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ニジェール人の誕生日は1月1日が多い [2008年08月29日(Fri)]


17人の子を持つチニ・マイガさん


「アフリカ・ニジェール訪問」その1
〜ニジェール人の誕生日は1月1日が多い〜


この8月、ハンセン病制圧活動でアフリカのニジェールに行ってきた。
アフリカで活動を開始して23年、23ヶ国目の訪問である。

ニジェールは国土の三分の一が砂漠地帯で、世界で最も暑い地域であり、アフリカの中でも最貧国の一つである。

首都・ニアメはニジェール川が流れ、緑豊かな地域だ。人口1130万人のこの小国は、アルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ペナン、ナイジェリア、チャド、リビアと、7ヶ国の国境と接している。

ニジェール(Niger)もナイジェリア(Nigeria)も黒を意味し、もとはナイジェリアの一部であった。アメリカでの黒人の侮辱語であるニガー(Nigger)は、多分、アメリカに売られたこのあたりの黒人奴隷から来た言葉かも知れない。

ハンセン病の回復者を含め、多くのニジェール人は自分の生年月日を知らない。しかし、誕生日よりも生まれた年が重要で、生まれた年を憶えている人は結構いる。

ニジェールで海外に出られる人は政治家、役人など、ごく限られた人であるが、生まれた年は覚えているが月日は覚えていない人が多く、生まれた月日を忘れないように、パスポートの誕生日はほとんどが1月1日生まれとしているらしい。

滞在中、大統領府から差し向けられた車の運転手、チニ・マイガ(54歳)さん(実際は年齢不詳)は、月給18000円の公務員で、3人の妻と17人の子供に囲まれた生活である。ちなみに三人の妻の年齢は知らない。

本妻とその子供が住む住宅の隣接地に第二夫人とその子供、第三夫人とその子供が同居しており、チニ・マイガさんは三人の妻のところで2日間づつ、順番に過ごすらしい。

祝い事や病人が出たときは本妻の家に集まり、面倒を見ることになっているとのことだ。

アフリカはどこに行っても人口爆発で、子供達がやたらに多いが、ニジェールも例外ではない理由の一端を理解した。

私の知人で「彼女?が還暦になるなど考えてもいなかった」と、妻以外の女性を持つ苦悩を話してくれた人がいる。若い時はいいかも知れないが、前期高齢者に近い私にとって、想定外の問題である。

「共産主義とゴルフ」 [2008年08月27日(Wed)]

「共産主義とゴルフ」


中国では、経済急成長の中でゴルフも例外ではない。各地にゴルフ場が雨後の竹の子のように出現し、エリートの恰好の遊び場になっている。大学においても例外ではなく、50以上の大学に『ゴルフ科』が開設されている。「ゴルフの授業が『貴族的スポーツ』として世に知れ渡れば、大学で最も人気のある体育の授業になるだろう」と『人民日報』の李雪林・記者は報じている。

今から15年ほど前、当時、中国最大の企業であった国際投資信託会社(CTIC)の王軍元社長は、ゴルフ好きで、中国ゴルフ協会の会長でもあり、二、三度ご一緒にプレーしたことがある。

「笹川さん!! 中国でのゴルフ普及のために、若手プレーヤーを2〜3人、日本で指導してくれませんか」
「よろしいですよ。ところで今どのくらいのスコアーですか」
「85〜95の間ですね」
「そうですか。なんとか80を切るところまできたら面倒みましょう」

その後、この話に進展はなかったが、中国人・梁文沖は昨年度アジア・ツアーの賞金王であり、日本の女子プロ・ゴルフ界に突如現われた張娜さんは、勝負強く3勝した。テレビで彼女の自信に満ちて颯爽としたプレーを見るたびに、昨日のことのように王軍さんとの会話を思い出す。

上海では11ヶ所の大学でゴルフを体育の授業として開設しているが、希望者が多くて学生の要求を満たすことが出来ず、学期開始前に履修資格のコンピューター抽選を行っているそうだ。

ともあれ、共産主義・中国において『貴族的スポーツ』として世に知れれば、「最も人気のある体育の授業」になるとは!!

最近、中国の華南地方で虎騒動があった。写真分析ではどうやら偽と断定されたようだが、人口13億人の中国。近い将来、ゴルフ界には間違いなく虎(タイガー)が出現するだろう。

共産主義と貴族的スポーツの矛盾を感じさせない中国の懐の深さ。
大衆化したゴルフに、今なお贅沢税をかける日本こそ、真に社会主義を実現した国であり、誇るべき?ことである。

8月27日(水) [2008年08月27日(Wed)]

8月27日(水)

 11:00 日本財団執行理事会

 15:00 菅 義偉代議士

 16:00 読売新聞社・渡邉恒雄会長

8月26日(火) [2008年08月26日(Tue)]

8月26日(火)

 終日、書類整理、決裁、打合せ。

 ハンセン病募金礼状書き
 10件 29,000円

「情報発信後進国・日本」 [2008年08月25日(Mon)]



「情報発信後進国・日本」
―日本を知る100冊の英文図書―


日本から海外への情報発信の少なさが大きな問題であることは以前にも指摘した。世界では―中国も韓国も―英語による海外テレビ放映が充実している。それに比べNHKの海外テレビ放映は全く体をなしていない。

ニューヨークのホテルなどペイ(有料)テレビであり、その上、ニュースの時間帯に料理番組や子供向け番組となっていることが多く、論外である。NHKの英語による海外テレビ放映のあり方については国会でも問題化され改善の検討がなされていると聞くが、一日も早く実現してもらいたいものである。

海外での日本の英語テレビは日本人だけが視聴するもではない。むしろ日本に関心のある外国人に情報を提供するのが主な目的であり、トップニュースが殺人事件から始まるような編集は世界の非常識である。是非、世界の有力テレビと争える内容にしてもらいたい。

外務省・谷内前事務次官は、田中眞紀子外務大臣、鈴木宗男代議士騒動に揺れ、世間の外務省たたきが激しい中で事務次官に就任され、三年余、外務省建て直しに大きな成果を上げた名事務次官として誉れ高い人である。駐米大使就任を断り、余生を、東大、慶應、早稲田で、次代を担う青年の教育に捧げておられる。

谷内さんも日本の情報発信の少なさを憂いておられる愛国者である。日本財団では、彼のアイディアで、日本を紹介する100冊の英文図書を選択して希望者に配布する事業を開始する。この100冊の図書の選考には別掲の先生方の多大なご協力を得て初めて可能になった。心よりお礼を申し上げたい。

この本にある100冊の紹介冊子を読むだけでも大いに参考になり、世界の希望者、特に大学研究所等には冊子から必要な本を選んでもらい、無料で提供することになっている。

このプロジェクトの勉強会で知ったことだが、社会科学系で日本人が英語で書いた図書は少なく、日本で一流といわれる学者の英文出版も意外に少ないこと。アメリカの一流大学で使用されている日本関係の教科書は、1980年以前の図書が参考になっており、誠にお寒い限りである。

これからは良書の翻訳にも力を入れ、日本紹介の図書を充実させていきたいと願っている。

* 100冊の英文図書の内訳は下記の通り
日本人が英語で書いた本  3冊(新戸部稲造、ライシャワー春、緒方貞子)
日本人と外国人の共著   6冊
日本人の本の翻訳     31冊
外国人が書いた本     60冊
 計       100冊

* 下記は出版された年代である。オリジナルな英文図書は初版出版年。和文図書は英訳本の初版出版年である。
1900年    1件
1960年〜1969年 8件
1970年〜1979年 8件
1980年〜1989年 14件
1990年〜1999年 29件
2000年〜2008年 40件

*選考委員
政策研究大学院大学副学長 白石 隆 様
東京大学法学部東京大学大学院法学政治学研究科 教授 北岡 伸一 様
株式会社 産業経済新聞社取締役、論説委員長 千野 境子 様
東京大学大学院総合文化研究科教授 山内 昌之 様
国際日本文化研究センター教授 猪木 武徳 様
渋沢栄一記念財団実業史研究情報センター長 小出 いずみ 様
ドナルド・リッチー 様
ティーシーエスジャパン株式会社代表取締役 リチャード・ダイク 様
英国大使館特命全権大使 グレアム・フライ 様
エアバス・ジャパン株式会社代表取締役社長兼CEO グレン・フクシマ 様

「ミャンマーのジャーナリストからの手紙」 [2008年08月22日(Fri)]



「ミャンマーのジャーナリストからの手紙」


ミャンマーのメディアは、軍事政権下で抑圧された状況下にある。その中でも不撓不屈の精神で戦っているジャーナリト達がいる。

以下は、私に届いたミャンマーのあるジャーナリストの手紙の一部である。

====================================================


拝啓
あなたの協力で、今では100人余りものジャーナリストを育成することができました。そしてミャンマー国内に変化をもたらすような、道徳、倫理、ものの考え方をコミュニティーに教え、根付かせるよう、努力を続けています。

これはあなたにとっても私にとっても誇るべき成果であります。

「第4階級」すなわち言論出版にかかわることは、挑戦的で、骨の折れる作業です。我々の成功を物差しで計る事は困難です。私はミャンマーのジャーナリストとして、常に孤独を感じております。常に背中から刺されるような思いを味わい、賞賛されることはめったにありません。

毎週、検閲と闘い、スタッフの権利を守り、崖っぷちに立ちながら働いてきました。私は時々、この状況を退却が育む成長と呼んでいます。最近では、本当に変化を起こしているのか、これが私の人生にとって本当に意味のあることなのかと自問することもしばしばです。

ある出来事が人々の人生を変えることがあります。この数週間で、私の頭の中の優先事項のトップの近くに位置していたのは、サイクロン・ナルギスでの被害でした。私はジャーナリストという特異な立場にいるために、この災害から多くのことを学びました。この災害に対して人々が見せた勇気や決断、思いやりなどが心に残ります。

5月3日のサイクロンが、昨年9月の反政府デモ「サフラン革命」以上にこの国を変えるほどの可能性を内包していたことは、貴殿も感じられたことと思います。

そのかかわりは益々強くなりつつあります。そしてこれは私に、潘基文・国連事務総長の来訪という出来事に数週間焦点をあてさせることとなりました。実に、国連のトップの訪問はミャンマーにとって40年ぶりのことでした。

潘基文・国連事務総長の訪問は軍事政権により拒絶されていました。信じられないことに、タン・シュエ国家元首は事務総長からの直接の電話に出ようとせず、世界の憂慮を伝える親書にも返事をしていませんでした。

結果的に政治的な緊迫状況が劇的に高まりました。

軍事政権は「状況は統制下にあり、『救援』から『復興』へと移行している」との説明をしてきました。

そのような状況下で、私は幸運にも、潘基文・国連事務総長との会話に成功しました。

私は率直に多くの情報を彼に提供しました。我々自身が経験した多くの困難と、メディア・セクターすべてが直面する困難を説明し、我々があたかもスターリン主義者の夢の世界にいると感じるとまで申し上げたのです。私は、これはミャンマーのすべてのジャーナリストを代弁する機会だと認識していました。

私の話を聞いて、潘基文氏は私に2ページの簡潔なメモを用意することを依頼してきました。そしてこう言われたのです。「私はこれからミャンマー首相と12時半に昼食をとることにしている。この問題については良く理解した。共にミャンマーの自由なメディアのため、民主主義のために闘おう。我々にはそうする義務がある。私は韓国出身で、軍政によって抑圧されたメディアの中で育ってきた。だからこの状況がどのようなもので、何を意味するのかがわかる。」

以下は私が出した事務総長宛のメモであります。

====================================================


国連事務総長
潘 基文様

ミャンマーのメディアの活動状況につき、以下の通りご報告いたします。ミャンマーのすべてのジャーナリストになり代わりお伝えします。より透明性のある報道が重要であるとの貴殿の認識は、貴殿が、サイクロンの災害に対して実施されようとしている救済活動の成果にも大きく関係いたします。我々は、この問題の核心に迫る決意であり、このメディアという民主主義の四番目の柱の意義を理解し、支援をしようという貴殿のご意思は我々を前進させるものであります。この数日間に亘る希望に満ちた貴殿のメッセージはメディアの回廊に強く鳴り響いております。ミャンマー国民は本当の勝者になるよう、これを推し進めていかねばなりません。

ミャンマーが言論の自由を失って以来、50年が経ちます。

1958年9月に、U Nu 首相の文民政府がU Ne Win 将軍率いる軍事政権へその実権を割譲したとき、それは全アジアの中で最も力のあるメディア・コミュニティの終焉を招いたのです。

一連の軍事政権が続く中、情報の流れとメッセージ配信については鉄の締め付けによって統制がなされてきました。

今日ミャンマーでは全てのメディアは軍か情報局の厳しい監視体制下に置かれています。

政府は2つのテレビ局とすべてのAM とFMラジオ局、ミャンマー語紙2紙と英語のThe New Light of Myanmarを傘下においています。

国営のメディアは単に軍のリーダーたちの動きを記録するにとどまり、記録は即時に凍り付いてしまうだけです。政府による優れた努力をもその価値を落とし、「新しい近代的に発展した国家」の概念を映し出すこともできないでいます。

民間メディアは、配信が活字媒体に限定されていますが、こちらも厳しい監視体制下に置かれています。

出版社は免許の更新を毎年義務付けられ、その国内における出版物は全て検閲の対象となります。これを犯すと、重い罪を課せられ、長い期間投獄される場合もあります。

それにもかかわらず、過去10年の間に、メディアは大きく発展し、少なくとも出版量では目を見張るものがあり、現在ミャンマーには、社会のあらゆる分野にわたるおよそ250もの月刊および週刊の刊行物があります。

政治についての論評は厳密に統制されます。そして、すべてのメディアが政府寄りの報道をするように強制されます。 政府や市民社会に関する議論の機会は全く無く、メディアの自由に関していえば、世界ランキングではミャンマーは最底辺に位置しています。

これは憂慮すべき情報であります。政府は2010年に行われる選挙の新しい展望の一部に自由なメディアを謳っていますが、どのようなレベルの独立が期待できるのか何一つ詳細が明らかになっていません。

ミャンマー政府は国家の歴史上のこの重要な転換点に、変化を起こすことのできるめったにない機会にめぐり合わせています。メディアの更なる自由化を進めることを公にするこれほどいい機会はありません。

短期間に新聞の刊行を始めることができる可能性をもつ人々が何人か存在しますし、更に、民間の多額の資本がラジオや、テレビ、インターネットへの投資として用意されています。

国家が民主主義に移行する間、チェック・アンド・バランスを確実に保つために利用できる単純なメカニズムがいくつか存在するはずです。

この重要な決断をすることにより、政府を、過去から解放することができ、誇りをもって、国際社会に再び加わることを熱望する、新たな近代発展国家のビジョンを描くことができるのです。

即座に、決断力を持ってこれが実行されなければ、現行政府の行動は、中身がなく、説得力もないとミャンマーを批判する人々に証明することとなり、又、許し、忘却することを厭わない選挙民にとっては、政府の真の問題は虚言と誤謬であることを改めて証明することとなってしまうでしょう。

すべてが、達成可能であり、管理可能です。そして、この決断は、初めある程度の痛みを生じさせるでしょうが、必然的に、それはミャンマー国民と長い間ミャンマー連邦を守るために闘ってきた軍の為にも明るい未来の基礎を築くことになるでしょう。

「アセアンとスリン事務局長」 [2008年08月20日(Wed)]



「アセアンとスリン事務局長」


1967年8月にタイのバンコクで『南東アジア諸国連合(ASEAN)』が創設されてから40年余を経た。

今年の1月、旧知のスリン・ピッツワン元タイ外務大臣が事務局長に就任した。

スリン氏は、タイ国では珍しい南部タイ出身のイスラム教徒である。
彼に言わせると「南東アジアのイスラム社会は穏健で寛容であり、柔軟性を維持してきた。夢はこのスタイルをてこに、欧米とイスラム世界の和解に何らかの役割を果たしたいと願う。アセアン事務局長として、各国の利害の調整は勿論のこと、事務局を強化し、NGOとの連携の重要性も視野に入れている。」

日本財団は、基本的にスリン事務局長の考え方に賛意を表し、この度、人材育成、障害者の支援など、5分野の包括的な業務提携に合意した。

5分野、次の通り
@ マラッカ・シンガポール海峡をはじめ、海上安全保障の強化
A ハンセン病制圧と回復者の社会差別の解消
B アセアン事務局の職員育成や、人的ネットワークの構築
C 伝統医療の活用
D 障害者の社会参加の促進
当面5年間5分野、5億円の支援となる。

国際社会には政府間レベルでは見えない問題が数多く存在する。このような問題解決に日本財団が率先して協力することによって、アジアに存在する多くのNGOが参加して連携を強化していくことは新しい試みであり、是非、具体的な成果を上げたいと考えている。

8月18日(月) [2008年08月18日(Mon)]

8月18日(月)

 15:00 成田着 日本財団へ

 16:00 日本財団着
      書類整理、決裁、打合せ

「中央アジアの日本財団奨学生」 [2008年08月18日(Mon)]



「中央アジアの日本財団奨学生」


トルコで勉強する中央アジア(キルギスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン)の日本財団奨学生が、過去5年間で累計760名になった。

今年もお世話係りのヴォルヴォスキ・京子さんに引率され、優秀な奨学生の代表5名が来日した。

特にアゼルバイジャンのテイムル・サディコフ(21歳・男性)さんは、トルコの名門・イスタンブール工科大学で宇宙工学を学び、在学中4年間で54教科全てが学年トップの成績。イスタンブール工科大学始まって以来の快挙だったそうである。

MITをはじめ、アメリカの有力7大学より奨学金付のオファーがあったが、修士課程を飛び越えていきなり博士課程を受け入れた名門・カリフォルニア大学・サンディエゴ校に進学が決定したと、喜びの報告をしてくれた。

サディコフさんはアゼルバイジャンのエネルギー研究所に勤める父と精神科医の母との間に生まれた一人っ子の由。

サディコフさん以外の4名は下記の通り。
サリア・ボステリエヴァ(21歳・女性) 建築学 キルギスタン出身
トレゲン・マザノフ(23歳・男性) 政治学 カザフスタン出身
シャヴカット・クチモフ(30歳・男性) バイオ医療工学 タジキスタン出身
ベリザット・カンタルバイェヴァ(23歳・女性) 財政学 カザフスタン出身

1年 穀物を育てる。
10年  樹を育てる。
100年 人を育てる。

人材育成には愛情と金と時間がかかる。
しかし、最も効果的な仕事である。


8月17日(日) [2008年08月17日(Sun)]

8月17日(日)

 07:00 パリ空港内ホテル着

 17:45 ホテル発 帰国へ
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