フィリピン日系人国籍取得問題 [2007年12月28日(Fri)]
今回訪問した日系人宅 「フィリピン日系人国籍取得問題」 日本財団の海外活動の柱の一つに海外在住日系人への支援活動がある。かつてアメリカ、ブラジル、ペルー、ボリビア等に移民した人々の老人ホーム、病院、日系人博物館への建設等である。
最近では、日本の大学で学びたい学生への奨学金プログラムの評判がよい。長い間、中国に在住した日本人孤児の国籍取得も長年支援してきた。
遅まきながら、昨年からフィリピンの日系人の日本国籍取得支援を開始した。
戦前にフィリピンで活躍した日本人男性とフィリピン女性との間に生まれた2世は既に高齢になっているが、日本国籍を取得したいとの願望は強い。
フィリピンのミンダナオ島ダバオ市は最も日系人の多いところで、約200人の日系人(2世)といわれる人々が国籍取得を待っている。
第2次世界大戦敗戦直後の混乱の中で、日本人や日系人は敵国人となり、密林の奥深くに逃避行せざるを得なかった。日本人の父や兄弟は強制送還で日本に帰国した場合も多く、現在日本人として確たる証拠のない人々が、ダバオだけでも200人も生活しているという。
国際会議の合間に、車で1時間ほどの農村部で生活する日系人二世を訪ねた。 車を降りて椰子の木に覆われた田んぼ道を5〜6分歩くと、ポツンと佇む一軒家が目に入った。
家の前の粗末なテーブルに腰をおろしていた女性が日系人女性で、年は70歳を越えているようであり、父親はバラさんと呼ばれていたという。今は一人で弟夫妻のこの家で生活している。容姿は日本人の系統のように思われたが、日本語は全く通じなかった。
二軒目の日系日本人宅は5〜6軒の集落であった。
日本人が訪ねてきたぞとの声に、本人は10分ほど家の外に出てこなかった。ちょっと見上げると二階で日本人のような女性が突然の来客に驚き、懸命にクシけづる姿があった。
人に逢う前に身だしなみを整えることは、日本人の躾の基本の一つであり、現われた女性は、先般、夫を亡くしたばかりとかで元気がなかったが、容姿や仕草を見ると、明らかに日系人であることがわかる。うつむき加減に小声でしゃべっていたが、日本財団のTシャツをプレゼントすると、はじめてニッコリと笑ってくれた。
戦後60年、別れた日本人の父親の思い出を胸に抱き辛酸をなめて、ミンダナオ島で静かに余生を送っている。これらの人々に逢うと、日本人として今まで放置してきたことに対する懺悔の念と、一日も早く日本国籍を取得して上げたいとの思いを強くした。
しかし、現実の壁は厳しく、下記のような地道な活動をする以外、彼らを救う道はないのである。
日系人は、下記の3つのカテゴリーに分類されている。
A:父親の身元判明、戸籍もあり自分(2世)の名前もある。 B:父親の身元判明、戸籍もあるが自分(2世)の名前がない。 C:父親の身元不明、戸籍無し。
A、Bについての日本国籍の取得はそれほど難しくないが、問題はCのカテゴリーの200人である。日本財団の支援するフィリピン日系人リーガルサポートセンターの井上由香さんは、現地で一人一人の聞き取り調査と状況証拠を得るため、日夜、精力的に困難な活動を行ってくれている。
国籍を取得するためには、その前段階として、井上由香さんの助力で下記の通りの陳述書を作成し、家庭裁判所の判断を仰ぐ。残念ながらダバオ在住200人の日系人のうち、わずかでもその可能性のある人は約150人といわれている。現在まで4人が取得に成功した。
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陳述書
私は開沼 マサコ(フィリピン名:アンヘリナ アパン カイヌマ)、現住所はダバオ市バギオ区、マラゴス(旧グマラン)です。
私は、日本人父開沼勇助とフィリピン人母ドゥライ テオ イッダングの長女として、1933年3月16日、グマランで生まれました。兄弟は5人いますが、現在は母と弟のヨシオのみが健在です。
母から、私の父は山形の出身だと聞いています。父はアバカ栽培を営んでいました。両親は部族婚(バゴボ族)をし、私たち5人をもうけました。上から、私(1933年生)、ケイコ(1935年生)、カツミ(1938年生)、ヨシオ(1943年生)、リディア(1945年生)をもうけました。父は戦後、強制送還されましたが、それ以来、何の連絡もありませんでした。
しかし、2004年、NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンターの協力により、私の父の戸籍が見つかっています。
私の家族とサカガワさん一家は同じグマランに住んでおり、近所同士でした。私とトミコさんは母親がバゴボ族で、父親が日本人という同じ境遇でしたので、大の仲良しでした。私たちはお互いを「トミコさん」、「マサコさん」と呼び合っていました。
1944年、私とトミコさんは、カリナンの日本人学校に入りました。学校では、日本語で話すようにと、先生に厳しく言われていたので私たちは日本語で話しましたが、二人だけで内緒話をするときにはバゴボ語で会話をしていました。
1年生のときは、ハシモト先生という男の先生でした。学校では、日本語の書き取りや算数を勉強しました。一つのクラスには30人ほどの学生がいて、そのうちの半分はフィリピン人と日本人の間の子だったように記憶しています。
同級生には、「ヤジマさん」「ナカヤマさん」という女の子がいました。彼女たちも私と同じように母親がバゴボ族で父親が日本人です。彼女たちは、今も日本人の子供と認められず、フィリピンに取り残されたままです。
私たちは2年生に上がりましたが、戦争によって学校に行けなくなってしまいました。
私は、幼い頃からサカガワトミコさんのことを知っていますし、彼女の父親が日本人「サカガワミツヒロ」であることも知っています。私が日本人であると認められたように、トミコさんも早く日本人であると認められてほしいと思います。
◆ ◆ ◆ ◆
以上の陳述は、始めにフィリピン日系人リーガルサポートセンタースタッフである井上由香が開沼マサコにタガログ語及び英語で事情聴取し、それを日本語で文書化し、さらにそれをタガログ語及び英語に口語にて訳して確認したうえで、本人の署名を得たものです。
以上のような陳述書に、写真、その他証拠書類があれば、なお就籍許可は容易になり、家庭裁判所の就籍許可を得て戸籍が作成されることによって日本人となれることになる。
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石坂団十郎リサイタル [2007年12月26日(Wed)]
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笹川 陽平
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デルタスタジオ [2007年12月25日(Tue)]
08:00〜10:00 「語り場」 日本財団職員との対話 10:00 日本財団 執行理事会 11:00 朝日新聞社 辻編集委員 13:00 デルタスタジオ 渡辺健介 14:00〜15:00 スウェーデン・クリニック 16:00〜18:00 「語り場」 日本財団職員との対話
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笹川 陽平
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「英文図書100選」記者会見 [2007年12月25日(Tue)]
「現代日本についての英文図書100選」を海外に寄贈する事業の記者発表2007年12月18日 17時 日本財団ビル2階<挨拶> 私は日本から外国への情報発信の重要性について、これまで機会あるごとに言及してきました。特に日本の英語によるテレビ放送は貧弱です。
中国や韓国の英語放送に比べると、日本が大幅に遅れていることに危惧の念を持っています。そのような観点において、文字における情報発信の重要性も認識しております。
日本に関する研究が中国研究に比べ下降気味の英国で、日本研究のための講座の設置について募集したところ、主要な12の大学が手をあげました。来年度からオックスフォードをはじめとする英国の12大学で日本研究についての講座が開催されます。
今回の100冊の図書寄贈プログラムは、谷内正太郎外務事務次官の考えと私たちの意図する意見が一致し、始めることになりました。
私たちは中国で日本の図書寄贈プロジェクトを実施しています。既に170万冊の図書を寄贈してきました。
また世界の主要69大学の修士博士課程で学ぶ学生を対象とした奨学金制度も実施しています。
日本を理解するための図書がこれらの大学に配布されることで、相乗効果が得られると期待しています。世界には日本の情報を渇望している知識人が数多くいるのです。
今回のプロジェクトでは、政策研究大学院大学の白石隆副学長を座長に100冊の選定を行いました。解説はドナルド・リッチー先生に尽力いただき、またグレアム・フライ駐日英国大使にも参画いただきました。
このプロジェクトでは100冊を選んで希望者に寄贈するのではなく、一捻りしています。私は中国に寄贈された欧米からの図書が一部野積みにされている現場を見ました。
図書を一方的に寄贈するのではなく、欲しい本を欲しい人に届けることが大事なのです。手間はかかりましたが、リッチー先生のご努力で目録を作り、先ずは目録を送付します。その後、必要な本の要望を受け、送付する体制にしました。
私たちの活動には20年、30年、場合によっては40年続いている仕事があります。この活動でも、今後、さらに優れた日本の図書を選定し、翻訳をつけ、200冊、300冊に増やしていく努力をしていきたいというのが私たちの願いです。
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早稲田大学重村教授 [2007年12月21日(Fri)]
10:30 パスポート取得 11:00 東京財団 益子常務理事 12:00 早稲田大学 重村教授 14:30 読売新聞社 渡辺恒雄主筆 16:30 中川秀直衆議院議員 18:00 松下寛治氏
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笹川 陽平
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フジサンケイビジネス アイ掲載 [2007年12月21日(Fri)]
※12月20日付け、フジサンケイ ビジネス アイに笹川陽平の地球コラム『ノーベル経済学賞』が掲載されましたので、お時間がある時にでもご高覧いただければ幸いです。★【笹川陽平の地球コラム】ノーベル経済学賞 中国に後れを取ることなかれ2007/12/20 FujiSankei Business i. 今年もノーベル賞の受賞者が決まり12月10日、スウェーデンのストックホルムとノルウェーのオスロで授賞式が行われた。世界最高の賞にふさわしく、華やかで厳粛な式典のようだ。実は20年近く前、ストックホルムの授賞式に招待されたことがある。
1985年、日本財団の拠出で北欧諸国との友好促進に向けた「スカンディナビア・ニッポン ササカワ財団」がスタートしたが、この財団設立に尽力し顧問に就任してくれたニルス・ストーレ氏がノーベル財団の専務理事をされていた。この関係で招待されたのだが、苦手な晩餐(ばんさん)会もあり受賞者と面識もないのに出席するのはいかがかと思い辞退した。その後、授賞式に招待されるのは大変な名誉であることと知った。
今年の受賞者は平和賞を受けた前米副大統領のアル・ゴア氏以外、名前も業績も知らないが、アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて1901年に始まったノーベル賞は物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞である。うち平和賞はノルウェーで決定され、オスロで授賞式が行われる。
残る経済学賞は1968年に設立された。ノーベルの遺言とは関係なく、正式名称は「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン銀行賞」。受賞者に与えられる賞金も、他の5部門のようにノーベル財団ではなく、スウェーデン中央銀行の基金から出される。ノーベルの子孫の一部からは廃止を訴える声も出ていると聞く。
なんとも不思議なのは、日本から経済学賞の受賞者が出ていない点である。今年の受賞者も米国人エコノミスト3人で圧倒的に米国関係者が多いのは仕方がないとしても、日本も世界第2の経済大国である。受賞者ゼロとは、どうしたことか。
先に来日した選考委員にこの点について聞いたところ「経済学賞は言ってみればアングロサクソンの賞だから」との答え。「でも、インドの経済学者アマルティア・センもアジアで初の受賞者でしょう」と重ねて問うと「彼はケンブリッジの出だよ」。
後日、知人の学者に感想を求めたところ「インド人はイギリスの植民地時代にアングロサクソンについて勉強し、彼らの特徴を理解したうえで上手に売り込み、成功したということではないかね。そうであればアングロサクソンの賞であることに変わりない」と解説してくれた。
選考委員は苦笑まじりに「最近、中国が著しい経済成長をしているせいか、国の威信をかけてノーベル経済学賞をもらいたいと激しくアプローチしてきており、困惑している」と語り、「わが国が受賞するとしたら」の問いには、しばらく考えて「環境経済学など魅力的な分野だね」と答えた。
私は経済学のことはさっぱり分からないが、入学試験の「傾向と対策」風に言えば環境経済学はノーベル経済学賞に重要なテーマらしい。短い会話ではあったが、どの国も受賞に国家の威信をかけ、目立たないところで懸命の努力をしていることをうかがわせる内容だった。
経済学者は、「失われた10年」などと過去にこだわるよりも、奮起して地球の将来を考える環境経済学にぜひとも励んでもらいたいと思う。ノーベル経済学賞で中国に後れを取ることなかれ。
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Posted by
笹川 陽平
at 08:42 |
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