楊尚昆・元中国国家主席(右)と筆者(1990年6月)
「楊尚昆・元中国国家主席とその令息」
先般、楊尚昆・元中国国家主席の令息・楊紹明(中国宋慶齢基金会副主席)と令嬢・楊李が訪ねてくださり、久し振りに旧交を温めた。
楊紹明は、写真家として世界華人撮影学会の会長も務め、ケ小平写真集をはじめ、多くの中国要人を撮影してきた。
楊理は、中国国際投資股司(CITIC)の香港の会社を預るビジネス・ウーマンである。
このCITICは「赤い資本家」として有名になった栄毅仁(後に国家副主席)が設立したものである。栄は大地主であったが、共産党の支配下、全ての財産を国家に献納し中国に留まった。
「文化大革命中も中国で唯一人、キャデラックに乗っていた」と、後日、笹川平和財団・田淵節也会長(当時)より聞いたことがある。田淵会長は野村證券時代、栄の経営するCITICがはじめて社債を発行する際に尽力されたことで親交を深めておられた。
二代目社長の王軍は、王震・元国家副主席の三人の虎といわれた三人息子の長男で、CITICを世界的大企業に成長させた。大のゴルフ好きで、中国のゴルフの発展の最大の功労者でもある。
王軍とケ小平の愛娘・蕭榕の夫である賀平と、赤坂のシャブシャブ屋で夕食を共にしたことがある。各々12皿(1皿200グラム)を平らげ、大食ぶりと勘定書きには大いに驚かされた。係りの女性は「今まで、お相撲さんが9皿食べたのが最高です」と、しげしげと二人の中国人の顔を見比べていた。
話が逸れてしまったが、楊尚昆に戻す。
人民大会堂ではじめて楊尚昆と会談した折、今は亡き衛藤審吉・元東大名誉教授と、日中、台湾、北朝鮮問題へと議論を展開したが、予定外の質問にもかかわらず誠意を持って真剣に答えてくれた。人民大会堂での会見は、通常、双方が10〜15分くらい持論を話す形式的会見が普通であるが、私たちの型破りな発言に対応された唯一の中国政治家である。
会見後、中南海で江沢民と会見したが、薄っぺらい印象でがっかりしたことでは、衛藤先生と意見が一致した。
この楊尚昆より、1989年6月、天安門事件に端を発した西側(日本を含む)の中国への経済制裁を解除してほしいとの依頼を受けた。一民間人の私にとって不可能に近い難題だが、全力を尽くすことを約束して別れた。
帰国後、赤坂のTBRビルの竹下登事務所を訪ね、中国経済の困難な状況と、楊尚昆の依頼を受けた件を説明した。じっと聞いていた竹下登は、
「中国と日本の関係は特別やなぁ。アメリカやイギリス、フランスにはわからんやろ。何とかせにゃいかんわ。陽平チャンの話、わかった」
と、いつもは言語明瞭、意味不明が得意の竹下がはっきり言った。
それからの行動は早かった。安倍晋太郎・外務大臣(当時)がワシントンに飛び、ヒューストンで開催されるG7(当時はG8ではない)で「日本は中国への経済制裁を解除したい」との根回しをされた。
経過の詳細は知らないが、海部首相はG7で中国への経済制裁解除を提案。G7の解除決定を受け1990年11月、対中国第3次円借款8,100億円の再開を決定。これが今日の中国の改革・開放経済の引き金になったと確信している。
竹下・安倍両氏の努力なくして、今日の中国の急成長はなかったというと言いすぎかもしれないが、大きなきっかけになったのは事実である。
その後、楊尚昆は権力闘争で敗北。北京の自宅で静かな余生を送り、1998年 9月14日、逝去された。自宅に弔問に訪れると楊理が案内してくれた。楊尚昆の机には、読書の途中のように「孫子の兵法」が開かれていた。
父の権力からの転落で楊紹明も楊理も長い時間つらい生活を送ったに違いないが、ようやく普通の生活に戻ったのか、二人の屈託ない笑顔に救われた思いがした夕食会であった。
左から竹下登元首相、楊紹明副主席と筆者(1991年11月)