松丘保養園機関誌「甲田の裾」
2012年4号秋
ロシアにおけるハンセン病制圧活動
WHOハンセン病制圧特別大使
笹川 陽平
2012年6月29日から7月3日まで、ロシアの南部にある3都市のハンセン病療養所(アストラハン、テルスキ、アビンスキ)を訪問した。
WHO(世界保健機関)は、毎年管轄地域ごとに世界のハンセン病の最新データを発表している。東南アジア、アフリカ、西太平洋、アメリカ、中東、そしてヨーロッパの6つの地域に分けられているが、そのなかで最大の面積を占め、西ヨーロッパから中央アジアに広がり53国を管轄するヨーロッパ地域のハンセン病データがごっそり抜け落ちている。
現在、ヨーロッパにはハンセン病に対する問題は少ないが、多少のケースは報告されている。そのほとんどが西ヨーロッパから発見され、途上国からの移民が主な原因であると言われる。一方、国によっては、ハンセン病は報告する必要がない病気であると判断され、データを消去してしまう国もあるようだ。WHOハンセン病制圧特別大使として、ヨーロッパ地域で何が起こっているのかをこの目で確かめる必要があると感じ、今回訪れることを決めた。
特に関心があるのはロシアとカザフスタン、タジキスタンなどの中央アジアの国々である。全旅程に同行してサポートしてくれたのは、ドイツ人女医ロマナ・ドラビックさん(75歳)だった。ドイツ西部のディンスラーケンという町で8年前まで開業医として働く傍ら、個人的な使命としてハンセン病患者、回復者に対する支援活動を30年以上続けている。
彼女が初めて患者に出会ったのは、観光旅行で訪れたケニアのモンバサであった。道で物乞いをする患者を見て驚き、「こんな人を放っておくなんて、行政は何をしているんだ」と市長のところへ直談判しに行ったという行動派である。その後、「ハンセン病患者とともに生きる」と誓った彼女は、支援物資を携えてインドやアフリカを駆け回った。1990年初頭に活動地域を旧ソ連の国々にも広げ、地道にコンタクトを取り、各地の療養所へ足を運び続けた。ロシア各地のハンセン病専門家にも顔がきき、彼女の構築した人脈がなければ、今回の視察は実現できなかっただろう。
ドイツ人女医 ロマナ・ドラビックさん
私の最初の目的地はロシア南部のアストラハン国立ハンセン病研究所だった。モスクワから飛行機で2時間。カスピ海に近いアストラハン州の州都は人口50万人ほどで、ヴォルガ川のデルタ地帯である。1896年に開設されたハンセン病病院に併設して1948年に建てられたこの研究所は、旧ソ連の時代からハンセン病研究と技術指導が中心で、現在はヴィクトール・ドュイコ所長のもと、ロシアをはじめ、独立国家共同体(CIS)加盟国のハンセン病活動の拠点になっている。
アストラハン・ハンセン病研究所の看板
アストラハン到着の翌日、ハンセン病研究所でロシア及びCISのハンセン病専門家が集まって会議が行われた。タジキスタン、トルクメニスタン、カザフスタン、そしてウズベクスタンから専門家が集まり、現場のヘルス・ワーカーにどのようなトレーニングをしているのか、ハンセン病に関する正しい知識をどのように広めているかなどの取り組みについて発表が行われた。WHO世界ハンセン病プログラムのスマナ・バルア代表もインドから駆けつけ、WHOの行っているハンセン病対策について紹介するとともに、今後はロシアをはじめとするCIS地域の国々とも綿密に情報交換の必要性を述べた。
ハンセン病関係者会議
アストラハン研究所員は、「ロシアにおいてここ3、4年の間に新規患者は発見されておらず、2012年初頭の時点で382名の患者が登録されている」と報告したが、この数字については慎重に捉える必要がある。WHOの基準によると、ハンセン病は6カ月ないし12カ月の投薬で完治するため、完治した患者は登録簿から削除される。しかし、ロシアでは一度罹患した患者は完治しても登録され続けているため、どれだけの患者が治療を完了しているのかがこの報告からは読み取ることができない。WHOによる正確なデータ整理が必要であることを実感した。
アストラハン研究所は、回復者が利用する療養所の機能も持つ。数十年生活している人から、リハビリやその他の疾患治療のためにショートステイを利用している人まで、声をかけて回った。鮮やかなブルーの外壁の2階建ての建物で、ベランダが各階をぐるりと取り囲む可愛らしい家の一室に、マリアさん(62歳)とニーナさん(58歳)の姉妹が滞在していた。座り心地の良さそうな安楽椅子とシンプルなベッド、戸棚が置かれ、壁には大きな絨毯が飾られた趣味のいい部屋であった。「お医者さんや看護師さんには大変良くしていただき有り難く思っています」と短期の滞在を楽しんでいた。
センター内に住む回復者のご夫婦
「ヴィクトールさんが所長になってから、アストラハンでの患者の暮らしは良くなった」と言う。確かに、青くてきれいな芝生が広がり、花壇には色とりどりの花が並び、可愛い鶴や蓮の花の置物が取り囲む小さな池まで整備され、家庭的な心のなごむ雰囲気であった。一方で、3メートルほどもある真っ白なレーニンの像や、ハンセン病患者専用の刑務所跡など、ソビエト時代の名残もあった。
ヴィクトール博士とセンターに検査に来ていた回復者
アストラハン近郊のハンセン病回復者が住むウォストチノエ村は、市内から車で田園地帯を走り約1時間の人里離れた場所にあった。1960年、政府がハンセン病治療が終わった人たちに住宅を提供したのがその始まりで、その後回復者以外の人たちが集まりここで暮らすようになった。現在、1,000人いる住民のうち、回復者の家族はわずか15世帯である。
「到着しました」と車を降ろされた場所は、幅4、50メートルの砂利道のど真ん中で、人の姿はまったく見えず、どこが村なのだろうかと少々戸惑ったが、よく見ると確かに道の両脇に木片やトタンで出来た古ぼけた塀と、その先の茂みに隠れるように、屋根がちらりと覗いていた。ヴィクトールさんがそんな塀のうちの一つを押開けると、庭の家庭菜園の向こうから老夫婦が姿を見せた。この家で年金生活をしており、柔道をしている10代の息子さんとの生活には満足しているようであった。
また別の家には、夫に先立たれた76歳の女性が一人暮らしをしており、年金、月額約6,000ルーブル(約14,000円)で暮らしている。ガスと水道は通ってなく、水道管を引くための工事費は5,000ルーブル(約12,000円)で、それが工面できず不便な暮らしを余儀なくされ、その上「アストラハン療養所に短期滞在し、家を空けている時に泥棒に入られ、貴重品やアイロンなどの生活用品まで全部盗られてしまった。現在生活が非常に困難だ。ソ連が崩壊してから、村の人口は減り続け、若い人は大都市に移ってしまい、年寄りしか残っていないのだ」と、私に窮状を訴えた。
二日間のアストラハン滞在を終え、私たちは次の目的地、テルスキハンセン病療養所を訪問するため、宿泊地予定のゲオルギエフスクを目指して出発した。9人乗りのミニバスに揺られ、カスピ海を背に内陸に向かってひたすら西へ向かう。360度地平線で囲まれ、乾燥した草原地帯が広がる何もない道を走ること4時間。昼食休憩のために立ち寄ったのが、ロシア連邦に属する自治共和国カルムイクの首都エリスタという街だった。
乾燥した草原地帯が広がる道を西へ西へ
ここは、ヨーロッパ随一の仏教国とも言われ、人口が30万人に満たない小国である。カルムイクとはトルコ語でイスラム教に改宗しなかった「留まった者」の意味で、もともとカルムイク人はチベット仏教を信仰する遊牧民族だった。18世紀後半、ロシア人やウクライナ人などの移住者に改宗を迫られたため多くの仏教を信仰する民族が新疆ウイグル自治区方面に帰還する中、地形的理由から戻ることができなかった人々が留まってできたのがこの国だといわれる。挨拶に来てくれたエリスタの保健局長も、私たち日本人と似た顔であった。食後見学したチベット仏教の釈迦牟尼寺では、モンゴルをはじめアジア系の顔立ちの人々が荘厳な雰囲気の中祈りを捧げており、周囲に仏教地域がないこの離れ小島のような国で仏教が息づいていることに、歴史に翻弄された民族の悲劇を感じざるを得なかった。
カルムイク共和国に別れを告げて、南に向かって走り続けると、突然、広大な向日葵畑に遭遇した。全く同じ方向を向き、理路整然と並ぶ無数の向日葵。その畑に何十回と出会うのである。畑であるにも関わらず、それを管理する人をついに一度も見かけなかったのが何故なのかは、今でも分からない。
アストラハンを発ってから11時間後の夜7時過ぎ。ようやくゲオルギエフスクに到着した。7月2日の朝、テルスキハンセン病療養所を訪問。創立115年を数えるロシア最古の療養所である。現在、51人の利用者と43人のスタッフがおり、今回私が訪ねた他の施設同様、テルスキはハンセン病を過去に患い、治った後も様々な社会的理由からここに留まる事を選んだ人々の終の棲家となっていた。加齢に伴う病気を中心に、医療的ケアも必要に応じてなされていた。短期滞在していたある高齢の女性は、「子どもたちは私がハンセン病であることを知っているが、孫や近所の人々は知らない」と言葉少なに語った。柔らかな表情で迎えてくれる回復者だが、カメラ撮影の了解にはほとんどの人がニエット(NO)の反応で、写真が公表されることによる差別を恐れている様子で、他国では経験しないことであった。
その後所内の病院に案内され、薄暗い玄関を抜けると見事な風景画が2枚と人物画が2枚。特に人物画の1枚は船上で船乗りが賑わっている様子が描かれ、今にも絵の中から人が飛び出してきそうな躍動感溢れる傑作であった。誰が描いたか尋ねると、昔この病院にいた人だと言う。こんな僻地に、これほどまでに素晴らしい絵を描く回復者がいたことに驚いたが、悲しいことに作者の名前は誰一人として知る人はいなかった。
テルキス療養所に飾られていた躍動感溢れる絵画
ロシアの最終日、黒海方面を目指し北コーサカス西部に位置するクラスノダールという地方にあるアビンスキ療養所を訪れた。この療養所の創立は1905年に急増したハンセン病患者を収容するため軍医によって建てられ古い歴史を持ち、その時の肖像画が所内の壁に掲げてあった。30年間アビンスキで所長として働いた父の後を継いだ副所長のマリーナ医師はここで29年働いており、父が所長時代には500人の患者が暮らしていたが、現在は40人。それに対して職員は何と3倍以上の131人もいると言う。一番最近の患者は2009年に入所してきたとのことだった。回復者のおばあさんに「お名前は? どこから来て何年間ここに住んでいるのですか?」と聞くと、彼女が答えようとするより先に横にいた職員が「彼女はカーチャさん、40年間住んでいます。アストラハンから来ました」と話しだした。私が「本人の口から直接話が聞きたい」と言うのだが付け入る隙がなく、とうとう最後まで回復者とゆっくり会話することができなかった。
「なぜこれだけ素晴らしい施設で優秀な職員も多く病床も余っているのに、ハンセン病以外の病気を診ようとしないのですか」と職員に尋ねると、「ここはハンセン病専門の病院と法律で定められているので、他の病気は診察することができない」ときっぱりとした口調で答えた。WHOの方針であるインテグレーション、すなわち総合病院への方策は、ここロシアやウクライナでは実施されていなかった。また、何十年もハンセン病の「元患者」が暮らしているとのことだが、自分の家に帰ることができるのかと聞くと、「もちろん可能であるが、様々な社会的理由からそれが叶わないことが多く、そのような人たちがここに暮らしている。この療養所では手厚いケアがなされ、衣食住に困ることはなく、新聞、雑誌、テレビも無料で楽しめ、義肢義足も提供され、皆充実した人生を送っている。何もここから出ていくことはない」ということが一致した答えであった。
果たしてこれで良いのだろうか、彼らの苦難に満ちた人生はいったい何であったのだろうか。このまま我々が単純に忘れ去っていいのであろうか。起こった出来事を「記録」として残すことは勿論、一人一人の生命の証を記憶が薄れないうちに形にして残す必要がある。そのためには、ここで出会った回復者が本当はどのような生き方をしたいのか、本心を聞きたいと思う。テルスキの療養所にいたはずの無名の画家は、芸術を通してそれを表現したのではないのか。今回のような療養所を巡る旅は、私にとって大変重要な使命であり、今後も精力的に続けていきたい仕事である。