8月31日(火) [2010年08月31日(Tue)]
バレンバン・ハンセン病病院リハビリセンター訪問 8月31日(火)
04:00 ホテル発 06:30 ジャカルタ発
07:15 パレンバン着
07:30 空港発
08:30 スンガイ・クンダールハンセン病病院
09:30 スンガイ・クンダールハンセン病コロニー訪問
10:45 バス移動中にメディア(TEMPO)インタビュー
11:30 南スマトラ県知事ヌロイン氏訪問
12:10 パレンバンに地元メディア囲みインタビュー
12:45 空港着
14:15 パレンバン発
15:00 ジャカルタ着
16:40 ホテル着
16:40 NISVAボランティア
17:00 塩尻日本大使
18;00 メディアインタビュー(TEMPO)
19:15 ホテル発
20:20 空港着 22:00 ジャカルタ発
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笹川 陽平
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8月30日(月) [2010年08月30日(Mon)]
新たに加わったSYLFF奨学生 8月30日(月)
08:50 エンダン保健大臣・カンチット・インドネシアWHO代表
09:30 ハンセン病撲滅のための国家アライアンス会議・挨拶
11:30 インドネシア義肢装具士学校(JSPO)
義肢装具士のための訓練を受ける
13:00 JSPOケアリー氏、保健省関係者、学生昼食
15:00 インドネシア大学 SYLFF20周年記念式典・スピーチ
17:00 通信社インタビュー(2社)
19:00 世界海事大学(WMU)卒業生
19:40 スリンASEAN事務局長
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笹川 陽平
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チャドという国 [2010年08月30日(Mon)]
リビアのカダフィー大統領のポスターを持つ人々 「アフリカ・チャド訪問」その1 ―チャドという国―
7月18日〜21日、エチオピアに続いてチャドを訪問した。
チャドと聞いただけでは、アフリカに特別の関心を持っている人以外、どの辺に位置するか思い浮かべることは難しいだろう。
チャドはスーダン、中央アフリカ、カメルーン、ナイジェリア、ニジェール、リビアと国境を接する内陸国で、国土面積は日本の約3.5倍とはいうものの、北部地域はサハラ砂漠を擁する乾燥地帯、南部は比較的降水量があるサバンナ地帯である。
1960年にフランスから独立以降、人口の50%を占めるイスラム教勢力(北部)と35%のキリスト教勢力(南部)の対立が激化。1980年代からはイスラム教勢力間での対立も顕在化しクーデターや内戦を繰り返す事態で、現在も不安定な政治情勢が続いている。
首都ンジャメナ及び北部のアベシェの空港には旧宗主国・フランスの軍隊が駐屯しており、又、スーダンから流入する難民25万人、中央アフリカから2万人の難民対策や治安維持のため2500人の国連PKO(ピース・キーピング・オペレーション)部隊も展開していた。
ここには日本大使館は存在せず、外務省からは避難退去勧告の出ている国で、日本とはほとんど縁のない国の一つ。世界で最も汚職が蔓延し、外国からの投資もなく経済は疲弊。国民の80%が貧困に喘ぐ世界最貧国の一つである。
砂漠の商人?笹川陽平 「儲かりまっか」 「ぼちぼちでんなぁ」
ただ、最近南部で石油が発見され、隣国カメルーンを抜けて輸出されるパイプラインも完成。大いに経済効果が期待されるところではあるが、石油代金の行方は定かでなく、その効果はいまだあらわれていないと識者は嘆く。
私は今までに日本財団の仕事で115ヶ国を訪問しているが、チャドはその中でも特異な国の一つであった。首都ンジャメナには、リビア資本で建てられた9階建てのケンピンスキーホテル以外に高い建物はなく。首相官邸も保健省も平屋で、二階のある建物すら少なかった。
通常、発展途上国においては至る所に国家元首の写真が飾られている。このケンピンスキーホテルのロビー正面にもデビー大統領の写真が飾られていたが、その横にカダフィー大統領(リビア)の写真が並列して飾られていたのは通常あり得ないことで、リビアとこの国の親密な関係を推察させるものであった。
この地の果ての国にもグローバリゼーションの波は遠慮もなく押し寄せ、ホテルのペプシコーラはリビア製、米はタイ米、石鹸はインドネシア製であった。
スーダンとの国境近くの東部ワダイ州の都・アベチェへは、悪路しか交通のアクセスはなく、仕方なく国連機で訪問した。国連機はスーダンから流入する10数ヶ所の難民キャンプをカバーするため、1日40本が離発着し、ちょっとした航空会社だと空港長は自嘲ぎみに説明してくれた。
近年アフリカ諸国への中国援助はすさまじい。チャドとて例外ではなく、国会議事堂を中国の支援で建設中であり、このアベチェにも中国の援助で近代的な太陽電池による外灯付きの素晴らしい道路が完成、使用されており、更に郊外に150キロメートルの幹線道路を建設中と聞いた。
ンジャメナを離れる7月21日には、アフリカ18ヶ国の首脳の集まるサヘル・サハラ諸国共同体サミットの開催日で続々各国首脳が到着。昼の12時にホテルから追い出されてしまった。
WHO(世界保健機関)のチャド事務所代表バリー博士が、建設中の国会議事堂内の敷地に建った巨大な長方形のテントは、リビアのカダフィー大統領が滞在中に使用するものだと説明してくれた。
スクープ写真!
パリでもニューヨークでも、カダフィーはホテルには宿泊せずテントを使用することは知っていたので、これは特ダネとばかり同行の富永夏子にホテルの最上階より撮影してもらったが、警備の兵士の姿が目撃できないので、念のためにホテルマンに問い合わせしたところ、カダフィーはンジャメナに保有する住宅に滞在しており、あれは会議のサービス用テントとのことであっけなく特ダネ写真は吹っ飛んでしまった。
それにしてもカダフィー人気は絶大で、いつ通るともわからない沿道に多くの人が歓迎のリビア国旗やカダフィーの写真ポスターを持って立ち尽くしていた。
今回の訪問の主目的であるハンセン病制圧活動については、国際会議の準備で超多忙の中、ナディンガー首相に更なる努力を陳上。ボゲナ保健大臣(女性)は伯母がハンセン病であったことを告白され、私の訪問を機会に、更に活動を強化することを約束してくれた。
次回のブログに詳しくこの国のハンセン病事情を記載するが、訪問の目的はほぼ達成された。勿論、今後とも彼等の活動を注意深くウォッチする必要は当然であるが、情況とコンタクトする人々を知ったことは、今後の活動に大いに有益であった。
(次回9月1日は、「チャド訪問・ハンセン病制圧活動」です)
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8月29日(日) [2010年08月29日(Sun)]
8月29日(日)
10:50 成田発 インドネシアへ
16:35 ジャカルタ着
18:00 ホテル着
19:30 関係者と夕食
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8月27日(金) [2010年08月27日(Fri)]
8月27日(金)
07:50 書類整理、決裁等
09:30 ユーラシア21研究所・吹浦忠正理事長
10:00 総務省・椎川忍自治財務局長
11:00 日本財団・理事会
12:00 理事との昼食会
18:00 森喜朗・元首相
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「インドネシアへ出張」 [2010年08月27日(Fri)]
「インドネシアへ出張」
8月29日(日)〜9月1日(水)、インドネシアでの活動です。
インドネシア大学に設置した笹川奨学金制度20周年記念式典に出席。 インドネシア初の日本財団の支援による義手義足学校の視察。 世界海事大学笹川奨学生との面談。 スリン・アセアン事務局長との夕食会。
インドネシアのハンセン病は、WHOの制圧基準である人口1万人に1人以下は達成されているが、0.9%台という危険ラインである。
保健大臣に患者減少へのさらなる努力の要請と、保健省、WHO共同主催のハンセン病制圧会議に出席。その後、南スマトラのパレンバンに飛び、ハンセン病病院、療養所の視察、患者及び関係者への激励を行います。
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牛糞とチャット [2010年08月27日(Fri)]
牛を上手に操る子どもたち 「エチオピア訪問」その9 ―牛糞とチャット―
エチオピアは世界で10番目に牛の多い国だと、ガイドのジョセフが説明してくれた。首都のアジスアベバではそれほどでもなかったが、確かに南部のジンカを中心に牛、牛、牛の群れである。
少数民族であるムルシ族やハマル族にとっては最も大切な財産であり、頭数の多さは富の象徴で、貨幣の役割も果たしている。
車を走らせていると、インド系の会社が建設中の道路の真ん中を幼気ない子供達が多数の牛を上手に鞭で操りながら悠然と歩いている姿に多く出会う。固められた道路の上は、至る所、数十キロにわたり、まるで牛糞を引きつめたようである。
子供の頃、東京大空襲で焼け出され居候をしていた大阪の家では50羽ほどの名古屋白色レグホンを飼育しており、学校の行き帰りには長さ2メートルもある針のついた糸を持たされ、毎日、田んぼの「イナゴ」をとっては針に通し、一杯にしてニワトリの餌としてご主人に渡すのが日課だった。
この家はやたらとシジミの味噌汁を食べるのにも子供ながら閉口した。翌日、私はシジミの殻を金槌で叩いてニワトリの餌を作るのが役割であった。
小さな野菜畑もあり、爺さんと糞尿を薄めた肥料を担がされるのだが、前側を担がされる子供の私は、背が低いため糞尿が背中にかかり嫌な手伝いであった。
昭和21〜23年頃は住居の近くの立派な舗装道路には走る車は少なく、牛車も馬車も少なかった。休みの日には箒と塵取りを持たされ、畑の肥料用に牛馬の落とす糞を拾うのだが、落とされた糞は既に誰かに拾われているので、牛馬が落とす迄ついて行くのである。運がよければ一時間ほどで結構な量となったが、二時間近く歩いても取れない時もあった。
ジンガで至る所に落ちている牛フンを車窓から眺めながら、エチオピアの農業も有機肥料が不足して化学肥料に頼っているが、この道路の夥しい牛糞を集めれば相当な量であり、誠に勿体ないことだと、幼い日の思い出が甦った。
ところで、ジンカの町ではいたるところにチャットという葉っぱが売られている。神棚に供える榊のようなもので、これを2時間かけて噛み飲み込むことでハイになれるそうで、一束140円である。
たぶん台湾の檳榔(ビンロウ)のように覚醒作用があるらしく、長距離トラックの運転手の愛用品であるという。合法的なもので、イスラム教の第4番目の聖地ハラリ地方では子供以外ほとんど常習で、午前中に噛み始めると頭がしゃきっとして能率があがるとのこと。
運転手・ブルハンの76歳のおばあちゃんはまさに「病膏肓に入る」の例えの通り、庭にチャットを栽培して毎日、新鮮なチャットを朝から一日中噛んでぼうっとしているのが楽しい日常生活らしい。
すすめられて試しに新芽のところを噛んでみたが、味もなくなんの変化もなかった。チャットを噛んではみたものの・・・ (次回8月30日は、「チャドという国」です)
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8月26日(木) [2010年08月26日(Thu)]
中国の雑誌社による取材 8月26日(木)
07:50 書類整理、決裁等
09:30 国際海事機関(IMO)・関水康司海上安全部長
11:00 日本財団・評議員会
12:00 評議員との昼食会
12:50 笹川平和財団・羽生次郎会長
13:10 笹川記念保健協力財団・紀伊國献三理事長
13:30 笹川アフリカ協会・宮本正顕理事
14:30 笹川日仏財団・冨永重厚理事長
15:00 中国南方人物週刊・取材
18:30 メディア懇談会
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笹川 陽平
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ハマル族の花いちもんめ [2010年08月25日(Wed)]
女性に声をかけてみたものの・・・ 「エチオピア訪問」その8 ―ハマル族の花いちもんめ―
ハマル族にはブルジャンプという、男の成人への通過儀式がある。ブルジャンプは牛を40頭並べてその上を3往復するもので、その渡り方がスムーズであればあるほど未来は明るいとされ、万が一落ちようものなら家族の不名誉であり、将来に暗雲が立ちこめることになるらしい。
我々は、10日後にブルジャンプを行う少年がいる村を訪れた。
ブルジャンプの準備は十日前から始まる。この日の夕刻は、一族と近隣の村から集まった少年の親族や友人が集まってブルジャンプのための前祝いの宴が開かれていた。私は早速、写真のようにペインティングも鮮やか?に村人の衣装でダンスの仲間入りをした。
未婚の男達は5〜6人が手をつなぎ一列になる。対する女性たちは3〜4メートル先で同数が一列となり相対する。まず男たちが女性の前に進み出て何かを喋る(言葉不明)。多分、子どもの頃の遊びである「花いちもんめ」のように、「あの子がほしい」と申し出ているのだろう。
男たちが後に下がったところで女たちが同じように前に進み出て何かを喋って後へ下がる。今度は2〜3組がカップルとなり、ケニアのマサイ族のようにジャンプをして踊った後、男は女に少し腰を前に突き出してエロチックな恰好をする。
私の選んだ女性は皆、私の腰を突き出した姿に、笑いと共に両手で顔を覆ってしまう。どうも「貴男は魅力がないわ」という仕草らしい。男女がお互いにセクシーに見せ気を引きあうダンスが深夜まで続き、お互い気が合えば、ダンスの後、近くの川岸に行ってセックスをする。
ハマル族は結婚前は気さえ合えばフリーセックスである。妊娠したらどうするのか・・・。
女の子が生理が遅れていると母親に告げると、ワイズマン(賢い男)のところに娘を連れて行って伝統的な薬を使って堕胎してくれる。しかし、ワイズマンは秘密が知れると商売敵が現れるから、この薬の製法はマル秘で誰にも教えないそうだ。部族の一部は観光客ずれはしているものの、秘境を感じさせる話である。
フリーセックスのところにHIVエイズ感染症が万一進入したら、抵抗力のないハマル族は瞬く間に絶滅してしまうだろう。
以前、ウガンダは人口の何と40%がHIVエイズとなり、国民がゼロになるのではとの深刻な状況から、ムセベニ大統領の懸命な努力で人口の8%にまで激減したと喜んでいた姿を思い出す。
グローバリゼーションの波はこのようなアフリカの奥地にも着実に押し寄せており、槍のかわりにカラシニコフ銃を持つ姿を見ると彼らの伝統や文化も少しずつ変質していくのだろう。
できることならハマルもムルシも、オモ渓谷の中でひっそりと独自の生活習慣の中で生きていってほしいものだと勝手な思いに駆られた。
※ 花いちもんめは日本各地にいろいろなバージョンがあるが、東京では「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさん、ちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない。お布団かぶってちょっと来ておくれ。お布団ぼろぼろ行かれない。お釜かぶってちょっと来ておくれ。お釜底抜け行かれない。あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」となっている。
(次回8月27日は、「牛糞とチャット」です)
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少数民族・ハマル族を訪ねて [2010年08月23日(Mon)]
身体をペインティングするハマル族の男性 「エチオピア訪問」その7 ―少数民族・ハマル族を訪ねて―
エチオピア南部・オモ渓谷トゥルミは、ケニアの国境から約75キロ、スーダンとの国境も同じ程度の距離である。
広大なオモ渓谷には32の部族が住んでおり、少数民族のハマル族は約3万人。ここは最古の人類が住んでいた場所とも言われている。
男性は身体にペインティングをして常に槍とポロカタ(写真のような木製のイスと枕に使用)を持つのが伝統であった。ところが最近は槍が銃に変わった。銃はロシア製のカラシニコフで、主にケニアから流入しているらしい。
銃一丁は牛2〜3頭で手に入る。牛は肥え具合で値段に開きがあるが、一頭約35,000〜42,000円で銃弾一発140円。交換は週一回、土曜日に開かれるマーケットで牛と銃が交換される。
銃は身を守るためとハンティングに使われる。部族同士の土地争い、水争いも頻繁で、しばしば発砲事件が発生する。ドライバーのブルハンに「政府は取り締まらないか」と聞くと即座に「それは無理」とあっさり言われてしまった。行政も警察も及ばない無政府状態の僻地。愚問であった。
ハマル族の女性は泥とヤギのバターで髪を固めておしゃれをする。何ともいえない独特の匂いが漂う。男性のペインティングは写真のような図柄が多く、「戦士」は他の部族を殺した数だけ身体に線の傷を入れる。女性の中にもファッションで針のような植物で肌を刺し模様を入れるが、激しい痛みには酒をしこたま飲んで耐えるらしい。
ハマル族の男性は、通常、結婚のためには相手の家族に牛40頭程度を提供しなければならない。勿論、裕福な男は複数の女を妻とすることができる。
第一夫人の首飾りには独特の突起が付いており、すぐにわかる。夫人同士の争いはなく、同じ敷地に住む姉妹のようなもので、むしろ喜んで一緒に家事や子育てをするそうである。カルチャーなのでまったく問題がないと、ガイドのジョセフは説明してくれた。
ここも観光客慣れしていて、写真を写せ写せと迫ってくる。その上「ブルブル」と手を出して金を貰うことを当然としている。被写体になりそうもない老婆が孫を抱いて淋しそうにしている姿を見たので、激励のために握手したところ、なかなか手を放してくれないどころか、やっとカモが引っかかったとばかりにがっしりと握られた。手を離そうと努力してもびくともしない。ガイドのジョセフが「ブル」を支払って、やっと解放された。
今までハンセン病の患者を含め何千人、何万人と握手してきたが、あんな強烈な握手は初めての経験であった。アフリカの僻地での好意が「カモ」にされてしまった。
ハマル族と共に全裸の写真をと意気込んで乗り込んだ30人ほどの一族のコミュニティーは、5〜6軒のワラ作りのトンガリ帽子状の家というより小屋に住んでおり、女性は胸を出しているが、下半身は牛皮を前後に垂らしていて上手に大切なところを隠していた。
もっと奥地に入り、大枚の「ブル」を払えば、あるいは可能だったかもしれないが、カラシニコフを一発ぶちこまれたかもしれない。
ともあれ夢は現実せず、残念至極であった。
(次回8月25日は、「ハマル族の花いちもんめ」です)
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