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写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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9月30日(水) [2009年09月30日(Wed)]

カーター元大統領(左)との再開

9月30日(水)

 11:00 ホテル発

 11:45 カーター・センター ハードマン会長

 11:55 ジミー・カーター元米国大統領

 12:00 ジミー・カーター元大統領85歳誕生日昼食会

 13:00 カーター・センター視察

 15:00 ホテル着

 19:00 関係者との夕食会
映画「戦場にかける橋」 [2009年09月30日(Wed)]

クワイ川鉄橋の上にて(2009年8月・タイ)


映画「戦場にかける橋」
〜クワイ川鉄橋とその周辺〜


タイの伝統医薬品配布状況の視察で訪れた現場近くに、「戦場にかける橋」のモデルとなったクワイ川鉄橋とカンチャナブリ連合軍墓地と日本軍慰霊碑があると聞き、花を捧げるために両墓地を訪れた。

モデルとなった泰緬鉄道は、第2次世界大戦中に日本軍がタイとミャンマーを結ぶ鉄道として建設した。当初は最低でも5年とされていた総延長415kmの難工事を、たった17ヶ月で完成させたという。正確な数字は不明だが、建設作業員は日本軍1万2000人、連合国捕虜6万2000人(内1万2619人死亡)、ミャンマー人18万人(内4万人死亡)、マレーシア人8万人(内4万2000人死亡)。人数は不明だがタイ人、インドネシア人もいた。

建設現場の環境は劣悪で、食糧不足による栄養失調やコレラ、マラリアの蔓延で多くの犠牲者を出した悲劇の歴史を抱える鉄道である。

連合軍共同墓地は、かつての捕虜収容所跡に造られており、参拝した墓地は主にオランダ兵士が葬られていた。強い日差しの中、一人一人、整然と区画された墓を美しい花が囲み、悲劇を隠すような明るい雰囲気が漂っていた。

一方、慰霊碑は昭和19年2月、当時の日本軍鉄道建設隊によって建てられた。第二次世界大戦中の泰緬鉄道建設に従事して亡くなられた方たちの慰霊碑である。在タイ日本人有志が毎年、慰霊祭を行っている。


左は日本人の慰霊碑、右は連合軍墓地


献花の後、日本人の慰霊碑で三人の僧侶による読経をお願いした。読経が始まろうとした時、突然の風で花瓶が倒れ落ち粉々に割れ、ガイド嬢は「これは死者の叫びだ」と戦(おのの)く一幕もあった。それにしても、連合軍墓地に比べあまりにも貧弱。もう少し整備ができないものか、複雑な思いが残った。

併せて「慰霊碑」の文字の不思議さも気になった。霊は靈の略字である。ところが碑は下にあるような文字で彫られていた。白川静の「字統」にもこの字はない。何かの誤りか、私の浅学のためか、不明である。
ともあれ、英霊への万感の思いを込めて書かれたもので、正誤はともかく余程の学識のある人物ではなかろうか。




クワイ川鉄橋一帯は、外国人をはじめ、多くの観光客で賑わい、今や一大観光地になっていた。

鉄橋を対岸まで歩いてみると、線路の間には歩行用の板が敷かれ、ラフな服装の観光客がクワイ川をバックに楽しそうに写真を撮っていた。橋のところどころの左右に待機所が設けられ、休日にはみやげ物屋が店を広げるという。橋下にも水上レストランやみやげ物店が並んでいた。

復路、偶然一日二便の観光列車が鉄橋上ですれ違うと、乗客が陽気に手を振り合った。若い観光客にとって60年前の悲劇は歴史の彼方の話なのかもしれない。

複雑な思いに耽りながら橋をほぼ渡りきると、それまでの強い日差しが一転黒雲に変わり、激しいスコールが襲ってきた。
9月29日(火) [2009年09月29日(Tue)]

アトランタ着


9月29日(火)

 10:45 成田発

 10:00 シカゴ着

 14:15 アトランタ着

 19:30 関係者との夕食会
9月28日(月) [2009年09月28日(Mon)]


9月28日(月)

 11:00 サーベラス ジャパン・山下邦勝顧問

 13:30 国立療養所多磨全生園創立100周年記念式典
  〜  特別講演「ハンセン病制圧と国際協力」  於:多磨全生園
 15:30
中国「国慶節」への招待状 [2009年09月28日(Mon)]


中国「国慶節」への招待状と訪米


国慶節は1949年10月1日、天安門広場で行われた建国式典で、毛沢東により中華人民共和国の設立が宣言され、今年は新中国60年にあたる特別の国慶節である。

招待状を頂戴したが、9月30日はカーター元米国大統領との昼食の先約と20数年来師弟関係にあったノーマン・ボーローグ博士(ノーベル平和賞、笹川アフリカ協会前会長)の追悼式典が10月6日、アメリカの名門大学・テキサスA&M大学で行われる予定で、弔辞の依頼があり、残念ながら国慶節は欠席せざるを得なくなった。

すでに6月頃よりメディアを中心に国慶節の軍事パレードの出し物が話題になっていた。

6月22日の面談の折、梁光烈・国防部長より国慶節の軍事パレードについて以下の発言があった。

「建国後の人民解放軍の発展、規律、教育の状態を国民に伝えたい」
「実際に何を展示するかはその時の状況、部隊の状況などを見た上で決めることになる」

当日の出席者は発言の後段を中心に解釈して、新兵器の展示は少ないのではとの意見が多かった。

私は前段の発言を重要視して、6月22日のブログに「軍人パレードは1954年の毛沢東、1984年のケ小平、1999年の江沢民以来20年ぶりのことで、建国60周年でもある。60年間の人民解放軍の発展、規律、教育の状態を国民に公開したいという以上、国産の戦闘機も戦車も展示されるだろう」と推測した。

果せる哉、読みは当たった。

9月23日、人民解放軍の軍事パレード司令部の高建国報道官は、核弾頭ミサイル、早期警戒管制機、52種類の国産兵器の9割は初公開であり、「全国と全世界にわが国の国防の近代化の偉大な成果をはっきりと示す」と強調。核ミサイル、巡航ミサイルも登場予定という。

21年間、毎年、軍事予算は2桁成長してきた。このことへの質問の答えは常に「遅れていた軍人の待遇改善、旧式武器の近代化」と説明された。しかし、今後この説明は通用しない。

G2、すなわちアメリカを意識した更なる軍備増強、近代化は、航空母艦の建造をはじめ、これからがいよいよ本格化するということである。
「ホスピスの始まり」 [2009年09月28日(Mon)]

ピースハウス病院(神奈川県)


「ホスピスの始まり」


雑誌「選択」8月号に、評論家・米沢慧氏が「日本におけるホスピスの原点は岡村昭彦にあり」の一文を寄稿されている。

近代ホスピスの創立者はシシリー・ソンダースと理解していたが、ソンダースに大きな影響を与えたのは、19世紀末、アイルランドの首都・ダブリンに聖母マリアホスピスを誕生させたマザー・メアリー・エイケンヘッドで、彼女こそ「近代ホスピスの母」であり、彼女を日本に紹介したのが岡村昭彦だという。

岡村昭彦は、アメリカの雑誌「ライフ」でのベトナム戦争報道で一躍世界に名を轟かせた報道写真家であり、ベストセラー「南ベトナム戦争従軍記」でも知られた戦争ジャーナリストであった。

彼は最晩年の著書「ホスピスへの遠い道」で、1980年代の「日本式ホスピスは、私にとってがん病棟としか思えない」と痛烈に批判し、ホスピス―「そこでは猶予なき死の訪れが患者自身と語られる。医師と看護師はあらゆる医療技術、そして真心で、痛みを和らげることに専心し、患者とその家族には本当の精神的支えをもたらす」とある。

全く同感である。現在、病院に併設されている緩和ケア病棟は、「がん病棟」から、名前と場所が異なるだけといっても過言ではない。

日本財団は独立型ホスピスこそ本来の姿であるとの考えから、静岡の聖隷三方原、小金井の聖ヨハネホスピス、平塚のピースハウスの建設に協力してきた。

ベッド数は20前後で患者数も少なく、家庭的な雰囲気の中で、医師、牧師、看護師、ボランティア、患者の家族が一体となって患者のために奉仕するホスピスの普及に努力してきた。しかし、我々の努力不足もあり遅々として普及しないのが現状である。そこで次善の策として、病院の内部にホスピス緩和ケア病棟の支援を続けている。

1980年代に岡本氏の指摘した、がん病棟からの脱皮こそが終末医療の喫緊の課題である。日本緩和医療学会も活発に活動しているが、働く医師全てに終末医療の重要性―旅立つ患者への心のケアは勿論のこと、残された家族の悲嘆への対応も含めて―を認識していただきたいものである。

ホスピスは「がん」が対象であるが、あらゆる病気の終末医療は、患者の人間としての最期の尊厳と人権上の権利であることに配慮してもらいたいものである。

推薦できる良心的なホスピスを下記に掲載します。家族や知人に、不幸にして回復が望めない患者がおられる方は遠慮なく連絡、相談して下さい。がんの終末医療は、独立型ホスピスの方が圧倒的に優れていると、私は確信しております。


聖隷三方原病院
静岡県浜松市北区三方原町3453
Tel:053-436-1251
一割負担の場合 一日 3,783円+食事代
差額ベッド代なし

聖ヨハネホスピス
東京都小金井市桜町1丁目2番20号
Tel:042-383-4111
二割負担 一日 7,590円+食事代
差額ベッド代:15,000円、14,000円、13,000円

ピースハウス病院
神奈川県足柄上郡中井町井ノ口1000−1
Te::0465-81-8900
一割負担の場合 一日 3,783円+食事代260円
差額ベッド代:24,150円、18,900円

*詳細は直接ホスピスにお問い合わせください。


日中笹川医学奨学金制度 第32期研究者歓迎式典 [2009年09月27日(Sun)]


日中笹川医学奨学金制度 第32期研究者歓迎式典
挨拶

2009年9月9日
東京ガーデンパレスホテル


第32期研究生をお迎えし、この奨学金制度を立案した一人として、本日は感無量の思いです。

指導教官の皆さま、そして関係者の皆さまにおかれましては、目配り、気配り、心配りをいただき、これまで奨学生を温かく迎え入れてくださいました。心より感謝申し上げます。

私は学ぶ側よりも受け入れる側の方が大変苦労が大きいことはよく承知しております。受け入れ側の皆さまには、今後とも引き続きこの奨学制度をお支えくださいますよう、お願い申し上げます。

さて、皆さまの先輩にあたる笹川奨学生は、これまで日本で本当によく勉強してくださいました。そして、笹川奨学生は、SARS(重症急性呼吸器症候群)が中国で猛威を振るったときには第一線で活躍し、四川大震災では温家宝首相に被災状況を報告されたのも笹川奨学生でした。さらには日本からの救援隊の活動に対し、通訳をはじめ献身的にご活躍いただきました。

また笹川奨学生の中には、すでに中国の名門医科大学の学長をはじめ医学界の中心的な人材としてご活躍いただいている人が多くいます。この伝統を引き継ぎ、皆さまには学問に励んでいただき、私たちの期待に応えてくれることを確信しています。

日中間は一衣帯水の国といわれますが、伝統や文化は全く異なります。米国のサミュエル・ハンティントンは、著書「文明の衝突」で世界の8大文明について触れています。そこでは、日本は独立した文明国と位置づけられ、中国とは全く違う存在として記されています。

同じような顔で、同じ漢字文化を有していながら、考え方、行動様式、その他多くのことで私たちは異なっているのです。

そのような観点から皆さまには、もちろん学問は第一ですが、大いに好奇心を持って日本の社会、そして等身大の日本を見ていただきたいと私たちは願っています。

私は日本と中国がより友好な関係が築けるよう努力しています。その一つとして、昨今中国国内で増えている日本語を学ぶ学生へ230万冊の図書を中国の大学に寄贈してきました。次代を担う中国の若者の人材養成に私たちは大変期待しています。

さて、隣国同士というのは大変微妙で難しい関係にあります。常に良好な関係にあるとは限りません。だからこそ、お互いの違いを知ることが大変重要になってきます。

両国の違いを理解することがこれからの日中間の未来への発展のためのキーワードになってくると思っています。

私はこの12月、中国最大のインターネットサイトである人民ネットに出演するため訪中を予定しています。この番組では、反日家の人たちに集まっていただき、私と討論することになっています。さまざまな論争が想定されますが、とにかく両者の違いをお互いが理解し、穏やかな未来志向の日中関係を確立したいものです。

私が両国の違いについて説明するときにお話しすることなのですが、この奨学金制度で初めて皆さまをお迎えしたときのことです。私たちは松花弁当を昼食を用意したのですが、中国の皆さまは侮辱されたと思ったようです。

それはご飯が冷たかったからです。中国では冷めたご飯は動物に食べさせるもので人間は食べないようですね。しかし、日本ではおにぎりもそうですが、必ずしもご飯は温かいものではありません。もし、そのときに疑問に思って私たちに尋ねてくれなかったら、私たちはそのことを皆さまに説明し、納得いただくことはなかったでしょう。そして皆さまは、日本人は私たちを歓迎してくれているようで、心の中では私たちを侮辱していたという誤解を持ったまま帰国することになっていたかもしれません。

一方、日本の指導教官の皆さまも中国の皆さまに対し、戸惑いがありました。昔は皆さん人民服でした。そこで、日本の指導教官は、少しでも中国の皆さまの助けになろうと洋服や生活に必要なものを差し上げたのです。

ところが中国の皆さまが本当に喜んでいるのかわからないと私に話してきました。事情を尋ねると、中国の人は一度しかお礼を言わないというのです。中国では品物をもらったときには一度しかお礼を言わないのが常識だそうです。会うたびにお礼を言うのは日本の文化です。中国では何度もお礼を言うというのは、もっといただきたいという、催促を意味することにつながるというのです。

日常生活でも大いに違いがあるのですから、皆さまもわからないことがあったときには好奇心を持って日本人に納得するまで尋ねてください。これが両国の相互理解に最も重要なことでもあります。
この研究期間中、箱根にお集まりいただき、研究成果や近況報告を発表いただく機会を設けています。そのときには皆さまとゆっくり語り合うことを楽しみにしております。
「緩和ケア教育プログラム委員会」発足 [2009年09月26日(Sat)]


「緩和ケア教育プログラム委員会」発足


1996年に「日本財団ホスピス研究会」を発足させ、ホスピス・緩和ケアのあり方、即ち患者の終末の医療のあり方について研究してきた。

神奈川県に、病院から離れた独立型のホスピス「ピースハウス病院」建設をはじめとして、全国に12施設281床のホスピス緩和病棟の建設も支援した。

ホスピス看護師の養成は日本看護協会の協力のもと、全国11の教育委機関と共同で6億8千万円を投じ、2106名の優秀なホスピス看護師を養成してきた。

当時、日本には死に対する教育(デスエジュケーション)は存在しなかったが、日野原重明先生、アルフォンス・デーケン先生の協力を得て市民向けに開催した「Memento mori」(死を想う)セミナーは、全国各地で30回、3万300名が参加。大好評でどこの会場も満杯。一般市民が死を考える切っ掛けになったセミナーであった。

終末医療に従事するホスピスナースの看護師の志は高く、志望動機も「近親者の苦痛に喘ぐ医療の在り方に疑問を感じた」、「患者が病棟から飛び降り自殺した」等々、終末医療の改善について真摯に疑問を持つ看護師が集まってくれた。

ただ残念なことは、肝心の医師は未だに医療技術偏重であり、率直大胆に申せば、医療技術を駆使できない終末患者には関心が薄くなるのである。

当財団も、医師については応募者が少なく、30名ほどしか養成できていない。

そこで、医学生の時代から終末医療に関心を持ち緩和ケア教育を普及させる必要があると、今回の委員会が発足したわけである。

別掲の挨拶要旨とあわせて読んでくだされば幸甚です。


***********************



緩和ケア教育プログラム委員会
挨拶要旨


今回は医学生向けの教育プログラムを立ち上げるということで皆様にお集まりいただきました。初めに、このプログラムの立ち上げに至る経緯を説明させていただきたいと思います。

私たちは、ホスピス緩和ケアへの理解を広めるための活動を長く取り組んできました。中でも全国的にもモデルケースとなり得る緩和ケア病棟「ピースハウス」を神奈川県に建設し、緩和ケアの支援の在り方について研究を重ねてきました。

そして、緩和ケアを充実させるためにはホスピスナースの育成が不可欠であると考え、1998年から日本看護協会とともにホスピスナースの養成に取り組んできました。

この教育プログラムを開始した当初、看護師の多くは緩和ケアに対する病院側の理解が得られなかったと話していました。中には、勤め先の病院を退職してまでこのプログラムに参加して資格を得た志の高い人もいて、感銘を受けたことを覚えています。

その後、ホスピスナースに対する理解が得られるようになり、ある県ではホスピスナースがいないのは恥だとの市民運動が起こり、市民の募金により私たちのプログラムに参加した看護師もいたほどでした。

今では緩和ケアに対する理解が深まり、ホスピスナースはコミュニケーションや調整能力に長け、他の病棟でも活躍できる存在として高い評価を得ています。

私たちのプログラムに参加した看護師はすでに2000人を超えています。育成するだけではなく、さらに互いの絆を強くしようと、悩みや近況を相談、報告し合える仲間づくりを目指したネットワークも構築しています。

しかし、終末医療に対する医師の認識は看護師に比べ大きく不足しているのが現状です。技術偏重の医学の中で、終末医療は技術より全人的対応が必要となってきます。シェークスピアの戯曲ではありませんが、「終わりよければ全てよし」。人生の終末を心豊かに過ごすには医師の協力と理解が絶対的に必要です。しかし、現状は理想よりほど遠いものがあります。

私たちは、終末医療の重要性を認識する医師を育てたいと思い、素人的な発想ですが、医学生向けのプログラムを立ち上げてはと考えました。

日本財団は愚直なところがあり、一度始めた仕事は20〜30年継続します。軽い気持ちで取り組むことは全くありませんので、今日お集りの先生方のご指導を賜わりながら、学生レベルから終末医療に対する認識を深めていこうと考えています。

先生方にはご指導賜りますよう、お願いいたします。

*********************


緩和ケア教育プログラム委員会
委員名簿
(50音順)

氏名  所属
紀伊國 献三 笹川医学医療研究財団 専務理事
木澤 義之 筑波大学大学院 人間総合科学研究科 講師
志真 泰夫 日本緩和医療学会 副理事長
高久 史麿 自治医科大学 学長
高宮 有介 昭和大学 医学部 医学教育推進室 専任講師
丹波 嘉一郎 自治医科大学付属病院 緩和ケア部 部長
三浦 一郎 日本財団 常務理事

(顧問)
日野原 重明 聖路加国際病院 理事長

(オブザーバー)
新木 一弘 文部科学省 高等教育局医学教育課長
鈴木 健彦 厚生労働省 健康局総務課がん対策推進室長
9月25日(金) [2009年09月25日(Fri)]
9月25日(金)

 10:00 日本財団・執行理事会

 11:00 国際協力グループ・審査説明

 12:00 情報グループ職員と昼食

 14:00 小宮山洋子衆議院議員

 15:00 
  〜  産敬新聞・久保紘之編集特別委員との対談
 17:00

 17:00 東京財団・加藤秀樹会長

 18:00 日本モーターボート競走会・皆川浩二会長
「超インフレのジンバブエ」 [2009年09月25日(Fri)]

100兆ドル紙幣。ゼロはいくつあるの?


「超インフレのジンバブエ」


笹川アフリカ協会の宮本正顕がアジスアベバ(エチオピア)から帰国。生まれて初めて内緒で現金を頂いた。金額、実に100兆ドル(100,000,000,000,000)のジンバブエ紙幣。本来ならワイロとして司直の糾弾を受けるところである。

写真をご覧いただきたい。ゼロが14桁もある。

どれくらいとんでもない金額か。
ジンバブエドル1万ドル紙幣を100枚、100万ドル1束を1センチとし100兆ドルを積み上げると1000キロメートルにもなる。富士山の高さの何倍だろうか?

ジンバブエは、2008年7月には年率約2億3000万%のインフレとなった。まさに天文学的数字である。世界の歴史に残るハイパーインフレーションで、経済は完全に崩壊した。

この100兆ドル紙幣は、今年の1月16日に発行された。2月2日、100兆ドルを100ドルとするデノミが実施され、6月30日には、デノミ前の紙幣は無効となった。頂戴した100兆ドル紙幣はただの紙切れとなってしまったわけである。紙切れになる直前は、多分、パン1斤が買える程度であったと、宮本正顕は推測する。

現在、米ドルや南アフリカの通貨・ランドが使用されているそうだが、行く末は不明である。

23年前、アフリカの貧困国・タンザニア、エチオピア、スーダン、ガーナで、笹川アフリカ協会を通じ、貧困農民に対する農業指導を開始した頃のジンバブエは、農業、鉱業、工業のバランスのとれた経済国であった。特に農業はアフリカの優等生で、農業の輸出で稼ぐ農業国として、ヨーロッパから「アフリカの穀物庫」と呼ばれた時期でもあった。

勿論、それを支えていたのは、白人農場主に低賃金、過酷な労働で雇用されていた黒人たちであった。しかし、ムカベ大統領が行った白人農家に対する強制土地収用政策は白人農家を消滅させた。ノウハウのない黒人にはいかんともしがたく、農業の崩壊は農作物の収量激減と耕地の荒廃を招き、外貨不足は決定的。さらに工業用の部品調達の輸入にも打撃を与え、経済システムの崩壊は経済を破綻へと導いた。

私がサブサハラに入った当時、最も安定した国の一つであったジンバブエであるが、ムガベ大統領の独裁政権により、劣悪な経済事情に加え、秘密警察による監視、反体制派への暴力、言論統制などにより、今や「世界最悪の独裁国家」と呼ばれるまでになってしまった。
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