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写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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東北地方太平洋沖地震応援基金
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無事帰国 [2006年04月29日(Sat)]
15:30 成田着 日本財団へ

16:40 日本財団着

18:00 自宅着
クマール博士 [2006年04月28日(Fri)]
08:30 クウェート通信社 取材

10:00 INDIAN EXPRESS(インディアン・エキスプレス紙) 取材

12:30 ASIAN NEWS SERVICE(アジアン・ニュース・サービス紙) 取材


ジュオ弁護士と打ち合せ


16:00 ジュオ弁護士事務所


クマール博士


18:30 クマール博士

21:30 空港へ バンコク経由 東京へ
「チェルノブイリ回顧」その5 [2006年04月28日(Fri)]
「チェルノブイリ回顧」その5



右から、ライサ夫人、ソ連産業同盟ヴォリスキー総裁


それにしても、チェルノブイリ原発事故は、社会的にも政治的にも旧ソ連邦に大きなインパクトを与えた。

現地を中心にいろいろな噂話が飛び交った。ウオッカを大量に飲まないと残存放射能に被爆し、精子が減少する。結果、ウオッカの飲み過ぎによる胃潰瘍も原発のせいになった。

「事故現場近くで被爆した女性は妊娠できない。従って結婚相手としては不適切」と、いわれのない差別も生んだ。

時とともに肥大化し尾ひれが付いた流言飛語が国中を駆け巡り、次第に政治的色彩を帯びていった。ロシアには「はじめはスズメのようでも最後は牛」という古い諺がある。他愛のない噂話から最後には危機を招くような事態に陥ることを意味する。

ゴルバチョフ大統領が声高らかに国民に呼び掛けた“グラスノスチ”即ち情報公開が、皮肉にもチェルノブイリ事故では徹底されなかった。危機に関する情報の出し渋りは、時に命取りになる。


モスクワ第六病院を見舞うライサ夫人


事故発生時、火災の消火に当った消防夫は何も知らされていなかったし、私がゴルバチョフ大統領夫人・ライサ氏と一緒にモスクワ第六病院にお見舞いに行った時も、死亡者、重軽傷者の人数は不明だった。現在でも正確な数字は分かっていない。

ゴルバチョフ大統領が進めた“ペレストロイカ”“グラスノスチ”政策の知恵袋的存在だったヤコブレフさんは、ソ連崩壊後、しみじみと私に述懐した。

「チョエルノブイリ原発事故の処理のまずさがソ連邦崩壊の大きな要因の一つになった。正確な情報を速やかに国民に示しておけば、ゴルバチョフの政治基盤はもう少し維持できたかもしれない」

思わぬ政変でゴルバチョフは失脚し、ソ連邦は解体した。それに伴い、我々の仕事は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、日本の多国間協力へ変更する必要が生じ、新たな契約書の作成に迫られた。

ところが難題発生。ウクライナはロシアと同席しないという。長い交渉の末、4カ国揃ってテーブルに座り、契約書の締結にこぎつけたが、以後、今もロシア、ウクライナ、ベラルーシが同じテーブルで契約書を交わした事実はないと聞く。

ともあれ、世界には数多くの原子力発電所が稼動している。二度と悲劇が起きないことを願うとともに、私達の医学的データが医学の進歩に役立つと信じている。
インド商工会議所 [2006年04月27日(Thu)]
10:00 新聞社 取材

11:00 インド商工会議所


商工会議所のメンバーと打ち合せ


16:00 マリク将軍

17:00 FINANSIAL EXPRESS(フィナンシャル・エクスプレス紙) 取材
「チェルノブイリ回顧」その4 [2006年04月27日(Thu)]
「チェルノブイリ回顧」その4


こうして「チェルノブイリ原発事故」における世界最大規模の救援活動が開始された。救援活動の眼目は、放射能の影響を最も受けやすい被爆当時ゼロ歳から10歳までの子供達の検診に重点がおかれた。


甲状腺の検診をする長崎大学山下俊一教授


当時、広島、長崎の経験から白血病の多発が予想されたが、幸い、16万5000人の検診データの段階では2名であった。ただ「甲状腺がん」は60名が発見された。

汚染地域の子供達の「甲状腺がん」の頻度は日本と比較して百倍であったが、この汚染地域はヨード不足の地域なので、果たしてすべてが放射能によるものなのか、あるいはヨード不足からくる地域の風土病なのか、その因果関係の究明は学問的にも重要な点である。

いずれにしても放射能の影響は「晩発性」の特徴があり、これからも監視の継続が望まれる。


日の丸と一緒にロシア語で「日本国民からソ連国民へ」と書かれた検診車


1991年から始まった救援活動は、2001年3月をもって11年間の活動を終了した。

被爆者の健康管理、治療に必要な検診車、医療機械、薬等の物品供与の支援総額は35億円を超えた。この間、ソ連の航空会社「アエロ・フロート」は、60回にわたり、これら支援物資を無料で運搬してくれた。

日本からは診断治療技術の指導のため、延べ450名を派遣した。またロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国の医師、技術者、延べ230名が来日し研究も実施した。

●発表された研究論文
・和文 32
・英文 48

●笹川記念保健協力財団の出版物 11冊


赤の広場に並んだ財団支援の検診車


私たちの検診結果の報告書は、世界保健機関(WHO)、国際原子力機関(IAEA)に提出し、その内容は高い評価を得ている。
WHO事務局長 [2006年04月26日(Wed)]
07:30 ウジュワール・チョーウドリー氏、クマール博士

08:30 WHO 西太平洋(SEARO)事務局長 サムリ博士


サムリ博士(写真左)とインドのハンセン病について懇談


09:30 WHOインド代表 ハバイエフ博士

11:00 インド保健省

13:00 インド産業同盟主催 昼食会

19:00 クマール博士主催 夕食会
「チェルノブイリ回顧」その3 [2006年04月26日(Wed)]
「チェルノブイリ回顧」その3



広島、長崎の放射線関係の専門家を現地に派遣(1990年8月)


帰国後、笹川記念保健協力財団の紀伊國先生にチェルノブイリ事故への支援の方法について相談した。早速人選に入り、広島、長崎で経験のある世界一流の専門家が素早く参加してくれた。

この会議と実施内容については、笹川記念保健協力財団「笹川チェルノブイリ医療協力事業をふり返って」を参照されたい。


赤の広場で検診車の贈呈式(1991年4月26日)


チェルノブイリへの援助の第一陣として、放射能検診に必要な最新医療機械を搭載した特別仕様のバス5台、機材、医薬品を積み込むために、世界最大のソ連輸送機「アントノフ」の飛来をゴルバチョフに要請して快諾を得た。

難航したのは日本の当局であった。成田に軍用機の着陸許可は出せない。今まで一度もないとのことでガードが固かったが、最後は今回1度だけ、緊急人道支援ということでOKとなった。当時の運輸省の担当官には今でも感謝している。


検診車には当時最新鋭の医療機材が搭載された


成田への「アントノフ」の飛来が空港関係者の好奇心を刺激したのか、多くの人達が緊急支援物資の積み込み作業を見学にきた。
インドへ [2006年04月25日(Tue)]

ゴパール博士と打ち合せ


11:00 日本財団 書類整理等

12:30 財団出発 インド・ニューデリーへ

21:20 ニューデリー到着

22:00 ゴパール博士
「チェルノブイリ回顧」その2 [2006年04月25日(Tue)]
「チェルノブイリ回顧」その2


モスクワでは、謎の研究所といわれたクルチャートフ研究所の見学が許可された。私にとっては専門外のことで猫に小判。

しかし専門家にとっては当時、世界最高水準の原子力、超伝導等の施設見学は垂涎の的であり、関係者に話すと「良くぞ見せた」と大いに驚かれたことではあった。

モスクワ滞在中、団員と共に夕食会へとホテルを出る直前、ゴルバチョフ大統領から面会するとの連絡が入り、ヤコブレフ(ソ連大統領首席顧問)の案内でクレムリンの大統領のオフィスに向かった。

長い廊下を歩いて案内された部屋には、ゴルバチョフ大統領が所在なさそうにたった一人で立っていた。執務室には絵画などの装飾のたぐいは一切ない。机の上には書類もなく、机の横に10台ほどの電話が並んでいるだけの冷えびえした殺風景な部屋であった。


正面右がゴルバチョフ大統領、左がヤコブレフ大統領首席顧問
大統領執務室で


かつての日本の首相の執務室もお粗末であったが、ソビエト連邦の最高権力者はこんなところで権力を行使しているのかと、いささか拍子抜けした。

1時間を超える会談では、経済問題、新幹線、チェルノブイリへ原発事故の協力要請と、幅広い話題となった。今もそうであるが、当時、日本人のソ連への感情はまったくよくなかった。

そこで私は、ソ連が日本兵を終戦後もシベリアに強制抑留し、しかも異国の地で亡くなった人々の身内の墓参も許さないことを指摘し、日本人の反ソ感情の厳しいことを説明すると、大統領は「日本外務省の精一杯の努力によるものだろう」と皮肉ってはいたが、私はこの言葉に一種の虚勢を感じたものだ。

席上、私は大統領が近々来日するにあたって、途中、ハバロフスクかウラジオストックの日本人兵士の墓地を訪れ、花を手向けてほしいと進言した。「再三再四、専門家に訪日について意見を求めてきたが、何もなかった。

このような建設的な意見ははじめて聞いた。必ず実行する」と握手を求めてきた。話の最後に、「日本人は客を大切にするが、客の土産もひそかに期待する」と北方領土問題をにおわせると、大統領は呵呵大笑。

日本公式訪問の途中、私との約束を守って日本人墓地で献花する大統領をテレビで見て、民間外交も少しは役に立ったことを確認した。
「チェルノブイリ回顧」その1 [2006年04月24日(Mon)]
「チェルノブイリ回顧」その1


「チェルノブイリ原子力発電所」事故発生から20年を迎え、ロシアウクライナベラルーシを中心に、国際シンポジウムや放射能汚染の状況についての報道が盛んである。

日本でもNHKや朝日新聞をはじめ各紙が特集を組んでいる。チェルノブイリ原発事故と日本の関係について、当時を知る者として、記述に留めておく。

1990年、私はソビエト連邦(ソ連)産業同盟・ヴォリスキー総裁の招きを受け、重厚長大の産業界の代表である三菱重工石川島播磨重工住友重工三井造船川崎重工など50社のソ連産業視察団を結成し、団長としてウラジオストックからイルクーツク経由、モスクワへの視察旅行をした。

当時、日本の対ソ連の外交方針は政経一致であったので、大型代表団は珍しく、各地で歓迎を受けた。軍港・ウラジオストックでは、原子力潜水艦・ミンスクの遊弋も見た。

まだベールのかかっていた軍港で地図を売っているのに驚き、造船会社の参加者が競って購入し、「防衛庁に見せたら驚くぞ」と談笑していたことは、懐かしい思い出の一つである。

ヤクート(現在サハ共和国)では、世界最大級のダイヤモンド露天堀り現場を視察。60人乗り飛行機のチャーター料金は9日間で600万円、1人10万円の低価格であった。



バイカル湖のほとり、イルクーツクでは、早朝に一人、森喜朗元総理の父上の墓参りに行った。ご尊父は石川県の小さな町の町長を勤めながら、ソ連との民間レベルの交流を静かに行ってこられた方で、遺言により遺骨の半分がソ連の大地に葬られた。

当時のソ連と日本との関係は、左翼勢力の独壇場であり、ご尊父の活動は地味ながら極めて珍しいものであった。イルクーツクにおいて尊敬されていたご尊父の墓は立派で、清掃も行き届いていた。この時写した写真が、後日、森喜朗先生が総理になった時に大いに役立つことになる。

初めてのロシア訪問の折、総理はこの写真を持参した。プーチン会談では、この一枚の写真でうちとけた雰囲気で始まり、今も“プーチン−森”の信頼関係は良好に継続されている。


<被災者数百万人を出し、原子力発電史上最悪の事故となったチェルノブイリ原発事故(旧ソ連ウクライナ共和国)から、26日で20年を迎える。今週は「チェルノブイリ回顧(5回シリーズ)」を掲載する>
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