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写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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11月30日(火) [2010年11月30日(Tue)]

新華通信社によるインタビュー取材

11月30日(火)

 08:00 書類整理、決裁等

 10:00 日本財団・執行理事会

 10:50 新華通信社・取材

 15:30 安倍晋三・元首相

 17:15 石原慎太郎・東京都知事
11月29日(月) [2010年11月29日(Mon)]
11月29日(月)

 07:45 書類整理、決裁等

 10:30 笹川スポーツ財団・渡邉一利常務理事

 10:50 笹川記念保健協力財団・紀伊國献三理事長

 12:00 公益・ボランティア支援グループ(福祉担当)職員と昼食

 13:15 笹川平和財団・羽生次郎会長
「ハベル大統領とベラ・チャスラフスカ」その1 [2010年11月29日(Mon)]

挨拶原稿は自らチェック(写真・ハベル元大統領)

「ハベル大統領とベラ・チャスラフスカ」その1


ハベル大統領(当時)が広島の原爆資料館を訪れた時の印象から、「今後の世界はどうあるべきか」をテーマに国際会議を開催しようとの申し出を受け、快諾の上、二つの条件を示した。

「世界のニュースはロンドン、パリ、ニューヨーク、ワシントンから発信されることが多い。会議は中欧の古都プラハで開催し、ユニークな情報発信と、10年程度は継続する国際会議にしよう」というものであった。

今年は、1997年10月に第一回を大統領官邸のある王宮で華々しく開催してから14回目となる。

ハベル大統領は二年目には大病を患い、この会議は1回で終わりかと案じたが、奇跡的に回復。2001年9月11日の世界貿易センタービルのテロで世界中の国際会議が中止される中でも唯一開催された。

クリントン大統領夫妻、オルブライト国務長官、キッシンジャー、ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領、シモン・ペレス・イスラエル大統領、デスモント・ツツ大主教、ダライ・ラマ師、デクラーク元南アフリカ大統領をはじめ、政治家、哲学者、科学者、建築家、編集者が主にヨーロッパから参集し、知的レベルの高い国際会議として秋のプラハ名物にもなった。

「どんな世界に住みたいか」が今年のテーマであったが、ハベル元大統領は自ら原稿に手を入れ挨拶された。1年ぶりの元大統領はゲッソリと痩せられ、体調はあまり良くないようであったが、来年も開催したいとの強い意欲を示された。以前ほど活発ではないが、現在、映画製作に夢中だそうで「来春には上映できる」と、小声ではあるがオーラのある表情で楽しそうに話してくれたので一安心というところである。

慌しい日程の合間にベラ・チャスラフスカがホテルに訪ねて来てくれた。初対面である。

東西冷戦厳しい環境下の小国チェコ・スロバキアの体操選手として1964年の東京オリンピックに参加。平均台、跳馬、個人総合で金メダルを獲得。団体でも銀メダルを取得し、その優美な演技はオリンピックの名花、体操の名花と称えられ、東京オリンピックの話題を独占した感すらあった。

1968年6月のチェコ・スロバキアの民主化運動「プラハの春」で、詩人ヤロスラフ・サイフェルト(ノーベル賞受賞)、俳優ルドルフ・フルシーンスキー、人間機関車の異名で知られたマラソン選手エミール・ザトペックなど70名の著名人、知識人が民主化決起を呼びかけた「二千語宣言」に署名。その直後の8月21日、ソ連軍の戦車を先頭にプラハは無論のこと、チェコ・スロバキア全土が占領された。

メキシコオリンピックを1ヶ月後に控えた時期であった。市民グループの助けで山奥に潜伏。両親にも居場所を知らせず逮捕の恐怖にさらされながらも、メキシコオリンピック出場の可能性を信じて能力が落ちないよう山の中で石炭運び、樹木の枝を使っての練習、道にラインを引いての平均台の練習と、3週間、誰にも知られず隠れ家で練習を続け、メキシコオリンピックでは本格的な練習も不十分の中、26歳の彼女は祖国の屈辱を晴らすため強靭な精神力で見事、個人総合、跳馬、段違い平行棒、床と金4個、その他銀2個を獲得。祖国熱狂の中、凱旋した。

しかし、帰国後「二千語宣言」署名への撤回の圧力は苛酷となり、ザトペックをはじめほとんどの署名人は撤回、自己批判によって当局の圧力に屈した。

その中で彼女は断固拒否、信念を貫いたために、体操連盟をはじめ全ての役職を剥奪され、1969年より5年間、無職・無収入となるも、その間中断していた名門カレル大学に復学・卒業している。

その後、1979年〜1981年、メキシコに出国、体操指導に当たる。1979年に弟、80年に父親、82年に母と相次いで親族の死にあい、その上、メキシコオリンピック選手の夫ヨゼフとも離婚。過酷な人生を歩む。

1989年11月、ヴァツラーク・ハベル等と共に「ビロード革命」に成功する。チャスラフスカは「ハベルは常に自分の信念を守り、言論と思想の自由のために、そしてまた国家のために、拘留、投獄、自宅監禁にも耐えて戦うことを恐れなかった」と尊敬をこめて語っている。

メキシコオリンピックの後の約20年間。辛酸なめた生活となったベラは「ビロード革命」によって再度、国民の称賛を受けることになるが、それは彼女の美貌に向けられたものでも体操で得た栄冠でもない。彼女の歩んできた険しい過去の道のりを驚くべき正直さと頑固さでその信念を曲げず戦い抜いたからだ。このとき、ベラ47歳であった。

ハベル大統領からのプラハ市長への打診も断り、大統領顧問団4人の一人として活躍を再開する。

以上は1990年11月、「チャスラフスカの証言」工藤美代子著/潟xースボール・マガジン社を参考にさせて戴いた。

(つづく)
エチオピアでのハンセン病制圧活動 [2010年11月28日(Sun)]

ハンセン病回復者の自宅を訪問


エチオピアでのハンセン病制圧活動

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川 陽平

2010年7月12日〜17日、アフリカ東部にあるエチオピアを訪問しました。同国にはこれまで3回足を運んだことがありますが、前回は2006年でしたので4年ぶりになります。

日本でエチオピアといえば、東京オリンピックを覚えていらっしゃる方はマラソンの金メダリストのアベベ選手、より最近の出来事としては1984年の大飢饉を想起なさるかも知れません。実は私たちの現在の日常の近いところにもエチオピアはあり、あのスターバックスはエチオピア産のコーヒー豆も多く仕入れていますので(コーヒーの原産はエチオピアで、コーヒー豆は今でも同国一番の輸出産品であり、“ブラック・ゴールド”とも呼ばれています)、それと知らずにエチオピア・コーヒーを毎日楽しんでいらっしゃる方も多いかもしれません。

エチオピアでは初期の人類である猿人の骨が見つかっており、また、アフリカ最初の独立国でもあります(建国は紀元前10世紀ごろ)。キリスト教が伝播したのも1世紀ごろと早く、現在も約8000万の人口の6割はキリスト教徒です(次には約3割を占めるイスラム教徒)。

エチオピアの公用語であるアムハラ語は、サブサハラの国で唯一、独自のアルファベット(文字)を発明・使用しているというのですから、アフリカ諸国の中で最も高度な文化を誇る国の一つです。しかも、19世紀には近代的軍備を持っていたエチオピアは、アメリカの解放奴隷が植民していたリベリア以外で、アフリカ大陸の中でヨーロッパ諸国の植民地にならずに独立を守った唯一の国でもあります。

過去においてエチオピアではハンセン病はとても大きな問題で、1950年代からドイツ救ハンセン病協会が活動をしていました。1983年の時点では年間の新規患者が8万人を数えていましたが、同年から特効薬である多剤併用療法(MDT)が導入され、2000年には公衆衛生上の問題としては制圧(人口1万人あたりの登録患者数が1人未満)を達成、2009年当初の登録患者数4000人余り(人口1万人あたり約0.6人)にまで減少し、現在はエチオピア保健省がWHO(世界保健機関)やドイツ救ハンセン病協会等の支援を受けながら、対策活動を継続しています。患者数は減ってきたものの、ハンセン病に対する偏見や根強く、患者や回復者は未だに厳しい差別に晒されているという現実があります。

7月11日に成田を発ち、ドバイ経由で12日に降り立ったエチオピアの首都アディスアベバは、6月から始まっている雨季のために小雨混じりでした。エチオピアは熱帯に位置しますが、標高2400メートルに位置するアディスアベバ、この時季は涼しいというよりはむしろ寒いという感じです。

エチオピア到着の翌日、WHOの事務所に代表のナフォトラオレ博士を訪れました。彼女は西アフリカのマリ出身で、休暇で祖国に帰っていたところ、私がエチオピアを訪問するということで休暇を中断して飛行機に7時間乗ってわざわざアディスアベバにまで戻り、私の訪問を受けてくれました。

エチオピアのハンセン病の状況についてブリーフィングをしてくれましたが、年間の新規患者数は約4000人という数字はここ10年以上横ばい状態で、また、新規患者のうち重度障がい率が7%と低くないこと(=早期発見されていない患者が多いことを示す)といったことが気になりました。エチオピアは人口の75%は都市部ではなく地方に住んでいるので、アクセスが悪いために患者発見や治療のためのフォローが難しいという状況があり、各村に1年間の研修を受けたヘルスワーカーを二人配置し、ハンセン病を含む住民の健康管理にあたっているとのことです。また、エチオピアではエイズや結核が大きな社会問題であるためハンセン病問題はあまり取り上げられなくなってきていることも懸念されます。

翌14日は、まず、ハンセン病回復者組織ENAPAL(詳細後述)の代表者と共にアドハノム保健大臣を訪問し、エイズや結核に隠れがちのハンセン病にも十分に目を向けて欲しいと訴えました。それに対し大臣は、「新規患者は年に4000人だけだが、数字が小さいから問題でないということでは決してない。

保健省にとってハンセン病は優先課題の一つであり、回復者組織と一緒に活動をし、回復者の住宅問題を解決したり、小額融資をしたりしている。ハンセン病に関する社会の意識を高めること、回復者の社会復帰を促進することは重要である」という力強いお言葉をいただきました。

保健省を後にし、アディスアベバ近郊にある全アフリカ・ハンセン病リハビリテーション研修センター(ALERT)を訪問しました。ALERTは、社会の厳しい差別に晒されたハンセン病患者の保護施設として建てられたミッション系療養所を基礎に1965年に設立され、エチオピア政府、アディスアベバ大学,ILEP(世界ハンセン病団体連合)が中心となってハンセン病の診断、治療、外科、眼科、リハビリテーションの専門機関として、エチオピアおよび英語圏アフリカ諸国の専門家のトレーニングに大きな役割を果たしました。


ALERTの病院を視察


現在ではALERTの病院および研修部門は政府に移管され、国立のハンセン病および一般疾患(特に皮膚科)の専門病院として機能しています。職員の方に伺うと、外来患者は300人/日、入院患者200人の半分は障がいがあるハンセン病患者の方々とのことで、私は病棟を回り、入院しているハンセン病患者を励ましました。

次に、ALERTの敷地内にある全エチオピア・ハンセン病回復者協会(ENAPAL)の事務所を訪問しました。

ENAPALは、ハンセン病患者や回復者の諸権利の保護、社会に対する啓発活動、社会的・経済的自立の支援を目的として1996年に設立された、国内全9州の内の8州に計63の支部を持つ、一大回復者組織です。ALERT周辺には、治療を求めて全国から集まってきた回復者たちによる自然発生的なコロニー(定着村)が形成され、現在は回復者とその家族、そしてそれ以外の住民も含めて5000人ものコミュニティーを形成し、8年生まで通える学校も2つあるそうです。

この私の知る限り世界最大のコロニーにおいて、ENAPALは回復者の経済自立を目指した各種の試みをしており、そうした織物、刺繍、油搾などのプロジェクトを視察しました。また、コロニーの一軒のお宅にお邪魔して、回復者のマエギストさんから話を伺うことが出来ました。彼女は5人の子供を育て(そのうち二人は養子だそうです)、今では孫もいて、夫とは喧嘩をしたこともなく、毎日、神に感謝し祈りを捧げていると笑顔で話をしてくれました。彼女がこれまでの人生で経験してきた様々な困難は、私には想像することしか出来ませんが、もし私が彼女であったならば、同じような心持ちでいられるのであろうかと、自問させられました。

公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧を達成したエチオピアですが、まだまだ問題は山積しているものの、保健大臣のコミットメントと回復者組織のしっかりとした活動に、将来の状況改善への期待を持たせてくれた今回のエチオピア訪問でした。
11月27日(土) [2010年11月27日(Sat)]
11月27日(土)
 
 06:15 成田着 日本財団へ直行

 08:00 日本財団着 書類整理、決裁等

 10:30 退室

 11:00 帰宅
「未来と今をつなぐCSRフォーラム」 [2010年11月27日(Sat)]


「未来と今をつなぐCSRフォーラム」


日本企業のCSR活動への取り組みはインドをはじめ、世界の企業と比べても大きく遅れを取っていると言わざるを得ない。

日本財団では公益コミュニティサイトCANPANを通じて、東証一部上場1700社のCSR活動の情報を公表し、さらには独自の指標で評価したCSR活動のレイティングも実施してきた。

今回発表するCSR大賞はネットを通じて市民に投票してもらい、CSR活動の優れている企業を表彰しようという取り組みである。24,000人を超える投票の結果、株式会社マルハニチロホールディングスが初めてグランプリに輝いた。

以下は挨拶の要旨である。

*******************************

挨拶要旨

2010年11月8日
日本財団ビル・バウルーム

公益コミュニティサイトCANPANでは、東証一部上場企業1700社のCSR活動について独自の指標をもとに評価し、上位100社のレイティングを発表させていただきました。

日本のCSR活動は大変遅れていると言わざるを得ません。残念ながら日本では多くの企業が広報部や宣伝部との関係を明確にせず、形式的にCSR部を設置しているというのが現状です。今回、レイティングを発表した企業はCSR活動を前向きに取り組んでいる企業ばかりです。

CSR活動に対しては、学生の間で関心が高まり始めています。例えば同じ金融機関に勤めるのであればCSR活動が活発な企業を選びたいというようになってきています。企業はより優秀な人材を求めるのであれば好むと好まざるとに関わらずCSR活動を活発化しなければならないということです。

欧米諸国では投資家がCSR活動に注目しています。CANPANでは世界最大の経済情報グループであるブルームバーグにCSR活動のレイティング情報を提供しています。企業への投資という観点からも見逃せない存在になってきているのです。

いずれ日本の消費者も同じ洗剤を買うのであれば、よりCSR活動に活発な企業の商品を買いたいと思うようになるでしょう。そのように消費行動も地球環境その他を考えれば変わっていくものと確信しております。

より優秀な学生を採用するためにも、また世界から優良な投資先として判断されるためにも企業のCSR活動はますます求められていきます。企業は自社商品を宣伝するのではなく、CSR活動を活発化させることによって企業イメージをブランド化していく時代に変わりつつあるのです。

今回、表彰される企業はCSR活動におけるリードオフマンであり、私たちは高く評価しております。

一方、企業側においては、より良い活動をされているNGOやNPO、ボランティアの情報を求めているのが現状です。CANPANでは信頼できるNPOの情報を掲載し、企業との連携をより形成しやすいような仕組みを築いていきたいと考えております。

本日、表彰を受けられる企業の皆さまには心からお祝い申し上げますとともに、企業の未来志向のあり方にとって欠くことのできないCSR活動が質的にも高まっていくことを祈念申し上げます。
11月26日(金) [2010年11月26日(Fri)]

マオ将軍(筆者の左)



警護にあたってくれた16人の軍関係者



国会議長へクメール焼きをプレゼント


11月26日(金)

07:30 朝食

09:00 ヘン・サムリン国会議長

09:45 プノンペン・ポスト インタビュー

12:00 日本大使昼食

13:30 ホテル着

13:40 ホテル発

14:00 マオ将軍

14:40 空港着

15:50 プノンペン発

17:00 バンコク着

18:30 バンコク市内にてThe Nation TV インタビュー

20:30 空港着

22:40 バンコク発
「ハロン湾遊行」 [2010年11月26日(Fri)]

守り続けたい景勝地

「ハロン湾遊行」
―ヴェトナム世界遺産―


ハノイ滞在中、ホーチミン市のろう学校訪問予定でホテルを早朝6時に出発したが、生憎フライトキャンセル。一日空白となってしまった。

ホテルに戻ろうとも考えたが、時間もあることだし、ベトナムの国土は細長く短時間で海に出られると考え、海岸に行ってみたい気持ちになった。

同行諸子に同意を求めたら全員異議なし。「これは観光ではありません。あくまでも途上国の観光資源の視察ですよ」と冗談を言って空港から海に向かう。ところが驚いたことに、車はあの有名なハロン湾に向かうという。

ベトナム訪問は数十回にも及ぶ大野修一も、世界遺産のハロン湾には何回も誘われたが、仕事に追われ訪れる機会がなかった。「偶然こんな機会ができるとは・・・」と感慨もひとしお。

昨日までアセアン音楽祭の準備でへとへとになり、ベトナム官僚の縦割り行政と傲慢な態度に、日頃温和で紳士の大野もさすがに立腹!! しかし結果は大成功!! ほっとしたところでのハロン湾遊行。大野の久しぶりの笑顔に、私まで嬉しくなった。

飛行場から約3時間のハロン湾はベトナムきっての景勝地。独特の観光船が密集して停泊しており、大勢の観光客の乗船を待っていた。その数500隻。海面から突き出した大小3990といわれる島や奇岩は、おだやかな天候にも恵まれ、まるで一幅の山水画のようであった。日本三景の一つ・宮城県の松島もそれなりに風情があってすばらしいが、箱庭的美しさであり、ハロン湾の雄大な景色には遠く及ばない。





50人乗りの木造船であるが、一行8人の貸し切り。船賃約4時間で6000円と、その安さにちょっとびっくりであったが、あとで謎は解けた。

昼食は蟹、シャコに白身魚の煮物、野菜とスープにビールと豪勢で、船賃、昼食込みでは合計4万円、1人5,000円と、結構な値段になっていた。

ホーチミンのろう学校で鶴首していた先生、生徒、父兄の皆さんには申し訳なかったが、飛行機キャンセルで、海外での久しぶりの骨休めの休日となった。



(次回11月29日は、「ハベル大統領とベラ・チャフラスカ・その1」です)
11月25日(木) [2010年11月25日(Thu)]

義肢装具士養成学校新校舎開校式



義手を作成する研修を視察



伝統医療学校の始業式



ブンヘン保健大臣(右から2人目)



盲人協会のブン・マオ氏


11月25日(木)

 06:30 朝食

 07:20 ホテル発

 08:00 カンボジア義肢装具士養成学校新校舎開校式

 09:30 メン・サム・アン副首相

 12:00 関係者と昼食

 13:00 伝統医療学校始業式

 14:40 ピーター・バン・マーレンWHOカンボジア代表

 15:00 ブンヘン保健大臣

 15:30 カンボジア盲人協会ブン・マオ氏

 16:00 ホテル着

 18:00 在カンボジア日本人合同夕食会
11月24日(水) [2010年11月24日(Wed)]

ハンセン病回復者の家族を訪問


11月24日(水)

 05:40 朝食

 06:20 ホテル発

 07:00 軍用ヘリコプターでプレビヘアへ
     (バンコク支局の日本メディア同行)

 08:40 プレビヘア着 プレビヘア遺跡

 11:00 ヘリコプターで移動

 11:30 チェン・ムック中学校でラジオによる英語授業視察

 12:40 教育省関係者と昼食

 13:40 ヘリコプターで移動

 15:00 コンポンチュナン県のクメール焼き事業視察

 15:50 コンポンチュナンに住むハンセン病回復者家族訪問

 16:10 プノンペンへ車移動2時間

 18:10 ホテル着

 19:30 関係者との夕食



日差しが強い!(プレアビヒア寺院)



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