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マダガスカル農業大臣 [2007年11月30日(Fri)]

10:30 マダガスカル共和国 ラトゥルザ・ナハリ農業大臣

13:30 読売新聞社 渡辺恒雄 主筆

14:30 日本レジャーチャンネル(JLC) 藤川社長

守屋前次官逮捕と新聞の見出し [2007年11月30日(Fri)]

「守屋前事務次官逮捕と新聞の見出し」


11月29日(木)付の各紙朝刊は、東京地検特捜部による守屋前防衛事務次官夫妻の逮捕を一斉に報じた。

最近の新聞は一般紙、スポーツ紙に限らずビジュアルな紙面を目指しているようで、「アイキャッチ」を意識してか、ひと工夫もふた工夫もした見出しが目に付く。

なるほどと納得させる見出しから、下手な語呂合わせまで内容も多彩だが、守屋逮捕を報じた各紙の社会面の見出しは下記の通り。

朝日新聞は1、2社会面ぶち抜きで「『天皇・女帝』接待づけ」、「官僚トップ また転落」とある。他紙も「『独裁者』妻と転落」(読売)、「『宮ちゃん、私を重役に』 守屋幸子容疑者」(毎日)、「妻 接待おねだり」(産経)、「強権トップ 一転容疑者」(日経)と負けず劣らず激しい。

これら見出しを見ていると、日頃、人権尊重をうたい文句にする新聞の大義はどこへいったのかと、疑問を感じざるを得ない。

そうでなくとも朝日の見出しは如何なものかー。戦後、独裁的な人物や強力な組織の長を「○○天皇」などと呼ぶ悪しき傾向がはびこっているが、朝日の見出しはこの典型というしかない。

戦後、南北朝の末裔を主張した熊沢天皇なる人物もいたが、日本に天皇は一人しかおられない。

現天皇も、前立腺がんを抱えながら国民の安寧と世界平和の実現に向け日々努力されておられる姿は、等しく国民の尊敬の的となっている。にもかかわらず、朝日の見出しはいたずらに天皇の尊称を傷つける表現といわざるを得ない。

新聞が人権の尊重、差別の撤廃を理由に、したり顔で行う“言葉狩り”、“差別用語の自主規制”は、いまや文学作品から落語の表現、芸能にいたるまで深刻な支障を生んでいる。

それだけの影響力を持つ以上、新聞もまず自らを律するのが筋であろう。

近年、活字メディア、特に新聞の落ち込みが指摘されているが、こんな国民感情と乖離した見出しは、クオリティペーパーとして自らの品格をおとしめるだけではないだろうか。

スターリン [2007年11月30日(Fri)]


市役所前にそびえ立つ、スターリンの銅像




「スターリン」


グルジアを訪問した機会にスターリンの生地を訪ねたいと思い、グルジア戦略国際研究所のボスであるアレキサンダー・ロンデリ博士に案内をお願いした。博士は、今回の国際会議の主役であるにもかかわらず、自ら案内役を務めてくれた。

スターリンとはペンネームで『鋼鉄の人』の意味。
本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリである。

スターリンは靴屋の息子で、母は農奴であった。首都・トビリシの神学校でマルクスに傾到して放校され、以後、一度も故郷・ゴリ市には帰ってこなかった。ひ孫が一人、トビリシで画家をやっている以外、消息はないという。

生地ゴリ市は、首都・トビリシより車で約1時間。かつては従業員1万人の紡績工場もあり栄えていたそうだが、町の商店は電灯もついていない薄暗い店が何軒もあり、寂れた町であった。

フルシチョフ(旧ソ連元最高指導者)の有名なスターリン批判以来、旧ソ連各地にあったスターリン像は完璧なまでに破壊、撤去されたが、ゴリ市は、たとえ大悪人といわれてもアメリカと戦った英雄であったと撤去には反対し、逆にコカコーラやペプシコーラの看板を撤去して、『銅像』は市役所の前に写真の如く立っていた。


スターリン記念館内


スターリン記念館は、一言でいえば『おそまつ』そのもの。入り口は薄暗く、入場者もほとんどないようで、受付に「一日の訪問客は?」と尋ねると「100人くらい」という。

2階が展示場になっているが、セピア色の写真と新聞報道の拡大写真が展示してあるだけで、隅の方にスターリンがクレムリンで使用していたという机と椅子が置いてあったが、どうも疑わしい。

かつて、クレムリン宮殿奥深くにあるゴルバチョフの執務室を訪ねたことがあるが、その時の机とはだいぶ違う。勿論、スターリン時代とゴルバチョフ時代では執務する部屋も替わったのかも知れないが・・・

退屈しながらの参観であった。出口のところに、スターリン70歳の誕生日を祝って、中国人民解放軍第2野戦軍からスターリン大元帥宛の、赤い布地に黄色の文字で『萬寿無彊』と書かれたのぼりが目立った程度である。

ところでロンデリ博士は私を案内しながら、
「祖父母、伯父の三人は貴族の出身でドイツで教育を受けた知識人だったため、スターリンに銃殺された。ソ連で一番安いものは人間の命であった。

生存中、母は、スターリンの新聞記事は破いて絶対に読まなかった。1924年のレーニン時代、ボルシェビィキに、グルジアだけで2日間で5000人が殺害され、ドイツ・ナチには、人口300万人の内30万人が殺害された」
と、苦難の歴史の一部を語ってくれた。

聞き終えて、無神経にもロンデリ博士の過去を知らずつまらぬことをお願いしてしまい、内心、じくじたるものがあった。

日本歯科医師会 [2007年11月29日(Thu)]

10:00 日本財団 海外協力援助事業 案件検討会

11:00 (社)日本歯科医師会 大久保会長

12:00 笹川平和財団 田淵会長

14:30 東京大学名誉教授 伊藤隆先生

15:00 NHK 大貫氏

15:30 笹川平和財団 羽生副会長

サモラノ大学 [2007年11月28日(Wed)]

10:30 ホンジュラス サモラノ大学日本財団奨学生

11:30 ユーラシア21研究所 吹浦理事長

15:30 東京財団 加藤会長

17:30 (社)東京都モーターボート競走会

ダライ・ラマ猊下 [2007年11月28日(Wed)]




「ダライ・ラマ猊下」


ダライ・ラマ猊下が来日され、ご多忙の中、ご挨拶の機会を得た。

毎年、チェコのプラハでハヴェル元大統領と私が共同開催する「フォーラム2000」の国際会議で二、三度お目にかかっているが、今回は一年振りである。

猊下はホテルの部屋の外に出て私を迎い入れて下さった。私の左手をしっかりと握って下さり、お別れまで、その手を離されなかった。

私の終生の仕事であるハンセン病の世界制圧とスティグマや差別の撤廃についての活動の微力を補って頂くため、世界の指導者に呼びかけ助力を願ったところ、五人のノーベル平和賞受賞者の中で、真っ先に世界宣言に賛同し、署名して下さったことに感謝を申し上げた。

そして今年、プラハでご紹介いただいた、ハンセン病との闘いで素晴らしい成果を上げているインドのババ・アムテ師を訪問させていただいたこと、インドでハンセン病回復者の物乞いをなくす活動を開始したことを報告した。

猊下は、ヨーロッパは勿論アメリカでも、チベット仏教と猊下の発するオーラに、圧倒的な賛同者が多数存在する。

最近では、ドイツのメルケル首相が現職として初めて猊下と会談をもたれ、アメリカ議会もブッシュ大統領出席のもと、最も栄誉ある議会勲章を受章されたことは報道された通りである。

ところで、私の主宰したハンセン病のスティグマと差別の解消を求めた世界宣言は全世界に報道されたが、日本の報道機関は、中国への報道については、11名の賛同者からダライ・ラマの名前を消していた。

勿論、送信しても中国側で削除することは確実ではあるが・・・。

「インドから乞食をなくすのは大変だよ。頑張ってね」
「猊下もお元気でご活躍下さい」

首にチベット宗教の印であるハタという絹の布を掛けていただき退室した。

帰国 [2007年11月27日(Tue)]

(フィリピン〜成田)

07:00 ホテル発 帰国へ

13:50 成田着 日本財団へ

15:30 日本財団着 稟議書決裁、打ち合せ、書類整理

17:00 「親学」勉強会 挨拶

飛行機飛ばず [2007年11月26日(Mon)]

(フィリピン滞在)

07:00 ホテル発 マニラへ 空港で5時間待機

16:30 マニラ ホテル着

※珍しく航空機キャンセルのため一日帰国が延び、マニラ泊まりになる。

フジサンケイビジネス アイ掲載 [2007年11月26日(Mon)]

※11月22日付け、フジサンケイ ビジネス アイに笹川陽平の地球コラム『民主化進める若き指導者』が掲載されましたので、お時間がある時にでもご高覧いただければ幸いです。





★【笹川陽平の地球コラム】  民主化進める若き指導者 悲願!!ロシア離れに奔走

2007/11/22
FujiSankei Business i.


 グルジア共和国の大統領は39歳、今月就任したばかりの首相は36歳−。世界で指導者が最も若い国のひとつである。

2人の年齢から、どのような国をイメージされるだろうか。アフリカや太平洋島嶼(とうしょ)にあるような若い国を想像される向きもあるかもしれない。しかし、この国が位置する南カフカス(英語名コーカサス)は多様な宗教や言語、民族が入り乱れ、歴史的にも世界で最も運営が難しい国家でもある。

 グルジアは20世紀にその名を残すソ連の独裁者、ヨシフ・スターリン、さらにその片腕として2000万人に上る人々の粛清を進めたとされるラブレンチャー・ベリヤの出身地でもある。

黒海とカスピ海に囲まれ、陽光あふれるコーカサス山脈南側の「ワインの国」として知られながら、ともすれば暗いイメージが付きまとうのは2人の存在に負うところが大きい。

 ソ連崩壊後、隣接するアゼルバイジャンアルメニアとともに独立。南コーカサス3国として連合を目指すが、領土紛争やロシアとの関係などをめぐり深刻な対立を抱える。

このため特定の国が主導権をとった国際会議の開催は難しく、第三国である日本の笹川平和財団がグルジア戦略国際研究所を支援する形で10月、首都トビリシで初の南コーカサス安全保障会議が開催された。

 ミヘイル・サーカシュヴィリ大統領が2003年の「バラ革命」でシュワルナーゼ大統領の後を継いだのが35歳。今回、ラド・グルゲニゼ新首相と交代したズラブ・ノガイデリ前首相も43歳だった。若き指導部が民主化の名の下、ロシア離れを図る。

 安全保障会議に先立ち、首相府を訪問すると、執務室前にはEU加盟を求めるポスターが貼られ、EU(欧州連合)、NATO(北大西洋条約機構)加盟を切望するこの国の熱い思いが直に伝わってきた。招かれた昼食の席で多少の下ネタを披露すると、ノガイデリ前首相は子どものような屈託のない笑顔を見せた。

 会見を予定していた大統領はEU関連会議出席のため急きょリスボンに出掛け不在。代わりにサンドラ夫人が早朝、ホテルに訪ねてこられた。夫妻は昨年3月、米、独に次ぐODA(政府開発援助)拠出国である日本を訪問、天皇陛下にも拝謁された。

夫人はオランダ生まれ。「オランダに美人なし」というが、大柄で驚くほどの美人。口紅もなくブラウスとスラックスの質素な姿で現れ、朝食前なのか、途中、飲み物とパンを求め目の前でパンをかじりながら教育や母子福祉、増加する麻薬患者など国内問題からロシア、トルコとの外交問題まで熱心に語った。ひた向きに国の将来を語る姿にさわやかさを感じた。

 合間を見てトビリシから60キロ西に進んだスターリンの生地・ゴリを訪ねた。フルシチョフのスターリン批判以後、各地のスターリン像は破壊・撤去されたが、市役所前には今も立派な像が残る。生家や博物館、特別列車などが展示されているが博物館の照明は消えており、訪れる人もほとんどない様子。

 案内してくれた国際研究所のアレキサンダー・ロンデリ博士は「祖父母、叔父は貴族の出で、ドイツで教育を受けた知識人だった。そのためにスターリンに銃殺された。ソ連で一番安いのは人間の命だった」と一語一語、吐き捨てるように語った。

 民族が背負う歴史の重みを感じながら、若き指導者たちが目指す民主国家への道のりが順調に進むよう、祈った。

API国際会議 [2007年11月25日(Sun)]

(フィリピン滞在)

08:30 ホテル発 日系人宅や日系人資料館訪問、日系人墓地参拝

12:30 ダバオ病院

13:00 日本人シニア・ボランティアと昼食

15:30 インサイダーデイリー紙 取材

16:20 ABS−CBNテレビ 取材

17:30〜20:00 アジア公的知識人(API)会議 挨拶
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