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写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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3月31日(火) [2009年03月31日(Tue)]
3月31日(火)

 08:00
  〜  「語り場」日本財団職員との対話
 10:00

 10:20 日本財団・執行理事会

 12:00 デビット・サーブ氏

 13:00 スカンジナビア・ニッポン・ササカワ財団 審査会

 14:00 グレートブリテン・ササカワ財団 審査会

 16:00
  〜  「語り場」日本財団職員との対話
 18:00

 18:30 関連団体代表者会合
3月30日(月) [2009年03月30日(Mon)]

海外日系人留学生と記念撮影


3月30日(月)

 午前中 書類整理、決裁、打ち合わせ。

 12:00 日本科学協会・梶原義明常務理事 送別会 於:ボンファム

 14:00 B&G財団・広渡英治専務理事

 14:30 国土交通省海事局・新垣慶太企画官

 15:00
  〜  海外日系人留学生報告会・挨拶
 16:00

 16:30 笹川スポーツ財団・渡邉一利常務理事

 17:00 日本財団退職者・送別会

 18:10 海外日系人留学生・歓迎会
刑務所での鬼ごっこ致死事件 [2009年03月30日(Mon)]

今回訪問した雲南省第二刑務所(2009年3月)


「雲南省・昆明訪問」その1
〜刑務所での鬼ごっこ致死事件〜


先日訪問した雲南省の司法当局は、「鬼ごっこ死亡事件」で大揺れである。その最中に「無期懲役刑の受刑者に面会させて欲しい」と要望したのだから、先方はその対応に苦慮されたに相違ない。

ことは2月8日、森林の違法伐採により刑務所に収監されていた李喬明(リー・チャオミン)が12日死亡した。警察は「李さんは運動時間中、他の囚人達と鬼ごっこをしていたところ転び、壁と門の角に頭をぶつけ死亡した」と発表。しかし「警察の説明には無理がある」とネット掲示板で話題となった。

この件は北京でも話題となり、曹建明・最高検察長の指示に基づき、25日午後、専門の調査チームが雲南省に到着した。27日付で発表された調査結果では、「牢名主」による仕業で、「鬼ごっこ」に名を借りたいじめによる傷害致死に修正された。

「牢名主」が中心となり、色々な口実をつけて李さんを殴打。最後は李さんの目を布切れで隠し「鬼ごっこ」の名で再びいじめを開始。囚人の一撃で壁に頭部を強打して気絶して病院に運ばれたが12日に死亡したのが真相のようである。

調べによると、刑務所では牢名主の指揮の下で新米囚人にいじめを加えることは恒常的に行われていたらしい。監視カメラも未作動で、この結果、管理責任者である晋寧県公安局長、同公安局刑務課副課長が厳重懲戒、公安局副局長と刑務所所長が免職。事件当日の監視当番の警察官も辞職させられた。

調査委員会には、ネットユーザーおよびび社会各分野からの参加があり、今回の事件はネットユーザーと大衆を巻き込んで司法活動を監視する最初の試みとなった。

中国におけるネットユーザーの影響力は大きく、中国政府当局もユーザーの言動には大きな関心を持ち、毎日詳細なウオッチをしている。

この事件直後の雲南省の刑務所訪問である。
詳しくは次回のブログで。
親子のカタチ [2009年03月28日(Sat)]

息子・順平と筆者(2007年7月:モンゴル)


親子のカタチ

週刊朝日
2009年3月27日号


故・笹川良一氏が創立した日本財団を引き継いだ父は、発展途上国へ頻繁に足を運び、病や貧困に苦しむ人々を救ってきた。

エリート街道まっしぐらで日の当たる場所ばかり歩いてきた息子は、徹底した現場主義の父に鼻っ柱をへし折られてメーカーに転職。

それから約半年経ち、現場で生きる喜びを感じ始めている。

―世界109カ国に300回以上訪れ、発展途上国での支援活動を続けてきた父。しかし家族に仕事の話をすることはなく、常に笑いの絶えない家庭を築いてきた。

父 男の子4人、しつけはしなかったけど怒ったことはないね。僕が外から帰ったら全員玄関で迎えさせたぐらいで、明るい我が家で親子が何でも話せる関係というのが、今も変わらない基本だから。

子 ピンポーンと鳴ると「帰ってきたわよ!」と母親が号令をかけて、みんな玄関に集合して直立不動で待っていた。

父 直立不動ってことはないだろう?

子 いや、やっぱりボスが帰ってくるとみんな嬉しいわけですよ。兄弟4人性格が違うけど、誰かを贔屓するってこともないから、それもすごいなと今でも思う。

父 それは意識してたね。子どもは敏感だから。海外に行っても、土産なんて買ってきたことない。また次を期待されるし、取り合いになるから。

子 ただ、うちはテレビがなかったから、テレビがある家を羨ましく思ったこともあった。でも「買って」と言える雰囲気じゃなかったから。

父 会話の多い家庭にしたかったから、テレビはないほうがよかった。

子 新聞は読まされたね。強制はされなかったけど、兄弟全員、父親を尊敬しているから従っていた。おそらくその方向で間違っていないと、子どもたちに思わせるようなオーラを発していたから。

父 ありがとうございます。えらい持ち上げるじゃないですか(笑)。

子 いつも冗談ばっかり言ってるけど、何か使命感を抱えて命がけで生きてるんだろうなぁと思わせるオーラですよ。

父 だけど、家で仕事の話はしたことないよな。とにかく明るい家庭が僕の目標だったから。最近は行き過ぎて、「オヤジギャグだ」と不評を買っていますけど(笑)。

―息子が思春期を迎えると、父は男同士の話もストレートにぶつけて、さらに親子の距離が縮まっていった。

父 口うるさい親にはなりたくなかった。親が口うるさいと子どもは逆の方向に行って反抗するんじゃないかと思ってね。子どもを怒るというのも親の感情が出すぎて、目線が合ってないような気がする。

子 そういう意味で言うと、父親と男として同じ目線で会話ができるようになったのは大学時代。今日は何でも話していいっていうので・・・・・(笑)。

父 変なこと言うなよ。

子 学生時代に彼女ができると、兄弟それぞれが家に連れてきて、誰が誰だかわかんないくらいだった。で、あるとき、父親に彼女を紹介したら、「お前、親孝行って知ってるか? お前ばっかり楽しい思いしないで、俺にも紹介しろ」と。冗談でもこっちは「面白い」と思ったから、レストランで父親と彼女の友達と一緒に食事したり。でもお気に召さなかったようで、母親ともそれが笑い話なっていた。

父 覚えてないよ、そんなこと(笑)。

子 だけど、そうやって親子の立場を超えてなじんでいったことで、ある程度、同じ目線で会話できるようになりましたね。ただ友達とは違うので、ある一線を踏み越えることはできない。そこは言葉では言い表せないんだけど、口で怒られなくても、ちょっとした目つきや雰囲気で感じていた。これは言っちゃいけないことなんだな、とか。普段は楽しい父親だけに、そういうことには敏感だった。

父 存在感があったっていうことじゃない?

子 一言でいうとそうですね。

父 僕は、ダメダメ教育はダメだと結婚前から思っていたから。子どもは多少おだてるところはおだてたほうが機能する。教育的なことは、知識として頭で理解させるんじゃなく、生活の中の態度から自分で身につけていったほうがいい。頭よりも行動が先というのが僕のモットーだから。

子 そういう父親の大局的な視点と、母親の小さい視点のバランスが良かったんだと思う。母親からは細かいことを言い聞かされて、その先にどういう生き方があるのか、本質的な部分を見せてくれたのが父親なので。

父 なんかえらい立派な家庭みたいな話で、面白くないじゃない(笑)。

―息子は実際、父の影響で進路を決めた。慶応大学で開発経済学を学び、三菱商事に入社して主に発展途上国で事業再生プロジェクトを担当。しかし6年後に退社して、ハーバード大行政大学院を修了し、マッキンゼーに転職した後、父にお灸を据えられる。

子 二十歳前後で、アフリカや南米に連れていってもらって、父親がいつも「現場には問題と答えが必ずある」と言っていた意味がわかった。学校で教えられたことと現場で起きていることは全然違う。本に書いてある「貧しくて恵まれない人」という価値観も、例えば洋服も着てないアフリカの子どもたちの目はすごく生き生きしていて、それって貧しくないじゃない、と。

父 だけど、貧困と病で多くの人々が亡くなっているのは事実だからね。僕は、そういう地域の問題点を線でつないで、面にして、国を動かして政策につなげるところまでやってきたから。そこまでしないと自己満足で終わる。良いことをしているという自己満足は堕落の原因で、いちばん怖い。思いだけで物事は動かないから情熱と忍耐が必要で、僕なんか我慢することが人生だと思っている(笑)。

子 日本にもまだまだやれることはあるっていうのは、父親の姿を通して学びました。とにかく問題を解決に導くための発想力や行動力はすごいので、そのためには僕もまず現場に行かなきゃダメだと。

父 そんな格好いい話じゃなかったじゃない(笑)。マッキンゼーで働いてキャリアアップして、1億円近い金額でオファーを受けたとか言って、「次はどこの会社いこうかな」って。そんな相談にきたから、「キミの人生、カネなのか? 30代前半でそんな大金もらって何するんだ?」と。「キミは日の当たるところばかり歩いてきたみたいだけど、世の中には明るいところもあれば暗いところもある。人生あんまり急がずゆっくりいったほうがいいぞ」と、初めて親父らしい忠告をしたけど。

子 「お前は何もわかってない」と、ズキーンとくることを言われました。あの頃は、いわゆる一流と言われる世界で、自分も一流だと思い込んでいる人の集団にいたから、勘違いしていることも多かった。次はどこにいくんだ、いくらもらえるんだと、見栄の張り合いみたいになって、そっちのほうが幸せになれるような気もしていた。

父 どうなんだ、今は。あのアドバイスはよかったのか?

子 本当に救われた思いですね。今、従業員300人ほどの建築部材のメーカーで働いていて、純粋に物作りをして営業マンと一緒に売り歩くことの幸せを感じています。

父 工場の人たちのほうが違和感あるんじゃないの? 異星人がきたみないな。

子 「なんだこの人は?」と思われているかもしれないけど、みんなと同じ方向に向かっていければいいと思っているので。でも今まででいちばん面白い仕事ですよ。知恵を絞り合って一致団結できる喜びがある。

父 やっぱり、人の痛みや喜びを間近で感じられる感動のある生活のほうがいいじゃない。前の会社の話を聞いていると、キャリアアップを通じて大幅な給料の増加を狙う人が多かった。そんなチャラチャラした浮かれた世界っていうのは、長続きしませんよ。きちっと地に足をつけないと。

子 まだまだ未熟ですね。

父 今の株主主体の強欲資本主義はもう崩壊しているから、これからはその逆をいく新しい会社の概念も打ち立ててほしいんだよ。つまり、株主は社会貢献するために株を買って、配当は一切受け取らず、税金もきちんと納めて残りの利益を社会に還元する。そんな会社まだないからモデルケースを作って、何十憶でも儲けて日本財団に寄付してちょうだいよ(笑)。うちはお金を使うプロ集団だから。

子 (苦笑)。まだそこまで発想が及ばないから、一日一日のビジネスを頑張らないと。

父 それは当然。しかし、今言ったような大きい夢を持ってもらいたいね。金儲けが人生の目的と思っている人が多いが、そうじゃないよ。自分の人生の夢を実現する手段としてお金はあるんだから、手段と目的を間違えちゃいけないね。日本は相対的にみても、世界でいちばん素晴らしい国だから、若い人にはもっと大きく強く生きてほしい。右の目は顕微鏡。左の目は望遠鏡。その二つの視点をもって。どんな難しい問題も解決しないことはないんだから。

子 そういう前向きな考え方には、プライベートでも救われました。僕がバツイチになったとき、幸せな家庭を築いてくれた両親を悲しませるようなことして申し訳ないと思って、事後報告したら、「バカ言うなお前。マルイチじゃないか。俺なんか一回しか結婚してないのに、お前もう一回結婚できるんだから」と。

父 経験を一つ積んだんだから、×じゃなくて○だよ(笑)。

対談を終えて

一度きりの人生、なによりも自分自身が納得できる後悔しない生き方をしてください。私は世界中至るところに青山あり。どこで死んでも結構です。病院で死のうとは思っておりません(笹川陽平)

こうやって改めて父と話して、自分はまだまだ小さいなと痛感しました。父に対して、身体に気をつけてとは言いません。世界の人たちに向けてとことん、より高いレベルで活動を続けてください(笹川順平)

取材・編集・文/樺山美夏 
3月27日(金) [2009年03月27日(Fri)]
3月27日(金)

 11:00 海上保安庁・岩崎貞二長官

 12:00 東京財団・松信章子常務理事

 14:00 日本音楽財団・塩見和子理事長

 16:00 日本財団・鳥井啓一参与

 16:30 笹川平和財団・河野善彦顧問

 
 
「日本・中国 高速鉄道交流史」番外編 その2 [2009年03月27日(Fri)]

江沢民国家主席(左)と筆者


「日本・中国 高速鉄道交流史」番外編 その2


翌日、唐家旋外交部長(外務大臣)との朝食会を、急遽、笹川日中友好基金の于展さんがセットしてくれ、運輸省の黒野事務次官ほか、少人数での食事となった。

黒野氏は知る人ぞ知る肝の太い実力派事務次官であり、訪中団の参加者も彼の指示で決めた。後に「内閣官房副長官に」という話もあった。

唐外務部長は、「私が朱鎔基首相の初外遊に同行してフランスを訪問した際、フランスの大統領は会談の最初に、TGV新幹線と原子力発電所の売り込みから入りました。日本も首相がトップ・セールスをしないと勝負になりません」と、愛情ある辛口の助言をしてくれた。


筆者と朱鎔基首相(右)



帰国後、小渕首相に「江沢民国家主席来日の折には、中国新幹線の話をしてほしい」とのメモを渡した。

江沢民主席の来日時、首相は「中国高速鉄道計画に対する日本の協力」について親書を手渡した。戦後、日本の首相がトップ・セールスをした唯一のケースで、今は亡き小渕首相の誠実な対応に感謝の誠を捧げたい。親書の詳細は、黒野氏が関係省庁の了解を取り付け、首相に提出されたに相違いないと思う。

ただ一つ残念だったのは、江沢民国家主席と小渕首相を山梨県のリニア実験線に乗るツーショット計画。「世界配信の映像ニュースになる」と黒野氏に陳情し、大いに努力していただいたが、日程が固まっており実現しなかった。

話が良い方に進み出すと、色々の方々がおっとり刀で、新幹線売り込みに自薦・他薦で訪中された。

国土交通大臣は当然としても、経団連のミッションや政治家の新幹線売り込みのための訪中には、発案者の一人として心中穏やかではなかった。中国人民の中にある反日の動きを知っていたからである。

案の定、ネット社会を中心に日本新幹線排斥運動が昂まり、中国政府も口を固く閉ざすようになり、替わって「中国製」なる新幹線そっくりの列車が走ることとなった。

今でも大多数の中国人は中国製の列車であると信じて疑っていない。中国政府も日本の協力を大声では言えない状況にあるし、日本のメーカーも商売第一主義で、静かに儲け仕事に精を出している。

それはそれで結構である。既に約3000億円を受注しており、中国政府は2009〜2020年までに75兆円の超巨額投資で5.7万キロの鉄道建設を行う予定だ。今後3年間だけでも52兆円を投入する計画で、車輌への投資だけでも7.5兆円に上る。

2020年に完成すると、中国の鉄道の営業キロは12万キロ、日本の約4倍となる。大都市部の電車、地下鉄などの大量輸送鉄道を加えると魅力ある大市場である。日本企業の活躍を期待したい。

月刊文藝春秋の2003年4月号に、ジャーナリト・青木直人氏による『特集・中国最先端「北京−上海新幹線と笹川人脈」』が掲載された。

全体に良心的な記事であるが、なぜ笹川は「何のメリットもない北京⇔上海新幹線にポンと7億5千万を出すのか」との疑問も指摘された。そこには利権の可能性を探ろうという意図があったのかも知れない。しかし、私は鉄道関係企業からは、今日まで、一度として夕食の招待もコーヒー一杯もご馳走になったことはなく、お礼の言葉を受けたこともない。

それで良いと思っている。生前、竹下登氏は喜んでくれたし、平岩外四氏からは丁重なお褒めの書簡をあずかった。

私は長年、民が公のために働く組織として日本財団を運営してきた。40年にわたるマラッカ・シンガポール海峡の航行安全施設の設置・保全、北朝鮮在住の日本人妻帰還の実現、カーター元大統領の北朝鮮訪問による危機回避、中国人民解放軍と現役自衛隊員の交流等々、全ては公のためへの下働きである。

ところで青木氏が指摘した7億5千万円は、1997年からの6年間、中国における新幹線技術全般に関する計9回の大規模セミナー開催。車輌計画、輸送計画、信号システム計画など、高速鉄道に関する21の技術項目並びにフィージビリティーに関して中国鉄道部と実施し、中国人鉄道技術者522名の来日指導及び432名の中国への専門家派遣費用に充てられた。この結果、日本の新幹線の規格が中国高速鉄道の規格として採用されることとなった。

ただ日本の誇る世界一の鉄道技術を「2000年の歴史を鑑みとし、未来に向かって進む」日中友好のシンボルとし、中国人民の生活向上に寄与したいという夢のイベントは、残念ながら実現しなかった。

最後に好きな一句。
「菊作り 菊見るときは影の人」−吉川英治


*「歴史を鑑みとし、未来に向かって進む」は、江沢民主席が日・中関係について提唱した言葉で、中国政府高官の日本に対する常套句であった。しかし、これでは長い日・中間の歴史の中の近・現代史の一部だけを取り上げ、日本人が中国に災難を掛けたことを強調し、「反省が足りない」とのお叱りを受けているような印象になる。

2000年の一語を加え「2000年の歴史を鑑みとし、未来に向かって進む」とすれば、世界史的に見て2000年もの長い間、ほぼ穏やかな二国間関係が続いたのは日・中関係以外に存在しないことになる。

私が常に日・中両国の為政者にお願いしてきた言葉である。
3月26日(木) [2009年03月26日(Thu)]
3月26日(木)

 10:30 外務省・志野光子人権人道課長

 11:30 有朋社・斉木勉前社長

 14:20 衆議院・前原誠司代議士

 14:40 安倍晋三・元首相

 17:30 森喜朗・元首相
3月25日(水) [2009年03月25日(Wed)]

筆者と王院長(右)


3月25日(水)

 10:30 高橋邦夫・スリランカ大使

 11:00 ブリティッシュ・カウンシル ハンソン・ジェームス代表

 16:00
  〜  北京大学国際関係学院・王緝思院長とのパネルディスカッション
 18:30

 19:00 明治大学・納谷広美学長主催夕食会
「日本・中国 高速鉄道交流史」番外編 その1 [2009年03月25日(Wed)]

中国鉄道部との協定書署名式出席者(1998年4月)


「日本・中国 高速鉄道交流史」番外編 その1


最近しばしば、中国で走る新幹線そっくりの高速鉄道の報道写真を見るにつけ、決して自慢話ではなく、「自分史」の一部として記録に留めておきたいと考え、この稿を書きはじめた。したがって、読者の皆さんの目を汚すことにもなりかねないので、無視していただいて結構である。

私はかねてより、日・中間の宥和を一つの重要なテーマとして活動してきた。

中国へのODA(海外協力援助)の在り方は常に論争の種で、中国側は日本からのODAを「援助」といわず「協力事業」と称し、感謝の言葉も人民に知らせる努力も怠ってきた。

北京空港のように日本側にいわれてから渋々、小さな銘板をVIPの玄関脇に設置した例もあり、飛行場ですら日本のODAで建設されたことを知る人は限られた人だけであった。ようやく最近になってODAに関する本も出版されたが、今だ十分とはいえない。

私は、中国人すべてに理解できる日本の援助は何かと考えた時、年に2〜3億人が利用する北京⇔上海新幹線計画への協力を日中両国の友好のシンボル事業にしたいと考えるようになった。この区間は平地でトンネルを作る必要もなく、土地は短時間に安価で入手可能。新幹線建設は日本に比べるべくもなく短期間に安価で完成できる。

確か1994年頃だったと思う。中国鉄道部は北京⇔上海間約1300キロに高速鉄道を建設し、所要時間を11時間半から一気に4時間に短縮することを検討し始めた。

ドイツはリニアモーターカー、フランスはTGV、日本は新幹線。ドイツのシュレダー首相、フランスのシラク大統領によるトップ・セールスに比べ、日本政府は、田中角栄・ニクソン会談に端を発したロッキード事件のトラウマから政・官・民・一体のセールスに腰が引け、トップ・セールスを頑なに拒否し続けてきた。

世界最大の山峡ダム建設でも、日本はほとんど受注ゼロの大惨敗であった。

日本の新幹線中国導入を運輸省(当時)に働きかけ、それまで民間会社だけでちまちま活動していた受注活動を強化すべく日本財団が支援することを表明し、1997年7月25日、「日中鉄道友好推進協議会」が設立された。

中国に強力にアピールするため、政・官・産・民の強力な布陣が必要と考え、竹下登元首相と中国に関心の深い平岩外四元経団連会長を訪ね協力を要請、快諾を得て、名誉会長に竹下登氏、最高顧問に平岩外四氏にご就任いただいた。

その頃、中国を訪問するたびに鉄道部長(鉄道大臣)に日本の新幹線技術は世界一であり、人身事故は皆無であることをアピール。

「中国の鉄道技術は機関車が客車を牽引する方式で欧州と共通しており、フランスのTGVはこの方式であるが、日本の新幹線は電車方式といって全ての車両にモーターがついているので、北京⇔上海間のようにいくつもの駅がある場合、停車・発車が簡単な日本の電車方式を採用すべし。

技術者の指導、メンテナンス、部品交換も近い日本が便利。中国が車社会を目指して高速道路の建設を重点政策にしているのは誤り。将来の都市環境を考えると、大都市にも大量輸送機関の鉄道や地下鉄を充実すべし」と、まるでセールスマンのように中国の要路の人々に説明して廻った。

1998年4月12日、別紙の通りの代表団が竹下登、平岩外四両氏とともに、中南海で朱鎔基首相と会談した。

余談になるが、日本を出発する2、3日前、中国駐在日本大使より竹下・平岩両氏に「最近、朱鎔基首相は日本人とは会談しないと表明しているし、事実面談していないので、訪中は見合わせたらどうでしょう」との電話が入ったという。

竹下氏からは
「陽平チャンの熱情に協力するのだから、逢えなくとも行くよ」と答えておいたと知らされた。

平岩氏からは
「すばらしい広がりのある笹川さんの考えに賛成しているので行きます。心配しないでください」と、わざわざ電話をいただいた。

若輩の私への身に余る配慮に、涙がこぼれる思いがしたのを思い出す。

私は朱鎔基首相との会談実現に自信を持っていたが、日本国大使からの両氏への電話であり、一抹の不安はあった。

しかし、中南海の会見場に入って不安は解消した。両氏の訪中の中止を連絡してきた大使がにこやかな顔で先着していたからである。

人民大会堂とは異なり中南海の会見場は狭く、一列7〜8人の椅子が5〜6列用意されていた。竹下、平岩両氏は当然としても、日本大使閣下も当然のごとく両氏の隣に坐り、一列目はテレビや写真の関係があるのか少ない席に多くの人が坐ろうとしていた。私は自分がセッティングした会談とはいえ最年少だったので、最後列の隅に座った。

朱鎔基は会談冒頭、「笹川先生はおいでですか?」と在席者を見渡した。仕方なく立って遠くから黙礼をした。会談中3回も「笹川先生」と言われ、恐縮する内に会談は終わった。

竹下、平岩両氏は発言の中で一度も新幹線には触れられなかった。代表団の名簿と事前ブリーフィングで訪中の主旨は当然朱鎔基も理解されていたわけで、さすがお二人の対応には貫禄があった。


*訪中団名簿(肩書きは当時のもの)
1. 竹下  登  元内閣総理大臣
2. 平岩 外四  (社)経済団体連合会 名誉会長
3. 黒野 匡彦  運輸省 事務次官
4. 永光 洋一  帝都高速度交通営団前総裁、日中鉄道友好推進協議会会長
5. 岡田  宏  (社)海外鉄道技術協力協会 理事長
6. 井手 正敬  西日本旅客鉄道(株)代表取締役会長
7. 葛西 敬之  東海旅客鉄道(株)代表取締役社長
8. 大庭  浩  川崎重工業(株)代表取締役会長
9. 槙原  稔  三菱商事(株)代表取締役会長
10. 塩田 澄夫  日本鉄道建設公団 総裁
11. 副島 廣海  (財)鉄道総合技術研究所 理事長
12. 吉田 耕三  東日本旅客鉄道(株)代表取締役副社長
13. 石井 幸孝  九州旅客鉄道(株)代表取締役会長
14. 棚橋  泰  日本貨物鉄道(株)取締役相談役
15. 寺嶋  潔  帝都高速度交通営団 総裁
16. 大塚 信一郎 信号工業協会 会長
17. 笹川 陽平  日本財団 理事長
その他62名
3月24日(火) [2009年03月24日(Tue)]


3月24日(火)

 08:00
  〜  「語り場」 日本財団職員との対話
 10:00

 10:00 日本財団・執行理事会

 11:30 日中防衛交流 朱鋒北京大学教授ほか

 13:30
  〜  ソマリア沖海賊緊急報告会・挨拶
 16:30

 16:30 フィリピン残留日本人・面談

 17:00 フィリピン残留日本人の日本国籍取得の裁判敗訴の記者会見

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