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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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ハンセン病博物館を訪問して [2011年04月30日(Sat)]

ノルウェーのハンセン博物館


多磨全生園「多磨」4月号


ハンセン病博物館を訪問して

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2010年9月13日ノルウェー国ベルゲン市にあるハンセン病博物館を訪問した。

当博物館は1970年、ベルゲン市で最古のハンセン病病院「聖ユルゲンス病院」がそのまま使用されている。聖ユルゲンス病院は1411年ころから最後の2人の患者が亡くなる1946年まで病院として機能してきた。この病院は1640年および1702年のベルゲン市で起きた大火によって焼失し、その後9軒の建屋が建てなおされ、すべて国の遺産建造物として保護登録されている。

ほとんどの患者が1754年から生活していた「本館」、そして1707年に建てられた当病院でもっとも古い病院の教会の2カ所が一般に公開されている。

聖ユルゲンス病院には様々な歴史が刻まれている。それは差別や拒絶であったり、また美しい愛情物語であったりする。たとえば1800年代初期、ある男性患者が妻に付き添われて入院し、妻は彼が亡くなるまで21年間看病をした。その後彼女は家に帰るが、息子が1年後に発病し、入院。今度は息子が亡くなるまで19年間看病を続けた愛の歴史もそのうちの一つである。

1830年頃から、この病院はハンセン病患者だけとなり、1896年に最後の入院患者を受け入れ、最後2人の患者が亡くなる1946年まで続いた。20世紀初期までは日本のハンセン病病院と同じように患者は長期にわたって入院をしていた(強制隔離ではない)。最後の2人の患者はそれぞれ、51年、56年間もこの病院で生活をした。もっとも患者数が多かったときには179人が入院していた。

博物館本館の玄関では館内でたった1人の常駐学芸員(キュレーター)のゲルテ女史が迎えてくれた。彼女は1人で博物館の大切な資料を守り、案内、そして学校でも教えている。そのような小さな施設ではあるが、2003年ノルウェー政府から公衆衛生制度確立400周年記念の年に展示および博物館拡張のための助成金が交付され、この博物館は今日のノルウェーにおいてどのような役割があるのかについて議論を重ね、展示が企画された。その根底にある考えは、この博物館は、ハンセン病気を保健衛生問題として取り上げたのではなく、今日豊かな国になったノルウェーの過去の現実をこの国の歴史と遺産として追跡できる所としての明確な役割があるということである。

したがって当時の生活をそのまま再現することを実現した。「忘却」がこの博物館のキーワードである。というのは多くのノルウェー人が今日博物館となったこの場所に来ることによって、ノルウェーの歴史を忘れることなく再発見しているのである。もちろん、病院内をもっと近代的に改築することもできたが、当時の雰囲気をそのまま残すことで、単なる博物館ではなく、ハンセン病患者への敬意の表明と、彼らがたどった運命の記憶としてそのまま保存されている。今はいくつかの教科書には博物館写真や情報が載っており、時代とともにハンセン病について学校教育にもますます取り込まれている。

年間約3000人から3500人の学童が見学に訪れている。この博物館はヨーロッパで保存されている最古のハンセン病施設であると同時に雰囲気も、最後の患者が亡くなり、扉は閉められた時と全く同じである。

この病院は19世紀中ごろまでは西ノルウェーでは最も大きな病院であった。聖ユルゲンス病院の入院患者は皆自炊をしていたので、台所は70個から80個の鍋や釜が使われ常に混雑していたことを表す記録も残っている。また番号のふられた戸棚が壁際に並んでいたが、患者は1人1つ、または2人で1つの戸棚を使っていた。戸棚の扉には当時からの手の跡がそのまま残っている。

またこの病院も過去においてはたびたび財政的に非常に困難な時期があり、冷蔵庫を置く余裕もなく、患者はネズミが台所に出るのを恐れて、自分の食糧(ニシンなど)は小さな箱に入れてベッドの下に保管していたので、衛生上の問題があった。

戸棚の番号を見て、「患者は入院と同時に番号で呼ばれるようになりましたか?名前を変えられましたか?または自分の名前で呼ばれていたのですか?」と質問したところ、全員自分の名前を使っていたという答えであった。

展示はベルゲンにおける医療と医療研究の進歩に焦点を当て、ハンセン病の歴史の中の重要な役割を果たし、多くの専門家や研究者が当博物館を訪れたが、新たな企画として、ハンセン病のもう一つ、もっと大事な側面、社会的側面を取り上げ、博物館内をより多くの人に見てもらえるようにした。そのため、ベルゲンにおけるハンセン病政策と研究、業績、歴史を展示の中に取り込んだ。またさらにより多くの患者の個人情報や彼らの使っていた個室なども一部開放している。

例えば、ある部屋には1800年代の状況を再現するために、1816年に、病院の牧師、ヴァルホーベルス(Wellhoven)牧師によって書かれた報告書に入院患者の名前、写真と一人ひとりに関する情報が記載されており、多分保存されている個人情報としてはもっとも古いものではないかと思われている。

また、別の部屋には、ダニエルセン(Danielssen)博士が1839年に政府からの助成金を貰い、ボーク(Boeck)博士とともに1847年にハンセン病研究の突破口となるハンセン病に関する近代医学論文第1号を発表していることも伝えられている。ダニエルセン博士曰く、この病院の患者の多くは血縁関係にあるという観察結果から、ハンセン病は遺伝性の病気であると主張した。彼は“Leprosy Farm”とか“Leprosy Family”という言葉を使っていた。このダニエルセン博士の主張こそが、貧しい国家財政にも関わらず、ノルウェー政府が多大な投資をハンセン病の研究に投入し、さらに研究を進めた理由である。

ハンセン氏が聖ユルゲンス病院で医師として仕事を始めたころのベルゲンは“ヨーロッパのハンセン病中心地”であり、ベルゲン市の中心に近い所にこれらの病院が3カ所も建設されていた。

ノルウェーのハンセン病の歴史の中でもう一つ特筆すべきことは政府のとった患者登録制度である。地域の病院からの登録が中央に送られすべてが中央で管理されていた。不思議なことに元患者8231名の名前のパネルが展示してあった。

このパネルは議論を醸し出すかとも思われたが、ノルウェーにおいては一切何の議論もなかった。世界の反応としては、アメリカ人は悲劇の歴史と解釈し、アフリカの人々からはまだこのような情報が保存してあることに驚き、東アジアの人は、患者の実名をこのような形で公表できることに驚きを表している。

すでに病院の患者記録は個人情報保護から開放されていて誰でもアクセス可能となっている。ハンセン病を隠していた患者の家族からも、今では過去の患者情報を欲しいと希望してくる人も少なくない。家族からの情報提供依頼に応え、失われていた家族を再度家族として受け入れる人たちのために役に立てることは博物館にとっても嬉しいことである。また心に響く美しい話も我々は聞く機会にも恵まれている。

例えば、ある年配の婦人からこのような連絡を受けた。彼女はまだ若いころ、盲目の叔父さんがハンセン病で入院をしており、家族がよく訪問をし、子供たちも一緒に来ては本を朗読してあげたりしてお小遣いをもらったり、クリスマスには自転車を買って貰った子供もいる。また彼女は叔父さんに自分が結婚する時には必ず訪ねることを約束し、結婚式当日、式と披露宴の間の時間に新郎と共に叔父さんを訪問している。しかし、叔父さんの病気は家族の秘密として守られていた。このように公にする患者、また口を開かなかった患者と様々であったし、家庭で療養する患者もノルウェーでは認められていた。

文化財指定建造物であるため当博物館には何の改造も許されていないことから、電気もなく自然の明かりのもとで展示を見る。2階では12室のみが展示の1部となって使われており、ノルウェーにおけるハンセン病の歴史記録から選んで、ハンセン病に関する個人的、医学的、施設情報、また患者の書いた詩や患者から家族に宛てた手紙など様々な情報が展示されている。日本の療養所もあちこちで記念館の設立計画が話題になっている。関係者の皆さんに機会があればこの博物館の視察をおすすめしたい。
ベトナムのハンセン病村を訪ねて [2011年04月29日(Fri)]

バサオ療養所を訪問

国立療養所大島青松園「青松」3・4月号

ベトナムのハンセン病村を訪ねて

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2010年10月31日、ベトナムの首都ハノイから南方100kmのハーナム省に位置するバサオ療養所を訪問しました。

ベトナムは、日本と似た細長い領土のなかに異なった気候と多彩な文化を持つユニークな国です。人々は優しく思慮深く、そのはにかんだ笑顔を見ると昔の日本を感じ、懐かしい思いがします。インドやアフリカの遠隔地を回ることの多い私にとって、ベトナム訪問は3年ぶりのことでしたが、その経済成長には目を見張るものがありました。街は車やオートバイで溢れかえり、人々の顔は自信と活力に満ちています。折りしもハノイは遷都1000年という歴史的節目を迎えており、これに合わせるかのように東南アジア諸国連合(ASEAN)サミットが10月28日から30日までの3日間、この地で開催されました。私の勤めております日本財団も、ASEAN事務局及びベトナム政府との連携のもと、ASEAN加盟10カ国の音楽家によるクラシックコンサートや第2回伝統医療国際会議を開催し、アジアのより良い未来作りのお手伝いをさせていただきました。

しかし、熱気に包まれた喧騒の街を一歩出ますと、そこには昔ながらの田園風景が広がっています。笠をかぶったおばあさんや水牛が田を行き来し、蓮池が静かに水を湛え、桂林を彷彿とさせる切り立った山々がそびえ立つなかで、人々はゆったりとした時間を生きているようでした。日本の援助等により整備された道路も比較的状態がよく、田舎道でしばしば振動で頭をぶつけながらもバサオ療養所まで快適な2時間のドライブを楽しむことができました。

ベトナムは1995年にハンセン病の制圧を達成していますが、今も年間400人を超す新規患者が見つかっています。現在、ハンセン病は外来治療で十分治りますが、昔は多くの患者が療養所で治療を受けました。こうした療養所がベトナムには20ヵ所存在し、ベトナム保健省及び国立皮膚性病病院がこれらを管理・運営しています。バサオ療養所はそのなかのひとつであり、50代から90代のハンセン病回復者約50人が生活しています。その奥には、彼等の家族が30人ほど暮らす集落もあります。

到着後、まずは治療棟を訪ねました。広々とした病室にベッドが6台ほど置かれ、おばあさんが何人か座っています。義足のダオ(Dao)さんは61歳、もう30年以上ここに住んでいるそうです。ハンセン病はすでに治癒していますが、持病があり、また、唯一の家族である旦那さんもすでに亡くなったため、治療棟で暮らしているとのことでした。同じ棟には夫婦用の小さめの部屋もあります。

この夫婦部屋に移動する途中、庭に綺麗なシャワー室のある白い建物を見つけました。これは、今年8月に早稲田大学のボランティアセンターにあるハンセン病支援学生NGO、「Qiao(チャオ)」の卒業生と、ベトナムの「ハノイ・ブルードリーム・ボランティアグループ」という障害者の生活向上及び発展を目指したNGOが協力しあって作り上げたものです。室内には鏡や洗面台、手すりも設置されており、学生さんたちの温かい気持ちが伝わってきました。余談ですが、この学生さんたちによるワークキャンプを主催した高階まりこさんは、その後当財団の国際協力グループに入り、嘱託職員としてハンセン病の仕事を手伝ってくださるようになりました。
清潔で新しいシャワー室に感心しながら回廊を歩いていると、部屋の入り口近くに座っていた75歳のダイ(Dai)さんと目が合いました。「お元気ですか」と肩に手をかけると、「持病があってあちこちガタがきているけどね」、と、からから明るい笑顔で返してくれました。義足のため、残念ながらシャワー室は使えないそうですが、この夏の学生さんたちとの交流については心から楽しんだようです。

治療棟を抜けると、集落があります。土壁と、藁ののったトタン屋根で作られた一軒のお家にお邪魔すると、丸顔にかわいらしい笑みを浮かべたベー(Be)さんが迎えてくれました。80歳近くになるベーさんは回復者ですが、特に障害はなく、背中が少し痛む程度とのことです。「美人だから若い頃はさぞ男性にもてたでしょう」とからかうと、「おしゃれだったんだよ、村の男性たちに追いかけられたもんだ」と楽しそうに思い出を語ってくださいました。

道に出ると、今度はとうもろこしの粒を干すおばあさんと出会いました。今年は気候がよかったため収穫が多かった、これが豚の飼料になるのだ、と説明してくれました。ご主人と暮らしているけれども、病気療養中のため一人で作業をしているとのことでした。

各家々を回り、最後の角に来たところで、煉瓦作りの立派な家を建てている場面に遭遇しました。よく見ると、3軒ほどが同じ敷地内に並び合っています。奥から出てきてくださったクベット(Qvet)さんは70歳の回復者女性。建てかけの煉瓦の家は娘とその家族のものとのこと、建設作業に取り組む娘さんのご主人の隣には、3歳くらいでしょうか。可愛らしいおかっぱ頭の女の子の姿もありました。このように家族が仲良く住めるというのは素晴らしいことです。この村は療養所との行き来も多く、回復者の孫があちこちで遊ぶ姿が見られました。

ベトナムのハンセン病回復者はインドやアフリカ地域に比べ、比較的良い環境で生活をしていると言えます。療養所の施設はどこも清潔で整っており、家族とともに暮らせない人々や、家族のいない人々が生活しています。多くは高齢であるため、ハンセン病の後遺症だけでなくほかの持病を抱えている人も少なくありませんが、常勤の医者や看護士等がいます。村も貧しいながら人々が助け合って生活している姿が感じられました。政府からは毎月27万ドン(約1200円)と一日二食(約50円の昼食と夕食)の支援があります。しかし、これだけでは生活できないので、多くは鶏や豚、牛を飼って生計を立てています。鶏の飼育が最も盛んなようですが、これが一羽あたり22万5千ドン(約1,000円)、そして豚が一頭あたり150万ドン(約6,800円)、牛が一頭あたり425万ドン(約20,000円)になるとのことでした。

しかし、比較的良い環境で生活をしているとはいっても、人里はなれた地にひっそりと暮らしている状況に変わりはありません。ハンセン病への差別は今も根強く、亡くなっても誰も遺骨を引き取らないケースも多いようです。私は、国連人権理事会に働きかけて「ハンセン病患者・回復者そしてその家族に対する差別の撤廃」決議を勝ち取ったこと、そして今年9月にはそのガイドラインも採択されたことを伝えました。そして、ベトナムにおいても引き続き「ハンセン病は治る病気である」、「薬は無料で手に入る」、「差別をしてはならない」という3つのメッセージをより多くの人々に伝えて欲しいとお願いをしました。

ハンセン病の未制圧国は残り2カ国となりました。近い将来、すべての国が制圧目標を達成することを確信しています。しかし、制圧された国のなかにもまだ患者は存在しますし、また、病気が治ってからもなお偏見や差別は根強く残っています。すべての回復者とその家族が、人生の一時期ハンセン病を患った、あるいは関わったために差別され、当たり前の生活を当たり前に享受する権利を奪われるという理不尽に苦しまずにすむようになるまで、私の旅は終わることはありません。

※今回のベトナム訪問は、2010年12月3日(国際障害者デー)、ベトナムの国営テレビ「VTV4」の番組「Talk Vietnam」で放映されました。
4月28日(木) [2011年04月28日(Thu)]
4月28日(木)

 寄付金への礼状書き

 07:50 書類整理・決裁等

 09:00 災害支援打合せ

 10:00 ディレクトフォース・松村洋代表理事

 11:00 海洋政策研究財団・工藤栄介特別顧問

 11:15 東京財団・鈴木隆ディレクター

 11:50 平成23年度「笹川科学研究助成」研究奨励の会・挨拶
      於:ANAインターコンチネンタルホテル東京

 13:00 日本訪問看護振興財団・清水嘉与子理事長

 14:00 記者懇談会
      60社64名 出席

 15:20 ジャパンエコー・原野城治理事長

 15:45 役付職員評価委員会

 17:00 災害支援打合せ

「サラリーマン川柳」 [2011年04月28日(Thu)]
「サラリーマン川柳」

少し息抜きに「第一生命のサラリーマン川柳100句」の中から、私がウフフと思う秀作?を選んでみた。

世界一勤勉で高度成長経済を支えてきたサラリーマン諸氏は定年を迎え、いまや日本のサラリーマンは世界一勤勉どころか、世界一多い祭日を謳歌している。

国が定めた祭日が都合によって移動され、三連休を作る国は寡聞にして知らない。

「海の日」「緑の日」のように毎年移動する祭日は、何の目的のための休日かの意識も薄れ、政治家が国民に媚(こび)をうる最たるものであった。

とはいっても、往復二時間以上をかけて満員電車に寿司詰めになりつつ黙々と出社、帰宅を続ける日本のサラリーマン群像は、世界につとにしられた日本独特の光景である。私はこうした光景に一抹の哀愁を感じつつも刻苦勉励する日本の企業戦士に心からのエールを送りたい。


4月27日(水) [2011年04月27日(Wed)]
4月27日(水)

 寄付金への礼状書き

 06:30 ホテル発

 09:00 マニラ発

 14:05 成田着 日本財団へ直行

 15:30 日本財団着

 16:00 笹川記念保健協力財団・紀伊國献三理事長
中国人に言っておきたいこと [2011年04月27日(Wed)]

10年継続してきた日中防衛交流



中国人に言っておきたいこと

歴史を鑑とせよ、とおっしゃるが、そのとおり――ならば近現代史の一部だけでなく、仲好くやってきた二千年の歴史を鑑としよう――そう言ってるんです(笑)

知識人も日本を知らない

――日本人の多くが書く中国論はどこかに贖罪感(エクスキューズ)が潜んでいます。ところが、この『隣人・中国人に言っておきたいこと』を読むと、きわめて率直に書いてある。変な遠慮がなく、率直で、こういう言い方をすればいいのにというモデルを提供しています。南京大学でのスピーチを拝見すると、実にストレートに言うべきことを言っておられる。日本の政治家はなぜこういうことを行ってくれないのか(笑)。と同時に、「日本の協力で中国の経済が発展した」という笹川会長の話を聞いた中国の人たちの反応が気になりました。どんなものだったのですか。

【笹川】みんな「事実を知らなかった」ということです。天安門事件のあと、G7で中国への経済制裁を解くように日本が働きかけたことや、真っ先に円借款を行ったという程度の事実すら、彼らは知りません。中国の人は共産党が流すニュースを通じてしか知ることができないから、実際の日本をまったく知らないと言ってもいいほどです。

――一般の人はそうでしょうね。

【笹川】いや、知識人も含めてです。彼らの認識は、1945年のルース・ベネディクト著「菊と刀」のレベルで止まっている。中国人は等身大の日本人を理解していない――そのことをハッキリ認識すべきです。最近、私は「中国の共産党が現在あるのは、ひょっとすると日本のお陰かもしれない」という話をしています。「あなた方が使っているマルクス・レーニン主義の本から始まって、ロシアのものは日本語から中国語に翻訳されている。ロシア語から中国語に直訳された共産主義の文献はないはずだ。あなた方は日本から勉強した」と。聞いていた中国人は学者も含めて、みんなきょとんとするんですよ。ただし、日本に来たことのある人は別。一回来れば、自分たちが勉強したこと、教わったこと、持っている情報とまったく違うということに気がつき、間違いなく変わります。観光を含めて、人の交流を深めるのは本当に重要です。

――日本財団は、実に多彩な分野での交流を支援されています。そのうちの一つに自衛官と人民解放軍軍人との交流がありましたね。これはどういう経緯で始まったのですか。

【笹川】中国が貧しかった時代から、国家レベルの指導者、各省の幹部、あるいはメディアの人たち、女性の代表と、あらゆる階層の人たちを日本に呼びました。合計すれば1万人を超えるでしょう。その途中で、誰も手をつけていない分野として軍人の交流があったことに気がついた。軍人というのは、どこの国でも基本的には戦争が嫌いだと私は思っています。自分が命を落とす話ですからね。そこで、2001年に10年計画でスタートさせました。

最初は日中の両方から文句を言われました(笑)。その間、小泉純一郎元首相の靖國神社参拝、あるいは中国の潜水艦の日本領海通過問題、教科書問題等々もありました。それでも続けたのですが、最後の最後、野球でいえば九回の裏で、中国側が「延期したい」と言ってきました。

――尖閣の領海侵犯?

【笹川】そうです。私は延期を認めないと答えました。この事業はいまだかつて一度も延期したことがなく、スケジュールも決まっていましたから。すると、「中止はしないでほしい。延期してくれ」と言う。しかし、「金を出すのはこちらだから、あなた方はそんなことうを言う権利はない」と返答して、中止しました。

――そういう毅然とした言動こそ日本政府がとるべき態度だと思いますが(笑)、この交流事業に成果はありましたか。

【笹川】私は「あった」ととらえています。日本の自衛官はほとんど中国に行ったことがないし、中国人はなおさらです。日本より中国側に対する影響が大きいでしょう。屯田兵あがりみたいな人たちが“勉強してきた日本”とあまりにも違うことにショックを受けていました。彼らが学校で教わってイメージしているのは「軍事大国の道を歩んでいる日本」です。そのイメージを否定する現実に次々と出合うのですから。

 初めの頃は統幕長のご自宅に彼らを招いてもらって、すき焼きパーティーをやったりしたのですが、奥さんが台所で野菜を切り、旦那さんが鍋に出汁を注ぐ・・・・・。

――ナマの家庭のすき焼きパーティーですね。

【笹川】それが三軍の統帥にあたる統幕長の家庭です。しかも、家屋も敷地も大したことがない。中国の将軍は邸宅に住み、車は二台か三台あって、運転手にコックに女中がいるだけでなく、自宅専用の事務官もつきます。

――カルチャーショックでしょうね。

【笹川】それから軍服を着た人を町で見かけない。

――どこが「軍事大国を目指している」のか、と思うでしょうね。

【笹川】彼らが頭を整理するのに時間がかかったはずです。そういう体験を毎年二十人が得た。中国からは20人、日本からは10人です。少しユーモラスな例ですが、人民解放軍の機関誌で「解放軍報」という反日の拠点みたいな凄まじい新聞があります。そこの人が日本に来まして、「等身大の日本を見ることができた。その日本と自分がいままで書いてきたことに、大きな落差を感じている」と言って帰った。後日、隣国の日本を知らずしてこれからの中国はあり得ないと考え、「旅行費用を出すから、日本にいっぺん行ってこい」と娘を説得したら、「お父さん、二週間ぐらいの旅行で反日をやめたの」と娘から冷やかされたとか(笑)。

「靖國」の反応は?

――さては、いたれりつくせりで洗脳されたか!?(笑)。

【笹川】いま、日中双方ともに、再開してほしいという声が出ています。どこの国でも、対立のない国などありません。それはそれとして、民間がシャッポを被って交流する。この意義が何かをよく説明し、基本的なところが再確認できたら再開するつもりです。

――日本に呼んだ中国人の訪問先として靖國神社も入っているようですが、どういう感想が出てきましたか。

【笹川】北京大学の学生たちは「お墓がどこにあるんですか」と尋ねてきました。「お墓はそれぞれのふるさとにある」と説明すると、今度は「社殿の中には何があるんですか」という話になった。

――神社という概念が分からない?

【笹川】彼らには理解できないでしょうね。ご承知のように、中国は易姓革命の時代から、前政権は全て悪です。だから、前政権の墓を暴くことが現政権に対する忠誠心の表れになる。その感覚からすると、「靖國に行くことは軍国主義を指導した人たちと思想的に心情が通じているからだ。本当にそれが嫌いならその墓を暴くべきだ」というのが、中国の一般国民の考え方です。とはいえ、戦後、長い間、靖國神社の参拝は政治問題化しなかった。胡耀邦総書記の政治的基盤を守るために、中曽根康弘元首相が「忖度外交」をして行かなくなってから、政治イシューになりました。やはり日本は、もっときちんとした日本文化の説明をしていかなければいけませんね。

――日本に対する恨み辛み、あるいは政治的な思惑もあって、中国はいろいろな事を好き勝手に言う。その割に本当の日本のことが理解されていない。

【笹川】それは非常に単純な話なのです。中国共産党なるもののレーゾンデートル(存在意義)は、抗日戦争に勝利したというところから始まります。その理由付けを中国の国民に様々な技術を弄してやっているに過ぎない。ほとんどの中国人は情報が入らないから、共産党が発信する情報を信ずる以外になく、そういう形になっているだけのことです。
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4月26日(火) [2011年04月26日(Tue)]

爆弾テロで両足を失い義足となったライッサさん(写真・左)とジョアンナさん(写真・右)

4月26日(火)

 09:30 成田発 フィリピンへ

 13:30 マニラ着

 14:20 アキノ大統領(空港から直行)

 15:20 ホテル着

 17:00 ライッサさん誕生日会

 19:30 カンボジアトラスト代表カーソン氏、ペニー医師らとの夕食
「フィリピン出張」 [2011年04月26日(Tue)]
「フィリピン出張」


今朝から一泊でマニラに出張です。

用件は

※アキノ大統領との面談。

※以前、大学構内の爆発事故で両足を切断した女子大学生のライッサに義足をプレゼントをしたことがあります。歩行訓練も終わり元気な姿を見せたいとのことで、彼女の誕生祝いに出席。

※マニラに日本財団が支援して設立された義肢・義足学校の進捗状況の確認と関係者との夕食会。
礼節を欠く日本外交 [2011年04月26日(Tue)]
「東日本大震災への救援活動」その56
―礼節を欠く日本外交―


一般論として、日本人は世界一礼節を重んじる国だと、我々も世界も理解してきた。

東日本大震災においても、厳しい環境に耐え忍ぶ被災者や秩序ある行動は、外国人より驚きと絶賛を受けた。

三宅島噴火の折、1万数千人が整然と島を離れた光景が世界配信のニュースとして流れた。たまたまイスラエルでペレス大統領(現)に面談した折、「どうして日本人はあのように整然と静かに退去出来るのか。日本人以外なら必ず放火や略奪が起きるだろう」と質問され、日本人としては当然の行為であり、返答に少し時間を要したことがあった。

しかし、日本人の評価がこの大震災で一段と高まる半面、「どうして日本の政治家はリーダーシップが取れないのか」と、政治家のレベルの低さも改めて世界中で知られることになってしまった。誠に恥ずかしい限りである。

東日本大震災では、世界中から日本に対する連帯の表明があり、ハイチ、バングラディッシュ、パプアニューギニアのような貧しい国々からも救援金が寄せられた。アメリカは「トモダチ作戦」で、命をかけた大規模な支援を実施してくれた。台湾からはアメリカに次いで大きな救援金と熱い同情をいただいた。

しかし、日本の首相、外務大臣は、そろそろ大規模な支援をしてくれたアメリカや諸外国に感謝とお礼の挨拶に飛び廻わらなければならない時期にも関わらず国会最優先主義で、その予定もないらしい。

それならば永田町には多くの元首相がおられる。首相特使として、手分けして世界を廻って戴きたい。

仕事は二つ。一つは、相手国首脳との面談がなくとも、訪問国の記者団に日本国民としてお礼を申し上げること。二つ目は、その際、福島原発について最新の情報を提供し、世界的な風評被害を止めることである。

かつて、エリツィン・ロシア大統領の逝去に伴う弔問に世界の首脳が参加したのに、日本は誰も参加せず、駐ロシア大使だけが出席したことをブログで非難したことがあった。

日本人が礼節を重んじることは世界中の人々が知っている。しかし、感謝の特使を派遣しないと日本の政治家には礼節がないと、またお笑いの種にされるだろう。衆参国会議院合わせて722名。是非、非公式でも御礼と感謝に行くべきである。日本人の特質でもある礼節を、世界に知らしめるチャンスでもある。各国の新聞で形式的な感謝の表明で終わらせてはならない。

東日本大震災の標語に「日本は一つ」と謳われている。この際、政治家は政治信条、党派を超えて世界を飛び回り、日本人としての礼節を率先して示してほしいものである。

<支援金募金>
8,130,000円 Pacific basin shippinghk lim
6,974,265円 NPO法人 ブレーンヒューマニティー 
1,500,000円 (財)ライフ・プランニングセンター 
1,000,000円 社会福祉法人 四条畷福祉会   

<救援物資>
ファイン株式会社:歯ブラシ大人用2,250本、子供用750本
王子紙器製造株式会社:段ボール箱 300箱
4月25日(月) [2011年04月25日(Mon)]
4月25日(月)

 寄付金への礼状書き

 08:10 書類整理、決裁等

 09:00 災害支援打合せ

 11:15 笹川アフリカ協会・宮本正顕常務理事

 12:30 BOAT RACE振興会・船越眞常務理事

 13:30 JKA・石黒克巳会長

 14:00 読売テレビ「そこまで言って委員会」・取材
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