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写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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多摩川競艇場で総理大臣杯 [2005年03月27日(Sun)]
今日は多摩川競艇場に行ってきました。

東京にはこの多摩川の他、平和島競艇場、江戸川競艇場と3カ所あります。日本財団の活動資金は、競艇の売上げの3.3%をお預かりしたもので、それは、日本はもとより世界のために広く人道的な活動に使われております。
したがいまして、競艇がいくら売れるのか、私たちには大変重要な関心があるわけです。

競艇には年間8つの大きなレースがありますが、今回の総理大臣杯競走では、優勝した選手に、4000万円の賞金が与えられます。
競艇の売上額は、競馬、競輪などと同じように毎年売上げが下がってきていますが、さすが、総理大臣杯競走だけあって、久しぶりに場内は家族連れの人が多く、大勢のファンが集まって賑やかで華やいだ雰囲気でした。

しかし残念なことに、当初目標の売上額の170億円を突破したのですが、優勝戦で失格(フライング)する艇が1隻あり、舟券を買ってくださったファンに返還する騒ぎとなってしまいました。
せっかく売上げたのに約10億円をお客様に返還するということは、もったいないことですが、競艇だけは競馬や競輪などと異なり、スタートの方法が違います。

助走をつけて走ってきた6艇がスタートラインに0秒から1秒の間に入らなければならない規則になっており、どうしても勝ちたい選手は、0秒から1秒の間よりも先にスタートラインを通過してしまうのです。
この場合、競艇ではお客様に売上金を返さなければならない規則になっています。

競艇は大変面白い賭け事と言われておりますが、運営する側から言うとこの返還が最も頭の痛いことです。
ぜひ、皆さまも一度お出かけいただき、体験していただくと嬉しいのですが。
インドにおけるハンセン病制圧活動 [2005年03月26日(Sat)]
3月17〜23日、インド出張に行きました。

一昨年5回、昨年も5回、今年は早2度目のインド出張です。

私が主に訪問する都市は、ニューデリーやカルカッタなど、大きな都市ばかりでなく特に北インドや南インドなど、普段皆さまが行かない場所へ行っております。
私は、昨年も1年の約1/3、海外出張をしましたが、世界からハンセン病をなくすための活動が主なものです。
ハンセン病の制圧活動につきましては、日本財団のホームページに詳しく掲載しておりますので、ぜひご覧ください。

日本財団は、世界中に治療薬を無料で配布し、1980年代から約1400万人を病気から解放いたしました。世界保健機関(WHO)が公衆衛生上問題としている人口1万人当たりハンセン病患者1人以下にするための活動を行っています。
1980年代から現在までに116の国が制圧されました。未制圧国は、厳密に言うと、まだ9カ国残っています。
それは、インド、ブラジル、ネパール、アフリカのマダガスカル、モザンビーク、アンゴラ、中央アフリカ、コンゴ民主主義共和国、そしてタンザニアです。

これを何とか2005年までに制圧したいと考え、私は35年も活動してきたのです。ハンセン病の患者さんは、ほとんどの国において病気が治っても社会参加することがなされておりません。

結核などの通常の病気ならば、治れば社会に復帰して働くことができるのですが、ハンセン病だけは“元患者”という名前で呼ばれ、本人が持っている“個人的名前”で呼ばれることがまずないのです。
世の中には、医学的に数千の病気があるそうですが、ハンセン病のように社会が持っている差別と病気という2つの側面持つ病気は大変珍しいわけです。
その方々に対する偏見や差別という人権問題を解決しないと、本当の意味での病気が治ったということにはならないわけです。
国連人権委員会という組織がジュネーブにございますが、昨年私はこの委員会で3分間スピーチをすることが許されました。

ハンセン病が治った方が世界中に約2000万人いるわけですが、1家族5人とすれば、ハンセン病患者をかかえた家族の人たちの総数は、1億人、従兄弟や親族もいれれば数億人おります。しかし、「あの人の家はハンセン病だ」というだけで、いわれなき差別を受けるのです。
これは近代社会で大変おかしなことです。これを国連でハンセン病は人権問題だということを採択してもらうことが、重要であると考え、私はハンセン病の人権問題にも力を入れているのです。

そのようなことから、私は今回インドのマハラシュトラ州のプーネで、3月18日、19日に国連人権委員会の委員の方にも来ていただき、病気から回復した方々がどのような差別を受けているか、直接事情聴取をしてもらうために会議の開催をしたのです。

回復者の皆さまが公の場で話をすることは、過去に例がありませんでしたが、ようやく勇気のある回復者の方が出てきて、発言をするようになりました。

この病気は、紀元前6世紀のインドの書物に出てくる古い病気で、もちろん旧約聖書やコーランでも、或いは仏教の経典でも残っており、ハンセン病の患者は神から与えられた罰だと、また先祖が悪いことをした報いだと、人々の頭の中に深く記憶として残っているのです。

この問題の解決はなかなか困難なことです。今まで回復者の皆さまは、回復者だけが集まるコロニーと呼ばれる不便な場所で、ひっそりと集団で生活しているのですが、そのなかで勇気のある人たちが、自分たちはこのような差別を受けてきた、と発言してくれたのです。
長いハンセン病の戦いの歴史の中で、大変画期的なことでございます。

回復者のなかには、かつてショックで死を覚悟した人もいますし、結婚をしたけれど無理やり親から別れさせられたこともあります。単なる障害にもかかわらず、勤め先の友人にこっそりと「私はハンセン病だった」と言ったことで、一緒に食事さえしてくれなくなったという話も聞きました。
このような人たちが一般の社会の人々と同じような生活ができるために、私は命を賭けてこれからも活動をしようと思っています。

カンボジアのハンセン病コロニー訪問 [2005年03月25日(Fri)]
首都プノンペンから車で2時間ほど北東に行くとトォロングという名の村があります。私はその村のハンセン病のコロニーを訪問しました。
プノンペンからトォロング村までは、アスファルトで舗装された立派な国道が通っており、緑豊かな草原の中にコロニーはありました。この村の人口は1,107人で、そのうちハンセン病の患者数は7人、回復者は95人と世界保健機関(WHO)の担当者が説明してくれました。

私たちが到着すると、回復者達約50人と地域の住民50人程(子供達が20人ぐらい)が、笑顔で迎えてくれました。
さっそく病棟の中に入るとベッドが8つありました。私が患者さんと握手をしながら話をしていると、そばのベッドに母親と子どもが座っておりました。子どもはまだ2、3歳ぐらいで、驚いたことに手の小指が溶けたように無くなっていました。幼い子どもの身体がここまで悪化していることは、治療薬が行き届くようになった現在で非常にまれなことです。

ハンセン病が制圧されているカンボジアで、これほどひどい病症を見ることは、驚きであると同時に心が痛みました。担当者からの説明では、今でも地域によってはハンセン病であることを隠す習慣があり、なかなか患者を発見できないケースが多いそうです。
医師が村を回って患者さんを見つけるには、お金がかかり、それが無いため患者さんが病院に直接出向いてくるのをひたすら待つしかないのです。

今でもハンセン病は神からの天罰であると信じられており、治療は無料で治ることを知らずないため、病気が悪化し身体に障害が起こるまで隠す人が多いそうです。これは、とても残念なことであり早急に改善しなければなりません。

このような残念なケースの一方で、きちんと治療を受け病気が完治し、新たに養豚を始めた夫婦と出会うこともできました。養豚事業が上手くいき、飼育した豚を売ってオートバイを購入できるほどにまでになったことを、私に話してくれました。
オートバイがあれば、さらに物資の運搬が効率的にでき、事業はさらに伸びることが期待できます。
このような成功例を社会に知らせることで、ハンセン病に対する偏見を無くすことができると私は思っております。
この夫婦に、あなた方の成功は二人だけの成功にとどまらず、ハンセン病で苦しむ多くの人々の成功につながると説明し、堅い握手をして村を出ました。

これから、プノンペン国際空港へ向かい、バンコク経由で日本に帰国いたします。

読売新聞「論点」に掲載されました [2005年03月24日(Thu)]
厚生労働省が有識者らに委託して設置した「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書が3月1日に出ましたが、その感想と問題点を24日付け読売新聞朝刊の「論点」に書きましたので、ご覧頂きたいと思います。

率直に言ってこのような反省を含めた報告書は、世界でも日本が初めてのことでございます。
その報告書には、言論界も報道機関も教育界など全てが反省しなければいけないと書いてありましたが、全くそのとおりです。

私たち日本人一人ひとりが深く、ハンセン病についての過ちを正してゆく必要があると思っています。また世界中ではまだ、日本のレベルに達してない国がほとんどですし、日本の検証会議の報告書を私はよく頭に入れて、世界のために活動をしてゆきたいと思います。

【2005年3月24日付け 読売新聞「論点」】

各国の人権回復まだ途上〜ハンセン病〜
笹川陽平 WHOハンセン病制圧特別大使

厚生労働省が有識者に委託して設置した「ハンセン病問題検証会議」の最終報告書が先ごろ公表された。ハンセン病強制隔離政策について、2年余りに及ぶ調査検証の結果、国の責任にとどまらず、宗教界、言論界などすべてに反省を促す内容である。
今後、国はもとより我々に課せられた責任は患者、回復者への差別払拭、人権回復にいかに取り組むかである。

ハンセン病は医学と社会(人権)の二つの側面を持つ病気である。

医学的には「治る病気」である。「多剤併用療法」(MDT)の出現により、1980年代以降、世界で1400万人が疾病のくびきから解放された。WHO(世界保健機関)は今、本年中に各国の人口1万人当たり患者を1人以下にする「ハンセン病制圧」に向け、懸命の努力を傾けている。

116か国ですでに制圧、残る未制圧国は9か国だが、国土、人口ともに最大のインドでの制圧のめどがたち、あと一歩である。私はインド、マダガスカル、ブラジルなどの医療現場を訪れ、第一線で働く人々を激励するたび、百里の道の九十九里まで来たことを実感している。

偏見、差別といった今一つの社会的側面の課題は、我が国のみならず世界中に蔓延したままである。MDTによって完治した1400万人の人々のほとんどは、社会復帰ができないまま、現在も事実上の隔離状態に置かれていると言っても過言ではない。

私は3年前、世界的に患者、回復者の人権回復を実現するには、国際機関に訴えるのが最良の道と考え、文字通りの徒手空挙でジュネーブの国連人権委員会の門をたたいた。国連人権委員会事務局にとって「ハンセン病と人権」は初めて耳にする言葉であった。

紆余曲折の末、昨春、幸いにも本会議で発言する機会を得た。私はハンセン病についての偏見や差別をなくすために、なすべき指針を作成し、各国に実情に即した措置をとるよう勧告することの必要性を説いた。そして、国連人権委員会は、小委員会が今年8月末までにハンセン病患者や、回復者への偏見と差別の実態を調査し、委員会に報告させることを決めた。

本年に入り小委員会による患者や回復者からの事情聴取が開始された。2月、南アフリカのヨハネスブルグで開催されたアフリカ・ハンセン病会議には委員が駆け付け、15か国・25人の回復者からの事情聴取がなされた。また、3月初めにはブラジルのリオデジャネイロで開催された「ハンセン病と人権」の会議でも、4人の委員が参加し、回復者の聴取にあたった。

こうした小委員会の調査活動は今後インドでも行われ、8月には委員会に報告書が提出される予定である。問題はそれからである。提出された報告書を本会議の議題として提案し、審議するかどうかだ。国際と名が付く機関では、各国間の思惑や駆け引きが伴い、すんなりといかない場合がある。しかし、私はそうした懸念は無用と考えている。

我が国政府は、ハンセン病隔離政策の誤りを認めた。これは世界でも、まれな画期的なことである。私は我が国政府が今後、国連人権委員会の場において積極的に「ハンセン病と人権」の推進役を果たすことを信じて疑わない。ハンセン病は医学の面では九十九里をきたが、人権問題は今、ようやくその遠い朝に向かって百里の道の一里を踏み出したところだ。

日本財団理事長。読売国際協力賞受賞。66歳。

※この記事は、2005年3月24日付け、読売新聞「論点」に掲載された記事を、読売新聞社の許諾を得て転載したものです。

インド首相と面談 [2005年03月21日(Mon)]
夕方、インド首相と面談しました。
ニューデリーでマンモハン・シン首相にお目にかかりました。
首相官邸の警備は、米国のホワイトハウス以上に厳重でした。
部屋に通されますと、思いのほか質素で落ち着いた雰囲気でした。首相は、インドにおけるハンセン病の現状と私たちの制圧活動について、よくご存知で、私に対して「笹川さん、あなたは大変高貴な仕事(ハンセン病制圧活動)をしている。あなたはインドに希望をもたらしてくれました」と身に余る言葉をかけてくださいました。
私が首相に「ハンセン病は治る病気である」、「薬は無料で手に入る」、「差別は許されない」を改めて申し上げると、首相は自らこのメッセージを何回も言葉に出しておっしゃり、「この病気の制圧のために自分も全力を尽くします。
そして三番目のメッセージである患者、回復者、家族の人権の問題についても現状の改善に努力します」と静かに、しかし、はっきりした口調で、強い意思表明をされました。

保健大臣とハンセン病について面談 [2005年03月21日(Mon)]
17日からインドを訪問している私は、デリーでラマドス保健大臣と面談いたしました。
私は大臣に次の二点をお願いしました。

一点目は、「百里の道も九十九里をもって半ばとする」という言葉がありますが、ハンセン病制圧までやっと先が見えてきましたが、残りの一里のために全力で病気と闘いますので、大臣も保健省をあげてのご協力を、とお願いしました。

二点目は、報告によるとインドでは人口の50%程度の人が、今ではハンセン病に対して正しく理解をしています。ハンセン病は治る病気であり、薬は無料であることも知っています。しかし、差別をしてはいけないという点については、ほとんどの人が自分の問題としてとらえずに来ました。ハンセン病の患者、回復者とその家族に対し、差別をしてはいけないこと。これをぜひとも国民に理解していただき、差別の問題の解消を図っていただきたい、とお願いしました。

大臣からは「インドにおけるハンセン病の制圧は、あともう一息の段階にきました。今年末には、世界に向けて制圧を宣言できるでしょう。(患者、回復者などに対する)差別の問題についても全力をあげてなくしていきます。これはマハトマ・ガンジーが始めた運動の基本でもありますから」と医学的な制圧のみならず、差別の解消のための社会運動にも真剣に取り組むことを約束してくださいました。

インドのハンセン病のコロニーを訪問(その2) [2005年03月20日(Sun)]
(その1から続きます)
コロニーに隣接しているハンセン病施設(Kondhawa Leprosy Hospital)には、150人の患者さんが生活していました。患者さんは笑顔で私と握手を交わしてくれました。
この施設は、多くの人の出入りがあり、清潔で和やかな雰囲気がします。
施設を見て回ると、患者の中に13歳くらいの少女がいました。
彼女の様子を見ると、症状はほとんど無く、なぜここにいるのか理解しがたいものでした。もし彼女の出身地に、ハンセン病に対する正確な知識をもった医師がいれば、薬を飲むだけで施設に入らずに済んだでしょう。少女がここに入所したことで、完治したあとも社会から差別を受けると思うと、とても心が痛みます。

その後、ハンセン病回復者たちが運営している町工場をおじゃましました。私はこの工場で大きな喜びを感じました。この工場はインド最大の自動車製造会社(TATA)から注文を受け、車のエンジン部品やバンパーなどを生産しています。社員はハンセン病回復者など80人。
彼らは一般の工場と同様に、車の部品を生産し、大手の自動車会社に納品しているのです。私は彼らに声をかけながら、様子を見て回りました。
回復者である工場長の話によると、何度か倒産の危機があったが、社員全員が給料を返上し、会社のために一丸となり工場を支えてきたそうです。
ここで働く人達には夢と希望があります。今では工場の生産が軌道にのり、社員の賃金もインドにおける労働者を上回るほどとなっているそうです。

工場視察の最後に、社員全員に話しをする機会をいただきました。
その場で私は「この様な成功事例を社会に周知することこそ、ハンセン病に対する社会の偏見を無くすことにつながり、皆さんの成功は、全世界のハンセン病患者・回復者に勇気と希望を与えるものです」と話ました。

夕方、デリーに向かうためにプーネを発ちました。

<写真>患者さんからたくさんの話を聞きくことができました。

インドのハンセン病のコロニーを視察(その1) [2005年03月20日(Sun)]
二日間の「ハンセン病にかかわる人権と差別」の会議が終了し、私はハンセン病のコロニーなどを視察しました。
コロニーは、プーネから車で30分ほどの郊外へ行き、国道からひどい泥道を数百メートル入ったところにありました。
入り口で女性4人が、綺麗な民族衣装で私を出迎えてくれました。
彼女達はそれぞれ銀のプレートに銀の小皿を乗せています。なんでそんな物を持っているのか、と思いながら挨拶をしようとしたところ、いきなり先頭の女性が私の口を開けました。そして大きなスプーンで小皿からザラメの砂糖をすくいあげ、私の口に投げ入れました。
驚きと同時に、口一杯の砂糖を吐き出すことも出来ず困惑していると、出迎えの人々は一斉に私を見て笑い出しました。
本当に珍しい歓迎を受けました。

このコロニーには小学校もあり、児童20人ほどが平屋の教室で出迎えてくれました。きっと特別な時に着るのであろう、ピンク、黄色、緑など色とりどりの服をきて、子供達が、かわいい振り付けと共に歌を披露してくれました。
お礼に用意していたキャンディーをプレゼントすると、みんな口を揃えて「サンキュー」と元気よく言ってくれたのです。
(その2に続きます)

43km飲まず、食わず「かち歩き」完歩(その2) [2005年03月13日(Sun)]
ゴール直後に飲んだ水はまた格別な味がして忘れられません。普段何気なく口にしている飲み物や食べ物に対して、深い感謝の気持ちを持つことができたのもこの大会に参加したおかげです。
意外に思ったことは、子どもの体力低下が指摘されるなか、参加した子ども達は気力体力とも十分で、最後まで順調にゴールする子どもが多かったことです。
主催者の方が「災害が起こった時に、大体どこにいても家に着く自信がつきますよ」と語っていたのが印象的でした。
日頃運動不足だと自覚しているお父さんやお母さんもお子さんとご一緒に是非参加してみてください。

【私の距離及び時間別による時速表】

<距離> <時刻> <経過時間> <区間別時速>
─────────────────────────
スタート  08:37  00:00    −−−
10km  10:40  02:03    4.87km/h
22km  12:42  04.05    5.91km/h
23km  12:56  04:19    7.5km/h
31km  14:23  05:46    5.17km/h
35km  15:07  06:30    5.4km/h
ゴール   16:25  07:48    6.5km/h

43km飲まず、食わずの「かち歩き大会」完歩(その1) [2005年03月13日(Sun)]
新宿からひたすら青梅市まで歩き続けました。
私の勤める日本財団は(社)青少年交友協会の活動に協力しております。それは何かと言えば、「かち歩き大会」という事業です。
皆さまには、ちょっと聞きなれない言葉でしょうが、かち歩きの“かち”は、“徒”と“勝”から用いており、長い距離を飲まない、食べないで歩く、いわゆる「自己鍛錬」の場なのです。
この大会は、青少年の肉体や精神を鍛えるために始められたようです。私はこのたび初めて参加いたしましたが、やはり社会現象なのでしょうか、参加者は子どもたちに比べると中高年の方々が圧倒的に多かったのです。
また、この大会にはとてもありがたいことに、警察や神社の方々が協力してくださり、手洗い所を提供してくれています。
当日は、とても寒い日でしたが2000人近くの人が集まりました。私は新宿中央公園を8時37分にスタートいたしました。歩き始めて30〜40分が経過したところ、寒さのせいか、杉並警察署に飛び込む参加者がとても多く、トイレは瞬く間に長蛇の列になりました。
もちろん私もそのうちの一人でした。
スタート地点から、青梅街道の車道を一車線参加者に開放してくれていましたが、途中で歩道を歩きます。そのため、いくつかの歩道橋を上ったり、下がったりするので、若干ペースを乱されました。
当初の目標である23km地点には無事到着し、大会関係者からバナナ1本と水1杯をご馳走になりました。
体力的にも余裕があったので、43kmコースに急遽参加し、財団の若手職員と歩き始めました。
後半は、私自身も驚くことに20kmを3時間のペースで歩き43kmのゴールに到達しました。
(その2に続きます)

<写真>財団職員たちとスタート前に(右から4人目赤い帽子が私です)

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