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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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4月30日(金) [2010年04月30日(Fri)]


4月30日(金)

 08:00 打合せ、書類整理、決裁

 10:00 年俸制・評価会議

 12:00 総務グループ職員と昼食

 13:30 笹川平和財団・羽生次郎会長

 13:50 笹川日中友好基金室

 14:00 全国10カ所オルタナティブ(美術館)創設研究会 挨拶

 15:00 アイスランド共和国
      The Grand Cross of the Order of the Falcon with Star・受章式
      於:駐日アイスランド共和国大使館

 17:00 駐日スリランカ民主社会主義共和国
      エサラ・ルワン・ウィーラコーン臨時代理大使
海外活動「スリランカ・インド」へ出張 [2010年04月30日(Fri)]

(イメージ写真・スリランカ)


海外活動「スリランカ・インド」へ出張


連休を活用して5月2日から12日迄の11日間、スリランカ・インドで活動致します。

5月3日:スリランカの首都・コロンボで、保健省とハンセン病対策の現状把握、病院及び回復者村の訪問、日本大使館での夕食会。

4日:早朝5:00出発
スリランカ空軍機を拝借してジャフナに飛び、ジャフナ軍事司令官との会談。日本財団の支援で活動していただいているシニア・ボランティアの魚の干物製造の現場視察、タミル・シンハリの内戦終結に伴う市民活動グループとの懇談会。

5日:早朝6:30で出発
内戦の最終激戦地LTTE(タミール・イーラムの虎)の本部のあったキリノッチで治安本部訪問及び現場視察、避難民キャンプ慰問、負傷者のための義肢義足病院予定地視察。

6日:早朝6:00出発
スリランカ義肢義足学校視察。コロンボに帰着後、スリランカ政府無償提供による新笹川ホール建設予定地視察、笹川文化会館幹部と夕食会。

7日:大統領と会談、現地メディア記者会見、世界海事大学スリランカ笹川奨学生との懇談。

8日:コロンボからニューデリーに移動

9日:ビハール州パトナ着

10日:ビハール州首相、保健大臣と、ハンセン病患者、回復者問題について協議。

11日:ニューデリーでインド保健省幹部と会談、ラウル・ガンジー国会議員との面談。

12日:成田着

スリランカでは20年間続いた内戦終結の現場状況の視察。難民キャンプへの支援は日本をはじめ西側はEUも拒否したが、唯一、日本財団は3年間にわたり毎年30万ドルの支援を継続。日本財団は、かつて、コソボ問題でセルビアに西側から難民に対する食料・医薬品支援が無視された時も支援した実績がある。

日本財団はナイチンゲールの精神で戦いの双方に援助する必要があると考えている。難民、負傷者は双方に存在するにも関わらず、EU、アメリカ、日本を含め、国家の支援は紛争地での無辜(ムコ)の人々への救援活動は、時として政治判断で無視されることもある。国際社会の注目度の高い期間だけ援助、報道されることもしばしばであり、残念なことである。

笹川平和財団では、長年、水面下でシンハリ・タミールの各宗教者、指導者の和解工作を続けてきた。今後の方向性について現場からの意見を聴取すること。内戦終結を前提に支援してきた義肢義足養成学校が、本格的にタミール人居住区で病院を開設することになり、その進捗状況を視察することも目的である。

30度を超す炎熱下での盛り沢山の強行日程ではあるが、気力体力とも充実しているので、予定通りスケジュールを務めて参りたいと思っている。
「インドにおけるハンセン病活動」その1 [2010年04月30日(Fri)]

ヤダヴ保健大臣に実情報告


「インドにおけるハンセン病活動」その1


ハンセン病回復者が集団で暮らすコロニーは、調査の結果、インド全土で約700か所のコロニーのおおよその実態を把握することができた。しかし、この中に政府やミッション系のコロニーは含まれておらず、これらを含めれば1000ヶ所以上はあるものと推察される。その上でコロニーの代表者による全国組織・ナショナルフォーラムを結成して5年になる。

長い間、ハンセン病回復者は健常者の篤志家の指導によって、どうにか生かされてきた。しかし、多くの人は今なお乞食をして生活の糧を得ている。

私はハンセン病回復者の乞食ゼロ運動と、回復者自身が組織化をはかり、連帯を強化して主役として先頭に立つべきだと繰り返し主張し、ナショナルフォーラムの結成と組織強化に努めてきた。良識ある政治家も行政官も、カウンターパートになる回復者の組織がなかったため、その場限りの個別対応に終始せざるを得なかったのも事実である。

今回、ビハールの3か所のコロニー、MOTI PUR(モティプール)、CHAKIA(チャキア)、PIPRA(ピプラ)を視察した。

首都・パトナへの帰路、車で4時間のPIPRAは特に悲惨であった、道路の両脇に藁(わら)だけで建てられた粗末な小屋の内部には、家財道具は勿論のこと、不法占領の土地のために電気、水道、トイレもなく、地主の立ち退き要求が続く中、真昼間にガソリンを撒いて火をつけられ、不幸にして5歳の男の子が焼死したという。私たちは、焼け跡にできた小さな藁小屋の中で、両手を合わせ、成仏を祈った。

ヤダヴ保健大臣に実情を報告し、障害者支援金や老齢者救済の支援金、1ヶ月約400円の支払いを要請した。

保健大臣との会談では、私を始め、支援者が第一列目に座った。私はナショナルフォーラム・ビハール州のハンセン病回復者代表・カマラッシュ氏が2列目にいることに気付き、今日の主役の一人である彼を最前列に座らせるよう指示した。


ビハール州代表のカマラッシュ氏(写真・右)


ナショナルフォーラム結成までは無視され続けてきた回復者が、はじめて保健大臣に直接陳情の機会を得た上に予想外の約束を得たので、カラマッシュ氏は昂奮のあまり、顔を紅潮させて退室した。

保健省の担当者は、ビハールにおけるコロニーの数を25ヶ所といい、ほとんど実体を把握していないことが判明。当方は51か所のコロニーの存在と土地・建物が確保されていないコロニーが27か所、約4000名と説明。支援資金の支払いを陳上した。保健大臣は即座に反応され、2週間以内に詳細な資料を提出すれば陳上を処理すると明言された。

私もナショナルフォーラム結成を支援して5年にして初めて具体的成果を得、ひとしお感慨深いものがあった。早速昼食を取りながらの作戦会議。

「2週間で調査資料つきの陳情書の作成は可能か? 調査費用はいくらなのか?」

「可能である。費用は700ドル必要である」

「わかった。同行職員より借金して支払う。ところで、私は2週間後の陳上書提出に同行する必要はあるか?」

「ぜひ同行してほしい」

「わかった。必ず戻ってくる」

役所提出文書には、ナショナルフォーラムのレターヘッドを作成し、ゴパール会長とビハール州代表カマラッシュ氏の連名で作成するよう、細かい指示もして別れた。

いつも冷静な私も、ちょっと気分が昂揚した。なぜなら、インドで最も評判の悪いビハール州で、万に一つ、保健大臣の約束が実行されたら、他の州はこぞって追従するに違いないからである。そうなればハンセン病回復者の全国組織であるナショナルフォーラムはインド全土で信任されることになる。

各州においてコロニーの土地家屋の確保と最低限の救済資金が確保されれば、インド・ササカワ・ハンセン病財団は、コロニーの要望による自立支援のマイクロクレジットの提供を行い、行政と当方との共同作業は、コロニーの絶望的生活環境を改善し、先途に光明を見出す可能性が具体的に出てきたことになる。

次の手は、ナショナルフォーラムを支えるインド国会議員の会を設立しよう!!

アイディアは次から次へと湧いてくる。私の使命は日本人としてインド政府、各州政府に静かな説得力で外圧をかけ陳情を実現することにある。一に行動、二に行動。広大なインドに変革の波をうねらせるには、走って走って走り廻る以外に方法はない。

二週間後のビハールの成功を、神仏に、祈りたい気持ちである。
一点突破すれば、次々と成功は続くに相違いない。

一に熱い情熱。二に耐え忍ぶ忍耐力。三に絶対にあきらめない継続性こそ私の行動哲学である。



(次回5月7日は、「インドにおけるハンセン病活動その2」です)
4月28日(水) [2010年04月28日(Wed)]
4月28日(水)

 08:15 書類整理、決裁

 10:15 笹川日仏財団・冨永重厚理事長

 11:00 国際協力グループ・打合せ

 12:00 総務グループ(経理・財務担当)職員と昼食
女子プロゴルフ世界一「オチョア引退」 [2010年04月28日(Wed)]


女子プロゴルフ世界一「オチョア引退」


メキシコ出身。世界女子ゴルフランキング1位のロレーナ・オチョア選手(28歳)が突然の引退表明。理由は家族と過ごす時間を持つためと説明。

プロゴルファーは、アメリカを中心に世界中でほぼ毎週のように過酷な試合日程が組まれており、家族と過ごす時間は無いに等しい。昨年12月に結婚したオチョア選手は高額な賞金と名誉より家庭を愛し、家族の絆を優先した。その上「教育こそが価値判断を教えることができる」と自ら基金を設立し、故郷のグアダラハラに貧しい子供たちのための学校を建設した。(共同電)

すばらしいことであり、その決断に涙を禁じ得なかった。

世界のスポーツ選手や芸能人には、慈善活動にも熱心で、社会人としても尊敬の対象になっている人が多い。

グアダラハラは美人の産地としても有名で、50年前に訪問したことがある。その時、好奇心から教会の地下に入り込んだところ、途中で電気を消され、あやうく広大な教会の地下で遭難するところであった。

近年、ソレンスタム選手(スウェーデン)も引退し、世界の女子プロは二枚看板なしの時代となった。

家内と二人の夕食でオチョア選手が話題となった。

しんみりと老妻に

「私も遅まきながらオチョアに見習って、家族との時間をもう少し大切にしようと思う」

「あなた、それって風呂のフタよ。必要な時にいなくて必要のない時にいるものよね。子育てに忙しい必要な時期にはいなくて、四人の子供が巣立ち、私と二人だけになってから家庭の時間を大切になさりたいわけ?」

「そうだよ、いけないかい」

「あなたの年齢なら『亭主元気で留守がいい』が友人達の常識よ。女性は還暦を過ぎると急に亭主からの開放感に喜びを感じるものだそうよ」

「そうよって、お前もそうかい」

「そうはっきりでは失礼だけど。天下国家が生き甲斐のあなたが、今さら家庭の時間を大切にって、変よ」

心底は濡れ落葉や粗大ゴミの世話など真っ平御免といいたかったようで・・・

女性はリアリストであり、強かである。



(次回4月30日は、「インドにおけるハンセン病活動その1」です)
4月27日(火) [2010年04月27日(Tue)]

若手研究者が全国から集まった


4月27日(火)

 07:50 書類整理、決裁

 11:30 笹川科学研究助成・研究奨励の会 挨拶
  〜  於:ANAインターコンチネンタルホテル東京
 12:30

 13:00 ボートレース振興会・清水義晴常務理事

 14:00 日本財団・鳥井啓一参与

 15:00 海洋政策研究財団・岡嵜修平常務理事
4月26日(月) [2010年04月26日(Mon)]
4月26日(月)

 07:50 書類整理、決裁

 10:00 公益コミュニティサイトCANPAN・打合せ

 11:00 ユーラシア21研究所・吹浦忠正理事長

 11:30 日本科学協会・伊藤隆常務理事

 12:00 監査グループ職員と昼食
「石 弘之先生からのメール」 [2010年04月26日(Mon)]

フォーラム2000に出席の石先生(写真・右)


「石 弘之先生からのメール」


石 弘之先生は東京大学教授、ザンビア大使も歴任された方で、環境問題の専門家として有名である。環境に関する著書・共著・訳書は40冊近くもある。

アフリカの現場で二度お会いしたことがあり、ハベル大統領と共催のプラハでの「フォ−ラム2000」国際会議にも出席していただき、アフリカの現況報告をお願いしたこともある、気さくで心やさしい先生である。

4月8日、私の「駄洒落」のブログに反応され、下記のメールを戴いた。
お読みいただければ、先生のお人柄がおわかりいただけるでしょう。

***********************

「名前の災難」


アジスアベバ空港の入国カウンターで、係官が私のパスポートにスタンプを押すと「イシ」という。名前を呼ばれたものばかりと思って「イエス」と答えると、彼は怪訝な顔で私をにらんでいる。あとでわかったのは、アムハラ語でイシはOKという意味だという。

 イシという簡単な音は、フランス語のici (此処) など各国語で何らかの意味を持つ語が多い。ケニアのカンバ語では「勇敢な人」という意味だそうだ。ただし、給料の前借りにきたカンバ族出身の運転手がいうのだから、あてにはならないが。

この程度なら自慢話にもなるが、気の毒な名も少なくない。ケニアに住んでいたとき、日本から親しい先輩が訪ねてきた。ホテルに案内してチェックインするとき、彼の旅券を手にしたフロント係が、突然に体をよじって口をおさえ、涙を浮かべながら必死に笑いをかみ殺している。先輩の名は木原さん。キハラはスワヒリ語ではハゲ。ご本人は、ハエが止まるのも難しいほど見事にハゲ上がっていたのである。

チェコ語でホリイはやはりハゲ。スピードスケートの堀井選手は頭を剃ったスキンヘッドだったが、チェコ人の中には本名でなくニックネームと信じている人が多いと聞いたことがある。

もっと気の毒な名は沢山ある。スワヒリ語の「熊本」、インドネシア語の「野々村」、ポルトガル語の「久保田」、ポーランド語の「永山」、ロシア語の「海老原」、アラビア語の「小杉」、ペルシャ語の「霧島」、中国の「千葉」(鶏巴)、タイ語の「桑井」……。

むろん発音にもよるが、現地ではかなりシモネタ系の意味にとられかねない。これらの名前の方で気を悪くされたらゴメンナサイ。恨むなら、ご先祖を恨んでください。姓だけでなく名の方も誤解のタネは尽きない。

最近ひさしぶりにインドネシアを訪ねた。現地法人の社長をしている旧友が空港に迎えにきてくれていたので、昔ながらに「進」と呼びかけたら、あわててススムだけは決して口にしてくれるなという。スス (おっぱい)ム (君の) という意味になるらしい。

中国語と日本語は、同じ漢字を使いながら意味のまったく異なる単語が多い。花子さんは「乞食」になり、浪子さんは「浮浪者」になる。逆もある。私がこれまでに出会った最高傑作は、ユーゴスラビアの学者。その名も「ズボンコー・ウンコビッチ」である。

かつてPLO の東京事務所長にミズワリさんという方がいた。敬虔なイスラム教徒で酒は一滴も飲まなかったが。南米でキンタマさんという人にも会った。相手の名を呼ぶのがどうしてもはばかられた。アラブ通信の記者と名刺を交換したら、ユルフンさんとある。ズボンがずり落ちているのが、何か名前に似合っていた。

でもネエ、自分の名が外国語でどんな意味を持つのかいちいと気にしていたら、世界は歩けないよネ。



(次回4月28日は、「女子プロゴルフ世界一・オチョア引退」です)
マレーシア ナジブ・ラザク首相 [2010年04月26日(Mon)]

僅かな時間ではあったがお互いに元気な顔を合わせられた


マレーシア ナジブ・ラザク首相


米国ワシントンで開かれた核安全保障サミット後に国賓として来日されたマレーシアのナジブ・ラザク首相を赤坂の迎賓館に表敬した。

ナジブ首相は「マレーシア発展の父」と呼ばれた第二代首相アブドゥル・ラザクの長男で、第三代首相のフセイン・オンは叔父にあたり、ナジブ首相は政治家の名家の血筋とみなされているが、どこかの首相と異なり、はっきりした政治信念と行動力のある政治家である。

首相の新経済戦略は2020年までにマレーシアを先進国並みの「一人当たり国民総所得を現在の約7000ドルから1万5000ドルに引き上げる」野心的なものである。

2009年7月、クアラルンプールの首相官邸での面談以来である。

日本財団が2006年にマレーシア政府に教育訓練船を寄贈したときには、当時副首相としてご出席下さり、公邸ではご夫妻で盛大な夕食会を主催して下さったこともある。

今回は国賓としての過密なスケジュールの合間に親交を温める時間を頂戴した。

***************************


面談(要旨)


2010年4月19日
赤坂 迎賓館


【笹川】
ワシントンでの核安全保障サミットの印象は如何でしたか。

【ナジブ首相】
とても素晴らしかった。核不拡散について前向きなコミットメントを示すことができた。今はテロリストでも小さな核を製造できるようになった。それは多くの犠牲者を出す危険性を意味している。

【笹川】
このサミットはさらに前進すると考えてよいのだろうか。

【ナジブ首相】
そのように考えている。

【笹川】
私はスリン・ピッツワン事務局長を中心としたアセアン事務局を政府レベルだけでなく、民間の立場から支援する必要がある考え、事務局の組織強化のための人材養成やプログラム開発、各国の障害者支援に協力しています。

先般、パプアニューギニアのマイケル・ソマレ首相と会談しましたが、アセアン加盟を強く希望されていました。東チモールのジョゼ・ラモス・オルタ大統領もアセアン加盟を希望しておりました。

笹川平和財団では、かつてラオスとカンボジアのアセアン加盟について必要となる人材養成を協力支援し、今日に至っております。パプアニューギニア、東チモールについても加盟のための人材養成や条件である5カ国の大使館開設についても協力していきたいと考えています。ナジブ首相閣下にもその時期が参りましたらご協力をお願いしたいと思っております。

【ナジブ首相】
その時期は来ると思うが、今は加盟国が一つになり目的を明確にしなければ、組織だけが大きくなりすぎてバラバラになってしまう。その時期が来たときには協力する。

【笹川】
ナジブ首相閣下のご指導のもとマラッカ・シンガポール海峡の民間レベルによる航行安全のための仕組み作り、さらには具体的な資金集めもほぼ成功しました。かつては海の利用はタダであるという概念がありました。民間会社が資金を拠出するということは革命的な出来事であり、順調に推移していることをご報告致します。

とくに日本の海運会社で構成する日本船主協会は多額の資金を出してくれました。さらに欧州系の海運団体にも積極的な資金提供を要請していくつもりです。

【ナジブ首相】
貴殿の非常に大きな貢献に感謝する。マラッカ・シンガポール海峡沿岸三国にとって、シーレーンを守ることは重要だ。設標船や教育訓練船を支援いただいたことはよく覚えているし、感謝している。

【笹川】
先般、インドのタミル・ナドゥ州を訪問したとき、首相閣下も同州を訪問なさっている新聞記事を読みました。あの州の副首相はスターリンという名前なので驚かれたでしょう。

【ナジブ首相】
彼の名前はスターリンだが、旧ソ連のスターリンとは全くの別人だ(笑)。

【笹川】
インドでは共産主義者の名前が非常に多いようです。現在、マオイストの活動が激化し、インド政府や州政府は頭を痛めています。
マレーシアはナジブ首相閣下の指導力でますます発展していくだろうと思いますが、いまの最大の課題は何ですか。

【ナジブ首相】
現状を維持することは簡単なことだが、マレーシアは変革していくことが大切だ。指導者としての課題は、どのように国を変革させていくかということであり、新しい経済モデルを作ることに心を砕いている。

【笹川】
そのような中、日本の役割や存在価値についてどのように思っていますか。

【ナジブ首相】
日本は東南アジアでの社会的認知度を高め、さらには地位を向上させるための努力が必要だ。以前の日本は常にアジアで先頭に立っていた。しかし現在は少々問題があるようだ。

【笹川】
私たちの世代には戦争において大きな悲劇を東南アジアにもたらしてしまったというトラウマがあります。しかし、次世代の人たちはそういった意味で過去の経験がありませんので、もっと本当の意味での日本の良さを主張できると思います。東南アジアにおいても次世代の人たちに期待しています。

【ナジブ首相】
マレーシアの政治指導者は全て戦後生まれだ。戦争の記憶はないし、過去のことにもとらわれていない。日本には強い指導力を発揮してほしい。



(次回4月28日は、「女子プロゴルフ世界一・オチョア引退」です)
国際支援活動と日本 [2010年04月25日(Sun)]

ハンセン病患者と触れ合う中に解決の糸口が隠されている(ネパール)



『星座』

伊藤玄二郎(本誌編集発行人)VS 笹川陽平(日本財団会長)
かまくら春秋社
2010年 No. 53 青龍剛


国際支援活動と日本


日本のみならず、海外での人道支援活動や人材育成にも力を注ぐ日本財団会長の笹川陽平さん。特にハンセン病をなくすための活動には自ら40年以上携わり、現在、WHO(世界保健機関)のハンセン病制圧特別大使、政府のハンセン病人権啓発大使として世界各国を奔走する。長年の支援活動や指導者に求められるリーダーシップなどについて語り合った。
_______________________________

【伊藤】先日、笹川さんのブログをまとめたご本『若者よ、世界に翔け!』を読ませていただきましたが、ずいぶん強行軍のスケジュールで、世界中を飛び回っていらっしゃる。時には海外からもブログを書き込まれていますが、日本財団のような大きな組織のトップがご自分でブログを書くというのは、他に例を見ないように思います。

【笹川】そうかもしれません。ブログを始めたのは2005年の3月でしたから、かれこれ5年になります。近年、企業や組織の情報公開が求められるようになり、私たちも職員一丸となって取り組んでいますが、その様子を見ていて「財団の情報公開にとどまらず、トップとしてどのような仕事をどのような思いで行っているのか、積極的に発信するべきではないか」と考えたのが始まりなんです。

【伊藤】インターネット上では、自由に発信できる代わりに、目に見えない不特定多数から、思いがけない中傷や批判にさらされることもあるのではありませんか。

【笹川】以前、私が新聞紙上に「タバコ一箱1000円」論を発表したときには、ブログ上でも相当数の意見が飛び交いました。でも私のブログでは、たとえ一方的に批判をしたり暴言を書く人がいても、コメントの削除はしないことにしているんですよ。自由に発言できる場であってほしいし、多くの批判や意見が飛び交うということは、それだけ皆さんの関心がある問題ということでしょう。むしろ喜ばなくちゃいけないと考えています。

ハンセン病問題への取り組み

【伊藤】さて、笹川さんといえば、ハンセン病をなくすための活動に大変尽力されています。2007年には、ハンセン病の制圧や患者と回復者の尊厳回復に貢献した人物に授与される「国際ガンジー賞」を日本人で初めて受賞されました。

【笹川】私がハンセン病問題に取り組み始めてから、もう40年以上になりますが、今も1年の3分の1くらいは各国の現場を直接訪問しています。

【伊藤】具体的にはどのような活動をしているのですか。

【笹川】1980年代に入って、MDTという治療薬が開発されてからは、ハンセン病の制圧にもっとも力を注いできました。「制圧」というのは、WHO(世界保健機構)の基準で人口一万人に対して患者が一人未病の状況をいいます。医療面で各国の政府やメディアと連携し病の制圧を進めると同時に、ハンセン病は治る病気なのだということを知ってもらうための啓蒙活動も行ってきました。

長年の努力が実を結び、1985年に122カ国あったハンセン病の未制圧国が昨年までに3カ国に減少し、1600万人もの患者さんが病から解放されました。そして今年1月にはネパールでハンセン病制圧が宣言され、東ティモールも年内に制圧の見通しです。残るのはブラジル一国というところまでようやくきました。

【伊藤】今でこそ、ハンセン病は非常に弱い伝染性しかないというデータが確立していますが、活動を始められた当時は、まだそうした状況ではなかったでしょう。笹川さんがハンセン病問題に取り組むことになったきっかけは何だったのですか。

【笹川】実はこの問題に最初に取り組み始めたのは私の父、笹川良一です。父は大阪の箕面の出身で、川端康成氏と同じ小学校の同級生だったのですが、子どもの頃、近所にあまり外に出ない若い娘さんがいたそうです。そしてその娘さんがある日突然、いなくなってしまった。当時日本は「らい予防法」がありましたから、警察が来て強制連行され隔離されてしまう、そういう時代だったんですね。

父は、とても正義感の強い人でしたから、病にかかった娘さんやその家族の受けた大変な苦しみを目の当たりにして、ハンセン病の問題に取り組むことを心に決めたそうです。父は仕事で海外出張をする折には、どの国でも必ず無名戦士の墓に参ることと、ハンセン病患者を見舞うことを欠かしませんでした。私は父の仕事に同行する中で、自然に患者さんたちに接し、この問題を生涯の仕事として取り組むことになったのです。

【伊藤】日本国内では、最近になってやっとハンセン病の正しい知識を一般の人も認識できるようになってきましたが、世界の特に発展途上国では、まだ根深い差別があるようですね。

【笹川】おっしゃるように、間違った知識でハンセン病患者やその家族が苦しむ現状は、まだまだ各国にあります。さらに深刻なのは、先ほど1600万人の患者さんが治癒したと言いましたが、病気が完全に治っても、他の病気のように順調に社会復帰できない現実があります。私は、人間の差別の原点はハンセン病にあると思っているのですけれども、何世紀にも渡って人間のDNAに刷り込まれたスティグマ(負の烙印)というのは、悲しいことにそう簡単に払拭できないのです。

今、ハンセン病そのものの制圧は成功目前ですが、彼らを社会復帰させるための活動は、やっとはじまったばかりです。

【伊藤】元英国妃のダイアナさんが、エイズ患者を見舞い親しくスキンシップをとる姿をメディアが放映することで、エイズの正しい知識を伝え、偏見をなくすことにつながったということがありましたが、笹川さんもご自身の活動をブログで情報発信したり、ときには現地にメディアを同行させることなどで、広く差別をなくすための取り組みをなさっていますね。

【笹川】私は支援活動をする際に、自分に戒めていることがあるのです。それは「“自分たちはいい活動をしている”と思い始めた時に、堕落が始まる」ということです。

実はこうした活動で大事なのは、戦略的思考なんです。ともするとNGO、 NPOの活動において一番おろそかになりがちなのですが、ハンセン病を世界中で制圧するためにはどうすればよいのか、差別の問題を解決するためには何が必要なのか、各問題点と解決するまでの過程をしっかり頭に描いて実行していかないと、ただ目の前の小さな問題だけを見てジタバタしていては、大きな問題は決して解決しない。各国の政府にどのように働きかけて行くのかも含めて、広い視野で取り組んでいかないといけないと私は考えているんです。

【伊藤】しかし、戦略戦術を描いて、末端まで十分いきわたるようにと工夫をされても、特にアフリカなどでは水問題や政治的問題が複雑に絡みあって、なかなか思うように機能しないというご苦労もありませんか。

【笹川】国際協力活動に取り組む上で私がモットーとしているのは「溢れるような情熱、耐え忍ぶ忍耐力、成果が出るまで絶対にあきらめない継続性」の三つです。

一つ例をあげると、アフリカにモザンビークという国がありますが、そこでは長く内戦が続き少年兵が機関銃を手に戦う悲惨な姿がありました。モザンビークはハンセン病の蔓延国で、2000年までに病を制圧するというWHOの宣言に署名をしていたのですが、現状はかなり厳しかった。それでも、私は4年間毎年モザンビークに足を運び、現地での活動を続けました。

そんなある年、保健大臣に「遠い日本から笹川さんが毎年欠かさず来てくれたことで、私たちは自分たちの問題として解決しなくてはならないと、良い意味で追い詰められることになりました。私たちは財産も人材も決して豊富とは言えないけれど、モザンビークという国家をつくった以上、プライドがあります」と言われたのです。

すぐに大統領府内に特別委員会が作られ、大統領直轄で行政が動き出し、見事制圧に結びつきました。やはり、どんな困難があっても決してあきらめないこと。これがとても大事なのだと感じた大変うれしい出来事でした。

【伊藤】笹川さんは、日本でも外国でも、いわゆる政治には一切手を染めないそうですが、特に発展途上国ではどのように各国の協力を得ているのですか。

【笹川】いわゆる政治的なかかわりはもちませんが、ハンセン病問題を根本的に解決するためには、医療関係者やNGO関係者はもちろんのこと、政治指導者の協力は不可欠だと考えています。私や父が取り組む以前から、特にキリスト教系の団体が救らい活動をしてきました。彼らから見ると、私たちの仕事の仕方は異端に映っているかもしれません。というのも、多くの国際NGOは、前提として途上国の政治を腐敗しているととらえ、その対立軸として自分たちを存在させたのです。

つまり、あなたの国の政治家たちはこんなに悪いが、私たちはこんなに「よいこと」をしているんですよ、というやり方でした。しかし、私は政府に金銭譲渡は一切しませんが、彼らと対立するのではなく、問題解決のために上手に巻き込んでいきたいと考えているのです。

【伊藤】具体的に、政治とはどのようなスタンスで接していくのでしょうか。

【笹川】私は、海外に行ったら、まずその国の国家元首に会い、ハンセン病の問題について詳しく話をします。その場合、かならず保健大臣や事務次官が同席しますから、国家元首を巻き込めば大臣以下は、ハンセン病制圧に取り組まざるをえなくなるんですよ。

保健衛生の問題としては、一般的にエイズやマラリアの方がずっと規模が大きいですから、各国でのハンセン病制圧の優先順位は実は低い場合が多いのですが、国家元首の支持を得ることでスムーズに事が運ぶのです。また、国家元首と会う時には、大抵その国のテレビ取材も入りますから、これを最大限利用して、ハンセン病についての正しい知識を一般に広く伝えることができます。

もう一つの大事な仕事は、制圧活動の最前線の地に足を運んで、薬がきちんと届いているか、薬の劣化がないかなどのチェックをし、現地のスタッフたちを激励することです。活動現場には、必ず問題点とその答えがありますから、時には自宅から50時間かけてでも、現場に向かいます。現場に行かないと、決して問題は解決しませんから。



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