上がった一人の女性の逞しく、素晴らしい生き方を知ってもらいたいからです。

*****************

「障害と開発に関するハイレベル会合」にて


2013年9月23日
於:国連


ご来場の皆様、こんにちは。アントニオ・ライッサ・ドーン・ローレル・スビハノです。私はフィリピン出身で25歳、ロースクールに通う両足切断者です。現在、夫のレインと暮らしています。

今日は私の過去についてお話しさせて下さい。私は「世界を変える人になりたい」とぼんやり考えているごく普通の女の子でしたが、ある日悲しい事件が起きました。それは私がロースクール2年生だった2010年のことでした。私はマニラのタフト通りにあるマクドナルドの外で、司法試験を受け終えた友達が最高裁判所の建物から出てくるのを待っていました。

この日を境に、私の人生が一変するとは知る由もありませんでした。2010年9月26日のことです。突然何かが爆発して、私は両足を失いました。警察によると、それは手榴弾だったそうです。

私は一生この日を忘れることはできないでしょう。地面に倒れ、今後自分の足で歩くことは出来ないのだという、神の啓司を受けたように私は感じました。しかし、例え車いすを使うことになっても、何とか生き延びて法曹家になるのだと自分に言い聞かせました。その時、私の生存確率は20%でした。

私の父にとって、両足切断の同意書にサインをするのは辛い決断だったはずです。「足より命だ」と医師は説明したのでしょう。両親は、果たして私が両足を失うことを受け容れられるか、この後私の人生に何が起こるのか、苦悩したでしょう。

あくる日、目を覚ました私は、両足を失ったことを知ったのです。しかし、私は決して諦めませんでした。生きているのだから、この世で果たすべき使命があることを、私は心の中で感じました。

事件以来、私はいつでも自分に目標を課して生きてきました。最初の目標は、再び立ち上がることでした。ペニー・ブンドク博士のおかげで、私はこの目標を達成しました。

次の目標は、再び歩くことでした。私は本当に恵まれています。日本財団の笹川陽平会長が、フィリピン義肢装具士養成学校、そしてカンボジアトラストのカーソン氏・ヘレン氏の協力のもと、私に義足をプレゼントしてくれたのです。

車いすから降り、以前と変わらず義足で歩けるようになるまで、半年とかかりませんでした。もちろん、始めは苦労しました。自分の重心がどこにあるのか全く分からない状態から始まり、ようやく赤ちゃんのように歩けるようになり、そしてここまで辿り着いたのです。二つのことが私を立ち上がらせ、そして歩けるようにしてくれました。それは、私には使命があるのだという信念と、義足です。

私は、例え体の一部を失ったとしても、適正な福祉機器があれば、不可能はないと思っています。私にとっての福祉機器は義足でした。私は走ったり、ボクシングをしたり、トレーニングをしたりといった活動を取り戻しました。

2012年12月 スポーツジムにて.jpg
スポーツジムにて


福祉機器が、それを必要とする全ての人に行き渡り、彼らが自信を取り戻し、ただ生き長らえるのではなく、人生を諦めない。こうした世界を実現しましょう。

私は、今ここにいる皆様と、私自身の障害者としての3歳の誕生日を迎えています。3年前、私はこの場にいることなんて到底想像できませんでした。

私は義足(福祉機器)のおかげで、やりたいことが何でもできます。不自由はありません。

障害を持つ全てのフィリピンの人々が、高品質で、そしてそれぞれの障害にフィットした福祉機器を利用でき、人生をより良く変えていけるようになることが、私の心の底からの願いです。この願いこそが私が今日この会議場に立っている理由です。フィリピンだけでなく全ての国で、私が願うような世界を実現しましょう。
10月24日(木) [2013年10月24日(Thu)]
10月24日(木)

02:30 デリー発

13:30 成田着

15:00 財団着
打合せ、決栽、書類整理

10月23日(水) [2013年10月23日(Wed)]
10月23日(水)

7:30 朝食

9:30 スニル・クマール社会福祉省次官

社会福祉省次官と州リーダーたちと.JPG
スニル・クマール社会福祉省次官と州リーダー


11:00 B.L.ジョシ州知事

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ジョシ州知事


12:30 関係者との昼食会

13:30 メディア・インタビュー

15:00 アハメット・ハッサン保健大臣

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アハメット・ハッサン保健大臣

州リーダーたちと保健大臣面談.JPG
保健大臣との面談にも州リーダーたちが同行


16:30 ホテル発

18:00 ラクナウ発(ウッタール・プラディシュ州)

19:00 デリー着、帰国の途へ(デリー空港で約7時間待機)
「ハンセン病制圧活動記」その3―インドの名門ジャダプール大学― [2013年10月23日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その3
―インドの名門ジャダプール大学―


世界43ヶ国69大学の修士・博士課程の優秀な学生に「笹川良一ヤングリーダー奨学金」(Sylff)制度を実施しており、その卒業生は既に14,000名を超え、社会のあらゆる分野で積極的に活動していることは、実施者としてこれに優る嬉しいことはない。

インドのこの奨学制度は、二大大学といわれるジャダプール大学(コルカタ)とネルー大学(ニューデリー)で実施されている。この制度の10周年を祝うスピーチでは、特に私のハンセン病制圧活動について話せとの要望があり、下記のようなスピーチとなった。

*******************


2013年9月24日
於:インド・ジャダプール大学


本日、ジャダプール大学 におけるSylffプログラム設置10周年を皆さまとお祝いできることを大変光栄に存じます。

SYLFFスタッフ、フェローたちと.JPG
SYLFFスタッフ、フェローたちと


Sylffプログラムは、世界の困難な課題に取り組み、人類に平和や幸福をもたらせるようなリーダーを育てることを目的に設立されました。ここ、ジャダプール大学では、毎年優秀なフェローが輩出され、すでに多くの方が社会をより良くするための優れた活動を実践していると報告を受けており、大変嬉しく思います。

さて、私にとって、インドは大変思い入れの深い国です。私は毎年世界各国を訪れていますが、インドは訪問回数が最も多い国の一つです。ジャダプールにも何度か訪れていますが、2005年の大学創立50周年記念式典は、光栄にも私は名誉学位を授与いただき、心より感銘を受けました。

私が頻繁にインドを訪れるのは、ハンセン病制圧とスティグマや差別撤廃のための活動を、新規患者が圧倒的に多いここインドで特に力を入れて取り組んでいるからです。
本日は、若く意欲に満ち溢れる皆さんの前で私のこれまでのハンセン病に対する取り組みについてお話できることを嬉しく思います。

おそらく皆さんが生まれるずっと前、私は韓国にあるハンセン病患者・回復者の療養所を訪問する機会を得ました。そこでの出来事は、それまで見過ごしていた世界があることを私に気付かせてくれました。そして、その後40年にわたるハンセン病との困難な闘いをはじめる契機となりました。

ハンセン病は最も誤解され、偏見の対象となってきた病気の一つで、古くから業病あるいは天刑病などといわれ、人々から恐れられてきました。その理由の一つは、発病した一部の人に皮膚の変色や顔や手足の変形といった特徴的な症状が現れ、人々に恐怖の念を抱かせたからであるといわれています。

やがて、ハンセン病が感染症であることが分かると、今度は感染を防ぐために、各国政府が強制的に隔離政策を行うようになりました。多くのハンセン病感染者が家族から引き離されて孤島や遠隔地に隔離されました。私が訪れた韓国の療養所でもハンセン病患者・回復者は、他の地域と同様に非常に厳しい生活を強いられていました。彼らは社会から完全に隔離され、人としての尊厳を奪われ、息をひそめてひっそりと暮らしていました。

私は、その時、初めて彼らのような人々がいることを知りました。
世の中から隔離され忘れさられている人々。
差別を恐れて声をあげられない人々。
長年社会から隔離され、声をあげることすら諦めてしまっている人々。
私は彼らの苦しむ姿にいてもたってもいられませんでした。

1980年代、ハンセン病との闘いを大きく前進させる出来事がありました。それがMDT(Multidrug therapy)という効果的な治療法の開発です。これによってハンセン病は治る病気となりました。早期発見と適切な治療により、今やハンセン病は、目に見える障害が現れる前に治るようになりました。さらに、1991年のWHO総会では、ハンセン病の患者数を人口10,000人あたり1人以下に減らすという公衆衛生上の具体的な目標が設定されました。この明確な目標設定により、各国政府、NGOやその他のステークホルダーが一丸となってこの問題に取り組むことになったのです。私たち日本財団はMDTを全世界に5年間無料配布するイニシアチブをとり、その結果、ここ20年間で約1,600万人のハンセン病患者の病気が治癒しました。

私は、多くの患者の病気が治癒すれば、ハンセン病患者・回復者に対する不要な隔離政策は廃止され、ハンセン病に対するネガティブなイメージが払拭され、長年の苦しみから解放されるのであろうと期待していました。

しかしながら、私が各国で目の当たりにしたのは、その期待とは大きく異なるものでした。隔離政策が廃止されたのにもかかわらず、彼らは未だにコロニーや療養所で暮らすことを余儀なくされていたのです。学校に通ったり、就職したり、公共の乗り物に乗ったり、ホテルやレストランを利用したりといった多くの人々にとって当たり前のことができていませんでした。

この現実に直面して、私は韓国の療養所で初めてハンセン病患者・回復者に会った時のことを思い出しました。そして、当時、聞き逃していた彼らの「沈黙の声」に気付き、ハンセン病をとりまく問題の本質を理解したのです。つまり、ハンセン病を医療面で解決するだけでは、彼らの奪われた尊厳を回復するには十分ではなく、何世紀にもわたって社会とハンセン病患者・回復者の間に張り巡らされた「目に見えない壁」を壊すことはできない、ということに気付いたのです。

そして、この気付きは、私を新たな道へと導きました。2003年に、ハンセン病患者・回復者に対する差別について、彼らの「沈黙の声」を世の中に届け、社会の関心を促すために、ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所にこの問題を人権問題として訴えました。そして、各国政府、NGO、ハンセン病患者・回復者組織等に、ハンセン病患者・回復者に対する社会の不正について関心を高めてもらうべく訴えかけました。そして、7年にも及ぶ関係者のたゆまぬ努力により、2010年12月21日、「ハンセン病差別撤廃決議」が国連総会の総意をもって採択されました。同時に、各国政府等が、「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別を撤廃するための原則及びガイドライン」に十分な考慮を払うことが促されました。

採択された原則はハンセン病患者・回復者とその家族の尊厳、基本的人権と自由を謳っています。そして、ガイドラインは、各国の取組むべき個別具体的な指針を示しています。具体的には、差別的な法律や制度の撤廃や全ての出版物から差別的な言葉を取り除くこと、ハンセン病患者・回復者に対するヘルスケア、社会参加を促進することなどについて明記されています。

ここインドにおいても、ハンセン病を理由に離婚を言い渡されたり、選挙への立候補が禁止されたり、公共の乗り物への乗車を拒否されたり、運転免許証の取得が認められなかったりということがあります。こうした現存する規制や法律が、この偏見を助長させています。法令集に掲載されている古い法律が、ハンセン病回復者とその家族に対する偏見や差別を煽り立てているのです。

国連決議に対する社会の認識を高め、同時に各国政府が原則及びガイドラインを適用するため、私たち日本財団は世界の5つの地域で国際シンポジウムを開催しています。

これらの活動は、ハンセン病に対する社会の意識を変えていくことを目的としています。しかし、何世紀にもわたる無知や誤った認識によって引き起こされたスティグマや差別を社会から完全に取り除くのは大変困難なことです。長きにわたり、ハンセン病患者・回復者と社会を隔ててきた高くて厚い壁を壊すためには、両側から壁を壊していくことが必要不可欠です。そのために、ハンセン病患者・回復者はこれまで様々な努力をしてきました。私たちの人材育成プログラムから勇敢なリーダーが誕生し、社会におけるハンセン病患者・回復者のための正当な立場を取り戻すため立ち上がっています。日本財団が設立支援したインドのハンセン病回復者組織であるナショナルフォーラムもその一例です。このハンセン病コロニーの全国的ネットワークは、回復者の社会的・経済的エンパワメントやスティグマと差別を撤廃するための啓発活動に取り組んでいます。

このような活動や社会の異なるセクターからの支援は、緩やかではありますが、確実にハンセン病患者・回復者に対して良い意味での変化をもたらしています。しかし、スティグマや差別の「壁」が完全に壊れる兆しはまだ見えていません。壁を壊すには、より一層、社会の側から働きかけることが必要です。

皆さんが毎年率先してハンセン病療養所を訪問され、積極的に活動されていることを私は非常に嬉しく思っています。皆さんが訪問することによって、療養所で暮らす人々は、大変勇気づけられているでしょう。訪問することに加えて、皆さんのご友人やご家族に、皆さんの活動やこのような問題があるということを発信していただきたいと思います。皆さんの活動や情報発信によって、少しずつ社会の意識が変わっていくことを期待しております。

ここにいる皆さんは、これから将来にわたって環境問題、貧困、民族紛争、ジェンダー、などそれぞれの専門分野でご活躍されるでしょう。みなさんが取り組もうとしている世界の課題はどれも複雑で、解決がとても困難なことが予想されます。上手くいくのではないかと思っても失敗することもあるでしょう。私も様々な問題に取り組んできましたが、失敗することや期待通りにいかないことも多々ありました。しかし、その失敗や反省を通して問題の本質を学んでいった経験も多くあるのです。皆さんが失敗や反省から問題の本質を捉え、さらに挑戦し続けることで、世界の困難な課題を解決するリーダーになっていくことを願っております。

Sylffフェロー皆さんの益々のご活躍とジャダプール大学の発展を心より祈念しています。





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