ギャローデット大学 [2007年10月31日(水)]
Posted by
笹川 陽平
at 22:47
|
私の毎日
|
この記事のURL
|
コメント(0)
ハンセン病人権啓発大使と守秘義務 [2007年10月31日(水)]
9月21日、町村外務大臣から大使の委嘱状が手渡される
「ハンセン病人権啓発大使と守秘義務」
町村外務大臣(当時)より『ハンセン病人権啓発大使』を拝命した。
35年に亘るハンセン病制圧活動により、既に118カ国で制圧に成功し、残りはブラジル、ネパール、モザンビーク、コンゴ民主共和国の4カ国となった。
何とかこの数年で世界制圧を達成したいものと、世界保健機関(WHO)の『ハンセン病制圧特別大使』として一年の三分の一を海外で活動することもある。今月はネパール、11月にはコンゴ民主共和国に入る予定である。
1980年代より1500万人のハンセン病患者を病気から解放することに成功したが、彼らが社会復帰に成功した例はほとんどない。
相変わらず、社会からは差別の対象となり、結婚はもとより、健常な子供達にさえ教育の機会もない。日常的にはホテル、レストラン、場合によっては買物も出来ない状態である。
遅まきながらではあるが、私はこの問題を国際社会に訴えて活動している。
2003年、初めて国連人権委員会での発言を許され、以後、毎年ジュネーブ(スイス)で訴え続けている。国連人権委員会は国連人権理事会に改組され、各国政府代表の権限が強化された。

幸い、日本政府も『ハンセン病と人権』について強い関心を示し、理事会で議論するよう問題提起された。
この度、大使を拝命し、官民上げて国連人権理事会での採択、その上での国連総会での決議に向けて活動することになった。
西側社会は『人権』についてはことのほか敏感で関心が強い。今回は、珍しく日本のイニシアティブで『ハンセン病と人権』が理事会で議論される見通しが強くなった。
日本外交の大きな成果を期待したい。私も、長年に亘るハンセン病についての国際活動の経験を生かし、力不足ではあるが、各国政府の理解を求める活動を展開していきたいと考えている。
それはさておき・・・
拝命した『ハンセン病人権啓発大使』の委嘱状交付に際し『誓約書』の提出が求められた。
@業務を誠実に遂行すること。
A委嘱期間中に知り得た秘密事項については、委嘱期間中はもとより、委嘱の終了後も外に漏洩しないこと。
の二点である。
至極当然のことであり、なんら不満があるわけではない。
ただ、首相特使や外務省高官が、職務上知り得た情報を、在任中はもとより退職後に、テレビをはじめ、さまざまな報道機関でとうとうと発言している姿をしばしば見る機会がある。
問題が解決したとしても、当分の間、沈黙は任務上当然の義務である。ましてや、未解決の状態で軽々しく発言するのは如何なものだろうか。
彼等に『誓約書』の義務はないのかも知れないが、公務員として当然の責務を無視していることに違和感を感じるのである。
かつて、国連中東特使を務めたスウェーデンの名外交官・グンナー・ヤリングのサイレント・ディプロマシー(沈黙の外交)は、今も外交官の範とすべきことである。
|
グレートブリテン・ササカワ財団 [2007年10月30日(火)]
08:00〜10:00 「語り場」 日本財団職員との対話
10:00 日本財団執行理事会
13:00 海洋政策研究財団 寺島常務理事
14:00 グレートブリテン・ササカワ財団 審査会
16:00〜18:00 「語り場」 日本財団職員との対話
|
Posted by
笹川 陽平
at 21:23
|
私の毎日
|
この記事のURL
|
コメント(0)
記者懇談会 御礼 [2007年10月30日(火)]
91社、100名を超える報道関係者にご参加いただいた
「記者懇談会」御礼
10月26日、定例の記者懇談会を開催した。
情報公開を財団運営の基本としているので、メディア的にはニュース性のない案件も多いのだが、日本財団の活動について、一通り説明させていただいた。
91社、106名の参加者で、従来の会議室では対応できず、財団ビル1階のバウルームを使用した。
1時間15分にわたる報告を熱心にお聞き取りいただき、心から感謝申し上げます。
|
フジサンケイビジネス アイ掲載 [2007年10月29日(月)]
※10月25日付け、フジサンケイ ビジネス アイに笹川陽平の地球コラム『医学研究者制度20年』が掲載されましたので、お時間がある時にでもご高覧いただければ幸いです。
★【笹川陽平の地球コラム】医学研究者制度20年 中国医学界の中核に
2007/10/25
FujiSankei Business i.
オリンピック景気に沸く中国の経済発展はめざましい。高速道路の総延長は5万キロを超え都市部は建設ラッシュに沸く。都市と農村の格差など多くの問題を抱えるものの、人々の生活は確実に豊かになり、この国が世界で展開する地下資源確保の動きは西側社会の脅威にもなっている。
そんな中国も1980年代には高速道路はなく、人民服姿の銀輪部隊があふれる北京の大通りで笑顔や化粧した女性に出合うことはまずなかった。
「中国の発展に何らかの協力をしたい」。そんな気持ちを持っていた私のところに86年、日中医学協会の初代会長を務めた黒川利雄・癌研付属病院名誉院長と理事長の石館守三・日本薬剤師会会長(いずれも故人)が「中国人医師7〜8人を日本で研修させたい」と相談に来られた。
7〜8人では白髪三千丈の国にインパクトが小さすぎ、大きいことが好きな父・良一の説得も難しい。即座に「毎年100人、10年間続けましょう」と逆提案。2人が「有志で協会を設立したばかり。100人もの受け入れが可能か相談してみたい」と困惑とも喜びともつかぬ表情を見せたのを記憶している。
何度か中国衛生部を訪問し、「中国全土から留学生を派遣する」「歯科、看護師を含めすべての医学関係者を対象とする」の2点を条件に、北京の人民大会堂で調印。87年から毎年100人の「日中笹川医学研究者制度」をスタートした。
その後、さらに10年の延長を経て、今年8月、同じ人民大会堂で20周年の記念式典を行った。この間の留学経験者は延べ2000人。中国の陳竺衛生部長は、「この制度は人材育成の模範」と称賛し、来賓として出席した森喜朗元首相からも「世界の医学交流史の中でもまれに見る成功例」と最大級の賛辞をいただいた。
事実、留学生OBには中国トップの医学大学学長や教授、一級の研究者も多く、2003年の新型肺炎(SARS)騒動では、関係者の多くが解決に尽力した。今や「日中笹川医学研究者」が中国医学界の中核を構成するといっても過言ではない。
もちろん中国全土から厳選された留学生は優秀であり、日本側関係者も愛情を込めた指導をした。毎年、中国衛生部も参加して制度改善に向けた会議を重ね、研究生全員を箱根に集め、意見を聞く機会も設けた。
来日に先立ち、中国の長春で日本語や日本社会に関する特訓を半年間行い、日中医学協会のベテラン女性には「医学生のお母さん」として個人的な相談相手にもなってもらった。当初は首相にもあいさつにうかがい、故竹下登元首相は国会の忙しい時間を割いて留学生を激励してくれた。
それでも、これまでの道のりは決して平坦(へいたん)ではなかった。同じ漢字国といっても文化は大きく違う。歓迎の意味を込め、豪華な和食弁当を用意したところ「冷や飯を食べさせた」と不評を買ったこともある。
今でこそ中国看護師協会も設立されているが、中国では当時、女性看護師の位置付けが低く、留学実現には5年間の説得が必要だった。振り返ると、この制度は日中友好にかける人々の善意と愛情に支えられ、ここまで成長した。留学生は日本の文化や社会を知る知日家でもある。
私は中国を訪れるたびに、そんな彼らと懇談するのを楽しみにしている。昨年、杭州を訪れた際、夜遅くなったため私のバスで送ろうとしたところ、出席者は大笑い。実は全員がマイカーで来ていた。人民服時代の貧しい中国のイメージから抜け切れていない自分を痛感した。
|
Posted by
笹川 陽平
at 08:47
|
掲載紙・誌
|
この記事のURL
|
コメント(0)